骨格提言というパラダイムシフト

今日、2011年8月30日、日本に住む多くの人にとって、この日は首相交代の日として認識されているだろう。だが、僕自身にとっては、首相交代よりも大きな意味を持つ場に居合わせた。総合福祉法部会の骨格提言が、ようやく出来上がったのだ。
昨年四月から始まった、内閣府障がい者制度改革推進会議、総合福祉法部会。名前だけでお経のように長い部会なのだが、僕もこの委員として当時の!福島みずほ内閣府担当大臣からの委嘱状を頂き、制度改革に向けた議論をスタートさせた。そして18回目の今日、現行法である障害者自立支援法に変わる新法である障害者総合福祉法の骨格を部会の全員一致で了承し、骨格提言としてまとめることができた。この骨格提言は、様々な意味で日本の障害者福祉政策にパラダイムシフトをもたらす、転換点となる骨格提言である。以下、部会の一員として参加してきた立場から、その概要といくつかのポイントを整理しておきたい。
①障害者総合福祉法がめざすべき6つのポイント
総合福祉法の骨格提言自体は122ページにわたる膨大な内容であるが、そのポイントは冒頭に6点にわたって示されている。その表題だけを並べると、以下のとおり。
【1】障害のない市民との平等と公平
【2】谷間や空白の解消
【3】格差の是正
【4】放置できない社会問題の解決
【5】本人のニーズにあった支援サービス
【6】安定した予算の確保
この6つのポイントの重みを、これまでの政策との比較の観点で、簡単に解説しておきたい。
【1】障害のない市民との平等と公平
→障害者への福祉政策は、特に20世紀の措置時代においては、恩恵や慈善に基づく政策であった。ゆえに、二級市民扱いするような劣等処遇であっても、安心や安全が守れるならそれでやむなし、とされる弱者救済の論理であった。だが、国際条約である障害者権利条約の批准を前提に、わが国の障害者福祉政策もパラダイムシフトする必然性に迫られた。なぜなら権利条約では「他の者との平等」がその条約の中心論点として示されているからだ。これは、障害者だけが人里離れた入所施設や精神科病院での長期社会的入院・入所を余儀なくされる、あるいは障害者だけが4人部屋や6人部屋を強いられる、ということはない、ということである。また、あるいは障害者であるがゆえに普通の人がカラオケや飲みに出かけたり、結婚や子育てをしたり、という当たり前の生活から排除されない、ということでもある。この「他の者との平等」に基づいた施策を進める、というパラダイムシフトの骨格提言なのである。
【2】谷間や空白の解消
これまでの障害者施策は、ある意味「継ぎ足し法」であった。当事者や家族、関係団体から「これが問題になっている」といわれ、何度も抗議や運動をされる中で、ようやく対策が認識され、制度化されていく、という制度が実態の後追いを繰り返してきた。それでも、精神障害者の福祉施策だけでなく、盲ろう者や難病患者の生活支援、あるいは障害児支援など、埋まっていない空白や谷間の問題はたくさんある。そういう制度の谷間を生まないための支給決定や相談支援のプロセスを作り上げることで、後手後手の対応ではなく、障害ゆえの生活のしづらさへのを支援を求める全ての障害者に速やかに支援の手が差し伸べられるようなものを求める方向性が出された。
【3】格差の是正
入所施設や精神科病院からの障害者の地域移行が進まない最大の理由は、地域での各種の社会基盤の整備が諸外国に比べて徹底的に遅れているから、である。それゆえ、東京や大阪なら一人暮らしやグループホームでの暮らしが出来ている重症心身障害を持つ人が、山梨なら地域で支える仕組みが脆弱なゆえに医療施設での長期社会的入院を余儀なくされている、などのケースは、障害の種別を越えて未だに少なくない。そういう意味では、それまでのその地域における支援実態にあまりに格差が大きく、障害を持っても暮らしやすい街と暮らしにくい街、もっと言えば障害者が支援を受けて暮らすことが現実的に厳しい街まで、格差が非常に大きくあった。総合福祉法では、その格差を是正することを理念として目指しているのである。
【4】放置できない社会問題の解決
さきの【3】とも関連して、わが国では、特に20世紀型の慈善・恩恵の福祉政策が展開されてきた。ゆえに、公的責任は先進自治体を除いては極めて限定的であり、家族の丸抱え、ないし施設・病院への丸投げ、という二者択一状態にあった。この二者択一の状態をやめ、第三の選択肢としての地域生活支援体制の充実と、効果的な地域移行プログラムの推進を目指すことも、総合福祉法の柱として明記されている。これも、これまでの障害者福祉政策からの大きなパラダイムシフトの一つである、と言える。
【5】本人のニーズにあった支援サービス
実はこれまで整理してきた内容と、5つ目のポイントは大きく重なっている。これまでの慈善・恩恵的な福祉政策は、決定主体が行政や支援者などの専門家と呼ばれる人であった。
障害者自立支援法で自己決定や自己選択がだいぶ出来るようになった、と喧伝されたが、実際には選べるほどのサービスもなく、また支給決定における障害程度区分の問題や、長時間介護の国庫負担上限問題など、本人の求める支援ニーズを抑制するような支援体系であった。この部分にもメスを入れ、支援体系をニーズベースで再編するだけでなく、パーソナルアシスタントという本人の選んだ、本人主導の継続的介助サービスの導入など、支援を求める人のニーズにあわせた体系内容に変えることも骨格として提言された。
【6】安定した予算の確保
そして、今までの5つのポイントを実現できるかどうか、は実はこの6点目の財政論議になってくる。ここで、今日の部会と、冒頭の首相交代の話がつながってくる。障がい者制度改革推進本部の本部長は、内閣総理大臣なのである。そう、今日からこの問題を扱う本部長が変わったのだ。担当する内閣府も厚生労働省も大臣が変わる。その中で、あと二年はちゃんと政権を続ける、というのであれば、首相はこの問題にも本気で取り組んでいただきたいのである。実は、障害者権利条約と共にこの総合福祉法が出来る根拠となったのが、障害者自立支援法意見訴訟段と厚生労働省の和解に基づく「基本合意文章」であるが、その基本合意文章の中で、平成25年8月に現行法(自立支援法)に変わる新法制定が謳われた。そして、国はそれを約束したので、総合福祉法部会を開き、来年の通常国会にはその法案を国会に上程する。ゆえに、法案を今年後半に書くためにも、この8月末の骨格提言提出の線は譲れない、と言われてきたのである。そこで、かなりの大変な思いをしてこの骨格提言を出したのだから、今度は政治家と官僚はそれを実現するための「安定した予算の確保」に向けて、動き出してもらわないと困るのである。
さて、これまでは新法の骨格について若干の解説をしてきたが、この新法の骨格提言に秘められたパラダイムシフトは、何もこの内容だけではない。実は、この骨格提言が作られるプロセスそのものにも、既存施策からの大きな転換が秘められているのである。この部分は、骨格提言を読んでも出てこないので、一部会委員の主観として、書いておきたい。
②小異をすて、大同で団結
大同小異、という言葉がある。小異を超えて、大きな方向性で同意しようよ、ということである。これまでの障害者福祉は、残念ながら、障害者関係者から見れば重大な違い、だけれども、それ以外の一般市民から「小異」にも見える部分で、長らく大きな分断をしてきた。その一番不幸なエポックが、自立支援法の賛成・反対による分断である。厚生労働省のあまりに急な、介護保険との統合もにらんだ法制定プロセスに、納得できない障害者団体と、そうではない団体との中で、大きな溝が出来てしまった。障害者の地域生活支援を求める、というところでは一致している、障害者の理解者たちの間で、法律という方法論的断絶がある種の「踏み絵」と化し、共に障害者支援の充実のために手を携える、という目的まで共有できなくなってしまったのだ。これは実に不幸な数年間であった。
だが、今回の制度改革推進会議の総合福祉法部会は、国の審議会にしてはありえない、55人という大所帯である。この55人には、自立支援法に賛成した人、反対した人、中立だった人もみな、入っている。入所施設や精神科病院からの地域移行を研究テーマにして、国のこれまでの政策にもわりと批判的でった僕自身も入れていただいた。僕に限って言うならば、これまでの国の社会保障審議会などでの人選から見ても、絶対入るはずのない人選だった。そういう人も、地域移行と地域の基盤整備を進めるため、是非とも、とお声がかかったのである。
そういう意味で、障害者福祉領域で、内野・外野・場外、現状肯定派・否定派・様子見派、など主義主張の違いを超えて、新法を作るために、これまで同じ場で議論をすることなどなかった面子が勢ぞろいしたのである。そして、18回の部会と、部会作業チームでの議論、あるいは自主的な集まりや、座長会議などでの調整、部会三役などの大変な調整など、様々な議論が積み重ねられ、やっとのことで今までにない規模での幅広いステークホルダーによる、小異を捨てて大同で団結する、ということが、この骨格提言で出来たのである。このことの意味は、すごく大きい。
③当事者主体の論点整理
今回、これまでの社会保障審議会などに参加するステークホルダーより、より幅広い関係者の間で合意できたのはなぜか。それは先ほどの人選もさることながら、実はこの部会の論点整理自体が画期的だったのである。
今、この文章を、甲府に帰る「あずさ」号の中で書いているので、正式に引用をすることは出来ないが、国の様々な審議会に出ている東大教授の森田朗氏の『会議の政治学』を読むと、審議会をどううまく取りまとめていくか、の舞台裏話が書かれている。その中で、論点整理権と人事権の重要性が確か書かれていた。つまり、どういうことを議論するのか、という論点整理を誰がするのか、と部会の座長や副座長も含めた人選を誰が持つのか、である。
で、これまでの社会保障審議会などは、言わずもがな、であるが、その双方を厚生労働省が握っていた。だが、今回は人事権は僕が見るところ、厚生労働省と制度改革推進会議側の妥協と思われる。だから、通常の倍の50人超えの部会構成になった。だが、論点整理権は部会三役が持った。このことの意味は大きい。僕もある審議会をずっと膨張し続けたことがあるが、審議会のお決まりパターンは、中間整理や最終まとめ案など、全て事務方の霞ヶ関の側で用意し、委員は当日その内容にクレームや反論をつけることがあるものの、基本的には最後は座長預かりで、しかもそれは座長の背後にいる主務官庁の側で最終案を出す、というのがよくある姿であった。これは、裏を返せば、依頼元である霞ヶ関の論理に沿った人選・議論内容・最終案、ということになる。ある意味マッチポンプ的要素もあり、だから「御用学者」といった言葉も出てくるのである。
だが、今回の骨格提言に向けた議論には、そのような予定調和はなかった。内閣府主催の会議なので、議事進行権はあくまでも内閣府の制度改革推進室と部会三役の側に託された。ゆえに、これまでの厚生労働省の会議では出てこなかったような論点がかなり出てきたのである。それがパーソナルアシスタントや、障害程度区分を廃止した上での協議調整による支給決定モデル、などであった。漸進主義の国の枠組みなら、「急進的過ぎる」として、最初から議論の枠から外されることも、部会の総意として論点整理を一から作り上げてきたので、骨格提言の中にまで残ることになった。ゆえに、厚生労働省は、これまでの審議会への対応とは全く違う対応を取る。それは、この部会の論点整理案への反論であり、部会作業チーム報告への「厚生労働省のコメント」も、厚生労働省の示した論点整理案の反論を論拠として、コメントしているのである。そのことによって、部会は何度も紛糾し、かなりの緊張する局面もあった。
だが、裏を返せば、これまでの国の法律に関する論点整理は、あくまでも霞ヶ関の都合に基づく、国主導の論点整理であった。それに対して、今回の骨格提言にいたる論点整理では、現実との齟齬はあるものの、あくまでも支援を求める障害当事者のニーズに沿う、「あるべき姿」に近づくための論点整理であった。現状と問題だけを示し、あるべき姿をあまり示さずにすぐに「落としどころ」を探る従来の審議会とは違い、あくまでも「あるべき姿」を掲げ、それと現実の間で問題点を整理し、あるべき姿に近づくための方策を考える方法論として論点整理が機能したのである。しかも、その論点整理に、支援を受ける当事者の声がかなり反映されていた。この専門家主導から当事者主体への論点整理の移行は、すごく大きな意味を持っている。そして、その理想系を実現するための骨格提言を、主義主張を超えた55人の委員の総意で決められた、ということも、改革の方向性をステークホルダー間の利害を超えて整理できた、という点でも大きい。
④今後の課題
このように、大変な波乱を含みながらも、何とか「あるべき姿」とその方向性について骨格提案としてまとめることができたからこそ、これからの行く末、が非常に大切な局面になってくる。とくに、世論、政治家、官僚の三つの動向が非常に気になるところだ。
まず世論であるが、業界関係者向けの講演をしても、障害者自立支援法の改正案については周知されていても、また障害者基本法が変わった、ということを知っている人さえ、総合福祉法についての認知度があまりに低い。厚生労働省が行う説明会の場でも「まだ議論中でございます」とあまり積極的に紹介されてこなかった影響もあり、自立支援法がまだこのまま続くと思っている人も多い。だが、骨格提言がまとまり、制度改革本部長である総理大臣にも早いうちに提言として手渡されるのである。であればこそ、早い段階で、この内容についての普及啓発の動きが広まっていく必要がある。少なくとも、上記の6点のポイントや、上に書いたような意義について伝えた上で、この骨格提言が実行されるように、これからの法文化作業や国会での議論を注視して見守っていく、そういう興味関心の輪が広まっていく必要性が強く感じられている。基本法改正の時のようなタウンミーティングにならった、骨格提言の普及啓発の集まりは必要不可欠だ。それは、次の二つの動向が、非常に気になるからだ。
次に政治家の動向であるが、財政再建や東日本大震災の復興支援の局面で、非常に財政緊縮的に動いているのが、この間の予算の動向である。特に来年度の政府予算の概算要求における、一律1割カットの方針は、この部会の骨格提言の方針と大きく異なる。これまで、OECD加盟刻の中で下位に属していた障害予算を平均並みにあげてほしい、という、世界標準で見たら決して無茶ではない提言であるのだが、財政削減の大合唱が先行すると、このまっとうな提言がいつの間にか夢物語とすりかえられてしまいかねない。厚生労働省だって、三位一体の構造改革時に、この手法でずいぶん財政削減を財務省から迫られ、当事者の意見を一理あるとしつつ、財政抑制的な手法も盛り込んだ自立支援法へと舵を切らざるを得なかったのである。この部分を理解し、安定した予算の確保に向けて全力で取り組むことこそ、「政治主導」の果たすべき役割である。また、このことは政府与党だけでなく、障害者施策に与野党の違いはない、といっている野党の政治家も、自分ごととして受け止めていただきたい課題である。この間、障害者福祉政策が国会の審議の場で、半ばバーター取引の材料のように使われているように勘ぐりたくなる場面があるやにも仄聞するが、これは政党の考えの違いを超えて、当事者・関係者の総意の骨格提言として、重く受け止めていただきたい、と切に願う。
そして、官僚の動向について。
この間、霞ヶ関に通い続け、厚生労働省の方々ともお話しする場面が多かった。その中で、各官僚個人個人は非常に優秀で、人間的にも信頼できる方が少なくない、という当たり前のことに気づかされた。だが、一方で、マスコミで喧伝される「総体としての官僚制機構の問題性」はやはり感じられた。それが、官僚制機能の逆機能問題である。官僚制は、そのシステムからして、継続性と安定性の確保を自らのミッションとしている。そのために、自分たちが枠組みを作ったものを、自らで大きく作り変えたり、捉えなおすことが得意ではないのだ。だからこそ、この総合福祉法という枠組みの作り変えに対しても、その方法論的反発だけでなく、自立支援法とは方向性の異なる骨格提言自体にも様々な反発が予想される。
だが、大切なのは世論と政治家の動向が、官僚に「良い仕事」をするための後押しとして機能してほしい、という点だ。優秀な官僚は、方向性と予算確保が示されたら、それを具体化するために全速力で駆け抜ける体力と知力を持っている。だが、この1年半の間の18回の会議を通じ、今ひとつこの部会に厚生労働省の担当部局が乗り気のように見えなかったのは、政治家の予算確保のめどが見えなかったことによる。政治家の動向が、骨格提言を後押ししなければ、政治家の動向に左右される官僚はいい仕事が出来ない。そして、政治家は、世論の風を読むことによって、政策決定をしている。であればこそ、世論が今から「総合福祉法を実現するために与野党超えて汗して働いてほしい」という願いを出し続けないと、今の財政削減あり気の論調を変えることは出来ない。
つまり、骨格提言は定まった。問題は、まさにこれから、なのである。
骨格提言がまとまった今日だからこそ、あるべき姿の実現に向けた、次の展開の課題を上記のように整理しておくこととする。

外国人介護職の受け入れ論・再考

前々回のエントリーで、外国人看護・介護職受け入れ問題について書いたところ、ASEAN関連で仕事をしている友人から、興味深いリプライがきた。ご本人の了解の上で、その意見を貼り付けた上で、ちょっと考えてみたい。

だがその前に、前々回のエントリーの要点。
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外国人介護・看護職受け入れには、次の4つの前提が、意識的であれ、無意識であれ、あるような気がする。
前提1:日本人の若者にとって介護労働は人気がない
前提2:介護労働の報酬は低い
前提3:介護労働の内容は、トレーニングさえ受ければ誰でも簡単にできるものであり、代替可能性が高い
前提4:香港や欧米では、フィリピンなどの外国人介護職を受け入れて成功している
この4つの前提を一つ一つ検討してみると、介護や看護労働は、人手不足だから、安価な外国人を受け入れたらいい、という論理は、介護や看護労働を非常に表面的に捉えて、有り体に言えば見下した視点であると僕は考える。
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その上で、以下は友人からのメール。
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介護・看護のご意見拝読しました。
正直、本当に足りないのか、日本人でまかなえないのか、よく分かりません。産業界の移民推進の議論も、よく分かりません。ただ、厚生労働省が、以下の流れを全く理解しない(したがらない)ことによって、実際にやって来た人がぼろぼろになって帰っていくのをみるのが不憫ではあります。少なくとも厚労省は積極的に受け入れる立場ではありません。
私は貿易自由化の立場から、「入れればいいんじゃないの?」派です。労働力が輸出産業の国と工作機械が輸出産業の国で貿易自由化の議論をするのであれば、当然起こりうることでしょう。「うちのものは買え、でも、おまえに優位があるモノは買わん」では商売にならない。問題は、それが国内の需要とマッチしているかどうか。インドネシアやフィリピンは、「それが日本の需要にマッチしそうだ」という判断をして、EPA交渉に臨んだわけです。介護・看護に関しては、非熟練労働者としてではなく、熟練労働者の移動として向こうはとらえているわけです(少なくともハウスメイドの輸出を認めろとは言われていない)。
日本側が、日本国内の熟練労働者としての介護・看護と同等の質を求めるのも当然でしょう。ただ、そのために難しい日本語の専門用語による国家試験を課すことが正当かどうか(不当な障壁かどうか)は別の議論です。また、熟練労働者の移動である以上、賃金に関して内外価格差があったら、これも不当な話です。ですから、前提2であったような話は本当はあってはいけない。
おっしゃるように介護は準市場の領域です。準市場、ということは、介護は公共財ではないわけです。つまり、今の日本において、介護は競争的な財として考えられています。価格が公的に決められているので、消費者は価格以外の要素に反応して選択をすることになります。自由化の議論でこの話を推し進めていくと、最終的に消費者が「介護をする人」を選べばいい、ということになります。
たけばたさんがおっしゃる、ケアのきめ細やかさ=専門性と言語は、確かに大きな課題です。看護師で言えば、インドとイギリスがやはり類似の関係にあります。看護師不足が出たときにどっと受け入れて、解消すれば帰っていただく。日本でこんなことはできない。だから、おのずから、移民論は限界のある話なのだろうと思います。
もし、人材不足が将来にわたって予測されるのであれば、報酬単価をもっときちんと上げた上で、門戸を開けばいいだろうと思います。実際に、EPAの枠ではなくても、すでに外国人は介護現場にいます。CILにもいたりします。うまくいく人もいれば、うまくいかない人もいる。現状では、消費者の「選択」が可能ではないから、たけばたさんが心配することが起きかねない。だったら、選択が可能になるぐらい選択肢を増やせばいい。そのためには、報酬単価をきちんと上げたり、外国人の給与を抑えるような行為を規制したり、そうした制度的・財政的なインフラを整えてあげる必要があります。
とにかく介護保険以降、介護を準市場の領域にして(これは厚労省)、なおかつEPA/FTAの交渉の一部となった(これは経産省)以上、積極的に受け入れるかどうかは別として、この流れは避けられないのではないでしょうか。
と、思いつくままに。。。
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経済学の修士号も持っていて、福祉現場にも造詣が深く、かつ今ASEAN諸国で仕事をしている友人(といえば誰か分かる人には分かるんのですが・・・)の指摘はなるほど、説得力がある。
そして、それに対するリプライを書こうと思っていた矢先、介護人材の不足の記事が。
「介護現場の人手不足感が再び強まっている。23日に公表された2010年度の介護労働実態調査によると、「職員が不足している」とする介護事業所は50.3%と過半数に上り、前年度より3.5ポイント増加。1年間に辞めた人の割合を示す離職率は17.8%で、3年ぶりに悪化した。
昨年10月1日時点の状況について、厚生労働省所管の財団法人「介護労働安定センター」が調査。全国の約1万7千事業所とそこで働く約5万1千人を抽出し、約7300事業所、約2万人から回答があった。
ここ数年は政府が介護職員の処遇改善に力を入れた効果で改善傾向にあったが、同センターは「景気の回復に伴い、介護よりも待遇がいい他の仕事へ転職する傾向が再び強まっているのではないか」とみている。
最も人手不足感が強いのは訪問介護の事業所で、「職員不足」とする事業所が65.9%。施設介護の事業所では40.4%だった。
離職率では、施設介護職員が前年度より0.2ポイント改善したものの19.1%と高い水準。一方、訪問介護職員は14.9%で、前年度より2ポイント上がった。
介護職員の賃金は、全体平均で月額21万6494円と前年度に比べて4062円増えたが、46.6%の職員が「仕事内容のわりに賃金が低い」と不満を感じている。事業所も過半数が「今の介護報酬では人材の確保・定着のため
に十分な賃金を払えない」としており、さらなる労働環境の改善を求める声が強い。」(朝日新聞 8月24日
さて、どう考えるべきか。
友人の指摘も、介護人材の不足の記事も、やはり先述の前提2と3に立ち返って考える必要がある。
前提2:介護労働の報酬は低い
前提3:介護労働の内容は、トレーニングさえ受ければ誰でも簡単にできるものであり、代替可能性が高い
朝日の記事では、前提2が大きな問題になっている、という。そして、この前提2の報酬という公定価格を決める国基準がなぜ低いのか、を考える必要がある。公定価格が定まっていても、例えば医師はある程度「食える」し、看護職でもそこそこの給与がある。(ただし看護で食えるのは、実は夜勤加算が大きいウェイトを占めており、公定価格自体は決して高くなかったり、また低いままに据え置くために准看護師制度が未だにある等の問題点もあるが、これも置いておく)。だがその一方で、介護職は看護職と比較してもなぜこれほど賃金が低いのか。これは、前提3と直結する。そして、この部分は、友人の次の指摘にもやはり直結するのだ。
「報酬単価をきちんと上げたり、外国人の給与を抑えるような行為を規制したり、そうした制度的・財政的なインフラを整えてあげる必要があります。」
そう。前提3を「既定路線」とした上で、低い報酬という「制度的・財政的」制約を課している限り、「報酬単価をきちんと上げ」ることなく、「外国人の給与を抑えるような行為」を規制しないまま、「やすかろう」というノリで、かつ、「前提4:香港や欧米では、フィリピンなどの外国人介護職を受け入れて成功している」ということを鵜呑みにして受け入れると、介護分野に関わる人材は、国籍を問わず、不幸になっていくのである。
そして、もう一度前提3に絡めて言うならば、外国人看護師・介護職について、ASEAN諸国はどう捉えているか、という友人の指摘を再度振り返る必要がある。
「介護・看護に関しては、非熟練労働者としてではなく、熟練労働者の移動として向こうはとらえているわけです」
実は、この視点が前回の僕の考察には抜けていたし、前提3とも通底する大きな問題である。介護・看護は「熟練労働」という考えで、我が国でも教育(現任者教育含む)しているのか、そしてそれに見合うだけの対価をちゃんと支払っているのか、という点である。
国として、介護・看護は「熟練労働である」と前提3を変える事によって、前提2の単価も自ずと変わらずを得ない。その上で、日本の若者や他職種で働く人にとって、本当に介護労働市場は魅力のない業界か、という前提1を問い直し、さらには自由貿易の観点から前提4に関して外国人労働力も「熟練労働の移動」として、国内と同一水準、同一評価基準で受け入れ、利用者の選択の幅を増やす、というのであれば、僕は何も反対する理由はない。
繰り返し述べると、前提2と3を、所与の現実とするか、その労働に対する認識不足と価値の引き下げであると見なすか、がこの問題の攻防戦だと思う。
ついでに述べておけば、特に震災以後、国債発行残高の件も併せて、歳出削減の大合唱になっている。来年度予算も1割カットという報道もなされていた。こういうと、思考の省略が得意な人は、「だから介護報酬を上げるなんて無理だ」と簡単に言う。ちなみに障害者予算の増額にも同じ思考の省略が働く。だが、これらは思考の省略である事を繰り返し述べておく。介護・介助の報酬を上げること、とか、障害者の地域生活支援の充実のための予算増、などは、目的が真っ当であるが故に、予算という方法論的制約故に止めてはならない。
予算はあくまで方法論である。その必要な予算を考えた上で、それを捻出する財源や、あるいは雇用創出などのマクロ的視点からの均衡も含めて考えなければならない。また、例えば障害者福祉なら入所施設や精神科病院につぎ込んでいる財源を地域に付け替える、などの予算の振り替え、組み替え、という名の本当の意味でのリストラクチャリングも必要である。そうしないで、ギリシャやイタリアにならないために、という安易な財政削減論は、思考の省略以外の何物でもない、とも思う。

市町職員をエンパワメントするとは?

今朝は快晴の津のホテル。今日は4年目に突入した、「市町職員エンパワメント研修」である。今年のお題は次のとおり。

「障害者制度改革にも柔軟に対応できる市町独自の障害福祉計画を作成するにはどうすればよいか-現状分析、ニーズ把握および困難ケースの対応から計画へつなげるために」
今日はその2回目の研修に当たる。
この三重の研修は、全くマニュアルがない。毎年、三重県庁のチームの皆さんと、その年毎に課題になっている内容について取り組むことにしている。一から内容を作り上げる研修である。4年前から「障害福祉計画の二期計画策定に向けて」→「相談支援とは何か」→「当事者の声を聞くとは何か、本人中心とは何か」とテーマを変えて進めてきて、今年は先祖がえりのように「障害福祉計画の三期計画策定に向けて」の研修である。
3年前からこの研修にずっと付き合って下さっている、ピアサポート三重の代表で当事者の松田さんは、いつも鋭い疑問を投げかけてくださる。
 「なぜ、当事者ではなく、市町職員をエンパワメントする必要があるのですか? エンパワメントが必要なのは、支援者ではなく、当事者ではないですか?」
答えは、半分イエスであり、半分ノーである。
確かに、支援者と当事者の間では、権力の非対称性の関係がある。つまり、支援者側がパワーを持ち、当事者はその権力行使の対象となっている。当事者の側が、それに抗い、自分の意見を言えるようにエンパワメントされなければ、対等な立場に立てない。もちろん、それはそのとおりである。
だが、支援者はエンパワメントしなくていいのか、というと、この4年間の研修で自信を持っていえるのは、その必要が大きくある、ということである。
特に市町の障害福祉担当職員は、数年で移動する。この4年間の研修で、ずっと変わっていない担当の(つまり僕がずっとお顔を知り続けている)方は、三重県内の市町でもごくわずかしかいない。みな、水道局から移動してきて、次は税務に移動する、などの移動職が多い。福祉のリアリティをちゃんとわからないまま、とにかくそれでも仕事を「こなす」ことが出来る方が、やってしまう。こなせなければ、コンサルティング会社に丸投げしてしまう。
あるいは、ちゃんとやりたくても、その方法論がわからないから、障害福祉計画をどう「引き継いでいいか困惑している」という人も少なくない。役所がやる気がない、というのは、他人事的見方だが、役所の職員の内在的論理を見てみると、「やりたくても、何から手をつけてよいかわからない」というのが実際だ。つまり、どういう風に政策立案する事が当事者の役にも立ち、意味のある仕事か、について、一定の方向性を身につけるための支援やエンパワメントを求めている人々の集まりだ、ということに、研修をしながら気が付くようになった。
今日のこれからの研修は、各市町のサービス給付率分析と、二期計画の数値目標の達成率分析から、次の数値目標を考えていただく、という高いハードル。事前課題の内容を見ていると、「給付率分析だけでは地域課題が見えるわけではない」という指摘が出されている自治体があった。そう、それだけではわからない、ということを知るというのも、研修の成果なのだ。つまり、この研修で伝えられるのは、自分の頭で数値や意味内容を分析して、実態に合った障害福祉計画を作るためのモード、に頭を切り替えていただく、批判的・分析的視点を持っていただくための研修なのである。
おかげさまで、市町の中には、そういう批判的・分析的視点を持って、取り組み始めてくださっている自治体が複数出てきた。それをどう今日はうまく支援できるか。
一日はハードだが、楽しみでもある。

「外国人介護職の受け入れ論」の陥穽

少子高齢化とケア産業の将来的人手不足、というのは、人口推計的に見えている。そして、そのときに必ず出てくるのが、「外国人介護職を大規模に受け入れよ」という論である。今朝ツイッターで流れてきたとか、企業家による誘致策とか、時折みかける。

そういう論を立てている人たちが議論しない「前提」が、むしろ僕には気になる。
前提1:日本人の若者にとって介護労働は人気がない
前提2:介護労働の報酬は低い
前提3:介護労働の内容は、トレーニングさえ受ければ誰でも簡単にできるものであり、代替可能性が高い
前提4:香港や欧米では、フィリピンなどの外国人介護職を受け入れて成功している
これは介護を看護に入れ替えても、ほぼそのまま通じる「前提」である。だが、僕にとって、この4つの前提全てが疑わしく感じる。
前提1について
→私は政治行政学科に所属しているが、今週末のオープンキャンパスや、入試の際などで、毎年多くの受験生に接している。我が学科は公務員合格率が高く、全国の公務員志望の高校生が受験希望をしてくれるので、必然的に彼ら彼女らと話すことが多い。
 そして、公務員志望の子たちに「なぜですか?」と聞くと、しばしば「地域(他人・社会・・・)の役に立ちたいから」という答えが返ってくる。その際、マーケットリサーチもかねて、「では、介護職でも役立てるのではないですか?」と尋ねると、多くの場合、「介護職は給料が低いから」という前提2の答えが返ってくるのだ。で、にわかリサーチャーとしては、当然「では、公務員並みとか、それに近い給料が保証されたら介護職でもいいの?」とたたみかけてきく。すると、少なからぬ学生が「それならばそっちでもいい」と言い出すのだ。
 特に産業の乏しい地方の市町村出身の学生が、地元に残ろうとしたときに一番堅い仕事が「公務員」というのが現状らしい。逆に言えば、「介護職」を手堅い仕事にしてしまえば、彼ら彼女らはその職に残りたい、というのである。つまり前提1は前提2を前提にする限りにおいて、前提になるのである。
前提2について
→介護職の給与が低い。これを所与の前提にする論者の少なからぬ数は、介護職が、賃金価値の低い労働であるという前提に立っているような気がする。だが、これもオカシイ。なぜなら、高齢者介護は半分保険料で半分税金、障害者介護は税金、どちらも公定価格で決まっている準市場なのだ。医療同様、自由競争で価格が決まるのではなく、基準単価が示されている業界だ。そして、その基準単価が、医療も含めて、低く抑えられているのが、我が国の特徴だ。
 裏を返せば、この基準単価を上げれば、この前提はひっくり返る。ということは、政府だけでなく、外国人介護労働者の積極受け入れを勧める論者は、この単価をいじりたくない、という考えを、無意識的にしろ、持っている。そして、それは前提3につながる。
前提3について
→私は外国人差別をするために、これを書いているのではない。ただ、外国人介護労働者の積極受け入れ論者に共通するのは、介護労働は肉体労働であり、誰でも出来る、代替可能性の高い、簡単なものだ、という共通認識がある、そのことについての違和感である。
 確かに、ヘルパーの資格なら、短時間の訓練を経て、割と簡単にとれる。だが、実際の介護の仕事は、やり始めたら非常に奥が深い仕事である。確かにベルトコンベア式にご飯を食べさせる、おむつを交換する、お風呂に入れる、という集団管理型一括処遇なら、あまり頭を使わずに出来るだろう。だが施設でもユニットケアが叫ばれ、個別のニーズに基づく介護・介助が重要視されるようになってきた。これは、標準化されたケアではなく、個別のニーズや介護者と当事者の関係性に基づくケアへの転換、を意味する。(医学モデルから社会モデルでの転換でもあるが、その細かい説明は今は割愛)
 ケアを受ける側の思いや願いをくみ取りながら、関係性を構築しながら、毎日同じケアを繰り返しているようでいて、どのような支援をすれば、昨日よりよいよいケアが出来るだろう、本人の想いや願いに近づけるだろう・・・といった事を試行錯誤する、毎日が発見とカイゼンの塊のような仕事でもある。それをしていない単純労働の現場が少なくないのは、それはその現場の介護職が質の低い仕事をしているからであり、本当に質の高い介護・介助労働をしている人は、一般企業で働いている人と同じような、時にはそれ以上のクリエイティビティを発揮して働いている。
 そして、その際に、対人直接支援であるが故に、ケアを受ける側の言葉を受け止める技術が、実に大きな要になってくるのだ。これが前提4につながる。
前提4について
→例えばフィリピン人の介護士・看護師は英語を話せる。だから、英語が母語の国では受け入れられやすい。だが、日本では日本語がネックになっている。ゆえにそれを訓練せねば。あるいは看護師の試験なら、難しい褥瘡などの専門用語を出すと外国人に不利になる。そういう議論がなされる。
 でも、問題はそんな表層的な事ではない。ケア業務は、相手の機微を読み取って、それに反応する仕事である。機微を読む、というのは、論理的表現としての言葉、だけでなく、言葉の奥に隠されたものや、何気ない雑談中の一言、あるいは言葉に出さない態度や表情、などからケアを受ける側の想いや願いを受け止める、ということである。その際、ケア提供者側には、言語に関する感受性の強さと、表情や態度などを読み取る、文脈読解能力の高さが求められる。「ご本人は本当は何が言いたいんだろう?」「どんな思いをうちに秘めているのだろう?」 そういった機微を想起し、読み取る力が求められているのだ。ここには、高い言語運用能力が必要なのである。
 僕は別に特定の人種を悪く言うつもりはない。ただ、スウェーデンでも移民労働者が介護職に入っているが、スウェーデンの文化を共有していない為、例えばクリスマス、あるいはザリガニパーティーなど、その文化固有の記憶に基づいたケアが出来ない、というのを聞いたことがある。日本で言えば、秋田弁をどこまで共有しているか、とか、なまはげや盆踊りなどを共時的・共感的に理解出るか、とか、集合的記憶としての「ふるさと」感が似ているか、などが、機微を読み取るケア、ケア対象者と共に新たな関係性を作り出していくケア、の一つ一つの内容に、大きく繋がっているのだ。それらのニュアンスが、文化や習慣の異なる人と、簡単に共有できる、とは思いにくい。
介護看護の労働は、量の側面だけがクローズアップされがちだが、介護や看護を受ける側にとっては、質の面も非常に大きな問題であり、外国人受け入れ論者は、量だけをみて、質を見ようとしない。自分は有料老人ホームで質の高いケアをうけるからいいじゃんね、とでも思っているのだろうか・・・。
この4つを考えた時、介護や看護労働は、人手不足だから、安価な外国人を受け入れたらいい、という論理は、介護や看護労働を非常に表面的に捉えて、有り体に言えば見下した視点である、という点をご理解頂けるだろうと思う。
ではどうすればいいか? その昔、内需拡大が叫ばれたが、僕は介護や看護労働の教育の質を(特に現任者も含めて)上げることと、賃金をある程度の額上げること、をすることが、単に若者の失業率の低下だけでなく、地方の若者離れや限界集落問題もクリアする特効薬なのではないか、と夢想している。

タイでの結婚式参列

バンコク、なう。

友人の結婚式に出席するため、タイにやってきている。週末はカンボジアとの国境まで15キロのシーサケット県の農村まで結婚式に出かけた。
その友人とは、5年前のバンコクのワークショップの場で初めてゆっくり話し始めるようになり、以来私的な勉強会や公的なお仕事などで議論を重ねる仲間となっていた。彼は昨年からタイに仕事の場を移し、今年その職場の同僚と晴れてゴールイン。そして、奥様のご実家で挙式および披露宴をする、ということで、5年ぶりにタイに訪れたのだ。何たる奇縁。
お盆の飛行機はめちゃ高かったが、タイの結婚式に参列するチャンスなど、おそらくこれを逃すと全くご縁がないかもしれない。だが、出かけてみて、実に良い結婚式であり、足を運んだ甲斐があった、と実感する。
結婚式は土曜日なのだが、朝7時半にホテルに迎えが来る。8時前に彼女のご実家に着くと、もうお坊さんがお経を上げいる。そして、家の前の縁側(という割には駐車場の広さのある空間)では、お供えをするお米をよそう儀式が参列者により、行われている。以後、僕もよくわからないまま、そのしきたりに従うのだが、日本との相違が非常に興味深かった。
まずは8時半からの「パレード」。これは村のメインストリートを、新郎側の親戚や関係者が音楽隊を引き連れて練り歩き、踊る、というもの。津軽三味線の音階を陽気にしたような、小太鼓やギターの音色に合わせて踊り、叫びながら、会場までゆっくり行進する。村の皆さんにお伝えする儀式のようだ。しかし、これは日本でも同じような「花嫁行列」があった、という。そういえば同僚のM先生も婚礼の際に同種の行列をされた、とおっしゃっていたことを思い出した。音楽の音階といい、なんとなくアジア的共通項を感じる。
そして、仏式結婚式。村の在家信者兼お世話役のおじいさんがマイクを片手に儀式を進めていくのだが、このあたりも、見たことはないのに「昔懐かしさ」を感じる風景。田舎の集会所での冠婚葬祭、というイメージを持っていただければ、大体当てはまるような場所で、儀式は進んでいく。その中で、サンスクリット語でお経を読んでいるとき、「ガッチャーミー」という懐かしいフレーズを聞いた。そう。僕の高校は東寺のそばの仏教高校で、毎月一度、三帰依という歌を歌っていた。それが仏法僧という三つへの帰依(ガッチャーミー)だった、と歌を聴きながら思い出す。このあたりも、仏教国の共通点だ。
さらに、結婚式の後、いったんホテルに戻って、夕方からの披露宴パーティー。地元の高校の講堂(という名の、屋根だけの吹き抜けの場所)で400名規模の大パーティー。近親者だけでなく、ご両親の親類や知り合いも含めた、大規模なパーティー。村や地域へのお披露目、という意味合いも込めていて、日本でも大家族的な色彩があった時代には、きっと規模は違えど、近所の寄り合いがみな集まるような会合だったんだろうな、と想起させる内容であった。
もちろん、違いもいろいろある。
たとえば結婚式の儀式の際、1000バーツ札を100枚!くらい重ねてお盆に載せ、それを持参金的儀式として見せる、という内容がある。あるいは、豚の顔の丸焼きが奉納される。参列者が新郎新婦の手に水をかける。ご祝儀は招待状の入っていた袋に入れる。・・・などなど、仏式結婚式のディティールは、日本とは大きく異なる。
だが、村全体、コミュニティ上げてお祝いしよう、という姿勢や、その中で持参金を持ってきて「妻をいただく」という儀式など、実にアジア的汎用性を感じる結婚式であった。

「底」の向こう側にあるもの

学生の夏休み期間は、ようやく研究にも時間がとれる。自由に本が読める。その間に、仕事の間には手に取りにくい、射程の広い本に出会って自分の思考と視野の範囲を広げておかないと、気づいたら狭隘な自家薬籠中の世界に幽閉、いや自縛してしうことになる。

と、前置きはもったいぶるが、引っ越して本棚を入れ替えたから、手に取りやすい位置にあった一冊。今だからこそ、強い感応をした。それは第一次世界大戦時のあるエピソードから。
「そのときに、レーニンはベルン図書館で、ヘーゲルの研究をはじめたのだ。『大論理学』『エンチクロペディー』『哲学史講義』・・・彼は、深く、深く『後退』した。より強く矢を射放つために、弓をいっぱいに引きわたるために、彼はマルクスをこえて、その思想の生みの父であるヘーゲルに、深々と入り込んでいったのである。なぜこのときに、ヘーゲルだったのか。レーニンはこの危機のときに、マルクスのしたことを模倣してみることで、突破口を見出そうとしたのだ、と私は思う。(略) レーニンは、このマルクスの創造の行為を再現することで、最大の思想的危機に、立ち向かおうとしたのだ。『資本論』を創造しているとき、マルクスの前には、広大な未知が広がっていた。そして、いまレーニンの前に広がっているのも、未知なのである。世界大戦発生という新しい事態に立ち向かうための、出来合いのマニュアルなどなにもなかった。彼は、それをはじめから、自力で作り出さなければならなかった。その創造のときに、彼はヘーゲルにまでたちもどることによって、マルクスの創造の身振りを、再現しようとした。」(中沢新一『はしまりのレーニン』岩波現代文庫、p69-71)
レーニンは、第一次世界大戦という自らの「思想的危機」を前にして、「深く、深く『後退』」することを選ぶ。最前線に出られない亡命環境にあって、なおかつ自身の「危機」とも戦うために、「より強く矢を射放つために、弓をいっぱいに引きわたるために」図書館に閉じこもるのだ。一見すると「世間の喧噪から隔絶された」図書館の中で、「弓をいっぱいに引きわたる」ことを通じて、自らの思想的危機を乗り越え、次の闘いのための準備に没頭する。僕の頭には、『獄中記』を書いた佐藤優氏の東京拘置所時代の姿が重なる。ロシア外交分析のスペシャリストの彼だから、きっとこの本も読んでいたのかもしれない。「弓をいっぱいに引きわたること」としての膨大な読書とそのノートが、出獄後の作家、佐藤優氏の仕事の大きな基板になっていることは、あまりにも有名なエピソードだ。
横道にそれたが、レーニンの話。
レーニンが「ヘーゲル研究」という「マルクスの創造の行為を再現」することで、「マルクスの創造の身振りを、再現しようとした」というフレーズが、深く身体に染みこんでいた。それも柔道場で。
ちょうど当該箇所を読んでいた日曜日の夕方、いつものように合気道の練習に緑が丘の武道場まで出かける。蒸し暑い道場のなかで、汗だくになりながら両手取りの二教を練習している時に、ふと頭に浮かんだのだ。
「なるほど、これは、あれか」と。
このブログに最も多く引用されているのは、思想家の内田樹氏のフレーズであることは間違いがない。彼の「商業デビュー」が2001年頃だと思うが、その直後から読み始め、以来貪るようにほぼ著作のほぼ全てを読んでいる。池田晶子と村上春樹と内田樹だけは、とにかく全部読む、という事にしているくらいだ(村上春樹に至っては、ついに全集まで買ってしまった)。内田樹氏には、フランス哲学やレヴィナス研究者という顔だけでなく、映画評論家として、そして合気道6段という武道家としての顔を持っていた。僕は映画はほとんど見ないので、彼の映画評論は面白いのだが、内容はあまりわかっていない。同様に、合気道もしていなかった当時は、彼の身体論は「想像」の範囲を超えることはなかった。
だが、ちょうど一緒に働いていた県庁の職員の方が合気道有段者であると知り、その方の勧めもあって、2年前から道場に通い始める。内田樹氏の思想に近づきたい、という想いも勿論あったが、その当時、いろんなことで煮詰まっていたので、それを打破する為にも、そしてダイエットのためにも、自分を変えたい、という衝動から、始めたのだった。始めた当初の理屈っぽい感想がブログに綴られているが、このときに感じたのは、身体で感じる壁と、それを乗り越える楽しさだった。自分の至らなさ、出来のわるさ、煮詰まり感を、身体を動かす事によってフィジカルに感じ、それを練習というプロセスを通じて一つずつ、型を身につけ、身体で理解し、乗り越えていく。そういう「模倣」としての合気道の体系にはまっていくなかで、内田樹氏の言葉が文字通り身に染み渡るのである。レーニンは、「ヘーゲルにまでたちもどることによって、マルクスの創造の身振りを、再現しようとした」。これは、次のようにパラフレーズ出来るのではないか。
僕は、合気道にまでたちもどることによって、内田樹氏の創造の身振りを、再現しようとした。
実はこのパラフレーズの仕方自体、内田師から学んだ骨法であり、よく見れば僕の文体の多くは彼から「真似びて(=学んで)いる。でも、道場で汗だくになりながら練習している合間、ふと浮かんだのだ。なるほど、レーニンと僕は、同じ事をしているではないか、と。そう思うと、自分の思考回路が開かれてくるような気がし始めるのだから、不思議なモノだ。
「新しい事態に立ち向かうための、出来合いのマニュアルなどなにもなかった。彼は、それをはじめから、自力で作り出さなければならなかった。」
これは、僕が感じていた煮詰まり感、とも共振する。僕の場合は思想的危機、とまではいかないが、2年前の段階で、本当に手詰まり感を強く感じていた。大学の准教授、という社会的役割に何となく適応してしまっている自分。しかし、それは役割期待(=という名の常識や同調圧力)への適応であり、自分が構築していく何かではないので、ぴったりフィットする訳ではない。現場で様々に「なんか違うなぁ」と感じることがあっても、それをオルタナティブな対案として提示できないもどかしさ。それは論文や学会に対する違和感に対しても感じていたのだが、何とも出来ない未熟さ。そういうった煮詰まり感を前に、「出来合いのマニュアル」に頼れないことを、思い知らされていた時代でもあった。
だからこそ、「自力で作り出」すためにも、レーニンはヘーゲルという型を、僕は合気道という型を、一から学び始めた、とも言えるかもしれない。大いなる「型」の世界と格闘する中で、自分が未開発だった、思い描くこともなかった何か、をつかみ直す。それがマルクスや内田樹という、自分が出会っていないのに「一方的に師事」する偉人に近づく為の、命がけの跳躍の手段だったのだ。それは「身振り」を真似ることを通じた、文字通りの「フィジカルな格闘」の中から、だからこそ、気づく何か、なのかもしれない。そう言えば、僕も合気道を始めて二年たつが、合気道の面白さにはまり続けると共に、内田樹氏の言わんとすることが、以前よりも深く、理解できるようになってきた(気がする)。
と、自分に引きつけ始めたら、本の紹介などほとんどそっちのけになってしまったが、もう一カ所、どうしても引用しておきたい部分がある。
「言葉が意識に『底』をつくりだし、そこからガイストが生まれるように、商品が資本主義の『底』」であり、『細胞』であり、そこから資本主義のガイストが発生しているのだ。(略) 商品社会のコスモスにたいして、まるで違和感をいだくことのない意識には、資本主義社会についてのこういう分析をできないし、またできたとしても、そんなことはたいして意味をもたない。そういう意識は、いってみれば、商品という『底』の内側にいても、そのことに気がつかず、自分たちの意識の『底』をつくっているもののむこうに、異質な運動をおこなうリアルが実在することを感知できないのだ。ところが、マルクスの知性は、商品社会のその『底』をはっきりつかみだそうとした。彼の精神は、商品の『底』のむこう側にひろがっている、異質なリアルの実在を、たしかに感じ取っていたはずだ。」(p179-180)
この資本主義分析は、以前のブログで触れた「現象学的還元」のプロセスとよく似ている。
私達は言葉や商品に、ごく当たり前に接している。このあまりのごく当たり前さに対して、言葉とは何か、商品とは何か、という事を考え出したら、頭の中が溶けそうになるので、普通はしない。でも、だからこそ、言葉や商品が「底」となり、その背後にある何かにまで思い至らないような仕組みが構築される。言葉を産み出す意識全体、商品を生み出す資本主義全体への疑いへの「蓋」として、「底」が機能し始める。すると、それは言語中心主義、商品中心主義の内在化を引き受けることであり、そこから生じる様々な歪みも結果的に引き受けてしまうことになる。
その「底」の向こう側に、何があるのか。言葉や商品という中心対象ではなく、その背景野としての「意識」や「資本主義」に眼を向ける。この現象学的還元の方法論を通じて、マニュアルなき「意識」や「資本主義」、「構造」分析を行ったのが、フロイトやマルクス、レヴィ=ストロースなどの知の巨人であり、中沢新一氏も、内田樹氏も、この三者との格闘を通じて、自らの思想的基盤を構築してきた。
そんな連関の延長線上に自分自身も位置づけられるのかもしれない。そう思い始めた夏の日の朝であった。

メガネの構造と方法序説

この夏は、自分のメガネの境界、だけでなく、自分のメガネの背景野そのものを眺めようとしている。だから結構頭を使う。

大学の紀要でこの夏、一本論文を書くことになっている。学科20周年特集号で、所属教員全員が、2万字で何かを書け、ということになった。
この夏、もう一本論文を書いているので、計二本、8月末締め切り、というスケジュールである。しかもその一本が、このブログに7月連作した内容を元に「枠組みはずしの旅」と題した内容にしようとしている。ようやく昨日初稿を書き終え、今はしばしの「寝かし中」。
で、今日からようやく正式にその紀要論文に取り組むことになったのだが、あと20日強! 一番安直な手段としては、以前に書いた未公開論文や報告書の焼き直しを行うこと。確かに、一本該当する論文は、あるにはある。だが、「生きている時間は長くはないのに、お茶を濁すような文章を書いて、時間を無駄にしたくない」と思い始めている。あるいは、いつもアドバイスを下さる学科のM先生に相談した際に、「もうD論も書いたんだから、もう少しノビノビ書けばいいじゃん」と背中を押されたことも、大きい。
僕は、査読論文の数こそ多くないものの、決してアウトプットの量は少なくはない。いろいろな現場で調査をしたことは、なるべく活字に残しておきたい、と思い、あれこれ書いてはきた。その時々に必要なことを、あるいは求められた内容を、その当時の自分なりに努力して書いてきた。だが、最近その書くスタイルに限界を感じている。どう表現していいのかわからないのだが、簡単に言えば、文章スタイルの脱皮を模索しているのだ。
もともとこのブログが、その文章スタイルの模索の場として機能してきた。だから、実験的に小難しい文章をこねくり回す機会が少なくない。(いつも読んでくださる方、すいません)
ただ、こないだの連作を書いて、それを論文に直す作業をしながら感じていたのだが、自分の感応した直観や経験した何かの「類同性」を、既成の何かの文脈や理論の中に無理やり落とし込むことなく、その「類同性」から立ち上がる何か、を文章化したい、という思いだ。それは、ちょうど前々回のエントリーで紹介した本から触発されたことでもある。
「私達が言語表象化出来るのは、さまざまなレベルの小さな全体-変動し続ける細部-の変動に現れる同一性を帯びた位相的類同性だけである。この位相的類同性を指標に、私達はある細部をひとつの全体として感受し、言語表象化することができる。」(石田秀実『気のコスモロジー』岩波書店、p323)
論文という形でまとめることは、ある一定の世界観なりコスモロジーの表明である、と今なら思う。だが、以前書いてきた論文の中で、どれほど「コスモロジー」を意識していただろうか。流動変化する世界を、その流動変化の本質が内包する「位相的類同性」を損なうことなく表現しようとしていただろうか。いや、今までの文章は、自分が理解できる範囲内での因果論に無理やり押し込めてはいなかったか。出来合いの因果論のコスモロジーに矮小化してはいなかったか。
「対象化した事物相互の間に、原因-結果の関係や、際限なく分けられる二分割過程、さらには事物をつらねる物語の網の目、といった関係性を設定しないと『分かったことにならない』と思ってしまうのは、『私-表象の心』のくせ、あるいは先天的病気なのかもしれない。」(同上、p126)
海外調査のレポートが「隔靴掻痒」に感じるのは、実はこのあたりだ。ある程度集められる文献を読み込んで、現地でインタビューをしながら確認しても、結局積み上げられる因果関係は、こちらの少ない情報(偏見)に基づいた範囲内でしか、ない。もちろん、それでもそれなりのストーリーは導き出せるし、その中での知見もある。だが、ある程度時間をかけて、その流動変化する全体を掴んだ上での記述でないと、書いていてわくわくしない。そのわくわくしなさ、は陳腐な因果論のコスモロジーに矮小化すること、と思えば、今なら大いにうなづける。なるほど、現場の流動変化する何かを、その位相的類同性を立ち上げる形でのコスモロジーなり体系化、構造化ができていなかったのだ、と。
だが僕だって、全くそれができていなかったわけではない。以前、半年間スウェーデンに暮らしていたときのレポートは、今から思うともう少し書きぶりは別にあるのでは、とも思うのだが、内容としては満足いっているのは、その当時、かなり時間をかけて、じっくり問題に向き合って、現場から立ち上がる「類同性」を看取し、自分なりのコスモロジーを小さくとも立ち上げようとしたから、だろう。
今回、紀要論文としてこれから書こうとしている内容は、少なくとも、ある現象を原因-結果の安直な物語で語る何か、ではない。そうではなくて、僕が見てきた現場、書いてきた内容、かかわった関係性の中に、どういう共通の要素があり、自分自身がその現場にどう向き合い、そこから何が見えてきたのか、の、自分なりの「方法序説」的な何か、である。自分には何が見えて、何を見ようとしてこなかったのか。どういうアプローチは得意で、不得意なのか。自分のメガネの偏りはどんな特徴を持っていて、捉えやすいものと、見失いやすいものは何か。そういった、自分の認知の偏り自体の記載、メタ認知的な何か、を気がついたら書こうとしている。だから、文体に迷い、今日は結局一行も書き出せなかった。(ま、夏バテもあったのだけれど)
「福祉現場の構造に関する現象学的考察」
そう、仮にタイトルをつけている。何かが立ち上がってくる予感はしている。でも、予感を実感に変えるために、自分の内奥に耳をもっと傾けなければならない。あなたは何を聞いて、何は聞かなかったのですか。あなたの感じるセンサーが取り上げたものと、取り上げてこなかったものは何ですか。
いつもは現場の誰かにインタビューしている。学生に問いかけている。でも、問いの対象は、ほかならぬ自分自身。書き手のタケバタは、調査対象者の竹端に鋭く迫らねばならぬ。だが、その迫り方を、ほかならぬ対象者も熟知している。だからこそ、下手をすると自己撞着になりかねない。ゆえに、そのメガネの境界を辿るような、単純なレトロスペクティブではない、深堀をしないと、書き手も対象者も、飽き飽きしてしまう。
自分についての論及で、新たに自己発見することの難しさ。
しかし、その作業を通じて、自分自身が思っていなかった・気づいていなかった何か、が立ちあらわれてくる内容でないと、自分自身が書いていてわくわくしない。ストックフレーズにまみれた、これまで使い古したレトリックでは、書いている自分自身が幻滅してしまう。生きている時間には限りがある。紀要であってもパブリッシュされる何かであれば、未知の世界に通じる穴を開けるような、そういう試みは忘れたくない。
自分自身のメガネの構造を分析する中での、方法序説。井戸の底を抜く作業。
思っても見なかった別の世界に出るために、一歩一歩、井戸をせっせと掘り続ける。どこにたどり着くかは、わからない。でも、穴を開けた先に、今より少しは見通しのよい、少しは色鮮やかな世界に出会うために。

江里ママは社会起業家

ある本を読んでいて思わず引き込まれるのは、想定したジャンル・内容を裏切られる意外性や面白さがあったときだ。たとえば仕事柄、福祉の本に目を通すことは多いが、福祉業界の「想定内」のことが書かれている本には、正直そんなに感動しないし、読み飛ばす。場合によっては目次だけ眺めて終わり、だったりする。それが5000円とかする本なら泣きそうだが、そういう高い本に限って「目次で終了」だったりする。
今日ご紹介するのは、それとは全く間逆の一冊。狭い意味での「福祉」の本として読むと「想定外」だった気付きをいただく本を、しかも著者から贈っていただいた。
「障がいをもつ子どもを地域の普通学級で育てると、発達をあきらめたり、必要な教育が受けられないと思ったりしがちではないでしょうか。私たちは、『普通学級で育てることが、何かをあきらめることではない』と、はじめから考えていた気がします。何かをあきらめたり、失ったりするのではなく、『地域のなかでともに育ち学ぶために必要なものをすべて用意していく』という発想。『そのためには、どう動いていったらいいのか?』と考えてきました。」(西田良枝『ひとりから始まるみんなのこと-<パーソナル・アシスタンス とも>の実践』太郎次郎社エディタス、P28-29)
日本社会では、障害のある子は特別支援学校に行くことが「当たり前」になっている。小学校に上がる段階で就学前検診を受け、障害があるとわかれば、その障害者向けの学校に振り分けられることが「普通」になっている。もしも「普通学級」に行くことを望めば、最近は行ける場合も出てきたが、それでも特別な支援が受けられず、両親が付き添ったり介助をすることが求められる場合もある。医療的ケアの必要な人はなおさらハードルが高くなる。
そんな日本の福祉・教育業界のこれまでの慣行や「当たり前」に真正面から挑んできたのが、西田さんであった。原因不明の代謝異常による脳障害を持つ江里さんの母親になることによって、西田さんは様々な当時の「常識」とぶつかりはじめる。先ほどの就学前検診も、そのひとつだ。ただ、それに対する西田さんの対抗策が実に興味深い。
「『子どもの権利』として、行きたい学校に行かせてほしい、地域のみんなと分けられることなく一緒にいたいよ、と。みんなと一緒の場で教育を、言い換えれば発達の保障をしてほしいのです。そして、ひとつの具体的な結論が出ました。就学時健康診断を受けないことで、就学指導委員会を通らずに入学をしようと。(略)私たちの理屈はこうです。就学時検診にはふたつの要素がある。ひとつは健康診断。私たちの子どもは何らかの理由で医療につながっている子どもが多く、健康診断が必要なら、自分たちの主治医に診てもらい診断書を出せばいいだけです。就学時健康診断のもうひとつの要素は、知的な遅れを発見する場、イコール文部省(当時)の考える『適切な』就学の場への振り分けの機能です。少なくとも私たちは自分の子どもの状態は理解したうえで選んでいるのですから、振り分けられる必要はない。」(同上、p73-74)
就学前健康診断という文部省が用意した「枠組み」。その必要性や根拠について分析し、実質的に機能が担保される部分(診断書)と選別や差別につながる部分(振り分け機能)を峻別し、両者への対応を適切に示すことによって、当時の常識の枠組みの無効化を無意識的に勝ち取っていく。こう書けば小難しいけれど、江里ママが他のママたちと立ち上げた<浦安共に歩む会>の中で勉強する中で、「何かおかしい」「納得できない」という素朴な気持ちを、「どうせ」「しかたない」と諦めたり腐らせたりすることなく、あくまでもひたむきに取り組んでくる中で、たどり着いたひとつの戦略。そして実際に交渉術に長けたパパなどの協力もあって、それを実現してしまう行動力。
そうやって西田さんの実践を読み進めるうちに、この本は「お涙頂戴ものの障害者家族の奮闘記録」などではなく(とはいえぐっと泣きそうになった箇所は何箇所かあったが)、あるミッションに出会った一人の社会起業家の、社会変革の記録である、と気付き始めた。そういう視点で見てみると、西田さんは、これまでの教育・福祉の枠組み自体を問題にし、それとは変わるオルタナティブを提起し続けてきたことが、この本の随所にあふれている。
「いくら『市役所に要望を出す』といっても、会議になれば議論になります。自分たちが何も知らずにいるのは、あまりにも主体性がなさすぎます。いまある制度をはじめとする現状をそのまま『ありがたく受けるだけ』ならば、会の必要性はありません。悩みは持たずに解消です。『文句を言わずに暮らすだけ』です。けれども、私たちが望むのは、この子どもたちが『障がい』という理由だけで、みんなと同じように暮らせないのなら、『そこは変えていこう』とするものです。趣旨を実現するためには、自分たちが考え、勉強し、提案し、当然、人任せではなく、自分たちも動かなければいけないと思っていました。行政と話し合うにも、『こうしてほしい。そのためには、こうやったらできませんか?』とか『このようなものをつくってもらえませんか?』と、私たちの願いをより具体的に提案する必要があるのです。」(p56)
問題を解決するために、要求反対陳情を行う、というのが一般的だったその当時に、西田さんたちは単に要望書ではダメだ、と気付いた。お願いをするだけで、行政と対等な関係ではない。「ありがたく受けるだけ」の受身ではなく、自分たちが「主体性」を持って、「変えていこう」という趣旨を実現するためには、「人任せではなく、自分たちも動かなければいけない」。そのためにも「自分たちが考え、勉強し、提案」する。こう書けば実にごく当たり前のように見えるが、問題を抱えた当事者が、行政に「要望」することは当たり前でも、その枠組みにとどまるならば、要望が実現されたら『ありがたく受けるだけ』の形に戻る事になる。だが、「私たちが望むのは、この子どもたちが『障がい』という理由だけで、みんなと同じように暮らせないのなら、『そこは変えていこう』」という主張は、その枠組み事態への捉えなおしといえる。就学前健康診断を受けない、というのと同じように、障害を理由に平等な暮らしが出来ない理由(=教育委員会による枠組み)自体に疑問を呈し、おかしければ変えていけばいい、というのである。しかも、理念や運動、理論が専攻したのではなく、「これって変」という当たり前の母親の感覚から、枠組み自体を鵜呑みにせずに捉えなおす営みが進んでいく。
この枠組みの捉えなおしは、たとえば江里さんが林間学校に行くときをめぐるエピソードにも現れている。
「学校との話し合いのなかで、親の私には否定的な発言に聞こえることもありました。たとえば『江里ちゃんは山登りは無理なんじゃないか』『鍾乳洞には入れない。別のプログラムを考えるのはどうか?』など。けれども、その一つひとつにどんな気持ちが含まれているのかに注目して聞いていくと、障がいのある人とともに学ぶ経験の少なさ、責任感や管理体制、不安感が先生方のなかにあってそれらの発言になっていることがわかりました。それならば、先生方がしり込みしてしまったり、無理だと思うことを超える具体的な提案をすればよいのだと思いました。」(p134)
私たちは何かを否定されたときに、「どうせ○○だから無理」「仕方ない」と諦めるか、「それはおかしい」「許されない」と批判や反発を強めるか、の二者択一に陥ることが多い。だが、その二者択一は、否定の根拠まで辿ることなく、表面的な「否定」への、表面的な対応になってしまうかもしれない。その際、否定の発言の背景にある、相手側の内在的論理へと思いをはせることがないから、感情的な反発・諦念に終始する。それをもう一皮めくって、否定の裏側にある気持ちに注目して聞いてみると、「障がいのある人とともに学ぶ経験の少なさ、責任感や管理体制、不安感」という背景要因、先生方の思いの本質にたどり着く。では、その本質を捉えなおすような「具体的な提案」をすることによって、表面上に現れる否定要件を覆すことができるのではないか。そこからエアタイヤで山登りが出来る車椅子を用いる、などの具体的な方策を用いることにより、親の付き添わない2泊3日の林間学校を実現させたのだ。そして、この両親の枠組みへの問い直しは、江里さんにも伝播する。それは林間学校の翌日のことだった。
「翌日は、代休。江里と二人で家でゆっくりしていると、江里の様子がおかしいのに気がつきました。いままでに見たこともないような顔をして、ずっと考えているようでした。二泊三日、初めて家族以外の人と過ごした強烈な林間学校での体験を整理していたのでししょう。夕方まで考え込んで、やっと整理がついたようです。(略)どんな障がいがあっても、体験や経験が人を成長させるのだと思えた瞬間でした。親や介助者の都合でそれらを決して奪ってはいけないと思えて瞬間でもありました。」(p139)
江里さんの中で感じた、強烈な林間学校での体験。家族といることが当たり前、それ以外の暮らしの経験がなかった江里さんにとっては、おそらく世界観の転換、というか、常識の意味づけそのもののコペルニクス的転換だったのではないか。重い障害があっても、体験や経験がもたらす内的世界の変容は、同じようにもたらされる。であれば、その機会を他者の「都合」で奪ってはいけない。教育や福祉の専門家、行政担当者は、自らの枠組みや都合に固執するあまり、「○○だから無理」とその体験や経験、変容可能性のチャンスを奪うことが少なくない。それは江里さんの成長可能性を奪うことに直結する。それだけはダメだ、という西田さんの思いは、後に彼女が事業所を立ち上げた後も、きっちりとした柱として提示される。
「相談者や支援者にありがちなのは、『私がつくった』『自分がやった』というような発想。『ぼくがこういうふうに療育したから、この人は問題行動がなくなった』『私の最新手技でリハビリしたから、こんなによくなった』・・・、たしかにそれはそうなのでしょう。けれどもそれを施した人だけのお手柄にはしてほしくないのです。コントロールするのは全部私たちで本人は受け身、という関係性になっていないか、そんなふうになりやすいということを理解しながらケアに臨んでほしいと思っています。そうしないと、うまくいけば『支援者のおかげ』で、そうでなければ『障がいのせい』という構図からは抜け出せません。私たちは”黒子役”。本人が主体的に生きていけることをサポートしたいと思っているのですから。」(p212-213)
“黒子役”と自称する専門家は多い。だが、その実態は「うまくいけば『支援者のおかげ』で、そうでなければ『障がいのせい』という構図」から抜け出していない支援者は、決して少なくない。権力の非対称性が多い支援現場では、支援者が支配的、ひどければ全能感に浸り、利用者をコントロールする場面も、僕自身も垣間見てきた。西田さんも、江里さんへの支援者の接し方をみながら、そういうことを痛感してきただろう。だが、この本に通低するのは、その「全能者と受身」の関係性は「おかしい」といい続ける西田さんのスタンスだ。あくまでも当事者が主体的に生きることをサポートするためには、支援者の支配的アイデンティティ強化の枠組みを捉えなおすことを、支援者自身が行わなければならない。僕はこんな風に感じた。
社会起業家は「生産様式の革新ないし革命化」をもたらすといっているのは、かのシュンペーターである。西田さんたちの浦安の取り組みも、障害者への慈善・恩恵的な支援(支配)のあり方を革新し、あくまでも当事者主体として支援体制を作ることによって、どんなに重い障害がある人でも、人間的成長や経験が出来るように支援すべきだ、という枠組み(=生産様式)の捉えなおしと、それを事業として成立させることではなかったか。
「ひとりから始まるみんなのこと」。このタイトルは、西田さんのミッションそのものであり、そのミッションに基づく社会変革をしてきた西田さんの歩みそのものだと、読了後に改めて実感していた。

「私ー表象の心」を超えた何かに出会うために

7月末の東京出張時、松丸本舗でなんとなく「感応」した一冊の本が、今日のキーブック。

「脳は『変わり続ける事象』を、『変わり続けるままに』把握することが苦手である。脳は、変わり続ける事象が、ある位相をとった形で停止させ、その静止形があたかもかわらずにいつまでも続いていて同一なままであるかのように、概念表象を作る。」(石田秀実『気のコスモロジー』岩波書店、p117)
福祉現場で生起するメゾレベルの事象、例えば組織内の構造的問題が支援内容に与える影響や、行政からコミュニティ組織への支援アプローチ、といった事象を追いかけていると、学会発表や論文として記述しようとする際に、呆然とする事がある。書いてみて、何だか現場で感じた実感と違うのだ。それは、もちろん僕の言語運用能力や観察力、抽象化力が弱いから、という僕の側の理由でもある。だが、東洋と西洋の視点の違いの根源を辿ろうとする石田氏の論考を読んでいて、根源的な(しかも言われてみたら当たり前の)ことに、改めて気づかされる。確かに脳は、流動変化する事象が「いつまでも続いていて同一なままであるかのように、概念表象を作る」のである。つまり、動き続ける自体を、ある時点で切り取ってみて、それをモデルなり形として示すのが、概念やシステム、制度などの言語で示される何か、なのである。ということは、書いてみた時点では、動きつつある組織や構造の、ある一瞬の点を、しかも言語化しやすい部分のみ部分的に、切り取ったものに過ぎず、十分に書き表せるはずがない。
「対象化した事物相互の間に、原因-結果の関係や、際限なく分けられる二分割過程、さらには事物をつらねる物語の網の目、といった関係性を設定しないと『分かったことにならない』と思ってしまうのは、『私-表象の心』のくせ、あるいは先天的病気なのかもしれない。たとえばある事物と事物の間に設定された一対一の因果関係や物語だけが、それらの事物を含むその場全体で働いている関係性なのかどうかは、私達人間には多分確かめる術がない。もちろん『確かめうるように準備・設定した人工世界(典型的には実験系)』の中でなら、その因果関係や物語を『確かめる』のは用意だ。けれども、それは等号で結ばれた数式のようなトートロジー(同義反復)の世界であるからだ。現実の自然世界には、こうしたトートロジー(確かめうるように設定しているので確かめられる関係)は設定されていない。にもかかわらず私達の『私-表象の心』は、そうして設定された因果関係や物語に深くうなずいて、『わかった』ことにしてしまうのだから。」(同上、p126)
自分自身も関わる福祉現場の事が、別の人の手によって論文化されたのを何度か読んだことがある。なるほど、そういう風に主題化・抽象化して議論を積み上げていくのだなぁ、と勉強になる。だが、物足りない事が多い。「それだけじゃない」と思ってしまう事も少なくない。確かに方法論や手続きは見事だし、有名な解釈理論や信頼できるフレームワークで切っているので、「わかりやすい」し、鮮やかに表現される。でも、その物語に還元されない何か、を、同じ現場から感じ取っている僕自身にとっては、何だかなぁ、と思うことも、少なからずあった。だが、それは無い物ねだりや負け惜しみのたぐいだと思っていたし、僕だって書いた論文に対して、現場の方から同じ事を感じられている可能性もあるだろうな、と想像も出来る。
ただ、何はともあれ、ある生起する現象や関係性を因果関係や物語として提示することは、筆者が言うように、トートロジーの世界に過ぎない可能性もある。方法論的にいくら武装しても、切り取った現実だけが、「それらの事物を含むその場全体で働いている関係性なのかどうかは、私達人間には多分確かめる術がない」からだ。フィールドノート、録音テープ、公式・非公式の文章やメモ・・・それらの類いをいくら集めてみても、そこから構築できるアクチュアリティは、あくまでも「人工世界」の一種に過ぎないのかもしれない。
では、どうすればいいのか? まず、不変的同一性という視点そのものを手放す必要がある、と筆者は指摘する。
「『部分の集合からなる全体』という世界像は、外部観測者の超越的な視座から捉えられた人工世界像である。自然世界の内部から観測する限り、全体はさまざまなレベルの小さな全体-言い換えれば変化流動し続けるさまざまなレベルの細部-によって重層的になりたっている。(略) 私達が言語表象化出来るのは、さまざまなレベルの小さな全体-変動し続ける細部-の変動に現れる同一性を帯びた位相的類同性だけである。この位相的類同性を指標に、私達はある細部をひとつの全体として感受し、言語表象化することができる。」(p323)
ある出来事とは別に、神の視点から、時間を止めて、静止形として不変的同一性や普遍的概念として現象を記述すること。これは「超越的な視座から捉えられた人工世界像」に過ぎない。そして、因果や物語で綴られたその人工世界像では、流動変化する全体像は決して伝わらない。であるからこそ、外から見ずに、まずはその変化流動する小さな全体を内部観測者として感じること。その上で変化流動性や全体の「位相的類同性」をとりあえず描くことが、求められる。そのときに鍵になるのは、「ある細部をひとつの全体として感受」する、という、この感受の部分である。
「ひとつなりの変化流動する全体のうちに内部観測者が位相的類同性を通して感受するこうした重層的で複雑な関係性を、中国の自然学は『感応』という言葉で捉えている。感応は、原因→結果という線的時間軸上の一方向的関係とは対照的な、つらなりあう場の同時共振を中心とする、多様な関係性である。位相的類同性において感受されるさまざまな細部(物や象として名付けられるもの)についても、一対一の関係に止まらず、一対多、多対多、複数間の往復や循環など、様々な関係性をとる感応がある。」(p320)
この本は決して簡単に理解できる本ではない。でも、このフレーズに出会った時、ずきっとしてしまった。そう、いつの間にか西洋的二元論、外部観測的因果論の呪縛に支配されていた僕は、気づけばこの「感応」の力に蓋をしていた、と。
実は、もうかれこれ8年も前になるが、ある福祉組織の構造的問題について、フィールドワークや全職員へのインタビュー調査に基づいて、報告書にまとめたことがある。一つの現場に半年間入り込んでまとめたのだが、幸か不幸か、この現場で見つけた構造的問題は、決して特殊的例外ではなかったようで、この報告書を読まれた別の福祉組織の方からその後コンサルテーションを依頼された、なんてこともあった。そういう意味では、この報告書を書いた時点では、人工世界の同一性ではなく、現場を内部観察する事によって得られた「位相的類同性」を感受し、ある程度言語表現として落とし込むことが出来たと思う。ある現場の構造として見えたことを抽出しているのだが、それが不変同一のものではなく、構造が変化する中で実態として立ち現れている「類同性」を捉えようとした、とでも言おうか。石田氏はそれをこう整理している。
「言葉は変わり続ける事物を不変同一の固定的な形式として表象する、という制約が破られれば、表象行為と変化し続ける事物の関係性が全く変わってくる。言葉によって指し示されている類同性は、『変化し続けている事物』の類同性だからだ。ある言葉Aは不変同一の形式を採っている。だがそのAという言葉によって指し示されているのは事物aそのものではなく、aが変化のうちに現している『類同性』なのである。(略)荀子の内部観測は、そのようにして変化する事物から類同性を甘受し、表象することで、自然世界の事物の変化したえざる不同一に移ろうとする形を、ありのままにとらえようとする。」(p283)
もちろん荀子のような世界観を書ききってはいない。だが、この論文を読まれた別の福祉法人の代表の方が「うちの法人の事が書かれているのかとぎくりとしました」と仰ってくださったことからしても、この論文を書いた時点で、変化流動するものの「位相的類同性」に近い何かをつかみ取ることが出来、それを言語表象することが出来たからこそ、その類同性に感応された方からの予期せぬ反応が返ってきたのだと、今にして思う。
僕はその現場に報告書を書いた後も定期的に通い続け、体系的なインタビューも二度ほど、追加して行った。だがそのアウトプットについては、現場職員の前での口頭報告は出来ても、論文なり報告書なりという形で活字化することは、ついぞ出来ていない。インタビューデータは活字化されたものの、分析の段階で中断していた。その当時、その分析の中断は、仕事の忙しさや、時間の足りなさ、余裕のなさ故、と諦めていた。
だが、今回この本を読みながら、強烈にその現場を巡る「書かれなかった何か」のことを思い出している。「書かれなかった」のではない。書くための方法論が定まってはいなかったのだ。
8年前、その報告書を書いたときには、内部観測に徹していた。また、その現場では、身体感覚や直観が重視される、非言語的なケアの現場であり、僕もその身体感覚の何かに感応した。組織の構造的問題についても、外部観測的な因果律や物語論ではなく、流動する一対多、多対多、あるいは循環する全体を何となく感応し、そこから感受される位相的類同性を言語表象できたが故に、他の現場にもアクセスしうる何か、として表象する事が可能になった。
しかし、その後は、現場に赴く回数が減り、あるいはその現場を「既知」なものとして捉えてしまったが故に、「見れども見えず、聴けども聞こえず」の状態にあったのではないか。虚心に身体的感覚を発揮させて位相的類同性を探すより、前回の報告書の延長性にある同一性、因果論に安直にすがろうとしていたのではないか。それでは、全くもって『変わり続けるままに』把握することを拒否していたのではないか。だからこそ、その現場の事を、何も書けなくなってしまったのではないか。
「中国の精神生理学では、『私-表象の心』が志向性を働かせなくなることは、すなわち『私-表象の心』が鎮まって働かなくなり、身体場の受容=行為する働きが顕在化する事態である。脳の知が鎮まって、身体の知の働きが顕らかとなるのだ。」(p266)
実は明日、久しぶりにその現場に行くことになっている。特に調査という訳ではなく、現状についての情報交換、くらいの感覚で行くつもりではいる。でも、思い起こせばこの数年、その現場に関わるときに「脳の知」に依拠しすぎてはいなかったか。小難しい本を読んで、「わかった」気になってはいなかったか。虚心坦懐にその現場の声に耳を傾けていたか。「私-表象の心」に支配されていたのではないか。だからこそ、久しぶりに現場に行くときには、まず「脳の知が鎮まる」ことが大切なのだ。「身体場の受容=行為する働きが顕在化」するように、モードを切り替えなければいけない。そう感じていた。
えっ、なに? この文章自体の内容そのものも、「脳の知が鎮まって」いない証拠ではないか、ですって? だからこそ、まずブログで鎮めているのであります。はい。