乱流環境が生み出すイノベーション

難しい本は、読書会で読むに限る。つくづくそう思う。一人で読んでいるときには思いつかなかったことを、仲間と本を読みながら対話しているうちに、浮かび上がってくる。その妄想的ひらめきによって、意味や価値を見出せなかった文脈に、新たな光が差し込む。

今回は、岡部茜さんに教わって、タイトルすら知らなかった本を読んで彼女と議論しているうちに、以下のフレーズが輝いてきた。

「集合体に安定的な同一性を付与する重要な領土化の過程は習慣的な反復である。」(マヌエル・デランダ『社会の新たな哲学:集合体、潜在性、創発』人文書院、p98)

デランダの本を要約するのは難しいので、秀逸な書評を見て欲しい。

この本の面白いところは、集合体の基礎的概念として「物質的、表現的、領土化、脱領土化」という四つの変数の組み合わせとして議論しようとしているところである(p24)。例えば、狂気というのは、社会の主流な規範からの「表現的」な「脱領土化」である。他方、精神病院というのは、そのような狂気の表現を収容することで社会の秩序維持に繋げようとする意味では、「物質的」な「領土化」である。

そう思ってみると、 長期社会的入院というのも、「集合体に安定的な同一性を付与する重要な領土化の過程」としての「習慣的な反復」ではないか、と捉えることが可能になる。さらに言えば、ではこの「習慣的な反復」をどう変える事が出来るのか、精神病院に収容することなく、「集合体に安定的な同一性を付与する」ために、どのような別の「領土化の過程」を構築することが出来るか、という問いが浮かぶ。例えば、以前ブログでもご紹介したACT-Kの実践などは、「地域の中で「問題行動」「困難事例」「反社会的行為」とラベルを貼られる言動をする人を支える「専門性」のダイナミズム」を作り出すことによって、精神病院以外の場で「表現的」な病気を受け止める、ある種の「領土化」としてのアウトリーチを作りだしている、とも言えるかも知れない。そんな風に妄想が膨らんでいく。

「領土化の過程は、集合体の同一性を各々の空間的な規模で歴史的に生産するために必要とされるというだけでなく、脱領土化という不安定化のまえにしてこの同一性を維持するために必要とされるということができよう。」(p73-74)

「領土化」と「脱領土化」というのは、集合体の動きであり、それに善や悪、などの価値は付与されない。ということは、精神疾患、問題行動や困難事例、反社会的行為とラベルが貼られるような、「脱領土化という不安定化のまえにしてこの同一性を維持するために必要とされる」「領土化」は、どのようなものであればよいか、が問われる。精神病院や入所施設、刑務所などに隔離収容するのも「領土化」だが、アウトリーチや往診、地域での見守り支援だって「領土化」なのである。「集合体の同一性を各々の空間的な規模で歴史的に生産する」ための方法論は、別に収容施設である必要はないのだ。

これを、支援される側から捉え直してみよう。支援がされずにしんどい状況に放置されていることは、ある種の「脱領土化」であり、それは本人にとっても苦しくて、辛い。だからといって、自らの「表現的」な内容を受け止めてもらえない形で、家族や施設に「領土化」されると、窒息しそうになる。ということは、それが社会の主流の価値から「脱領土化」されている「表現的」な何かでも、そのものとして受け止めてもらう関係性を支援者と築くことができれば、「物質的な」安定も得られる。そのような、自らが承認される「領土化」とはなにか、が問われる。そういう「集合体」とはどのような存在であるか、が支援組織としては問われるのである。

「安定性の喪失だけでなく、能力の拡張もまた、人の同一性の脱領土化を引き起こすかもしれない。ここで私たちはヒュームより先へとすすみ、習慣や習性といったことに加え、新しい技能の獲得がおよぼす効果のことを考慮に入れなくてはならない。たとえば、小さな子どもが水泳や自転車に乗るのを身につけるとき、新しい世界が新しい印象と観念と一緒になって経験にむかって開かれてくる。(略)この機能は脱領土化を促すものとなる。」(p98)

娘は今年の夏からスイミングスクールに通い、夏は親子で温水プールによく通っていた。彼女は最初、水を怖がり、それこそ「安定性の喪失」を感じていた。でも、スイミングスクールに通うことによって、「新しい技能の獲得」ができ、「新しい世界が新しい印象と観念と一緒になって経験にむかって開かれてくる」ようになった。だからこそ、楽しみにスクールに通い続けている。それは、「人の同一性の脱領土化を引き起こす」「能力の拡張」であり、「新しい集合体へと入り込んでいく能力の上昇」(p99)である。

精神病院に長期社会的に入院していて、退院が出来ないと周囲にラベルが貼られている人も、「能力の拡張」の機会が疎外されている人、と置き換えてみたくなる。入院患者役割に著しい同一化が求められ、脱領土化の機会がなく、本人もそれを怯えている人、という仮説を置いてみる。すると、「小さな子どもが水泳や自転車に乗るのを身につけるとき、新しい世界が新しい印象と観念と一緒になって経験にむかって開かれてくる」ような経験が、ご本人に出来ていないだけではないか、と。

そして、「新しい世界が新しい印象と観念と一緒になって経験にむかって開かれてくる」機会として、オープンダイアローグがあるとも思えてくる。対話の中で、「新しい世界」を共に考え合う、未来語りのダイアローグ。これって、一人では泳げない、自転車に乗れないと、新しい世界・印象・観念・経験に開かれない個人に対して、一緒に新しい経験をしてみませんか、というお誘い的な対話である。そうやって、新たな関係性や経験に開かれることによって、同一性の反復状態という仮の安定から脱し、脱領土化がはじまり、「新しい集合体へと入り込んでいく能力の上昇」がおこる。これも、大切な支援の有り様だとも感じる。

「(産業組合と販売組合という:バタ補足)両方の形態に影響を与える脱領土化の主要因は、製品ないしはプロセスにおける高いイノベーション率が創出していく、乱流環境である。ここで問題となるのは、組織内における変化率—組織の慣性に由来する様々な要因に影響される—と、組織の外側にあるテクノロジーの変化率との関係である。(略)産業全体を考察するとき、私たちが関心を向けるのは、産業の成員となる組織の適応能力(すべての組織に、適応するだけの十分な時間があるのであれば)よりはむしろ、外的なショックにあわせて内的な変化を調整する能力である。」(p155)

この本はめっちゃ格好いいフレーズが多くちりばめられているのだが、「乱流環境」もその一つ。それは、同一性の反復に基づく安定性の対極であり、逸脱や混乱、狂気も一つの乱流環境である。そのような乱流環境を、イノベーションに向けて活かすことができるのか、というのは、非常に面白い問いである。秩序を乱すノイズと捉えるのではなく、脱領土化がイノベーションを起こすと考え、そのような乱流環境を、そのものとして受け入れる。その上で、無理やり乱流を鎮圧するのではなく、「外的なショックにあわせて内的な変化を調整する能力」を持つことができるのか、によって、乱流環境はイノベーションへと変化が可能なのだ。

本来、精神科医療に求められているのは、乱流環境を「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」ことで強制的に鎮圧することではなかった。本人の生きる苦悩が最大化し、急性期の状態というのは、逆に言うと危機こそチャンス、ではないけれど、窓が開き、対話のチャンスでもある。そのような「乱流環境」を上手く生かし、患者さんの「外的なショックにあわせて」医療チームの「内的な変化を調整する能力」が備わっているならば、アウトリーチチームと当事者や家族などとのコラボレーションにより、その人が危機を乗り越え、地域の中で暮らし続けるためのイノベーションが生まれてくるはずなのだ。そして、乱流環境を共に考え合い、乗り越えるための「不確実性への耐性」が重視される対話こそ、そのチームビルディングの根幹にあるのだろう。

そう考えてみると、領土化や脱領土化というキーワードを用いながら、集合体の変遷を考えることは、固着していた事態を新しく眺め直すための、重要な補助線になりそうだ。また、精神病院や精神医療を、刑務所や更生支援に入れ替えても、同じことが言えそうではないか、などの妄想も浮かぶ。シンプルな概念こそ、多くの妄想やアイデア、イノベーションを生み出す優れた理論、とするならば、この集合体理論もその1つかも知れない。そう思い始めている。

組織風土を変える対話的関係性

僕はかつて、「オープンダイアローグは、精神科病院をベースにしたシステムでは出来ないだろうという意見」を述べたことがある。そのことについて詳述した8年前のブログの最後に、こんな風なまとめを書いていた。

「僕が「今の精神科病院の現場」にまず求めるのは、「オープンダイアローグ的なアプローチ」を真面目に実現する為の「専門職の覚悟」と「組織改革」である。」

その時は、実践的裏打ちもないままこれを語っていた。だが、矢原隆行さんの『矯正職員のためのリフレクティング・プロセス』(矯正協会)を読んで、まさに上記の指摘を本気で実践されていることに、めちゃくちゃ感動した。

「日本の矯正施設におけるリフレクティングのもう一つの可能性は、前節で触れた刑務所職員による暴行・不適正処遇事案に係る第三者委員会からの提言でも言及されている矯正施設の『組織風土』にかかわるものです。入所者に目を向けるばかりでなく、矯正施設の職員どうし(上司と部下、多職種との連携も含みます)、組織全体が風通し良く話すことができ、安心して働くことのできる関係であることは、つい見過ごされがちですが、とても大切なことです。そもそも、職員間の信頼関係や安心感がその基盤にあってこそ、入所者を交えた風通しの良い会話も可能となるのです。そして、そうした組織風土を育むためには、自分たちの職場のリフレクティング・プロセスに取り組むことが不可欠です。」(p5)

精神科病院や入所施設では、虐待が繰り返し繰り返し、起き続けている。それはなぜか。それは、『自分はダメだ(何もできない)』『組織としてやれることは限られている(何もできない)』というトラウマの並行プロセスがあるからではないか、と以前ブログで指摘したことがあるし、論文化したこともある。その背景として、精神病院や入所施設の閉鎖性があげられる。収容することが目的になっている場所において、対象者へのよい関わり方について組織的に・対話的に検討し合うような組織文化がなければ、『自分はダメだ(何もできない)』『組織としてやれることは限られている(何もできない)』というトラウマの並行プロセスが生み出されるのだ。僕がかつて「オープンダイアローグは、精神科病院をベースにしたシステムでは出来ないだろうという意見」を述べたのも、このトラウマの並行プロセスに陥る組織では無理だ、という背景があった。

だからこそ、矢原さんの以下の指摘は決定的に重要なのだ。

「入所者に目を向けるばかりでなく、矯正施設の職員どうし(上司と部下、多職種との連携も含みます)、組織全体が風通し良く話すことができ、安心して働くことのできる関係であることは、つい見過ごされがちですが、とても大切なことです。」

虐待の起こる入所施設や精神科病院は、利用者との関係性を築く以前に、「矯正施設の職員どうし(上司と部下、多職種との連携も含みます)、組織全体が風通し良く話すこと」が出来ていない。「安心して働くことのできる関係」が出来ていない。それは、津久井やまゆり園での連続殺傷事件や、神出病院・朝倉病院事件を見ていても共通するポイントである。そして、北欧の刑務所で実践されているリフレクティング・プロセスを調べていた矢原さんは、精神病院や入所施設と同様、閉鎖的構造がある日本の矯正施設において、まずは「職員間の信頼関係や安心感」を作るために、リフレクティング・プロセスを導入してみた。そうやって対話文化を創り、「組織風土」を変えるために実践していくことで、「入所者を交えた風通しの良い会話も可能となる」土壌を作ってこられた。それが本書にガッツリ書かれていて、感動したのである。

「人が生き生きと更生できる場は、それ自体(そこには、その場を構成する個々の職員の状況、職員間の関係、および、運営や組織のあり方の全体が含まれます)が風通しよく、気持ちのよいものであってこそ、はじめて更生にふさわしく、有効なものになる」(p6)

ここで「更生」を「エンパワー」と言い換えてみると、実はこの論理はいかなる保健医療福祉組織でも言えることだ、とは言えないだろうか。そして、対象者への支援に熱心な組織ほど、同僚への査定や批判の眼差しが厳しく、それが「職場で傷つく」という上記とは真逆な論理になっている現実がある。そこを乗り越えるためには、「それ自体(そこには、その場を構成する個々の職員の状況、職員間の関係、および、運営や組織のあり方の全体が含まれます)が風通しよく、気持ちのよいもの」である必要があるのだ。「歯を食いしばって我慢して耐えろ!」という昭和的ガンバリズムとは真逆の論理が必要とされるのである。

なぜ矢原さんはこの実践が出来ているのか。これは北欧の刑務所で聞いた話が大きかった。刑務所の入所者の男性とのやりとりを、矢原さんは次のように振りかえっている。

「インタビューのなかでも、とりわけ印象深かったのは、ある入所者の男性が、『この会話を通して、自分は人間になった。でも、自分だけじゃなく、刑務官も、心理士も、皆が人間になったんだ』と述べ、そこに同席していた心理士も刑務官も、彼の発言に深く頷いた場面です。」(p23)

罪を犯した受刑者だけが、非人間的なのではない。実は矯正施設やそこで働く人々も、ある種の非人間性を帯びていた。ここでの非人間性、とは対話のないという意味で用いてみたい。懲罰的で秩序維持が真っ先に求められる場であれば、対話は必要ない。でも、生き生きと更生でき、エンパワーされる場で、真っ先に求められるのが、対話的関係性なのである。それを取り戻すことにより、「自分だけじゃなく、刑務官も、心理士も、皆が人間になったんだ」というのは、実に印象深い発言である。

その後、日本の矯正施設におけるリフレクティングを実践し続けてきた矢原さんだからこそ、矯正施設職員の疑問やモヤモヤにも、この本の中で丁寧に向き合っている。

「Q リフレクティングでは丁寧に相手の話を聞くことが大切とのことですが、職員がふだん施設の規律を保つために入所者に対して厳しく指導・監督していることとの一貫性が保てなくなる可能性はないでしょうか?
A リフレクティングや諸々の対話実践に参加することは、矯正職員が施設の規律を保つために担う役割と矛盾、対立するものではありません。実際、リフレクティング実践に長く取り組んでいる北欧の刑務所では、こうした会話の機会を入所者と職員が重ねることを通して、以前よりも双方が相手に人間として敬意をもって接することができるようになったといいます。必要な時には厳しく注意もし、必要なときには丁寧に話を聞いてくれるという矯正職員の姿勢は、むしろその人の生活全体を見守りながら更生にかかわるプロフェッショナルとしての本来のあり方と言えるでしょう。」(p188)

これを書き写しながら改めて感じたのは、「施設の規律を保つこと」と「入所者の矯正を支援すること」という、一見すると相反するように見える事態をどう繋げるのか、について、矯正施設の職員達はずいぶん苦労されてきたけど、その解決策が見つかりにくかったのだろうな、ということだ。相手の話を丁寧に聞いてしまったら、「入所者に対して厳しく指導・監督していることとの一貫性が保てなくなる」のでは。この恐れへの解決策が見出せなければ、刑務所での対話はあり得ない、となってしまう。そして、対話的な場ではないからこそ、虐待や暴行事件が起こるのは、刑務所や入管施設だけでなく、精神病院や入所施設でも共通している、構造的課題である。そして、これは矯正施設の現場職員にとって、「最大化された心配ごと」である。

この「最大化された心配ごと」に対して、矢原さんは北欧の刑務所でのリフレクティング実践に基づいて、「こうした会話の機会を入所者と職員が重ねることを通して、以前よりも双方が相手に人間として敬意をもって接することができるようになったといいます」と伝える。そして、「双方が相手に人間として敬意をもって接する」ことと、「必要な時には厳しく注意」することは、両立可能だ、と指摘する。その上で、「必要な時には厳しく注意もし、必要なときには丁寧に話を聞いてくれるという矯正職員の姿勢は、むしろその人の生活全体を見守りながら更生にかかわるプロフェッショナルとしての本来のあり方と言える」と喝破している。

そういう意味では、矯正職員は、これまで「その人の生活全体を見守りながら更生にかかわるプロフェッショナルとしての本来のあり方」を示されないまま、秩序維持に必死になってきたのではないか、という「妄想」すら浮かぶ。「双方が相手に人間として敬意をもって接する」という方が、入所者にとっても、矯正職員にとっても、その場は安心出来る場である。逆に言えば、その安心や信頼関係がないなかで、「施設の規律を保つために入所者に対して厳しく指導・監督」するだけでは、矯正職員の皆さんはものすごく緊張を強いられるし、疲れるだろうし、燃えつきないだろうか、と心配になってしまう。そして、そのような矯正職員の燃え尽きを防ぐためにも、矢原さんの提唱するリフレクティング実践は、非常に効果的なのだと改めて思う。

他にも色々引用したい部分はあるが、もう4000字近いので、詳細は同書を読んで欲しい。この本の最も素敵な部分は、これまで引用したわかりやすい理念編だけではない。実際に入所者やその家族と、あるいは矯正職員同士、多機関連携場面でのリフレクティング実践の模擬事例が記載され、その時の視点やコツまで詳細に触れられている。さらにはそれがDVDとして付録で付けられている。そういう意味で、矯正施設におけるリフレクティングを実際にどうやったら始められるのか、の具体的な手法がこの本を読んだらわかる、という意味では、非常に実践的な一冊なのだ。その部分のダイナミズムは、引用しにくいので、ぜひこの本を読んで欲しい。

最後に、矢原さんの矯正職員向けのメッセージを引用しておく。

「読者のみなさんがまず取り組みたい(あるいは、取り組まねばならない)と思われるのは、入所者への処遇のためのリフレクティングかもしれません。それは、一般改善指導として『対話実践』を実施する方針が訓令に示されたことからも無理のないことでしょう。しかし、同時に、矯正職員間の関係、そして、矯正組織の組織風土自体を風通しのよいものにしていかない限り、処遇としての『対話実践』がその実質を伴わないことは、本書を通して述べてきたとおりです。ですから、職員間の面談や話し合いのさまざまな場面に組織のためのリフレクティングを導入していくことにも、ぜひチャレンジしていただければと思います。」(p197)

一般改善指導とは、法務省のHPには以下のように書かれている。

「一般改善指導とは,講話,体育,行事,面接,相談助言その他の方法により,[1]被害者感情を理解させ,罪障感を養うこと,[2]規則正しい生活習慣や健全な考え方を付与し,心身の健康の増進を図ること,[3]生活設計や社会復帰への心構えを持たせ,社会適応に必要なスキルを身に付けさせること等を目的として行う指導をいう。」

そこに対話実践が導入されるようになった背景として、別の資料では以下のように述べられている。

「これまで刑務官が行う面接は、1対1で職員と受刑者との関係が、指導をする側・される側が明確で、相手を正したいという間違い指摘反射の傾向があったため、受刑者には、「聞くだけとなり内省が深まらない」「しょく罪や自己の特性理解を含め様々な課題が解消されない」といったことが認められた。また、職員側としては、職員個人に対する負担が大きく、また、個人の知識や経験に依存することにより、職員が疲弊し、粘り強い指導が難しく、各種の課題が解消しないまま、処遇が停滞することに対応できていないという課題が認められる。」

これを読んで、矯正現場の職員の皆さんは、本当に緊張感が強いられ、孤立しやすい仕事場だったのだなぁ、と改めて感じた。矯正を「させなければならない」というミッションはあるけど、ではどうやったらよいのか、の方法論は現場の職人芸に託されていて、方法論があまりなかったのだろうなぁ、という「妄想」も浮かぶ。それだと、精神病院での「治せない治療者」がトラウマの並行プロセスに陥るのと同じ、構造的なしんどさがあるように思えた。だからこそ、この「対話実践」が、矯正教育の具体的な方法論として今着目され、それが「一般改善指導」の中に取り入れれた意味はめちゃくちゃ多い。業務として「対話しなければならない」ことになったからだ。

ただ、ここに矢原さんも僕も危惧を抱いている。それは、冒頭にも記載した「オープンダイアローグは、精神科病院をベースにしたシステムでは出来ないだろうという意見」にも共通する部分である。

対話が弾むのは、どちらもお互いに敬意をもって、もっと話したい、と自発的で意欲的になるから、である。「対話しなければならない」と強要された構造において、「指導をする側・される側が明確で、相手を正したいという間違い指摘反射の傾向」が温存されていたら、入所者と矯正職員の対話は、ある種の「尋問」になりかねない。それは、対話の真逆である。

だからこそ矢原さんは、「矯正職員間の関係、そして、矯正組織の組織風土自体を風通しのよいものにしていかない限り、処遇としての『対話実践』がその実質を伴わない」と警告しているのである。

入所者に対話を持ちかける前に、矯正職員チームの中で、ちゃんと対話が出来ているだろうか? 「指導をする側・される側が明確で、相手を正したいという間違い指摘反射の傾向」は、矯正組織の職員チームの中でも、生じていた可能性はないだろうか? そして、まずは矯正職員同士の関係性の中で、「以前よりも双方が相手に人間として敬意をもって接することができるよう」になるためのリフレクティング実践をしないと、いきなり対象者にそれをするのは無理ではないか? これは、精神病院や入所施設において、職員同士が「相手に人間として敬意をもって接することができる」ようなダイアローグ実践をしない中で、対象者にのみオープンダイアローグを押しつけるのは無駄だ、と僕が感じたこととも通底している。

そして、8年前と最も大きく違うのは、矢原さんの本を読めば、「相手に人間として敬意をもって接することができる」ようなダイアローグ実践を職員間で実施する方法論が具体的に書かれているので、明日の職場でも実践可能なのだ。

この本は、刑務所関係者にだけ役立つほんではない。オープンダイアローグやリフレクティング実践をどうやったら現場で可能なのか、を知りたい全ての人の必読文献である。現場の刑務官向けにわかりやすく、読みやすく絵も沢山入って描かれていて、実はダイアローグの入門書としても機能すると思っている。ぜひ、多くの人が手に取ってほしい。

最後に、この本に基づいた対話実践が精神病院や入所施設の「職員間」で行われることは、結果的には「脱施設化」への最も近い道かも知れない、とも思い始めている。職員間での対話的関係性が確保され、利用者との対話的関係性の回路が開かれていくと、共にエンパワーされる関係性が産まれるので、それは地域移行や脱施設化につながっていく。そういう形で、この対話実践が広まって欲しいなぁと改めて感じる。