海外と比較して・・・

 

日本に帰ってきて1週間、あっという間に時間が過ぎ去っていった。

日曜日に帰国して、次の日から時差ぼけに苦しみながら、既に日本の「流れ」の中に取り込まれていく。月曜は東京出張、火曜からは授業、水曜は久しぶりの長い会議、木曜は・・・こうやって日本のリズムに慣れて行く中で、スウェーデンやオランダでつかの間に感じた違う流れ、も忘れ去ってしまいそうだ。

そんな中で、今日、ジムで危険水域のおなかを引っ込めるべく、エアロバイクを漕ぎながら読み進めた親書で、ふふん、と思う箇所を発見した。

「象徴的に言えば、普遍的な『規範』の存在が、独立した個人と個人をつなぐいわば『通路』の役割を果たすのである。
 しかも、この点は意外に気づかれにくい点なので強調しておきたいのだが、そうした『普遍的な規範』が明快に存在する社会は、意外にも、人々にある種の『自由』をもたらすのである。なぜなら、そうした規範の領域はしっかりと遵守するべきものとされる一方、それ以外の個々の場面での行動は、逆に『個人の自由の領域』として明確に確保されるからだ。
 裏返して言えば、『個々の場面ごとの、関係による調整』というやり方は、集団あるいは社会の規模が一定以上のものになると、かえって限りなく窮屈な-場合によっては抑圧的ともいえる-ものになるのである。
 現在の日本はこうした一つの典型ではないかと思われる。」
(広井良典著『持続可能な福祉社会』ちくま新書、231)

オランダやスウェーデンで感じていた「自由」なり「規範」なりは、決して日本の新しい首相が教育基本法改正の折りに口にする「規範」とは違う、そうなんとなく感じていたのだが、それをわかりやすく広井氏は言語化してくれていた。そう、社会保障や国の役割、なんて突き詰めて考えていくと、こういう支え合いの仕組みや哲学、あるいは人間観、というものにぶちあたる。広井氏はこの際、二種類の人間観、として、
A)同心円を広げてつながる-「共同体的な一体意識」
B)独立した個人としてつながる-「個人をベースとする公共意識」
の二つをあげ、そのうち日本社会や農村型社会をAに、ヨーロッパ社会、あるいは都市型社会をBにおいている。さらにここには一神教の問題など、いろいろな横軸が入るのだろうけど、この縦軸ラインでの比較で考えたとき、AとBの違い、はよくわかる。「独立した個人」をベースとするならば、個人の自由と公共の規範、という明快な区別がつく。だが、同心円的な「一体意識」では、なかなか個と集団の区別がつきにくく、自由と規範のせめぎ合い、というか双方の領空侵犯が頻繁に起こりうる。

広井氏は日本社会は今、Aタイプでは対応できないのでBへと移行する途上だが、どっちつかずであるが故に、過渡期の苦しみの中にいる、と言う。その過渡期の中で、関係性の揺らぎとして、「見知らぬもの同士のコミュニケーションがとれない」「あいさつや感謝の言葉を使うのが下手」「見知らぬもの同士の譲り合いがない」などことを挙げている。これは二週間の間、僕自身が心からそう思ったことでもある。スーパーでも、レストランでも、向こうでは「ハロー」くらいの挨拶は交わす。そういうコミュニケーションはごく当たり前にやる。飛行機の中だって、電車の中だって、何気なく、やっていた。だが、今の日本ではこの種の「知らない人との公共の場でのコミュニケーション」というのが決定的に欠けているような気がする。その結果、規範意識の低下、というアウトプットが生じているのかもしれない。だが、これはじゃあ規範を強めてガチガチに教育すればいい、ってもんではない。『個人の自由の領域』が各人にきっちり保証されてのみ、初めて機能するのだと思う。

まだ説明するのはへたくそで、考えの途上だが、海外にいる間、ずっとそういった権利や自由、というものを考えていた。アドボカシーという考え方をずっと体感しようと試行錯誤していた二週間だったのだが、このアドボカシーを権利擁護、と訳した段階で、大事な何かがするっと抜けていくような気がする。これってノーマライゼーションという言葉を正常化や常態化、と訳す過程と似ているような気がする。下手な日本語に訳してしまうと、換骨奪胎、というか、肝心な「魂」の部分が抜けて、形だけが抜け殻のように干からびて残っているような気がしてならないのだ。

そして、その「魂」の部分を考える際、さけて通れないのが、広井氏が指摘している「規範」なり「自由」なりを支える人間観、個人観、のような気がしていた。なので、読みかけのこの新書を最後まで読み進める中で、氏がこの章で書きたいことの意図、というか、バックボーンのようなものは、すごく共感できた。ただ、広井氏ご自身もわかっていると思うけど、この「日本人論」はそう簡単にスパッとはきれない。あくまでも、作業仮説を操作的に定義する程度しか出来ない。だが、この操作的定義、から、私たちは、少しずつ、今の日本の現状を相対的に見つめる眼、を持ち始めるはずだ。日本にいたって、日本を相対的に眺めることは不可能ではない。広井氏から、そんなことを教えてもらったような気がする。ぼちぼちこの1週間で時差ぼけも疲れもとれたようだ。そろそろ、出張中感じたことを、日本のコンテキストに照らしながら、まとめてみよう、と思う。

どのような「管理」と「責任」?

 

イエテボリのホテルで朝日新聞のインターネット版をみていたら、次の記事が目にとまった。

「精神障害者の公営住宅単身入居進まず 審査に手間取る」

読んでいて、次の箇所がすごく気になった。

「基準の見直しにあたって同省は、公営住宅を管理する自治体などに対し、隣人とのトラブルや病状悪化の際に、常時連絡できる支援組織や医療機関があるかどうかを事前に確認するよう求めた。支援組織は自治体が社会福祉法人やNPOに委託して整備することを想定している。しかし、全国的にまだ十分に整っていない。
公営住宅を管理する自治体も、手探りの状態が続く。都が3月に抽選をした単身者向けの都営住宅には、約300室の枠に、精神障害者4人が当選した。うち3人に審査の『合格通知』を出したのは8月。残る1人は今も審査が続いている。」

地域で公営住宅に住めるかどうかに審査があり、「合格」かどうかが判定される、これを日本で読んでいたら「変だよねぇ」くらいの感想しかあるいは持たなかったかもしれない。でも、日本を離れてこの記事を読むと、めちゃくちゃおかしく感じるのである。ふつうの公営住宅の抽選にプラスαとして、障害者だけ、特別な審査がなされる。ふつうの人が暮らす際には、公営住宅の抽選のほかに、「隣人とのトラブルや病状悪化」が考慮に入れられることが果たしてあるだろうか? もちろん、障害を持つ人にとって、「常時連絡できる支援組織や医療機関がある」ことは、支援が必要な際に受けられる、という意味では大変意味がある。しかし、それがあるかどうか、というのと、住宅に住めるかどうか、というのは、本来全く別軸であるべきだ。もっというならば、公営住宅の抽選にあたった後、その人が地域で支援を受けられる体制になっていないなら、スムーズに住めるようにそこから体制を組むべきであって、決してその体制が整っていない人は抽選にあたっても住めない、という理屈はおかしい。障害者だけを特別視することであり、これは明らかな障害者に対する差別的取り扱い、ではないだろうか。

ただ、我が国においては、障害者の「権利」に対する考え方は、よその国とは事情が違うようだ。例えばスウェーデンでは、障害者に関する権利法であるLSSの中で、その対象となる障害者に自治体は住宅提供の義務があることを定めている。この住宅提供に際して、何らかの支援があるかどうかを「審査」する、場合によっては「不合格通知」を出せる、という条項は、LSSの中にはない。ある支援が前提にないと公営住宅に住めない、という理屈は、少なくともスウェーデンにはないのだ。だから、スウェーデンを見習うべきだ、とか、日本が駄目だ、と断言する気はない。日本とスウェーデンは文化も言語もシステムも違う。単純に翻訳なりコピーなりまねをすればいいってもんではない。ただ、よその国にないこのような条項を、なぜ日本ではつけているのか、その背景には何があるのか、については、考慮の対象にされてもよい、というか、ちゃんと考えられるべきであると思うのだ。

で、2週間近く日本を離れて実感するのが、日本の、特に障害者福祉の分野が、すごく「管理」と「責任」を重んじる、というバックボーンである。例えばこの障害者だけ、公営住宅の提供の際に+αの審査があるのも、「何かあったら大変だから」という「管理」と「責任」の発想を自治体が持っているから、こういう手段に出ている。ただこの際、「管理」と「責任」が駄目な概念である、と言う気もない。行政が、障害者支援に何らかの「責任」を持とうとしているのなら、それには一理ある。ただ、ここで気にかかるのは、ただ単に既に何かあった時に自分たちが「管理」しなくても支援という名の「管理」ネットワークに入っているかどうか、を審査することだけが、行政の「責任」では決してない。本人が「管理」出来るようなセルフアドボカシー支援や、支援者が必要な時に本人に支援できるような体制がないなら新たに作り出す、という「管理」環境の構築だって、行政の「責任」の取り方の一つである。安易に、本人が「管理」出来ない、と障害者にラベリングして、本人以外の「管理」(=支援)組織がないなら公営住宅に住んではならない、というのは、行政の「責任」放棄ではないか、そう感じるのである。

何度も書くが、スウェーデンなりオランダなり、よその国はよその国で独自に辿った道がある。日本は、そうではない道を辿っているのかもしれない。でも、よその国から、自分たちが辿るべき道に関する何らかの「別のありよう」のヒントは得られるはずだし、このヒントを元に、自分の国の今のありようが、「ほかに選択肢はないのか」という考察の下に置かれることは、今のような制度の大変革期には大きく求められていることである。明日には日本に向けて戻るのだが、今改めて「他人のふり見て我がふり直せ」のことわざの大切さを、かみしめていた。

様々な変化

 

日々はあっという間にすぎていく。もう、残すところ、あと二日しか調査期間は残っていない。

月曜日に久しぶりにトラム(市電)の3番に乗ってグルンデンの本部を訪れたとき、まず一番最初に驚いたのは、グルンデンの知的障害を持つ当事者達が皆、自分の机とパソコン、つまりは自分のオフィスを持っていることだった。3年前訪れたとき、「近い将来は仕事のまねではなく、本物の仕事がしたい」と言っていた彼ら彼女らが、ついに本物の仕事場を持ち、本物の仕事をし始めていた。それとは対照的に、以前ここの施設長だったコーチのアンデシュは、施設長の部屋を当事者に明け渡すとともに、自分はその一角の小さな化粧台のような机にラップトップパソコン、という小スペースに変わっていた。

そして次に驚いたのが、朝一番、今週一週間の仕事の予定に関するミーティングを、当事者とコーチが混ざって対等に行っていたことである。もちろん日本だって、寄り合いやら朝の会やら、でこのような光景は見られるが、当事者は皆役割と仕事を持っているので、一メンバーとして議論に主体的に参加し、会議を進めていく。その後当事者達にインタビューしても感じたのは、みんなすごく今の仕事に誇りと自信を持ち、責任感も持っている、ということだ。コミットメントに対する喜びのようなものを、当事者スタッフの発言からはひしひし感じられた。ある人の次の発言が、それを裏付けてくれる。「以前は、何がこのオフィスで進んでいるのか、さっぱりわからなかった。なので、午前中はぼんやりしているうちにすぎてしまった。でも、今は違う。役割と責任を持っている。朝から忙しい。でも、ここでは私が必要とされている、という充実感がある。」

僕が訪れた3年前は、支援者主導から当事者主導へと、組織構造だけでなく、一人一人の仕事に関する考え方、とらえ方自体の枠組みを、自分たちで変えようと、必死になってもがいていた。グルンデンの当事者理事会に毎月出席していたが、当時格闘していたある問題を前にどうしてよいかわからず泣き出す人もいれば、地団駄踏んでいる様子の当事者もいた。スムーズとは反対側の、苦悩と波乱に満ちた時期だった。その様子は、以前紹介した報告書に「もがき“”苦しみの中から発展していくSelf Advocacyの実際」という章立てて書いたが、まさにこのもがき“”苦しみを経て彼ら彼女らの中に産まれてきた自信や誇りといったものは、すごい力を持っているのだ、と思い知らされた。それと同時に、オランダから感じて続けてきた、Self Advocacyとは何かのアウトプットやモデルではなく、プロセス(過程)である、ということを、まさに体現するような月曜日の皆さんとの再開に、心踊らせていた。

こういう嬉しい再開があったからか、月曜日は調子に乗って食べ過ぎてしまう。折からのオランダの連日のビール漬けが胃に負担だったようで、月曜日の夜から急に調子を崩してしまった。せっかくルッコラと美味しいセラーノハムを買って、ついでにこの地でよく飲んだ赤ワインの「マウロ」まで用意したのに、この日の晩はくたばって寝ていた。

ついでに言うと、スウェーデンでは5%以上のアルコールは、スーパーに売っていない。専売公社でしか買えないのだ。この専売公社がくせ者で、平日は確か6時か7時まで、土曜日は午前中のみ、日曜日は休み、なのである。しかも僕が住んでいた地区に近い専売公社は、自分で商品を手に取ることが出来ず、ショウウインドーに並んだ見本の番号と数量を店員に頼む方式。ただでさえ順番待ちなので、クリスマス直前は大変なる混雑だった。クリスマスは皆、阿呆ほど飲むし、クリスマス休暇(正月明けまで)は酒屋が閉まっている場合もある。なので、一種の狂想曲状態が専売公社の売り場で展開されるのである。僕と妻も、この時期は(今でもそう変わらんけど)ものすごく飲んだので、よく坂を下りて歩いて買いに行ったものだ。

で、今回、その懐かしい酒屋に表敬訪問すると、なんと近代的なスーパーのようにセルフサービス(つまり自分で取ってレジで支払う仕組み)に変わっていた。これは非常に便利。最初からそうしておけばいいのに、と思いながら、懐かしのマウロのパックを買う。そう、この真空パックに入っているマウロが、ボトル代がかからないから安くって、軽くって、一石二鳥なのである。お土産に妻から言いつけられていたものでもあるので、さっさと購入しておく。ついでに、ボトルの方は、キャップ式でホテルの部屋でも開けられるやつだったので、これも仕事の後に飲もう、と購入。

と、ここまでのながーい回顧録を経て体調不良の話に戻ると、月曜日はひたすら寝て、火曜日は朝はフレークのみ。この日は朝からグルンデンの当事者と支援者が介護の専門学校で講演するのを聞きに出かけて、すごくおもしろかったのだが、昼にチャイニーズを食べた後、どうも調子が思わしくない。ここで体調を崩すと調査がパーになるので、幸い午後は特に用事もなかったから、ホテルに戻って3時間コンコンと寝る。ぐっしょり汗をかいて起きると、だいぶからだが楽になっていた。で、夕刻からお呼ばれに出かける。こういう非公式な場での、少しアルコールも入った議論が、意外とノートに書き留めるまじめな議論と同じくらい、時にはそれ以上に有意義な内容を含んでいるのである。この夕べも、体調がだいぶましになっていたので、活発な議論で、夜も更けていった。

そして水曜日。おかげさまで、体調は戻りました。やはり、食べ過ぎはいかんようですね。思えばホテルの朝食で、レバーペーストだのタラコペーストだの、ニシンの酢漬けだの、北欧独特の濃ゆい料理を目にして、これをバクバク食べていたのが、危険の始まりであった。危険、と言えば、大学生の頃からだから、10年以上使っているベルトが、ついに警戒圏域に。いつもは4つ目の穴をずっと使っていて、少しやせている時は5つ目の穴でも何とかOKだったのに、どうも旅の前あたりから、ついに4つ目ではきつくなり、常時3つ目状態が続いている。これは、めちゃくちゃまずい。出来る限り歩くように心がけるのだが、オランダではその時間的余裕がなく、スウェーデンでは時間的余裕が出来ても、どうも体にガタが来ているためか、くたびれて歩く気にならない。さらなる故は、カロリーカットしかない。なんて言いながら、今日は久しぶりに以前訪れた魚屋で生サーモンとエビの塩ゆでなんて買って頬張っているんのだが、世話がない。やはり、朝はフレークくらいにするか。でも、ほんとは夜の食事が一番問題だ、というのもわかっている。とはいえ、明日もあさっても、夜は飲みながら、食べながら、議論の予定。ということは海外でのダイエットは絶望的だ。なので、こりゃあHさんが出国直前に教えてくださった紫蘇酢&EMSのお世話になるしかない、かなぁ、なんて考えながら、マウロを飲んでほろ酔いの夕べであった。

不安の正体

 

フランクフルトで乗り継いで、イエテボリに向かう飛行機の中から、何だかモヤモヤした気分が続いていた。飛行機が海を越えてスウェーデンにさしかかる中で、そのモヤモヤは、漠とした不安に変わっていった。その霞のような不安の理由の正体を、先ほどイエテボリ港をぶらぶら散歩している途中、沈みゆく夕日をぼんやり眺めていて、はっと気がついた。そう、これは3年前に抱えていた不安と全く同じだ、と。

イエテボリは、実に3年ぶりである。
2003年の夏に、海外調査のアプライが採択された通知が来て、その一月半後の10月20日には、イエテボリの地に妻と二人で降り立った。二人とも、大変くたびれ果てていた。僕は博論を書き終わったが常勤の仕事にありつけず、非常勤講師やNPOの仕事などをしてはいたが、非常に不安定な状態。急に半年海外への移住が決まっても何とかなるほど、世間的な責任や役割からもはずれていた。今から考えると結構な身分だが、当時の僕は、仕事が全然決まらないことに焦燥感でいっぱいだった。また、妻は妻で、当時は世帯主として低所得の夫の3倍以上は働いてくれていて、身も心もボロボロだった。この状態で二人が別れて暮らすときっと離婚に至る、というのは一致していた確信だったので、とにかくエイヤッと日本を離れたのである。

エイヤッっと書くと威勢は良さそうだが、実は内心不安でいっぱいだった。スウェーデン語が堪能な研究者は日本に結構たくさんいる。スウェーデンの障害者政策に関する日本語文献も少なくない。そもそもこのイエテボリの地を紹介してくださった大先輩のKさんご自身が、現地での調査結果をたくさん著作の形で出しておられる。僕のような、スウェーデン語も出来ず、現地に留学した経験もない人間が、たった半年間の期間の中で、いったい何をつかむことが出来るのだろうか、何か意味あることや日本に役立てることを本当に見つけ出すことが出来るのだろうか・・・こういった不安が強迫的に僕の中で渦巻いていた。クリスマスを過ぎて、新年を迎える頃まで、この不安の中で鬱々とする日々が続いた。実は僕たちがスウェーデンに越してすぐの11月は、スウェーデンでは急に寒くなり、かつ日照時間が短くなって、スウェーデン人にとっても「魔の11月」と言われているのだそれに、先の不安だけでなく、定職に就けない焦燥感、それに一種のホームシックにも似たや孤独感も重なり、ますます落ち込んでいった。寒さも手伝って、11月に入って借りることが出来たアパートで、妻共々「半分引きこもり」の日々が続いていたのだ。

今日、ルンドにとある研究者を訪ねた後、夕方6時過ぎにイエテボリに帰ってきて、まだ日の明るいイエテボリの街を久々にぶらぶらしてみよう、と思い立った。何となく海が気になって、市内の繁華街から港の方にブラブラ歩いていって、愕然とした。港に近くには、すてきなオペラハウスもあり、その近くには気持ちよい散歩コースもある。そこは、いつも買い物に出かけたノルドスタンというショッピングセンターの目と鼻の先である。なのに、全然こんなすてきな風景を、半年住んでいる間には探そうとしていなかった。半年もいたのに、ルーティーンな場所しか訪れず、「半分引きこもり」状態なので、イエテボリの魅力に全然気がついていなかったのである。一体僕はここで半年間何をしてたんだろう・・・そう落ちこみかけて、逆にその瞬間、冒頭に書いた不安の正体に気がついたのだ。それと同時に、様々なことが氷解していった。「どうのこうの言ったところで、とにかく自分に出来ることを、出来る範囲で誠実にやるしかないんだ」と。

そう、3年前も、こうやって踏ん切りをつけた。その後、二つの対象を決めて、とにかく遮二無二その課題に取り組んだ。その結果、スウェーデンの障害者政策のことをちょこっとだけ違う角度で調べることが出来、以前に書いたように報告書にもまとめた。これは、今から思うと当時知り得たことをすべて詰め込んだので、初めて読む人には散漫な、というかバラバラなピースの寄せ集めに思うかもしれない。だが、自分の中では、つたないながらも独自の「地図」を書き上げたつもりだ。当時孤独の中で書き上げたこの地図も、今読んでも意外にスウェーデンの障害者政策のまとめとしては使い道のある地図であるだけでなく、僕の中では、スウェーデンのことをまとめた後になって、実は日本のことが以前より少しはっきり見えてきたような気がしている。比較の眼、というか、別の座標軸を持ったおかげで、日本に帰った半年後の2004年秋からの自立支援法を巡る狂想曲の中でも、変わり行く情勢を追いかけつつ、何とか自分を見失わずにいれたのだと思う。これは、たぶん日本にずっといたら絶対に無理だっただろう、と今の自分は確信している。そう、座標軸が複数あるから、一つの座業軸上での「揺れ」も、幅を持って眺めることが可能なのだ。

さて、話をスウェーデンに戻そう。
3年たったスウェーデンの現場に、たった一週間だが、明日から舞い戻る。この現場には英語が堪能なメンバーや支援者もいるので、少しはキャッチアップできるだろう。とはいえ、スウェーデン語は結局マスターできずにいることには変わりなく、たった一週間で感じられることはごく断片にしかすぎない。とはいえ、日本に帰国後まる二年の間に、前回訪れたときより日本に関する座標軸は多少なりともシャープになっているはずだ。この以前とは違う日本の座標軸を元に、新たにスウェーデンで一週間暮らす中で、きっと以前とは違う発見や出会いと遭遇できるはずである。そう考えたら、変に気負ったり、鬱々とするのは、あほらしい。せっかく今は日も明るく、過ごしやすい。気持ちを落ち着かせて、後一週間しかない日々を、じっくり充実して暮らそう。で、出たとこ勝負で、吸収できそうなことをいっぱい吸収しよう。幸い、この火曜から木曜にかけて、興味深いプログラムも目白押しだ。明日月曜は久しぶりにメンバーとの再会を味わいながら、徐々にイエテボリの空気になじませていこう。そう感じながら、現地の風景を懐かしみながら、イエテボリの暮れゆく夕方を歩いていた。

味のある虚脱感

 

スキポール空港近くのホテルで、軽い虚脱感のようなものにおそわれている。

とにかく、激しい5日間だった。
前回も書いたように、オランダに到着した月曜日の夕方から、刺激的な現地での活動が始まった。今回は、何かをシステマチックに学ぶ、ということを、知的障害者の当事者活動(セルフ・アドボカシー)を支援する人々の取り組みを出来る限り追いかけながら、その背景にあるアイデアや哲学のようなものを感じ取りたい、と願っていたので、徹底的に皆さんの活動に加わっていった。

僕がごやっかいになったLFBという当事者活動グループは、明日からスウェーデンでお世話になるグルンデン同様、当事者活動グループとしては大きな力を持つグループである。彼ら彼女らの活動を、単純に横文字から縦文字に翻訳したり、輸入したりしようと思っても、どだい無理な話。それより、なぜ、どのように、どんな背景で、そういう活動を続けているのか、ということを、心から感じてみたい、と思っていた。そして、この5日間で繰り返し彼らと話し合ったのが、「プロセス」について、であった。

LFBの皆さんは、システムや組織、結果、という言葉を嫌う。そしてそれよりも「プロセス(=過程)」というものを大変大事にする。その背景について、いろんな人に尋ねてみたら、LFBの関係者の一致した意見は、システムや組織を重視していたら、結局のところ本質が見えなくなる、との答えが返ってきた。そう、それこそ、僕が何となくこの間感じていた疑問と一致する。これは、日本でも全く同じだからだ。

僕は2003年秋から2004年春までスウェーデンのイエテボリに暮らしていた。今回3年ぶりにイエテボリの地を踏むのだが、現地で暮らしていた当時から、ずっとそのことは感じていた。つまり、スウェーデンのシステムなり組織なりをそのまま輸入することなんて、絶対できっこない、と。スウェーデンで色々調べて、いろんな人に話を聞いて、スウェーデンについて書かれている本もいっぱい読んでみた。スウェーデンを訪れるのも、当時で既に5回目。何度か調査に訪れ、日本にはない様々な取り組みを色々調べていた。そうやって何度も訪れる中で漠然と感じていて、半年住んでみて確信に変わりつつあったこと、それが、先にも書いた「単なる輸入はまったく意味をなさない」ということであった。

スウェーデンやデンマークなど、北欧の取り組みで、いいなぁ、と思うものはいっぱいあった。日本が参考に出来そうだなぁ、という取り組み、こうなったらいいなか、というシステム、いっぱいあった。その昔は、それを何とか紹介しよう、と微力ながら一生懸命になった時期もあった。しかし、日本で北欧の話をして、必ず返ってくるのは、「でも北欧は税金が高いでしょ」「北欧は北欧だから」「日本のシステムではそれは無理・・・」といったネガティブな意見。なぜ、いい取り組みをそのまま実現しなくても、そこから学んだり、という発想にならないのだろう、と不思議に感じていた。その中で、少しずつ気づき始めたのが、先述の「単なる輸入はまったく意味をなさない」という事実。そこから、システムや組織を単に「輸入」するのではなく、そのシステムや組織、結果がどのような「プロセス(=過程)」を経て、今のような形になったのか、について明らかにしていくなかで、日本でも使えるヒントが見つかるのでは、と思うようになってきたのだ。

これはスウェーデン帰国後、予感から確信に変わっていった。2004年秋からの自立支援法を巡る大騒動。この間、この問題について最初からずっと追いかけていく中で、出された資料なり制度案なり法律なり、というアウトプットやシステムを読んでいても、何も見えてこない、と思いはじめた。本格始動するまで1ヶ月をきった現在でも、退院支援施設の問題や重度包括支援の問題に限らず、自立支援法には先が読めない不透明な部分が多い。出されてくる資料も、そのたびに色々変わっていく。毎月のように出される何百枚の資料を、単に追いかけていたって、何だか徒労感ばかりで、そこから展望なりヴィジョンは見えてこない。こうやって資料を「結果」として後追いしていても、厚労省自身が右往左往している中で、さっぱり物事はクリアにならない。自立支援法オタクになったところで、それは実にむなしい限りだ。では、それに変わって何が必要なのだろう・・・そんな思いの中で、現状がむなしいのなら、それ以外のものを探す「プロセス」こそ、大切なのではないか、と感じ始めていたのだ。

日本を出る直前まで、そしてオランダにいる間も、そうやって現在進行形のいくつかの「プロセス」に関わり続けていた僕にとって、オランダで体感した「プロセス」は日本で取り組んできたことを改めて別の角度から整理し直すことにつながっていた。こういうプロセスがあり得るのか、とか、僕のこのプロセスのあそこの部分はよくなかった、とか。5日間、全く日本的なものからスコーンと離れて、青空の下、ハードスケジュールと、時にはお昼の、時には夜までカフェでビール片手にLFBの皆さんと議論を続けながら、笑いながら、少しずつその過程を楽しむ中で、雪だるまのように、徐々に自分の直感が思いや意見のようなものに変わり続けてきた。それを、現地でぶつけながら、ちょっとずつその雪だるまを大きくしていく中で、5日間、みっちりオランダでのプロセスを感じ取っていったのである。それが、支援者のロールにアムステルダムの空港近くのホテルに送ってもらう車の中でも続き、その中ですごく大切な話も展開され、雪だるまが十分に大きくなったところで、「じゃあね」とハグをして、お別れしたのである。なので、虚脱感も一塩、なのだ。

でも、この虚脱感は、決して悪いものではない。むしろ、充実感のある虚脱感、とでも言おうか。出張中は出来る限り日本の現状から自由になっていたい、と思っているが、日本からはどんどんこの間の退院支援施設についての取り組みの報告など、いろんな結果が送られてくる。その結果をちゃんとふまえながら、も、僕はやはり、そうではない可能性に向けて、プロセスをとぼとぼ踏み続けたい、と感じている。今晩は、ホテル近くで久々にジャンクフードかチャイニーズでも食べ、適度に喉も潤し、じっくり風呂にもつかって、明日からの英気を養おう。そして、明日から始まるスウェーデンのプロセスを楽しもう、と思っている。どうころんだって、24日からは、日本で様々なプロセスに何らかの形で関わるのだ。今は、少し、この虚脱感、というか、様々なものから自由になっているこの状態を楽しんでみたい。そう感じているオランダの夕べであった。

初秋のオランダより

 

今、現地時間の木曜早朝。
初めてホテルでぐっすり寝たので、気持ちよく目覚める。とにかくここ数日、めちゃくちゃハードなスケジュールだった。

フランクフルトで乗り換え、アムステルダムにたどり着いたのが、現地時間の午後6時過ぎ。時差は日本と7時間だから、既に日本では深夜を迎えている時刻だ。日曜の晩は、日付変更線をすぎるころまで準備をしていて、その後朝4時!のバスに乗るために、3時起き。バスの中でも、飛行機でも仮眠をとったのだが、一方でスウェーデンでインタビューをする際の質問状もできてない。なので、ルフトハンザで出された美味しいドイツビールもほどほどに、11時間のフライトの後半5時間ほどは、結構まじめに「予習」の時間に当ててしまった。おかげさまで、ある程度英語も書けたのだが、体は結構フラフラ。そんな中で、オランダに上陸したのである。

で、スキポール空港まで迎えにきてくださったロール氏と久しぶりの再会。今日はホテルまで送ってもらったら、すぐに眠り込もうと思っていたのに、彼の口から出たのは、「ホテルに送る前に、ちょうどコーチングに出かけるから、着いてこないか?」という提案。そう、今回の調査の最大の目的は、障害者のSelf Advocacyをコーチングしている、というオランダやスウェーデンの支援者達にくっついて、いったいそれが何を意味し、どんな権利擁護や本人活動の支援が行われているのか、をじっくりみてみよう、というのが最大の調査目的である。なので、こうやって初日から、その現場への同行のお誘いは、願ってもないチャンス。ちょっとくたびれていても、僕は助手席に乗っていればいいだけ、なので、喜んで同行する。久しぶりに使う英語で、かつ眠い頭なので、なかなか言語障害が激しいが、そうも言ってはいられない。とにかくしゃべりまくりながら、車で走ること1時間半。途中で彼の助手を務めるヤニカも拾って、現場に到着。

現場であるグループホームでは、ロール達の到着を参加者が通りに出て待っていた。4人の参加者と私たちは、参加者の一人の居室に集まる。夕方の涼しい風が、牧草と牛のかぐわしい空気をはこんでくる。酪農王国にやってきたことを鼻で感じながら、目の前で行われているオランダ語でのやりとりを、ぼんやりと眺めている。知的障害を持つ皆さんが、思い思いに色々話を進めていく。コーチ役のロール氏や、軽い知的障害を持ちながらロールの仕事の助手として働いているヤニカは、聞き役であり、餅つきの返し手のように、その場の話が引き立つような、ガイド役をしている印象。中には話をしていて感極まって泣き出す人が出てきたら。ヤニカが優しく外に連れ出して、お庭で落ち着くまで一緒にいたり、といろんな光景が展開していく。昼間はみんな仕事に出かけているから、こういう話は夕方にすることが多い、とロールから行きの車で聞かされていたが、実際にこの目で見ると、なるほど、障害を持つ人々のミニ当事者会の司会進行役をしているのかな、という感じであった。

夜7時から8時半まで続いたセッションの後、そこから1時間半書けて北東部のWolvegaという町まで車でぶっ飛ばす。オランダは一番高い山でも標高300メートル、全体がほとんどゼロメートル地帯なので、一般道やフリーウェイも100キロ以上でみんな走っている。こちらは徹夜状態なのだが、目の前で先ほど行われた光景についていろんな質問がわき出して、いっぱい質問を彼にぶつけていた。その中で、印象的だったのは、「先ほどの参加者達は、最初全然話を自分からしなかった」とのこと。ヨーロッパの当事者達は、自己主張の国だから最初から話をガンガンしていたのか、勝手に思っていた僕にとっては、意外だった。「今は8回のセッションの最終局面だが、最初は何をしゃべっていいのかみんなわからず、とまどっていた」という。それが、ロールやヤニカの励ましの中で、自分達の正直な思いや願い、不安やうれしさなど、いろんなことを率直に話してもよい場なんだ、と気づくなかで、みんなが積極的に自分から話をしてくるようになった、という。初日からコーチングの実際を垣間見て、眠さより興味深さが打ち勝つ体験だった。

で、ホテルに着いたら、現地でお世話になる支援者のリッチェもバーで待ってくれていた。ということは、ここから再会の飲み会。彼ら彼女らが日本にきたときも、よく飲む面々だなぁ、と思っていたが、彼らの本拠地では勢いもます。こっちも濃厚な生ビールを注がれると、気分はなんだか向かい酒状態。真夜中でくらくらしながら、調査初日の濃い夜はどっぷりとくれていくのであった。

成田より

 

成田空港で出発前に一仕事。
昨日、インターネットバンキングで振り込みをしておこう、と思ったのに、日曜日の夜9時から翌朝7時まではメンテナンスのため、利用できない、という表示。ギリギリになる前にちゃんとやっておけばいいのだが、当然そういうことを泥縄的にやっているタケバタなので、あたふたするばかり。しかも、昨日の甲府は残暑がとんでもなく厳しく、エアコンなしで荷造りしていたら、軽くダウンしてしまった。なんだかなぁ、である。

でも、まあ世の中便利なもので、パソコンを空港のLANにつないで500円ほど払えば、こうして空港から自分のパソコンでネットバンキングにつなげる。さすがに誰でも使えるパソコンでやるのはあまりにも危険なので、この措置をとったが、メールするだけなら10分100円でできる。おかげさんで、ギリギリ振り込みの積み残しはなし、で済ますことはできた。

だが、結局どたばたしていて、肝心の仕事面で積み残しはいくつかある。滞在先でインタビューする相手への質問状を事前に送る、と言ったのだが、昨日全く頭が働かなかったので、これは機内に積み残し。それ以外にも、レジュメに赤を入れるだとか、とある教科書原稿の別の人の担当分の骨組みを考えるだとか、なんだか積み残しはあるにはある。でも、まあとにかく出かけてしまって、あとは現地で考えよう、と楽天的。

あと、ネットと言えば、今回はチケットそのものをルフトハンザのHPから買ってみた。電子チケットだそうで、空港でチケットを受け取るまで、半券も引換券も何もない。今まで某格安旅行会社で買うことが多かったので、その場合は半券なりケースなりをもらっていたので、スマートはスマートなのだが、空港に着くまで「本当に買えているのか?」と不安だった。そうはいっても先月末にきっちり22万円ほど引き落とされているので、大丈夫だと思いつつ、新しい成田の第一ターミナルへ。確かにチケットはとれていた。ほっ。しかし、22万円という金額は一見高そうだが、実はその某格安旅行会社でも、同じくらいの値段の見積もりがでていたのだ。その理由はたぶん、イエテボリ、というメジャーではない空港を使うから。だから、KLMだろうが、SASだろうが、ルフトハンザだろうが、この二都市を訪れる便で見積もりをとれば、結構な値段となる。KLMは昔、荷物オーバーで5万円ほど取られたいやな記憶があり、二度と乗りたくない、とすると・・・とルフトハンザのHPで正規チケットの40日前割引で、先述の格安旅行会社と同じような値段のチケットを見つけた。で、今回生まれてはじめて、ドイツ上陸(空港だけだけど・・・)なのである。あ、ドイツと言えば、現地在住のMさんにフランクフルト空港のおすすめを聞けばよかった。ま、今日と16日のイエテボリへの移動時に2時間ほどうろつけるので、ソーセージでも食べてみようかしらん。

仕事の書類も積んではいるけど、きっとドイツのビールにスパークリングワインなんて飲んでいたら、あっという間にフランクフルトまで行くんだろうなぁ、と半ばあきらめモード。少し夏の前半、根詰めて働きすぎたので、ま、ちとゆるむのもよしとしよう。というわけで、今日から出かけてきます。次は、つながったら、オランダからお届けします。では、では。

出かけてきます

 

あと半日もすると、海外に向けて旅立ちます。
今回は二週間の予定で、オランダ、スウェーデンで、障害者のセルフアドボカシー団体に取材にいくつもり。国連では障害者の権利条約が出来た局面ですが、どうも日本人にとって、「権利」を「主張する」ということには、あまり馴染みがないこと。なので、こういう権利主張がごく当然に出来ているヨーロッパの国々で、実情を少しちゃんと見てこよう、という魂胆です。

ネットが繋がれば、現地から報告はする予定、ですが、24日の帰国まで、連絡が遅くなった方はゴメンなさい、です。明日の朝、9時50分のルフトハンザに乗るため、甲府4時!発のバスに乗り込みます。なので、もう寝ます。ちょっと煮詰まった頭がリフレッシュ出来ればいいのですが・・・。では、行ってきます。

研究者の立ち位置

 

昨日届いた学会誌を読んでいたら、久しぶりに「そうそう」と思う記事に出会った。

「いまの障害者福祉の法制度を単に紹介説明するだけではなく、それを批判的に検討し、課題はなにかということを教育の中で学生に伝え、あるいは研究の中で生かしていくというスタイルが国家資格制度の下でわれわれのなかに失われてきているのではないか、と思います。制度を単に無批判的に実施するワーカーをつくるのではなくて、実践しながらもそれを改善する問題提起を実証的に行っていけるようなソーシャルワーカーを育てようとするのであれば、もっとテキストの段階からも考えなければいけないという感じももちます。そのためにも、国家試験にも法制度の課題、あるいは国際比較の中での日本の位置なども出題するなど、しっかりした課題意識を持つ社会福祉士が生まれるような努力が必要です。今日は試験委員をされている先生方もたくさん来ておられると思いますので、ぜひお考えいただきたいと思います。」(佐藤久夫「障害者自立支援法制定過程で政策研究はどう関与したか」『社会福祉学』47(2)、50

佐藤先生の、自身も含めた研究者への厳しい自戒は、大変な説得力がある。

今回、自立支援法に至る流れの中で、確かに当事者団体や一部支援者団体の動きはあったが、大きな支援者団体(○○士会など)や社会福祉学会などの学会は、動きがほとんどないか、あっても後手後手の展開であった。現場を支える、日々のことで精一杯、あるいは次々と押し寄せてくる資料を追いかけるだけで精一杯、というのも本音かも知れない。でも、そんな中でも情報にキャッチアップして、反論なり対案なりを出してくるのは、支援者や学会ではなく、当事者団体の側であった。たしかに研究者は軽はずみにモノを言うのではなく時間をかけて理論を熟成させていく役割かも知れないが、でも、大変な激変期に、変わりゆく制度にもの申す研究者が少なすぎたような気もしている。そして、その背景が、単に時間不足だけでなく、佐藤先生の指摘するように、グランドデザイン案や法案という新たな法や制度に対する批判的検討を行う、という営みが、「国家資格制度の下でわれわれのなかに失われてきている」ゆえのダンマリだとしたら・・・と勘ぐりたくもなる。

ひよっこ研究者として、大阪の現場から、いろんな対案を発信するお手伝いをしてきた僕としては、グランドデザイン案以後の展開に、ほとんどついていけていないかのような研究者達は、いったい何をしているのだろう、といぶかしいものを感じた。僕ごときひよっこが、自立支援法の講演にあちこち呼ばれる事自体、先輩方はどうされたのか、という疑問にもなった。どうでもいい話かもしれないが、全国の福祉系大学の大半に、「障害者福祉論」を教える教員はいる。なのに、この間動いている研究者がどれだけいるのだろう。もちろん、研究者の役割は、即時的にレスポンスすることだけではない。今は流れを読んで、大方定まったあとにコツコツと実証研究をされる方もいる。それはよい。だが、それでも大転換機に、多くの障害者福祉論を語る人間がいるはずなのに、どうしてあまり研究者からの声が聞こえてこないのか。もしかして、その方々が「制度を単に無批判的に実施するワーカーをつくる」ことにのみ、視野が狭まっているとしたら・・・。

佐藤先生自身、この文章の冒頭で、次のように後悔の念を述べている。

「私は、このシンポジウムのタイトルにまともに答えることができません。つまり、私をはじめとする障害者福祉政策の研究者が、戦後日本の障害者福祉の最大の改正・転換である障害者自立支援法の制定過程に、ほとんどまったくといっていいほど影響を与えることができなかった挫折感から立ち直れていません。」(同上、49)

佐藤先生のように「挫折感」を持っている研究者がどれほどいるか? 単に制度が変わった、とキャッチアップすることにのみ必死の研究者は少なくないか? 以前から何度も書いているが、あるものごとに追いかけるのに必死な状態は、武道でいう「居着き」の状態である。その状態では、相手の出方をうかがうことに必死で、追いかけるのに必死で、結局いつまで経っても相手の動きの先手を打つことは出来ない。対案なんかもってのほか、である。こういう「居着き」を超えるためには、いかに批判的に現状を分析し、「法制度の課題、あるいは国際比較の中での日本の位置など」を横目で見ながら、どの部分から崩せるか、責めていけるか、ポイントなのか、が問われている。そして、そういうことが出来る位置にこそ、研究者はいるのではないだろうか?

僕自身は、微力ながら、なるべく佐藤先生が指摘した「法制度の課題、あるいは国際比較の中での日本の位置など」を見続けて、真正面からこの「課題意識」は持ち続けてきたつもりだ。明後日から少し日本を離れるが、これも日本の今後進み行く「位地」を、他から眺め直して、少し頭を冷やして考えてみよう、という魂胆である。じっくり時間のかかる理論研究も、もちろん大切だし、少しずつ僕も勉強中だ。だがその一方で、目の前で動きつつある、自立支援法や地域移行の問題については、しつこく関わり続けなければ、と佐藤先生から檄をいただいたような、そんな報告であった。

ありがたい、には訳がある

 

ようやく頭が渡航モードに切り替わりつつある。

前回書いた夏風邪は、日曜に寝込んで回復の兆しを見せたが、その後月曜は丸一日東京出張でぶり返し、火曜水曜と出かけた長野では、甲府が34度の時に10度下回っていたものだから、半袖シャツしか持っていなかった阿呆の身体にこたえること、こたえること。水曜日に訪れた師匠のご自宅など、19度しかなく、セーターを借りも少し涼しいほど。そうやって騙しだまし、というより薄氷を踏む思いで、毎日汗ぐっしょりになりながらいると、まだ少し鼻づまり気味だけれど、ほぼ治ったようだ。

ついでに言うと、先週の金曜日、ごみの回収日だったのだけれど、清掃車の音を聞き、雨の中走ってゴミを捨てに出かけようとしたら、マンション入り口の鉄の排水溝で足を滑らせて、手と肘の皮がズルむけに。これも1週間たって、なんとかバンドエイドなしでも血が出ないように、快復してきた。そう思うと、この1週間は結構さんざんだったような気がする。

その間でも、竜巻のように様々な展開が進んでいる。長野でも東京でも、この半年の間に色々な企画が進行するらしい。風邪気味の頭であんまり集中出来てなかったのだが、それでもどうやら二つの企画とも大変そうだ、ということだけはわかる。しかも、足を抜くことも無理そうだし・・・さらには長野の企画のヘッドであるお姉様は携帯電話でこのブログをチェックされているとか・・・あな、恐ろしや。お姉様もひどい風邪だったけど、お加減はいかがでしょうか? 私は、夏休み前半に気張って(前倒しして)論文を書いておいてよかったです。どうやら、後半はそんな余裕もなさそうでございますねぇ。とほほ。

で、そろそろ渡航準備モード。
先週、オランダチームから、「音沙汰ないけど、ほんまに9月に来るつもりか? ホテルは予約した? とりあえずこんな感じでスケジュール組んだけど、これでいい?」とありがたいメールが来る。ここしばらくドタバタしていて、電話せんとまずいよなぁ、と思っていた頃だったので、何よりありがたい。そう言えば、ジャーナリストでもある師匠から、「アポイントメントさえ取れたら取材の半分は成功したようなもの」と言われたことがある。ま、師匠の場合、新聞記者には会いたくない、と思っている人びとにどうアプローチするか、で日々苦労されておられた。一方、研究者はジャーナリストほど対象と緊張関係を持っている訳ではないが、でもフィールド調査では事情は似ている。こちらは調査目的でお逢いしたくとも、向こうは別に会いたくなんかない、会って何の得になるのだ、と思われている可能性も高い。

なので、今回は三年前にお世話になったイエテボリのアンデシュや、昨年日本でお供したオランダのロールといった、「お顔馴染み」の相手の現場に飛び込むので、メールや電話だけでアポを入れていただき、ずいぶん助かる。去年からアメリカ調査も始めているが、最初のアメリカ調査など、日本からいきなり見ず知らずの現場にアポを入れまくって、ずいぶんと苦労した思い出もある。それに比べたら、向こうがある程度コーディネーションしてくださることがどれほど文字通り「有り難い」ことなのか、に思いをはせる。当然、この二つの現場とも、先輩研究者であるKさんが文字通り「開拓」し、親交を深められたからこそ、私がポコッと訪れても歓迎して頂けるまでになったのだ。そういう意味では、プー太郎時代に、「タケバタさんも少しは世界を拡げてみては」と、この分野へのご縁そのものを授けてくださった大先輩Kさんとの出会いそのものも「有り難く」、大感謝、なのである。Kさん、いつも本当にありがとうございます。

こう書くと、何だか大げさな、と思われる方もいるかもしれない。でも、例えば北欧に調査に行ったおり、現地の通訳の方からよくこんなことを聞かされる。「日本から来る人で、図々しい人も結構いる。○○に関係する調査をしたいのですが、それらしい現場の連絡先をいくつか教えてください。自分でアポをとって英語でやりますから、教えてくださるだけで結構です。」 一見、礼儀正しそうに見えなくもないが、実はメチャクチャ失礼なのである。だって、通訳の方も、苦労して様々な現場の担当者と時間をかけて人間関係を築き上げておられるのである。単に現場で言葉を翻訳するだけではない。その人の調査にはどういう現場が適切か、あの人だったらこの研究者の要望にこたえるためのネットワークを持っているのでは・・・というコーディネーション作業を担ってくださる通訳の方も少なくない。そういう方々に対して、苦労の末開拓された現場情報だけをそっくり教えろ、という言い方は、筋違いであり、何と慇懃無礼なことか。そして、こういう失礼な福祉系研究者が北欧には多い、とも聞いていたので、自分は襟元正さなければ、とことある毎に思うのである。大先輩Kさんの開拓してくださった現場に関わらせて頂けることに、感謝してもし尽くすことは出来ない。

ということは、国内外を問わず、調査や研究という営みも、ひとえにご縁というか、人と人のつながり、パスであることには、全く代わりないのである。と、こうまとめると平凡で古色蒼然とした感じだが、でも、この当たり前のことを、どれだけ誠実に出来るか、で、その人の価値が試されているような気がする。他人から託して頂いたパスは、誠実に運んで、次代にパスをつなげていく。なので、国内のパスも、ちゃんとやりますよ、Mさん。「今日も携帯画面では長すぎて読めない」とお姉さまからお叱りを受ける長文だなぁ、と思いつつ、パスつながりで言えば、あと一本残っている出国前の「最後の宿題」をさっさと片づけなければ。