お父さん「も」支える言葉

木村泰子先生の新刊『お母さんを支える言葉』(清流出版)を編集者の渡辺のぞみさんからご恵贈頂く。珠玉の言葉の数々が、実に読みやすく並べられており、一気読みする。

木村泰子先生は、「すべての子どもに学習権を保障する」ことを大切にし、不登校がゼロでインクルーシブ教育を先駆的に進めてきた大阪の大空小学校の初代校長である。そのドキュメンタリーである映画『みんなの学校』はすごく感動したし、木村先生の著作は何冊も読んできた。でも、この本はそれらの本と色々テイストが違って、よい。

なにが良いって、木村先生自身が教員をしながら二人のお子さんを育てられたが、「母親業大失敗の人間だった私」(p10)という、これまでの著作では見えてこなかった「当事者性」がある。そこに、大空小学校での子どもや保護者(主にお母さん)との関わりを重ね合わせ、保護者であり教員として、という複眼思考のなかで、子どもを育てる親にエールを送っている。確かにメッセージの第一義的宛先は「お母さん」なのだが、これは一緒に子育てをしたいと思うお父さん(=ぼく)「にも」大いにエールを送り、学びの多い1冊である。

読了後、もっとも僕に深く・重く残った一節をご紹介したい。

「親子だと、親が強者で子どもが弱者だという力関係には、なかなか気づけないものです。そして、『子どもを育てるお母さん』だと、いつも自分が主語になってしまいます。自分のことは見えているけれど、子どものことは見えていない状態になりがちです。
でも、『子どもが育つお母さんになろう』って思ったら、自分と一緒にいるときの子どもの表情にも注目しないといけないし、それに合わせて、自分がどんな行動をとればいいか、考えないといけませんよね。」(p74)

さらっと書いてあるが、実に対比的な言葉だ。「子どもを育てるお母さん(お父さん)」と「子どもが育つお母さん(お父さん)」。前者だと、「いつも自分が主語になってしまい」、自己中心的視点が拭えない。だからこそ、「私はこんなに頑張っているのに」とか「よかれと思って」といった親都合を子どもに押し付けがちになる。でも、後者の場合、「子どもが育つ」かどうかは、子ども次第である。そして、「子どもが育つ」ための阻害要因ではなく、促進要因として親が振る舞えるか、が問われている。

この二つはめちゃくちゃ大きく違う。

親が主語の場合、そしてそれを考えているのが親自身の場合、自分のことは棚に置き、免責して、子どもが悪い・子ども変えなければ、となりやすい。でも、親の振るまいが「子どもが育つ」要因になっているか、を査定する際、査定の矢印は子どもから親自身にむき直す。「子どもが問題だ・悪い」ではなくて、「悪い・問題とされる状態から子どもが行動変容するために、親がどのような応援や支援が出来るか?」と問いが親自身に向けられる。これは、簡単なようで、めちゃくちゃ難しい。

子育てに必死になっている時ほど、子どもが親の注意を聞いてくれないと、「子どもがわかってくれない」と思い込みやすい。でも、それは親の言動は横に置き、子どもが親に従わないことを問題視している視点である。一方「子どもが育つ親になろう」とするならば、子どもが自律的で主体性を持って動けているか、が査定基準になる。そして、子どもが依存的で受動的だと感じたら、親の関わりのどのような部分が阻害要因になっているか、を自らに問い直す必要がある。子どもを観察し、子どもに尋ねながら、子どもの成長の促進要因になれるように、親のアプローチをどれだけ変え、認識をアップデートできるか、が問われているのだ。これはめっちゃ本質的であり、でも楽ではないことである。

次に心に深く刺さっているのが、次の部分だ。

「我が子ですら『わからない』ことだらけ。“わからないことのかたまり”みたいなものです。
子どもはみんな、宇宙人、くらいに考えたほうがいいかもしれません。
目の前の“宇宙人”をなんとか理解したい。少しでもわかりたい。
そんなときは、潔くネット検索を捨ててください。
そして、目の前にいる子どもをよく見てください。
子どもの声に耳を傾けてください。
お母さんが子育てで困ったら、次の三つの言葉を子どもに尋ねてみて。
『大丈夫?』
『何に困っている?』
『私にできること、ある?』」(p42-43)

この本には、難しい言葉も概念も一つも出てこない。すごく読みやすい。でも、恐ろしいほどの本質が詰まっている。ネット検索でわかった気になるな。そうではなく、「目の前の“宇宙人”をなんとか理解」するために、しかり観察せよ。じっくり耳を傾けよ、そう親に態度変容を迫っているのだ。さらに、親はそこで“宇宙人”に説教をしてはいけない、とも明言している。それよりも、「子どもが育つ親になる」ためには、次の三つの声がけが大切だという。

『大丈夫?』『何に困っている?』『私にできること、ある?』

一つ目は、子どもが自分の状況をどう捉えているのか、である。自分一人でリカバリー可能なのか、助けが必要なのか、を問う質問だ。二つ目は、子どもの主観的な困りごとを、子どもから教わる質問だ。親がこれは困っているはずだ・出来るはずだ、と外形的に決めつけるのではなく、本人の内在的論理としての心配事や不安、困りごとを聞いている。その上で、三つ目の質問は、親としてどう関わってよいのか(関わらなくてよいのか)を本人に決めてもらう質問だ。この三つは、子どもの成長の促進要因として親が関われるようになるための、魔法の質問だと思う。というか、こうやって書きながら考えていると、このシンプルな三つの質問の「魔力」が、おぼろげながら見えてきた。

そして、親が勝手に決めつけたり、わかった気にならず、上記の三つの質問をしながら、“わからないことのかたまり”の子どもを「なんとか理解したい」「少しでもわかりたい」と願うとき、子どもとの協力関係が始まるのだと、改めて思う。

あと、長くなってきたがもう一つだけ取り上げたい部分がある。

「『あ、失敗したな』
『かかわり方、間違ったな』
と思ったら、“やり直し”をするんです。
自分の失敗や間違いは、ちゃんと自分でやり直しをする。行動にうつしたり、言葉にして伝える。
『ごめんね。私が悪かった。やり直すね』って。
自分の頭で考えて、自分で行動したことなら、人のせいにはしなくなりますよ。」(p66)

これも、親当事者として、いてて、と思いながら、本質を射貫く言葉だと思う。

子どもに謝らせる前に、親が率先垂範できるか。自らの誤りや失敗を素直に・謙虚に認めた上で、“やり直し”を親の方からできるか。『ごめんね。私が悪かった。やり直すね』と子どもに伝えられるか。

子どもはめっちゃ見ている。親が誤魔化すのも、謝るのも、やり直しをするのも、取り繕うのも、みんなすごく観察している。「人のせい」にする子どもは、それを親から学んでいるのである。

ということは、子どもが「自分の頭で考えて、自分で行動」できるように、つまりは子どもが自分で育つ促進要因として親が機能するためには、親自身がまず率先垂範して、間違いや失敗に誠実になり、「やり直し」が出来るか、が問われているのだ。

腹が立ったり忙しかったり余裕がなかったりすると、失敗や間違いが認められない、子どもに「やり直し」ができない僕がいる。だからこそ、これは深く書いて、胸に刻んでおきたい。

こんな感じで、突き刺さる言葉があちこちにあるので、本の大半のページにドッグイヤーをしながら読んだ。平易で読みやすく、するっと読めるが、一つ一つの言葉を噛みしめたくなる金言至言の数々で、圧倒されてもいる。そういう意味で、母だけでなく父親をも支える言葉の数々と出会えて本当に良かった。

ちなみに、この表紙はなんと、拙著『家族は他人、じゃあどうする?』の挿画もご担当頂いた本田亮さんのイラスト。娘も「私の絵と同じだ!」と喜んでいた。彼の温かな挿画は、木村先生のメッセージと見事にコラボして、これもほっこりする。そういう意味で、実に読み応えのある、また読み直したい1冊だった。

ホモ・サケルとしての精神病院入院患者

読書会の課題図書でジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル』以文社を読む。正直、第一部から第二部までよくわからず、お経を読むように、ひたすら字面を追いかけていただけなのだが、第三部に入ると一気に視界が広げてくる、というか、自分が知っている世界が迫ってきた。第三部は「近代的なものの生政治的範例としての収容所」である。そこに書かれている世界は、ぼくが四半世紀追いかけてきた精神病院の構造的宿痾の世界そのもの、だった。

アガンベンは、フランス人権宣言が「人間と市民」を分離し、市民権を持つ市民と、それを持たない人間を分けた、と述べた上で、以下のように述べる。

「国民国家は、自然的な生の大々的な再備給をおこない、自然的な生の内部で、いわば真性の生と、あらゆる政治的価値を失った生とを分別する(ナチの人種主義や優生学は、この文脈に置きなおしてはじめて理解できるものとなる)。他方では、市民権の前提としてのみ意味を持っていた人権が市民権から徐々に分離され、市民権の文脈の外で用いられるようになる。この人権の使用は、しだいに国民国家の周縁へと排除されるようになった剥き出しの生を表象し保護するという目的のためになされたが、その生は、次いで新たな国民的同一性へと再コードされる。」(p183−184)

精神病院問題に関わっていると「二級市民」という言葉をたまに耳にする。入院中の精神障害者が、他の市民と同じような権利を持っておらず、「二級市民」的にさげすまれていることを指して述べる言葉である。ナチスドイツでは、ユダヤ人の大虐殺以前に、精神障害者の虐殺がT4計画として実践されてきたことは有名である。この際、「生きるに値する市民」とそれ以外の「人間」が分けられ、後者は「政治的価値を失った生」とラベルが貼られ、コストがかかるから「国民国家の周縁へと排除されるようになった」のである。

そしてホモ・サケルとは「犠牲化不可能であるにもかかわらず殺害可能である生」=剥き出しの生(p119)とされる。「人を殺してはならない」というのは世界どこでも基本であるが、「神様の捧げ物として」という場合は赦されていた。でもその神に捧げるという「犠牲化」は不可能であるにもかかわらず、「殺しても良い」という生は一体どういうことなのか。それが「人権と市民権の分裂の極相」(p184)として述べられている。そして、安楽死に代表されるように、「生きるに値するか否か」の価値判断は、極めて恣意的で人為的でもある。

「生きられるに値しない生と、そこに暗に含まれているよりなじみの相対物としての、生きられる(あるいは生きる)に値する生のことである。したがって、近代の生政治の基本構造—ありのままの生の価値(もしくは無価値)に関する決定—がはじめて法的に明確化されたのは、善意から安楽死に賛成する文章なのである。」(p188)

どのような生に価値があるか、あるいは無価値なのか。本来それは誰にも定められないはずだ。だが、脳死や安楽死が必要な状態、重度精神疾患・・・などは「生きられるに値しない生」だと規定される。その規定は逆照射的に、「生きるに値する生」を規定する。つまり、どのような生は価値があり、別の特定の生は無価値である、と規定することが、生そのものを政治化する生政治という考え方である。そして、この社会はすっかりそういう考え方に毒されている。

「主権者とは、例外状態に関して決定するかぎりにおいて、どのような生が殺人罪となることなく殺害されうるかを決定する権力を持つ者であるが、生政治の時代にはこの権力は例外状態から解き放たれ、生が政治的な意味をもたなくなる点に関して決定する権力へと変容しようとする。シュミットが示唆しているように、生が最高の政治的価値になるときには生の無価値という問題も立つが、それだけではなく、まるでその決定において主権権力の最終的な内実が問題となるかのようである。近代の生政治においては、主権者とはありのままの価値や無価値に関して決定する者である。」(p195-196)

ホモ・サケルとは、「殺人罪となることなく殺害されうる」剥き出しの生のことを指す。そして、誰がホモ・サケルであるか、は、近代の生政治においては「主権者」が決めることができる。どのような生が価値があるのか、望ましいのか、と決めることは、別の特定の生は望ましくなく無価値であり、それゆえ殺したとしても、殺人罪には問われない、ということである。現に脳死というのは、そのような無価値な生の決定である。それは法的な手続きによってなされているが、心臓が止まれば死亡、という従来の生と死の線引きを引き直す上で、価値の捉えなおしであり、安楽死の問題は医学的な問題だけでなく、ある生の価値・無価値を政治的に判断する、という意味で、政治的な問題でもある。

「我々がふだん、人間の実存に割り当てているほとんどの権利と希望を奪われ、とはいえ生物学的にはまだ生きている彼らは、生と死、内部と外部のあいだの限界地帯、もはや彼らが剥き出しの生でしかない限界地帯に身を置いていた。すなわち、死刑囚や収容所の住人は、ある意味では、気づかぬうちにホモ・サケル、つまり、殺人罪を犯さず殺害できる生と同じものになっている。」(p218)

この死刑囚や収容所の住人を「精神病院入院患者」と言い換えても、同じことが言えると、読みながらひしひし感じていた。そして、この文章に強い既視感を覚えた。

それは、入院患者の声を聴き続け、それを「入院患者さんの声」として掲載している、NPO大阪精神医療人権センターニュースに、以下のような声が掲載されているのに20年前に出会い、圧倒されたのを思い出したからだ。(そのことはブログ、にも書いている。)

「病気に疲れ果てた。退院したくない。」

病気に疲れ果てることと、入院し続けるかどうか、は、原理的には全く異なる別の話である。でも、この二つが結びつくとき、別の何かの要因が絡み合っているはずである。そしてその別の要因として、「人間の実存に割り当てているほとんどの権利と希望を奪われ、とはいえ生物学的にはまだ生きている」という補助線を入れてみると、非常にクリアに見えてくる。市民権は剥奪されているのに、人間であり続ける、そのことのしんどさと絶望なのである。

そして、その状態で生きていると、「生と死、内部と外部のあいだの限界地帯、もはや彼らが剥き出しの生でしかない限界地帯に身を置」くことになる。このような限界状態で生き続けるのは、本当にしんどい。だからこそ、自暴自棄になり、「退院したくない」、というか生きているなんてどうでもよい、となってしまうのかもしれない。そんな風にも感じた。

「住人があらゆる政治的立場を奪われて完全に剥き出しの生へと還元されたということからして、収容所は、かつて実現されたことのない最も絶対的な生政治的空間でもある。そこで権力が向き合っているのは、まさに何の媒介もない純粋な生なのである。したがって、政治が生政治になり、ホモ・サケルが市民と潜在的には混同されてしまうという点で、収容所は政治空間の判例そのものなのだ。だから、収容所で犯された残虐行為を前にして立てるべき正しい問いとは、人間に対してこれほど残酷な犯罪を遂行することがいったいどのようにして可能だったのか、といった偽善的な問いではない。それより真摯で、とりわけさらに有用なのは、人間がこれほど全面的に、何をされようとそれが犯罪として現れることがないほど(事実、すべてはそれほど、本当に可能になっていたのだ)自らの権利や特権を奪われるということが、どのような法的手続きおよび政治的装置によって可能になったのか、これを注意深く探求することであろう。」(p233)

精神病院では、神出病院事件滝山病院事件のように、繰り返し繰り返し虐待事件が起こり続けている。これは、場所や年代を変えても起こり続けているので、特定の猟奇的な病院長・現場職員の問題に矮小化できない。ではどう考えたらよいのか。その際に、精神病院入院患者は「あらゆる政治的立場を奪われて完全に剥き出しの生へと還元された」「ホモ・サケル」であると考えたら、クリアに見えてくる。精神病院入院患者は「殺人罪を犯さず殺害できる」対象者だと見なされているからこそ、陰湿で凄惨な虐待が何度もなんども繰り返しくりかえし起こり続けているのである。

そして、僕はこれまでそのような虐待事件が起こるたびに、「人間に対してこれほど残酷な犯罪を遂行することがいったいどのようにして可能だったのか、といった偽善的な問い」を発し続けてきた。でも、これでは問題は全く解決しない、とアガンベンは述べる。本当にこの問いと向き合う為にすべきことは、「人間がこれほど全面的に、何をされようとそれが犯罪として現れることがないほど自らの権利や特権を奪われるということが、どのような法的手続きおよび政治的装置によって可能になったのか、これを注意深く探求すること」なのだ。

現に滝山病院事件でも神出病院事件でも、あるいは滝山病院の元院長が起こした朝倉病院事件でも、行政監査もすり抜けた合法的な施設において、そのような虐待事案が放置され続けてきたのだ。そのことを、「人権侵害だ」と言い立てるだけでは、何の効力もないことは、以前滝山病院事件について書いたブログ「偽解決と紋切型を越えるために」でも指摘していた。

ここで問われるのは、精神病院入院患者が剥き出しの生=ホモ・サケルとして蔑まれ、二級市民として市民権を剥奪されていることが、なぜ法的・政治的に許されているのか、を問わなければならないのだ。そして、法律でいうならば、例えば民法713条から714条の規定が、この構造を生み出している可能性が頭をかすめる。

「精神上の障害により自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態にある間に他人に損害を加えた者は,その賠償の責任を負わない」(民法713条)

「責任無能力者がその責任を負わない場合において、その責任無能力者を監督する法定の義務を負う者は、その責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。」(民法714条)

精神障害者の責任能力を否定した場合、過失責任を家族が負うことになる。すると、日本の家族は過剰なまでに家族(保護者)責任を担わされる。そして、それが抱えきれなくなった時には、精神病院にお任せして一生預ける、という構造になる。これこそが「家族丸抱えか施設丸投げか」という二者択一的状況である。そして、家族から全権委任された精神病院や入所施設は、入院・入所者の生殺与奪の権利を家族だけでなく、残余的福祉でお任せ状態の国家から実質的に付託されている、という意味で、ホモ・サケルに対する主権者の位置づけになっている。だからこそ、医療者における虐待が起こり続けているのではないか。そんな「妄想」も浮かぶ。

つまり、精神病院入院患者が「ホモ・サケル」状態になっている、ということは、現代日本社会において、精神病を抱えて生きることは「生きるに値しない命」と見なされている状況があることや、「生きるに値する命」を選別する生政治の価値判断がこの社会の主流の価値観になっていること、などが、みえてくる。すると、精神障害者の問題に見えるものは、じつは精神障害者を排除するこの日本社会の生政治的課題として捉え直すことも出来るのだ。

この論理は、実に興味深い視点をもたらしてくれるので、もう少し自分の中で転がして考えてみたいのだが、とりあえず読後メモとしてここに記録しておく。