脆弱性の平等

岡野八代さんに『ケアの倫理—フェミニズムの政治思想』(岩波新書)をご恵贈頂く。この本は、ケアの倫理がどのように生まれてきたのか、何を主張しようとしているのか、をギリガンの『もうひとつの声で』やキテイの『愛の労働』、フェデリーチの『キャリバンと魔女』やトロントのCaring Democracyなどの名著をわかりやすく紐解きながら解説している。フェミニズムがこの半世紀の間に何を積み上げてきたか、男性の「正義の倫理」には何が欠落しているのか、を丁寧にロジックで解きほぐし、フェミニズムの歴史的展開も一冊で理解できる。そういう意味で、実に濃厚で学びの深い一冊である。

僕は読んでいて、大部分のページに線を引き、ドックイヤーをつけまくった。なので、どこを抜き出すかものすごく迷うのだが、初見で特に好きだった部分を抜き書きしながら、その感想をちょっとだけまとめてみたい。

「女性は、一時的な不平等の関係性においては、子どもたちを育成する者(として期待されている者)であり、永続的な不平等においては、つねに劣ったもの、すなわち男性に従属する者として育てられ、期待され、また従属者としての役割をじっさいに担う。女性達がその他の被支配者と異なるのは、支配者である男性たちと親密な関係に入ることが期待され、また、母や妻として、子どもや夫に愛着を抱くことが、彼女たち自身にとっての、何者にも代えがたい幸福でもありうる点である。そうして差異=不平等が固定され、それによって成り立っているのが、個人の心理に深い影響を与える家庭という制度化された領域である。永続的不平等は、公的・社会的な制度によって維持され、その不平等が結果として、諸個人の心理を形成する。
社会的支配者(=男性)は、社会的役割の配分—価値があるとされる役割は自分たちに、自分たちにとって必要な、あるいは自分たちに奉仕するための役割は劣った者に—、社会的価値付けや権威づけ、そして人間理解を独占している。」(p125-126)

ルールを決める支配者の男性にとって、実に都合の良い永続的不平等を女性は強いられている。そもそも、「子どもたちを育成する」というのは、依存する子どもを見返りを求めずケアをする、という意味において、一時的な不平等の関係である。だが、そのような愛着行動をもとに、「母や妻として、子どもや夫に愛着を抱くことが、彼女たち自身にとっての、何者にも代えがたい幸福でもありうる」という存在に位置づけることは、女性の「やりがい搾取」である。そうして「差異=不平等が固定され」、しかもその「愛着を抱く」のが生物学的な女らしさだと刷り込まれ、その刷り込みによって、「価値があるとされる役割は自分たちに、自分たちにとって必要な、あるいは自分たちに奉仕するための役割は劣った者に」という支配者の論理を押し付けられてしまう。このルールであれば、女性は最初から負けることが固定されている。

そして、この勝ち負けという思想そのものが男性的な「正義の倫理」であると岡野さんはいう。

「他者とのつながりに気づき、そこに応答責任を見いだすケアの倫理は、客観的な公正の論理によって権利間の衝突を解決する正義の倫理に、むしろ関係性を破壊する、あるいは勝ち負けといった暴力が内在していることに注意を向ける。」(p107)

僕が岡野八代さんの本を初めて読んだのは、これも名著の『フェミニズムの政治学』(みすず書房)を、子どもが生まれた直後の科研研究班の課題図書として読んだ時である。赤ちゃんをスリングに入れながら読み進めて、そのときも本当に己の価値観をえぐられるような読書体験だった。なぜなら、それまでの僕は「勝ち負け」に無自覚だがものすごくこだわってきたことに、気づかされたからだ。業績主義的生き方をして、とにかく論文を沢山書き、出張をこなして社会的評価を得ようと必死になってきた僕は、同業他者に「追いつけ追い越せ」と思い、僕より早く単著を出したり評価されているキラキラ同業者の存在をSNSで見ては「負けた」と思ってきた。これは、己の中に「関係性を破壊する、あるいは勝ち負けといった暴力が内在して」いたのである。しかもそれが、ぼく自身のみの偏狭な性格だけではなくて、「客観的な公正の論理によって権利間の衝突を解決する正義の倫理」という自らが無意識・無自覚に前提としてきたものに、その暴力性が内包していたことに気づかされたしまったのだ。それは、自らの土台が切り崩されるような、恐怖の体験でもあった。だが、少しずつではあるが、どこかで別の道もあるんだ、と肩の力を抜き始めた。

「確固たる個人を前提とする契約関係は、関係性が生じる以前に決められた条件を超えることはない。対照的に、依存関係や相互連関のなかでの関係性は、予測がつかず流動的で、時に矛盾に満ちたものとなり、維持や修復、関係それ自体への注視が必要となるのだ。ある関係性のなかで、さらによりよい関係性を維持するための働きかけそのものが、また新しい関係性を作りあげてもいく、ある意味で終わりなきプロセスともいえる。」(p151)

2017年に子どもが生まれて、僕は初めて、契約関係ではない依存関係の世界にどっぷりはまっていった。それ以前は、自己決定や自己選択や能動性を基盤とした、「仕事人としてちゃんとすること」を重視していたし、それが出来ている自分を内心自慢し・鼓舞していた。でも、娘をケアしていると、そのような契約主体としてのぼく自身は、おぼつかなくなる。娘が風邪を引いた、夜泣きがひどい、ぐずる・・・などを繰り返すと、妻や僕が連動して体調不良になると、家庭生活そのものが本当に「予測がつかず流動的」なものとなる。また、娘が赤ちゃんから生後数ヶ月、未就園期、そしてこども園から小学校と成長するにつれ、娘の出来ることと成長課題が刻々と変わり、それによって「依存関係や相互連関のなかでの関係性」がどんどん変化していく。文字通り、「終わりなきプロセス」のなかで、関係性の変容に巻き込まれていくと、「契約関係」に基づく「正義の倫理」が、いかに狭い世界か、を痛感させられるのだ。

「ケアという営みは労働集約的であり、ケアを提供する者は、それ以外の労働に時間や労力を割く余裕がなくなりがちだ。したがってケア関係にある者たちが、まわりから放っておかれ孤絶したなかでケアが営まれるならば、その関係は容易に暴力的な関係へと転化するだけでなく、財の不足から死にいたる危険に晒される。さらに、正義の倫理と同じくケアの倫理を最低限必要な倫理として認めようとはしない者でありながら、ケアの倫理をもう一つの別の選択的な倫理として存在してもよいと認めている者たちが、権力を行使し、法制度を設計し維持しているような社会においては、ケアの倫理に従いケアの倫理を体現する者たちは、ケアの倫理はあってもなくてもよいと考える者たちの搾取に容易に晒されるのだ。」(p152)

半世紀以上前、アミタイ・エツィオーニというアメリカの社会学者は、看護師や教師、ソーシャルワーカーは「準専門職(semi-profession)」であり、弁護士や医師のような「完全専門職(full-profession)」とは異なる、と規定した。一言で言えば、後者は専門性を高く持つ必要があるが、前者はセンスの良い母親ならできてしまう部分がある、というのである。そして、名指された看護師や教師、ソーシャルワーカーの職能団体は「完全専門職(full-profession)」に憧れ、専門職大学院や認定看護師などを作り、その専門性を高め、医師や弁護士に社会的地位を近づけようとした。確かにそれで一定程度の地位はあがったかもしれない。だが、介護士や保育士などの給与は上がらず、離職者が増えている現状は変わらない。その背後に、「ケアの倫理に従いケアの倫理を体現する者たちは、ケアの倫理はあってもなくてもよいと考える者たちの搾取に容易に晒される」社会構造があるのだ。

更に言えば、裁判所の判例や医師の診断のようなものほど、生成AIの脅威にさらされやすい。パターン化された専門性であれば、AIに取って変わる事ができるのである。でも「ケアという営みは労働集約的であり、ケアを提供する者は、それ以外の労働に時間や労力を割く余裕がなくなりがち」だからこそ!、ケアはAIでは代替できない。それは、その関係性に巻き込まれ、その関係性を共にする、という「労働集約的」で時間をかける必要が、ケアの根源にあるからだ。そのような、人間らしい労働を、「ケアの倫理」を認めない、契約関係に基づく「正義の倫理」の体現者たちが、価値の低い労働と決めつけ、低い対価しか支払わないように社会制度を設計している。これは、冒頭の引用を再度用いるなら、「社会的支配者(=男性)は、社会的役割の配分—価値があるとされる役割は自分たちに、自分たちにとって必要な、あるいは自分たちに奉仕するための役割は劣った者に—、社会的価値付けや権威づけ、そして人間理解を独占している」がゆえに生じている不平等なのである。

では、「正義の倫理」に対置して「ケアの倫理」を考えることで、どのような可能性が生まれてくるのであろうか。

「自身の幸福、生の目的をはっきりともち、その目的を達成するための手段を選べるという意味での合理的で自律的な存在が協働するための社会を構成するといった前提が覆される。むしろ、ひとは誰しも、その生涯のうちでどこかで必ず、他者の労働やその決定に依存するがゆえに、その他者の行動に左右され、傷つけられやすい。そこで、社会の構成原理は、社会でもっとも脆弱な者たち、そして脆弱な者をケアするがゆえに、社会的に不利な立場に置かれがちな依存にかかわる労働者たちの権利を保障するために、つまり依存関係にある者たちが不正や抑圧、暴力を被らないためにこそ構想されなければならない。」(p217)

依存関係にある、というのは、脆弱な状態である。赤ちゃんは本当に脆弱な存在である。そして、子育てをしていると、子どもがいない状態の労働生産性と同じ内容を達成しにくいという意味において、「脆弱な者をケアするがゆえに、社会的に不利な立場に置かれがちな依存にかかわる」子育て中の労働者や、介護や保育などそういう対象者のケア労働をする人々の権利が保障されないと、この社会は成り立たない。にもかかわらず、それは愛の労働とされ、そこらの主婦にでもできる低レベルな仕事だからと、低賃金の周辺労働に追いやられてきたのだ。追いやったのは誰か? 「正義の倫理」でゲームのルールを決めてきた、健常者男性である。そして、僕自身がそのような差別者のひとりだったことに、子育てをし始めてやっと気づき、恐れおののいているのだ。

「自身の幸福、生の目的をはっきりともち、その目的を達成するための手段を選べるという意味での合理的で自律的な存在が協働するための社会を構成するといった前提」こそは、依存関係や脆弱さを他者に押し付けてはじめて出来る「主体性」である。「これが出来ない女・子ども・老人・障害者・・・は能力がない」と決めつけるのは、男性中心主義の傲慢であり、自分が他者に依存関係を押し付け・外部化することによって、自分自身はたまたま一時的に「合理的で自律的な存在」であるだけ、なのに、そんな自分の常識や前提をゲームのルールに紐付けてしまう。それこそが不遜だと、40代になるまで、ぼく自身は気づけていなかったのだ。

では、「合理的で自律的な存在」ではなく「依存関係」を前提におく、とはどういうことだろうか?

「この人間存在の原初にある依存状態は、ケアの受け手と担い手との間の非対称性—体力、判断力、コミュニケーション能力といった能力においても、社会的、経済的地位においても—に特徴づけられ、そのため、依存とそれを取り巻く人間関係は、不平等を特徴とする。つまり、ケアする者は、ケアされる者がいま必要としているもの(ニーズ)は何かを決め、ある意味では有無をいわさず、その生理に介入する。さらにケアする者は、ケアされる者のニーズを読み取る必要があるため、ケアされる者に寄り添い、注視し、その労力だけでなく時間をもケアされる者のために使い、ケアされる者についての知識を経験的に獲得しながら、刻々と変化する心身に時に振り回されることがある。そうした労力や時間に対して、当然のことながら、ケアされている者からそれに相応する見返りがあるわけではない。もちろん、ケアする者が主観的に、ケアされる者の反応から喜びや満足を感じることがあったにせよ、である。」(p242)

「合理的で自律的な存在が協働するための社会を構成するといった前提」においては、機会の平等が大切にされる。日本の学力試験が重要視されるのは、機会の平等が保障されているという前提があるからだ。そして、子ども時代の自分もそれを信じて疑ってこなかった。でも、福祉を研究するようになると、ヤングケアラーや困窮家庭、障害を持つ学生のように、そもそも機会の平等にアクセスできない・しづらい存在が沢山いることがわかりはじめた。たまたま自分は、「合理的で自律的な存在」として競争できるような余裕のある環境で育っただけだ。そう気づくようになった。そして子どもを育てはじめて、自分は親や周囲の環境に安心して依存できる関係性を享受できていたから、機会の平等を空気のように感じていたのだ、とも改めて理解できた。

「ケアする者は、ケアされる者のニーズを読み取る必要があるため、ケアされる者に寄り添い、注視し、その労力だけでなく時間をもケアされる者のために使い、ケアされる者についての知識を経験的に獲得しながら、刻々と変化する心身に時に振り回されることがある。そうした労力や時間に対して、当然のことながら、ケアされている者からそれに相応する見返りがあるわけではない。」

ぼく自身の話をすると、母親をずいぶん振り回してきたのだと思う。中学から急に猛烈進学塾に通い始め、夜中に塾から帰ってきても、起きて待っていたり、夜食を用意していたのは、母親だった。大学受験で夜型生活になったり、うまくいかなくて早朝に起きたときにも、見守りをしてくれたのは母だった。だが、僕はそんな母親に「見返り」らしいことはほとんど出来ていない。でも、依存関係を僕との間に引き受けた母や、自らに課せられた不平等について文句も言わず、子どもをなじらず、子どもに見返りも要求することもなく、育ててくれた。そして、厳しい言い方をすれば、僕や弟の依存関係は、経済的には父だが、それ以外の圧倒的なケアは専業主婦の母が担い、家事育児を一手に担うという意味では父もケアをしていたので、母の負担はどれほど大変だっただろう、と、自分が娘をケアするようになって、つくづく思う。

そして、父は経済的負担を、母はケアの分担を、というのが、男性中心主義が生み出した勝手な幻想であり、僕もあなたも脆弱さを抱えた存在として、ケア的存在であり、ケアの倫理を基盤とした社会の方がよほど生きやすい、と今なら思うのだ。

「理性を重視する伝統的な哲学に対して、脆弱性の定義にみたようにケアの倫理は、身体を具えた具体的な人間存在が前提である。そして、あらゆる身体は脆弱性を抱えているという点において、ひとは平等であり、かつ一人ひとりその心身は別個(distinctive)であるだけでなく、人間関係を含めた異なる環境に左右されやすい(vulnerable)という個別性において、唯一無二の(unique)存在であると、ケアの倫理は考える。」(p246)

「努力すれば報われる=努力しない限り報われない」というのは、努力の「機会の平等」を前提にしている。だが、先に述べたように、本人や家族の経済状況、心身の状況によって、努力の機会の平等は保障されていないのが実際だ。それを前提として社会構想は、あまりにしんどい。でも、あなたも私も「あらゆる身体は脆弱性を抱えているという点において、ひとは平等であ」るというのは、深く頷ける。誰だって弱さや愚かさ、もろさや脆弱性を抱えている。その環境に左右されやすい脆弱性(vulnerability)を基盤にした上で、一人ひとりの唯一無二性(uniqueness)を大切にする社会の方が、より安心が出来る社会である。それは、心からそう思う。

では、そんな社会をどうやって作っていけばよいのか。僕は、自分が気づいた範囲で、出来ることから、身の回りからしていくしかない、と思っている。まず、虚勢をはらず、自らの脆弱性を認め、その声を聞くこと。そして、身近な他者の脆弱性をそのものとして理解しようと努めること。そのような対話的関係性から始めるしかないと思っている。それは機会の平等が前提とする他者比較とは違う。他者の、自分とは違う他者性を理解したいと希求すること。それは、己の唯一無二性と出会い直すこと。それを、家庭や職場や友人関係など、色々なチャンネルではじめてみること。それがケアを基盤とした民主主義(Caring Democracy)を実現する第一歩ではないか、と信じている。

他にももっと引用したいところだらけ、だけれど、長くなったので今日はこの辺で。この本は、また読み返したい名著である。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。