村上春樹の通奏低音

自分の変わり目の時期に、なぜか僕は村上春樹を読み直す。

小説はあまり読まないのだけれど、村上春樹だけは何故か全集まで買い込んでいる。昨日は全集版で『ノルウェーの森』を読み直していた。前回この作品を読んだのは、確かカリフォルニアに出張時に買いもとめた英語のハードカバー。もちろんそれ以前に日本語版で何度か読んでいたし、ストーリーはもちろんある程度知っているつもり、なのだが、今この時期に読むと、また違った味わいがある。
大学生の頃、友人が読んでいるのに影響されて何気なく「ねじまき鳥・・・」を読み始めたら、あまりにその世界観にずっぼり入り込んでしまい、その後数日何も手が着かなかった経験がある。以後、彼の作品を手当たり次第読んだのだが、その数年後、集めた小説全てを売り払ってしまった。多分あれは博士過程の折り返しを過ぎた頃。その時は様々なトラブルを抱えてにっちもさっちもいかなかったから、詳細は覚えていない。でも、博論に向けて体制を立て直さねばならない時期に、「村上春樹に逃げていてはいけない」という気持ちだったのだと思う。それほど、研究に手が着かなかった、という証拠でもある。僕はもともと乱読派だったのだが、この時期、村上春樹だけでなく、様々な他分野のジャンルを封印する。
だから、ではないけれど、博論を終えた後、村上春樹に渇望していた。カラカラに渇いた喉を潤すかのように、彼の作品を次々と見つけては買い求め、貪り読んでいた。当時、妻が世帯主で僕は収入が殆どなかったので、古本屋を何軒か定期的にチェックするのだが、村上春樹の小説はなかなか古本市場で出回らないし、あっても他の小説家に比べたら結構値段も高かった。でも、とにかく一つの区切りをつけた後、古本屋で出会った村上春樹本を片っ端から買い集める中で、彼流の「井戸を掘る」という普遍的世界観へのアクセス方法が、自分のしているちっぽけな仕事と共通している事を知り、ずいぶん励まされたと思う。
ある作品なり論文なりに価値や普遍性がある時、それは他の作品との比較や否定ではなく、タテに深く深く掘り進め、掘りきって「貫通」すると、風が通り、普遍性の水脈へとたどり着く。その水脈にアクセスする事が出来た作品は、独りよがりな「よどみ」「歪み」がなく、「他者」のコアな部分とのアクセスが可能になる。村上春樹の作品が、英語版で読んでも変わりなくすっと入ってくるのも、世界中で翻訳されているのも、やはり表層の日本の描写の地下奥深くに潜む、通文化的な普遍性に辿り着いて、その普遍的な物語性にフォーカスしているからだ、と思う。そして、自分も当時の博論執筆を通じて、穴を掘りきる事の難しさと、ある種の微かな手応え、のようなものを感じていたので、村上春樹作品に随分その後背中を押してもらった。
今回、「ノルウェーの森」を読み直して、それが前回のブログにも書いた「存在論的な裂け目」を巡る物語である、と改めて感じた。
直子という媒介を通じた死の世界への誘因と、対極的な緑という媒介を通じた生の世界。その両極が太極図のように押し引きし合い、「僕」(=主人公のワタナベくん)は翻弄されていく。そしてキズキの死の際には見ずにすんだ「存在論的な裂け目」に、直子を通じて直面する事となり、その死が決定的な危機へと「僕」を追いつめる。最後にレイコさんという媒介役が、あの世とこの世の、直子と緑の、死と生の、白と黒の、結び直す触媒として文字通り巫女的な役割を果たしたことにより、「僕」は、存在論的な裂け目に引きずり込まれる危機を乗り越え、緑という生の世界と繋がりなおす、再生のきっかけを得る。
こうまとめてしまえば実に陳腐な説明しか出来ない自分にいらだつが、とにかくその作品世界の、特に直子がやがて心の病を極大化させ終焉を迎える途上での記述の中に、パックリ開いた「存在論的な裂け目」にグイグイ引っ張り込んで行かれる、その激流に抗えない根源的恐怖のようなものを強く感じた。
そして今更ながら、なのだが、思い出してみると、村上春樹はこのような「奈落の底」のような「存在論的な裂け目」を、色々な場面で、繰り返し繰り返し、通奏低音的に書いている。「羊を巡る冒険」における鼠との再会、「スプートニクの恋人」における観覧車の出来事、「海辺のカフカ」における兵隊との遭遇、「1Q84」における高速道路の非常扉・・・。他者との比較や否定に明け暮れる日常世界の「当たり前」、そのごくごく近所に、落とし穴のように、「存在論的な裂け目」はしっかりと潜んでいて、ふとしたきっかけでその穴に向き合わざるを得なくなる「僕」。今回の大震災のようなカタストロフィは、「存在論的な裂け目」をまざまざと見せつけたが、村上春樹の小説がもたらす「裂け目」の危機と再生の物語は、平時の、それをなかったことにしてしまえる温々とした文明社会においては、物語の形式を通じて「裂け目」を指し示す、ある種の巫女媒体だったのかもしれない。
久しぶりに明け方まで小説を読みふけっていたので、もう一つ冴えない頭ながら、読後に感じた最初の「心の震え」を、デッサンしてみた。自分自身の変化の時に村上春樹を読み返したくなるのは、この通奏低音からアクチュアルに感じられる「裂け目」を通じて、自分なりの危機と再生を無意識的にリフレーミングしているからかもしれない。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。