「私ー表象の心」を超えた何かに出会うために

7月末の東京出張時、松丸本舗でなんとなく「感応」した一冊の本が、今日のキーブック。

「脳は『変わり続ける事象』を、『変わり続けるままに』把握することが苦手である。脳は、変わり続ける事象が、ある位相をとった形で停止させ、その静止形があたかもかわらずにいつまでも続いていて同一なままであるかのように、概念表象を作る。」(石田秀実『気のコスモロジー』岩波書店、p117)
福祉現場で生起するメゾレベルの事象、例えば組織内の構造的問題が支援内容に与える影響や、行政からコミュニティ組織への支援アプローチ、といった事象を追いかけていると、学会発表や論文として記述しようとする際に、呆然とする事がある。書いてみて、何だか現場で感じた実感と違うのだ。それは、もちろん僕の言語運用能力や観察力、抽象化力が弱いから、という僕の側の理由でもある。だが、東洋と西洋の視点の違いの根源を辿ろうとする石田氏の論考を読んでいて、根源的な(しかも言われてみたら当たり前の)ことに、改めて気づかされる。確かに脳は、流動変化する事象が「いつまでも続いていて同一なままであるかのように、概念表象を作る」のである。つまり、動き続ける自体を、ある時点で切り取ってみて、それをモデルなり形として示すのが、概念やシステム、制度などの言語で示される何か、なのである。ということは、書いてみた時点では、動きつつある組織や構造の、ある一瞬の点を、しかも言語化しやすい部分のみ部分的に、切り取ったものに過ぎず、十分に書き表せるはずがない。
「対象化した事物相互の間に、原因-結果の関係や、際限なく分けられる二分割過程、さらには事物をつらねる物語の網の目、といった関係性を設定しないと『分かったことにならない』と思ってしまうのは、『私-表象の心』のくせ、あるいは先天的病気なのかもしれない。たとえばある事物と事物の間に設定された一対一の因果関係や物語だけが、それらの事物を含むその場全体で働いている関係性なのかどうかは、私達人間には多分確かめる術がない。もちろん『確かめうるように準備・設定した人工世界(典型的には実験系)』の中でなら、その因果関係や物語を『確かめる』のは用意だ。けれども、それは等号で結ばれた数式のようなトートロジー(同義反復)の世界であるからだ。現実の自然世界には、こうしたトートロジー(確かめうるように設定しているので確かめられる関係)は設定されていない。にもかかわらず私達の『私-表象の心』は、そうして設定された因果関係や物語に深くうなずいて、『わかった』ことにしてしまうのだから。」(同上、p126)
自分自身も関わる福祉現場の事が、別の人の手によって論文化されたのを何度か読んだことがある。なるほど、そういう風に主題化・抽象化して議論を積み上げていくのだなぁ、と勉強になる。だが、物足りない事が多い。「それだけじゃない」と思ってしまう事も少なくない。確かに方法論や手続きは見事だし、有名な解釈理論や信頼できるフレームワークで切っているので、「わかりやすい」し、鮮やかに表現される。でも、その物語に還元されない何か、を、同じ現場から感じ取っている僕自身にとっては、何だかなぁ、と思うことも、少なからずあった。だが、それは無い物ねだりや負け惜しみのたぐいだと思っていたし、僕だって書いた論文に対して、現場の方から同じ事を感じられている可能性もあるだろうな、と想像も出来る。
ただ、何はともあれ、ある生起する現象や関係性を因果関係や物語として提示することは、筆者が言うように、トートロジーの世界に過ぎない可能性もある。方法論的にいくら武装しても、切り取った現実だけが、「それらの事物を含むその場全体で働いている関係性なのかどうかは、私達人間には多分確かめる術がない」からだ。フィールドノート、録音テープ、公式・非公式の文章やメモ・・・それらの類いをいくら集めてみても、そこから構築できるアクチュアリティは、あくまでも「人工世界」の一種に過ぎないのかもしれない。
では、どうすればいいのか? まず、不変的同一性という視点そのものを手放す必要がある、と筆者は指摘する。
「『部分の集合からなる全体』という世界像は、外部観測者の超越的な視座から捉えられた人工世界像である。自然世界の内部から観測する限り、全体はさまざまなレベルの小さな全体-言い換えれば変化流動し続けるさまざまなレベルの細部-によって重層的になりたっている。(略) 私達が言語表象化出来るのは、さまざまなレベルの小さな全体-変動し続ける細部-の変動に現れる同一性を帯びた位相的類同性だけである。この位相的類同性を指標に、私達はある細部をひとつの全体として感受し、言語表象化することができる。」(p323)
ある出来事とは別に、神の視点から、時間を止めて、静止形として不変的同一性や普遍的概念として現象を記述すること。これは「超越的な視座から捉えられた人工世界像」に過ぎない。そして、因果や物語で綴られたその人工世界像では、流動変化する全体像は決して伝わらない。であるからこそ、外から見ずに、まずはその変化流動する小さな全体を内部観測者として感じること。その上で変化流動性や全体の「位相的類同性」をとりあえず描くことが、求められる。そのときに鍵になるのは、「ある細部をひとつの全体として感受」する、という、この感受の部分である。
「ひとつなりの変化流動する全体のうちに内部観測者が位相的類同性を通して感受するこうした重層的で複雑な関係性を、中国の自然学は『感応』という言葉で捉えている。感応は、原因→結果という線的時間軸上の一方向的関係とは対照的な、つらなりあう場の同時共振を中心とする、多様な関係性である。位相的類同性において感受されるさまざまな細部(物や象として名付けられるもの)についても、一対一の関係に止まらず、一対多、多対多、複数間の往復や循環など、様々な関係性をとる感応がある。」(p320)
この本は決して簡単に理解できる本ではない。でも、このフレーズに出会った時、ずきっとしてしまった。そう、いつの間にか西洋的二元論、外部観測的因果論の呪縛に支配されていた僕は、気づけばこの「感応」の力に蓋をしていた、と。
実は、もうかれこれ8年も前になるが、ある福祉組織の構造的問題について、フィールドワークや全職員へのインタビュー調査に基づいて、報告書にまとめたことがある。一つの現場に半年間入り込んでまとめたのだが、幸か不幸か、この現場で見つけた構造的問題は、決して特殊的例外ではなかったようで、この報告書を読まれた別の福祉組織の方からその後コンサルテーションを依頼された、なんてこともあった。そういう意味では、この報告書を書いた時点では、人工世界の同一性ではなく、現場を内部観察する事によって得られた「位相的類同性」を感受し、ある程度言語表現として落とし込むことが出来たと思う。ある現場の構造として見えたことを抽出しているのだが、それが不変同一のものではなく、構造が変化する中で実態として立ち現れている「類同性」を捉えようとした、とでも言おうか。石田氏はそれをこう整理している。
「言葉は変わり続ける事物を不変同一の固定的な形式として表象する、という制約が破られれば、表象行為と変化し続ける事物の関係性が全く変わってくる。言葉によって指し示されている類同性は、『変化し続けている事物』の類同性だからだ。ある言葉Aは不変同一の形式を採っている。だがそのAという言葉によって指し示されているのは事物aそのものではなく、aが変化のうちに現している『類同性』なのである。(略)荀子の内部観測は、そのようにして変化する事物から類同性を甘受し、表象することで、自然世界の事物の変化したえざる不同一に移ろうとする形を、ありのままにとらえようとする。」(p283)
もちろん荀子のような世界観を書ききってはいない。だが、この論文を読まれた別の福祉法人の代表の方が「うちの法人の事が書かれているのかとぎくりとしました」と仰ってくださったことからしても、この論文を書いた時点で、変化流動するものの「位相的類同性」に近い何かをつかみ取ることが出来、それを言語表象することが出来たからこそ、その類同性に感応された方からの予期せぬ反応が返ってきたのだと、今にして思う。
僕はその現場に報告書を書いた後も定期的に通い続け、体系的なインタビューも二度ほど、追加して行った。だがそのアウトプットについては、現場職員の前での口頭報告は出来ても、論文なり報告書なりという形で活字化することは、ついぞ出来ていない。インタビューデータは活字化されたものの、分析の段階で中断していた。その当時、その分析の中断は、仕事の忙しさや、時間の足りなさ、余裕のなさ故、と諦めていた。
だが、今回この本を読みながら、強烈にその現場を巡る「書かれなかった何か」のことを思い出している。「書かれなかった」のではない。書くための方法論が定まってはいなかったのだ。
8年前、その報告書を書いたときには、内部観測に徹していた。また、その現場では、身体感覚や直観が重視される、非言語的なケアの現場であり、僕もその身体感覚の何かに感応した。組織の構造的問題についても、外部観測的な因果律や物語論ではなく、流動する一対多、多対多、あるいは循環する全体を何となく感応し、そこから感受される位相的類同性を言語表象できたが故に、他の現場にもアクセスしうる何か、として表象する事が可能になった。
しかし、その後は、現場に赴く回数が減り、あるいはその現場を「既知」なものとして捉えてしまったが故に、「見れども見えず、聴けども聞こえず」の状態にあったのではないか。虚心に身体的感覚を発揮させて位相的類同性を探すより、前回の報告書の延長性にある同一性、因果論に安直にすがろうとしていたのではないか。それでは、全くもって『変わり続けるままに』把握することを拒否していたのではないか。だからこそ、その現場の事を、何も書けなくなってしまったのではないか。
「中国の精神生理学では、『私-表象の心』が志向性を働かせなくなることは、すなわち『私-表象の心』が鎮まって働かなくなり、身体場の受容=行為する働きが顕在化する事態である。脳の知が鎮まって、身体の知の働きが顕らかとなるのだ。」(p266)
実は明日、久しぶりにその現場に行くことになっている。特に調査という訳ではなく、現状についての情報交換、くらいの感覚で行くつもりではいる。でも、思い起こせばこの数年、その現場に関わるときに「脳の知」に依拠しすぎてはいなかったか。小難しい本を読んで、「わかった」気になってはいなかったか。虚心坦懐にその現場の声に耳を傾けていたか。「私-表象の心」に支配されていたのではないか。だからこそ、久しぶりに現場に行くときには、まず「脳の知が鎮まる」ことが大切なのだ。「身体場の受容=行為する働きが顕在化」するように、モードを切り替えなければいけない。そう感じていた。
えっ、なに? この文章自体の内容そのものも、「脳の知が鎮まって」いない証拠ではないか、ですって? だからこそ、まずブログで鎮めているのであります。はい。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。