7月はずっと連作を書いてきたが、今日は通常モードのブログ。
先週末、清里のペンションでゼミ合宿に出かけた。
ゼミを担当して7年になるが、ゼミ合宿を始めたのは、ここ5年くらいだろうか。
うちの大学の先生方、特に若手の先生方は、ゼミ合宿をされるケースが多い。ご自身も学部や大学院でそういう経験をされているから、なじみがあったのだろう。でも、僕は学部生の時には指導教官のご自宅で指導を受けることはあっても、ゼミという経験はなかった。院生も、ほぼ師匠と1:1であった。ゼミ自体は、自分が個人指導を受けたことを集団に切り替えたら、何とかイメージが出来た。でも、ゼミ合宿は、やりながら考えていく、という感じだったと思う。そして、今年の合宿のあたりで、何の意味でやっているか、が、ようやく体得された。
僕のゼミの合宿は、結構ハードにやる。お昼過ぎに現地について、午後は1時から6時前まで、みっちり4年生の発表と議論。その後、バーベキュー&飲み会をして、学生さんは遅くまで起きているが、翌朝は9時から13時前まで、またみっちり4年+3年生の発表と議論、というハードスケジュール。ゼミ生一人一人の発表と議論に平均1時間程度使うので、かなりの集中度と濃度になる。終わった頃には、学生達は「限界まで頭を使った」と口々に言う。
だが、そういう儀式が、学生さん達のブレークスルーに繋がる。
大学の研究室という日常から切り離される。涼しくて空気も良い、鳥のさえずりも聞こえる八ヶ岳のペンションの音楽堂、という落ち着いた空間。普段なら時計を気にして議論を「巻く」時もあるけれど、たっぷりと一人一人の発表や質問に時間をかけられる。三食を共にし、携帯もほぼ圏外なので、直接のコミュニケーションも深まる。同じご飯を食べ、同じお酒を飲み、同じ部屋で笑い合い、しゃべり続ける・・・。
そういう親密な空間と時間の中で、学生達の発表の質も、そして質疑応答の質も、断然バージョンアップしてくるのだ。これが不思議と。
また不思議、といえば、私の成熟度や興味関心と、学生のそれが、見事に同期している。
変な話だが、指導者である私が幼い、堅いと、ゼミ生の指導も幼い、堅いものになってしまう。多分就任時数年は、今より時間をかけて取り組んでいたが、多分その指導のやり方は幼さと堅さが残っていたと思う。一方、ここ数年はめちゃくちゃ忙しいので、合宿のような濃密な時間を作らないと、以前と同じレベルでの学生さんとの交流が出来ない、という物理的時間のなさが先行する。だが、以前より少しは柔らかく、のびのびと指導が出来るようになってきたので、ゼミ生達も、短期間でめきめき集中していく。このあたりは、指導される側より、指導する側の教育的力量の問題がかなり大きいのだな、と実感するところだ。
さらに言えば、これまでの連作で現象学的考察について取り組んできたが、教員がそれに関心があると、学生にも伝播するようだ。ゼミ生のKくんは、「生きづらさに関する現象学的考察」の発表。手品好きのKくんは、ミスディレクションを例に挙げながら、現象学的還元について考察する。「生きづらさ」の諸課題を、仕方ない、と感じてしまうことは、中心対象への居着きではないか。そうではない可能性としての背景野がある、と考えられないか。そして、背景野があるのに、そこにピントを合わせられず、今の「生きづらさ」に拘束されてしまうことは、手品のミスディレクションと同じで、錯覚を利用して魔術に引っかかるのと同じではないか。
竹田青嗣の 『現象学は《思考の原理》である』と一生懸命格闘しながら、上記のように整理していくKくんの姿は、そのまま自分自身と重なる。この本を紹介したのも自分だし、また現象学的還元について、ゼミで「目の前の課題」と「暗黙の前提」という整理でお話しした。それを受けて、自分なりに本と格闘し、ミスディレクションのような自分にわかる概念に引きつけて、考えを整理して、自分の卒論テーマである「生きづらさ」の議論に取り入れようという貪欲さ。いやはや、僕が20そこそこの時に、そこまで出来ませんでした。私の成熟度より、ゼミ生のそれの方が、むしろ高いかもしれない。
そして、驚きながらも実感したのが、そのKくんの抽象度の高い議論を、ゼミ生達は何とか理解しているのである。たぶん大学のざわついた、時間限定的空間なら無理だっただろうが、ゼミ合宿の親密な雰囲気の中では、わからないことも何となくわかってしまう、そういうquantum leapの空間になっていたのだ。なるほど、こういうブレークスルーがあるから、ゼミ合宿が大事なのですね。5年くらいゼミ合宿を主催してきて、最近その意義がようやく身体に馴染んできた。