海外と比較して・・・

 

日本に帰ってきて1週間、あっという間に時間が過ぎ去っていった。

日曜日に帰国して、次の日から時差ぼけに苦しみながら、既に日本の「流れ」の中に取り込まれていく。月曜は東京出張、火曜からは授業、水曜は久しぶりの長い会議、木曜は・・・こうやって日本のリズムに慣れて行く中で、スウェーデンやオランダでつかの間に感じた違う流れ、も忘れ去ってしまいそうだ。

そんな中で、今日、ジムで危険水域のおなかを引っ込めるべく、エアロバイクを漕ぎながら読み進めた親書で、ふふん、と思う箇所を発見した。

「象徴的に言えば、普遍的な『規範』の存在が、独立した個人と個人をつなぐいわば『通路』の役割を果たすのである。
 しかも、この点は意外に気づかれにくい点なので強調しておきたいのだが、そうした『普遍的な規範』が明快に存在する社会は、意外にも、人々にある種の『自由』をもたらすのである。なぜなら、そうした規範の領域はしっかりと遵守するべきものとされる一方、それ以外の個々の場面での行動は、逆に『個人の自由の領域』として明確に確保されるからだ。
 裏返して言えば、『個々の場面ごとの、関係による調整』というやり方は、集団あるいは社会の規模が一定以上のものになると、かえって限りなく窮屈な-場合によっては抑圧的ともいえる-ものになるのである。
 現在の日本はこうした一つの典型ではないかと思われる。」
(広井良典著『持続可能な福祉社会』ちくま新書、231)

オランダやスウェーデンで感じていた「自由」なり「規範」なりは、決して日本の新しい首相が教育基本法改正の折りに口にする「規範」とは違う、そうなんとなく感じていたのだが、それをわかりやすく広井氏は言語化してくれていた。そう、社会保障や国の役割、なんて突き詰めて考えていくと、こういう支え合いの仕組みや哲学、あるいは人間観、というものにぶちあたる。広井氏はこの際、二種類の人間観、として、
A)同心円を広げてつながる-「共同体的な一体意識」
B)独立した個人としてつながる-「個人をベースとする公共意識」
の二つをあげ、そのうち日本社会や農村型社会をAに、ヨーロッパ社会、あるいは都市型社会をBにおいている。さらにここには一神教の問題など、いろいろな横軸が入るのだろうけど、この縦軸ラインでの比較で考えたとき、AとBの違い、はよくわかる。「独立した個人」をベースとするならば、個人の自由と公共の規範、という明快な区別がつく。だが、同心円的な「一体意識」では、なかなか個と集団の区別がつきにくく、自由と規範のせめぎ合い、というか双方の領空侵犯が頻繁に起こりうる。

広井氏は日本社会は今、Aタイプでは対応できないのでBへと移行する途上だが、どっちつかずであるが故に、過渡期の苦しみの中にいる、と言う。その過渡期の中で、関係性の揺らぎとして、「見知らぬもの同士のコミュニケーションがとれない」「あいさつや感謝の言葉を使うのが下手」「見知らぬもの同士の譲り合いがない」などことを挙げている。これは二週間の間、僕自身が心からそう思ったことでもある。スーパーでも、レストランでも、向こうでは「ハロー」くらいの挨拶は交わす。そういうコミュニケーションはごく当たり前にやる。飛行機の中だって、電車の中だって、何気なく、やっていた。だが、今の日本ではこの種の「知らない人との公共の場でのコミュニケーション」というのが決定的に欠けているような気がする。その結果、規範意識の低下、というアウトプットが生じているのかもしれない。だが、これはじゃあ規範を強めてガチガチに教育すればいい、ってもんではない。『個人の自由の領域』が各人にきっちり保証されてのみ、初めて機能するのだと思う。

まだ説明するのはへたくそで、考えの途上だが、海外にいる間、ずっとそういった権利や自由、というものを考えていた。アドボカシーという考え方をずっと体感しようと試行錯誤していた二週間だったのだが、このアドボカシーを権利擁護、と訳した段階で、大事な何かがするっと抜けていくような気がする。これってノーマライゼーションという言葉を正常化や常態化、と訳す過程と似ているような気がする。下手な日本語に訳してしまうと、換骨奪胎、というか、肝心な「魂」の部分が抜けて、形だけが抜け殻のように干からびて残っているような気がしてならないのだ。

そして、その「魂」の部分を考える際、さけて通れないのが、広井氏が指摘している「規範」なり「自由」なりを支える人間観、個人観、のような気がしていた。なので、読みかけのこの新書を最後まで読み進める中で、氏がこの章で書きたいことの意図、というか、バックボーンのようなものは、すごく共感できた。ただ、広井氏ご自身もわかっていると思うけど、この「日本人論」はそう簡単にスパッとはきれない。あくまでも、作業仮説を操作的に定義する程度しか出来ない。だが、この操作的定義、から、私たちは、少しずつ、今の日本の現状を相対的に見つめる眼、を持ち始めるはずだ。日本にいたって、日本を相対的に眺めることは不可能ではない。広井氏から、そんなことを教えてもらったような気がする。ぼちぼちこの1週間で時差ぼけも疲れもとれたようだ。そろそろ、出張中感じたことを、日本のコンテキストに照らしながら、まとめてみよう、と思う。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。