道具考

連休の初日は、我が家のPCのお引っ越し。

職場のPCもまる6年使ってガタが来ていて切羽詰まっていたので、なんとかニューマシンに変えてもらった。一方我が家のPCは4年半落ちくらいの、エプソンダイレクトくん。普通にワードやパワポを使ったり、メールを書く分には何の不便もない。だが、ネット動画を見たり、itunesで音楽を流したり、ツイッターのTLを追いかけたり、ということを同時並行でやっていると、処理能力のキャパを超えているようで、ひーひーいっていた。同時期に二台とも変えるのはどうかな、とも思っていた。だが、ツイッター上でお二方のPCの達人からもアドバイスをいただき、思い切ってPCを買い換えることに。
実はこの買い換えを機に、改めて道具についても考え直していた。
以前なら、まだ使えるのに「もったいない」という気持ちの方が先行していた。だが、マルチタスク(というほどのものではないが)を一台のマシンでこなし、なおかつ効率的に処理できなければ、仕事用としての「用をなす」ことにはならない。用途を限定すればまだ十分に使えるマシンであっても、それは道具に併せて自分がしたいことを限定することになるのであれば、トータルとしては自分の身の丈にあっていない。それって、よく考えたら昨年、別の局面で経験していたことである。
年10キロダイエットした後、洋服をたくさん捨てた。ジャケットはそのまま使えたけれど、下腹の贅肉がかなり消えたので、ズボンが全く合わなくなってしまったのだ。中にはそこそこの値段(といっても貧乏学生にとっての)の、思い出もあるパンツやスーツもあった。が、無理してきても、高校生の”ぼんたん”(なんて言葉はたぶん死語だろうが)のように、ものすごく不格好。服と自分が全く適合していない。ゆえに、思い切って、捨てたり、あげたりした。(ちょうど我が家に遊びにきたMさんにウェストサイズがぴったりだったのだ!) まだまだ使える、と思っても、自分の姿形や内実に一致していないものは、結局、実質的に不釣り合いで、使いようがないのだ。
これはPCでも全く同じ。自分の用途と、PCの機能が不釣り合いになった段階で、そのPCとおさらばすることは、問題がないどころか、むしろ次の段階に進むためには必要不可欠。新しいマシンがこれまでとは比べものにならないくらいに処理能力が高く、ソフトをインストールしながらメールを書く、といった同時並行作業もへっちゃらなので、改めて今回の買い換えはよい買い物をした、と満足。しかも、ご縁はあるもので、先ほどツイッターにPC買い換えをつぶやいたら、連動させているFacebook経由で、お世話になっている障害者福祉組織のTさんから、「XPパソコンが足りないので、譲ってくださいませんか」というコメント。
何というタイミング。捨てるのはもったいないし、有効活用できないものか、と思っていたので、渡りに船、のお話。連休中にリカバリディスクをかけて、まっさらにしてから、モニタとともに大阪に送ろうと思う。このモニタも、博論を書いている時に買ったから、もう8年選手。両方とも、大変お世話になりました。
これまで使ってきた道具に感謝しながら、次の局面で必要な道具に乗り換えていく。そうしながら、道具とともに成長していく。そういうことが必要なんだと、PCから改めて学ばせてもらった。今のマシンは、芸事の導師さまにご同伴いただき、パソコン工房で買い求めたUNITCOMというマシン。インテルのコアi3で4GBのメモリ、1テラバイトのハードディスクと言われても、もはや宇宙語。でも、半日使う中では、非常にええ仕事してくれています。
さて、今度は使い手が、PCに見合う「ええ仕事」をする番です。はい。

イメージの書き換え

ポスト311、という現実の中で、以前なら手に取らなかった本と出会い、その視点の鋭さに驚かされることは少なくない。たとえば、以前なら表題だけでよまなかったであろう次の本にも、はっとさせられる記述と出会った。
「人間は自分を取り巻く周囲の現実に注意をふり向けなければ、快適に、あるいは効率的に生きていくことはできない。そして我々は頭のなかで、言葉やイメージといったシンボルを通じて現実を理解する。もちろん人によって思い描くシンボルは異なる。現実に対するイメージも、各人が抱く感情や人生に対する価値観によって違うだろう。しかし共同体の人々とともに効率的にものごとを処理し、生きていくためには、だれもが共有できるイメージが必要である。もしある人物が思い描く現実が、周囲の人々に共通する平均的なイメージと著しく異なっていたら、その人物は共同体社会のなかでは、変人あつかいされることだろう。では、人々が共有できるような現実というイメージを決定するのはだれなのか?」(カレル・ヴァン・ウォルフレン『誰が小沢一郎を殺すのか?』角川書店、P116)
小沢一郎氏と検察とのやり取りが、正当な判断なのか陰謀的なものなのか、そのあたりは私には判断できるだけの材料がそろっていないので、このブログで何か書くことは、今のところない。ただ、現実認識の社会的構築と、そのイメージ化にマスコミが果たした役割、ということを考えるとき、この記述は非常に重い意味を持つ。私たちが、自分とは直接面識もないし、知識もない、関わり合いも薄い・ない「大きな問題」、たとえば原発や政治家の問題を考えるときに、多くの人はその考える素材は、「言葉やイメージといったシンボル」を通じた間接的な思考方法でしかない。そして、そのシンボルによる判断、というのは、実のところしっかりした論理的根拠や土台に基づかない、あやふやなものなのかもしれない。
「現実とはイメージだからである。そして私たちがイメージとして思い描くシンボルや思考、概念は、周囲との関係性のなかで解釈する必要がある。そしてそれがどのように解釈されるかということには、当然、意味がある。なぜならば政治的現実とは、我々が手で触れ、その形や色について容易に表現できるようなものではないからだ。それは政治にかかわる人々のあらゆる行動、思考、相互作用、政界での出来事、そうした一切は我々に示されて初めて現実となるわけだが、それがどう示されるか、ということが重要になる。ところがそれが示される際、そうした行動や出来事を我々のために解釈する人々がいるために、ゆがんだ形で提供されることがある。ではそのような人々とはだれかなのか? それはメディアを動かす人々である。」(同上、P116)
この文中にある「政治的現実」を、「原発を巡る現実」と入れ替えても、同じことがいえる。原発を巡る情報は、専門家ではない一市民は「手で触れ」ることもできないし、「容易に表現できるようなものでもない」。だから、ベクレルだのマイクロシーベルだの、出てきてもさっぱりわからない。「そうした行動や出来事を我々のために解釈する人々」の解説を聞いて、安全か否か、を判断している私たちがいる。しかも、その判断は、あくまでもシンボルによる判断であり、イメージによる判断でしかない。だから、「あの学者(政治家、テレビ局、新聞・・・)は信用できそう」という信念も、あくまでも想像上の信念でしか、ない。だが、その信念を、「周囲の人々に共通する平均的なイメージ」として受け止め、「平均的なイメージ」なんだから、「なんとなく真実に違いない」と思い込むことによって、「大きな問題」に悩まされることなく、日々の些事に没頭できたのである。
だが、ポスト311の現実が突き付けたのは、この「平均的なイメージ」の虚構性の暴露、であった。恥ずかしい告白だが、私自身、震災直後は「原子力発電所はなんとか止まったはず」「安全性はきっと東電で保証してくれているはず」と思い込んでいた。自分が直接かかわることができない「大きな問題」については、日本社会の「平均的なイメージ」を信じ込み、大丈夫なはずだ、という無謬性にすがろうとしていた。ツイッター上で流れる様々な情報も、「そうではない”はず”」と思い込もうとしていた。つまり、現実の直視、よりも「平均的なイメージ」の延長線上(土台?)にある、イマジナリーな想像上の不安定な信用性に逃げ込み、それ以外の情報を「そんなはずはない」と信じ込んで安心しようとしていた。そして、震災から1週間、2週間とたつ中で、「我々が手で触れ、その形や色について容易に表現できるようなものではない」問題についての認識の虚構性、イメージという不安定さ、に見事に直面することになってしまったのだ。
もちろん「共同体の人々とともに効率的にものごとを処理し、生きていくためには、だれもが共有できるイメージが必要である」。だが、この「だれもが共有できるイメージ」の再構築、およびイメージの書き換え、も、ポスト311の局面で、切実に求められているのではないか。そんな風に感じ始めている。

村上春樹の通奏低音

自分の変わり目の時期に、なぜか僕は村上春樹を読み直す。

小説はあまり読まないのだけれど、村上春樹だけは何故か全集まで買い込んでいる。昨日は全集版で『ノルウェーの森』を読み直していた。前回この作品を読んだのは、確かカリフォルニアに出張時に買いもとめた英語のハードカバー。もちろんそれ以前に日本語版で何度か読んでいたし、ストーリーはもちろんある程度知っているつもり、なのだが、今この時期に読むと、また違った味わいがある。
大学生の頃、友人が読んでいるのに影響されて何気なく「ねじまき鳥・・・」を読み始めたら、あまりにその世界観にずっぼり入り込んでしまい、その後数日何も手が着かなかった経験がある。以後、彼の作品を手当たり次第読んだのだが、その数年後、集めた小説全てを売り払ってしまった。多分あれは博士過程の折り返しを過ぎた頃。その時は様々なトラブルを抱えてにっちもさっちもいかなかったから、詳細は覚えていない。でも、博論に向けて体制を立て直さねばならない時期に、「村上春樹に逃げていてはいけない」という気持ちだったのだと思う。それほど、研究に手が着かなかった、という証拠でもある。僕はもともと乱読派だったのだが、この時期、村上春樹だけでなく、様々な他分野のジャンルを封印する。
だから、ではないけれど、博論を終えた後、村上春樹に渇望していた。カラカラに渇いた喉を潤すかのように、彼の作品を次々と見つけては買い求め、貪り読んでいた。当時、妻が世帯主で僕は収入が殆どなかったので、古本屋を何軒か定期的にチェックするのだが、村上春樹の小説はなかなか古本市場で出回らないし、あっても他の小説家に比べたら結構値段も高かった。でも、とにかく一つの区切りをつけた後、古本屋で出会った村上春樹本を片っ端から買い集める中で、彼流の「井戸を掘る」という普遍的世界観へのアクセス方法が、自分のしているちっぽけな仕事と共通している事を知り、ずいぶん励まされたと思う。
ある作品なり論文なりに価値や普遍性がある時、それは他の作品との比較や否定ではなく、タテに深く深く掘り進め、掘りきって「貫通」すると、風が通り、普遍性の水脈へとたどり着く。その水脈にアクセスする事が出来た作品は、独りよがりな「よどみ」「歪み」がなく、「他者」のコアな部分とのアクセスが可能になる。村上春樹の作品が、英語版で読んでも変わりなくすっと入ってくるのも、世界中で翻訳されているのも、やはり表層の日本の描写の地下奥深くに潜む、通文化的な普遍性に辿り着いて、その普遍的な物語性にフォーカスしているからだ、と思う。そして、自分も当時の博論執筆を通じて、穴を掘りきる事の難しさと、ある種の微かな手応え、のようなものを感じていたので、村上春樹作品に随分その後背中を押してもらった。
今回、「ノルウェーの森」を読み直して、それが前回のブログにも書いた「存在論的な裂け目」を巡る物語である、と改めて感じた。
直子という媒介を通じた死の世界への誘因と、対極的な緑という媒介を通じた生の世界。その両極が太極図のように押し引きし合い、「僕」(=主人公のワタナベくん)は翻弄されていく。そしてキズキの死の際には見ずにすんだ「存在論的な裂け目」に、直子を通じて直面する事となり、その死が決定的な危機へと「僕」を追いつめる。最後にレイコさんという媒介役が、あの世とこの世の、直子と緑の、死と生の、白と黒の、結び直す触媒として文字通り巫女的な役割を果たしたことにより、「僕」は、存在論的な裂け目に引きずり込まれる危機を乗り越え、緑という生の世界と繋がりなおす、再生のきっかけを得る。
こうまとめてしまえば実に陳腐な説明しか出来ない自分にいらだつが、とにかくその作品世界の、特に直子がやがて心の病を極大化させ終焉を迎える途上での記述の中に、パックリ開いた「存在論的な裂け目」にグイグイ引っ張り込んで行かれる、その激流に抗えない根源的恐怖のようなものを強く感じた。
そして今更ながら、なのだが、思い出してみると、村上春樹はこのような「奈落の底」のような「存在論的な裂け目」を、色々な場面で、繰り返し繰り返し、通奏低音的に書いている。「羊を巡る冒険」における鼠との再会、「スプートニクの恋人」における観覧車の出来事、「海辺のカフカ」における兵隊との遭遇、「1Q84」における高速道路の非常扉・・・。他者との比較や否定に明け暮れる日常世界の「当たり前」、そのごくごく近所に、落とし穴のように、「存在論的な裂け目」はしっかりと潜んでいて、ふとしたきっかけでその穴に向き合わざるを得なくなる「僕」。今回の大震災のようなカタストロフィは、「存在論的な裂け目」をまざまざと見せつけたが、村上春樹の小説がもたらす「裂け目」の危機と再生の物語は、平時の、それをなかったことにしてしまえる温々とした文明社会においては、物語の形式を通じて「裂け目」を指し示す、ある種の巫女媒体だったのかもしれない。
久しぶりに明け方まで小説を読みふけっていたので、もう一つ冴えない頭ながら、読後に感じた最初の「心の震え」を、デッサンしてみた。自分自身の変化の時に村上春樹を読み返したくなるのは、この通奏低音からアクチュアルに感じられる「裂け目」を通じて、自分なりの危機と再生を無意識的にリフレーミングしているからかもしれない。