ミドル・パッセージを生きる

今年で45才。中年真っ盛り、である。僕と同じように中年にさしかかった友人から、今の心に深く響く一冊を教わった。人生半ばの通り道について、アメリカ人のユング心理学者が書いた本である。

「ある朝、私たちは鏡の中に、自分という敵を見つけてしまうのである。自分の劣った性質に向き合う事は辛いことかもしれないが、それらを認識する事は他者への投影を自分に引き戻すことの出発点となる。ユングは、私たちが世の中のためにできる最善の事は、影を投影するのはやめて、自分でそれを引き受けることだと気づいていた。世の中で間違っている何かは、自分の中で間違っている何かであり、結婚生活で間違っている何かは、自分の中で間違っている何かなどと言う事は相当な勇気を必要とする。しかし、そのように謙虚になった時こそ、私たちは、自分たちの暮らしているこの世の中を良くすることに着手しているのであり、人間関係や自分自身を共に癒すための条件をもたらしているのである。」(『ミドル・パッセージー生きる意味の再発見』ジェイムズ・ホリス著、コスモス・ライブラリー、p79)

芸能人、政治家、近所のおばさん、コンビニの店員、飲み屋のオッサン、目障りな上司・・・誰でもいいけど、誰かがむかつくと言う時に、実はその相手の中に「自分という敵を見つけてしまう」のである。ユングはむかつく相手に自分の劣った性質=影を押し付けることを投影と名付けた。しかし、目障りなのは他人ではなく、他人に投影した己の影=劣った性質なのである。それを自分で引き受けることが出来るか、が問われている。

だが、「世の中で間違っている何かは、自分の中で間違っている何かであり、結婚生活で間違っている何かは、自分の中で間違っている何かなどと言う事は相当な勇気を必要とする」。たしかに、そのとおり。気がつけば、我が家における失敗について、ついつい「妻のせい」にしている自分がいる。でも、それは間違いなく「自分の中で間違っている何か」である。あるいは、言うことを聞いてくれない子どもや、指示に従わない学生に対しても、相手のせいにしがちだが、それも間違いなく「自分の中で間違っている何か」なのである。コミュニケーションパタンの悪循環においては、相手ではなく、己のパタンの間違いにこそ、自覚的でなければならないのに、はまり込んでいる悪循環だからこそ、「相手が悪い」と思い込みやすい。

なぜ、それを自分の問題として引き受けられないのか。著者は「自分の劣った性質に向き合う事は辛い」と端的に指摘する。そう、見たくない部分は、「相手のせいであり、相手の性格や仕業」だとラベルを貼る=投影しているうちは、自分には関係のない「他人事」である。でも、相手という「鏡の中に、自分という敵を見つけてしまう」のは、これほど恐ろしいことはない。相手の欠点だと批判していたものが、「自分の劣った性質」につながるのだから、ブーメランのように批判が己の喉元に突き刺さる。痛いこと、この上ない。しかし、それを統合することにより、別世界への道が開けてくる。

「影の統合で要求されるのは、私たちが社会の中で責任を持ちつつ、しかし同時に自分自身に対してもっと正直に生きることなのである。ペルソナの世界のデフレーションを通じて、私たちは自分たちが今まで暫定的に生きてきたことを知る。喜びに満ちたものにせよ、不愉快なものにせよ、ありのままの内的真実を統合すること、それは新しい人生をもたらし目的を取り戻すためには不可欠なのである。」(p81)

役割や社会的立場との自己同一化を、ユングは「ペルソナの世界」という。そして、人生の前半においては、そのような「ペルソナの世界」を最大限に追い求めてきた人は少なくないだろう。僕自身も、大学教員とか、研究者とか、そのようなペルソナの世界の最大化に努めてきた。しかしながら、確かに中年の危機においては、そのようなペルソナとの自己同一化に疑問を感じ、自分は一体何のために生きてきたのだろうという 問いを持つことによって、ペルソナの世界のデフレーションが始まる。それは暫定的に生きてきた世界ではない、ありのままの内的真実を模索する姿でもある。それは「自分の劣った性質に向き合う事」でもあるため、不愉快なものである場合もしばしばだ。

だが、劣った性質を他者に投影せず、それも自分自身の一部であると引き受けた上で、「自分自身に対してもっと正直に生きること」ができたら、「新しい人生をもたらし目的を取り戻す」旅が始まる。それが、個性化である。

「個性化と言う概念は、私たちの時代のためにユングが示した、魂のエネルギーにとって道案内人となる一連のイメージを表す神話である。簡単に言えば、個性化とは、宿命によって課された限界の中で、可能な限り自分自身になるという、各自に課せられた発達上の不可避の要請である。繰り返すが、意識的に宿命と対峙しない限り、私たちはそれに縛られてしまうのである。」(p193)

「意識的に宿命と対峙」することによってしか、「宿命によって課された限界」による「縛り」を乗り越えて、「可能な限り自分自身になるという、各自に課せられた発達上の不可避の要請」に応えることはできない。当たり前のことなんだけれど、言うは易く行うは難し、である。

自分自身の性格や特性、家庭環境や仕事環境など、「もう少し○○だったら」と思うこともある。でも、そうやってそれを外部化して、誰かの何かのせいにしている限り、相手に投影する状態から抜け出せず、「自分の劣った性質に向き合う」ことが出来ていない。宿命に縛られてしまう。そうではなくて、「自分の劣った性質」や好ましくない環境を、「宿命によって課された限界」だと自覚化すること。その上で、その制約条件の中でも「可能な限り自分自身になるという」「意識的な対峙」が、人生半ばの通り道=ミドル・パッセージには求められている。

では、「意識的な対峙」を具体的にどうすればよいか。それも、この本では教えてくれている。

「「私の中のどこからこれらのイメージが来るのか、このイメージから思い浮かぶ事は何か、私の行為について、それらは何と言うだろうか」と。
自分の自己感覚〔自己についての理解〕を真に修正するための唯一の方法は、このような自我とセルフの間の対話を持つことである。正式なセラピーを受けなくても、「耳を傾ける」ための勇気と日々の習慣さえあれば良い。そして学んだことを吸収し、統合することができれば、一人きりでいても寂しさを感じない。」(p222)

自己内対話のことを、ユング心理学では「自我とセルフの対話」という。訳注によれば「セルフは自我をしのぐ超越的なものとされ、ユングは『自我が意識の中心であるように、セルフはこころの全体性の中心であり、また意識も無意識も含めたものである』と言っている」(p19)。人生前半は、意識の中心である自我を軸として、生きてきた。社会的役割や立場などのペルソナを追い求めるのが、自我的な生き方である。だが、自我の背後には、「自我をしのぐ超越的なもの」であり、「こころの全体性の中心であり、また意識も無意識も含めたもの」としての、セルフがある。

ただ、「自我をしのぐ超越的なもの」というと、なんだか自分とは縁遠い、神がかった世界に感じられる。でも、セルフに至る道とは、「宿命によって課された限界の中で、可能な限り自分自身になる」道なのである。自分から遊離して、空想にふけることではない。逆に、あまりにも土着的、というか、自分の日常の中で沸き起こる、イライラやむかつき、腹立ちなどにも目を向けた上で、それらを「日々の生活に象徴として現れるもの」(p222)として受け止め、「私の中のどこからこれらのイメージが来るのか、このイメージから思い浮かぶ事は何か、私の行為について、それらは何と言うだろうか」と、自らに問いかけ直す。それが、可能な限り自分自身になる道であり、中年の時期にそこを通り抜けるのが、ミドル・パッセージなのである。

もちろん僕は聖人君子ではないので、まずはむかつくし、まずは腹が立つし、まずは妻のせいにしてしまう(笑)。でも一旦そうしてしまった後でいいから、振り返って考え直してみるのだ。そのむかつきや苛立ちは、自分の中の影ではありませんかと。そして、「私の中のどこからこれらのイメージが来るのか、このイメージから思い浮かぶ事は何か」とたぐり寄せるなかで、他者に投影した影を、そのものとして認め、自らの内的可能性として統合し直すことが可能なのだ。これは、これからの僕が追求したいことのひとつだ。

もうひとつ、今の僕に大切なことを紹介しておきたい。

「パラドックスは、これまで求めてきたものを全て捨て去ることによってのみ、私たちは、安定とアイデンティティーという人は欺きがちな保証を超越するということである。求めてきたもの全てを手放すのである。そうすると、不思議なことに、あり余るほどの何かが私たちの心にあふれ出してくる。その時私たちは頭で理解していること—ときにはそれも重要であるが—から、心の叡智へと移動するのである。」(p228)

「求めてきたもの全てを手放すのである。そうすると、不思議なことに、あり余るほどの何かが私たちの心にあふれ出してくる。」

これは最近僕も経験していることである。20代から30代にかけて、あんなに求めていたし、声高にあれこれ言い続けてきたことを、手放してみた。すると、向こうから色々とお声がかかり、オモロイ展開が始まりつつある。そのとき、僕は声高に主張しない。あくまでも、相手の声を受け止め、そこに応答していく。自分で流れを作り出そうと誘導したりせず、来た流れにふと乗って、どこに行くかわからない何かに身を任せてみる。それは、「これまで求めてきたものを全て捨て去ること」でしか出来ないし、確かに「安定とアイデンティティー」に安住してはいられない。でも、そういう安定やアイデンティティが、社会的役割や立場というペルソナだとしたら、それを手放して、「「耳を傾ける」ための勇気と日々の習慣」をもち、「学んだことを吸収し、統合すること」にこそ、心のエネルギーを費やす。他者を操作しようとするのではなく、流れに身を任せ、「あり余るほどの何かが私たちの心にあふれ出してくる」ままに、「心の叡智へと移動する」。

そういうことを、ミドル・パッセージで、練習し始めているのかも、しれない。

生活の自立と自尊を取り戻すために

シャドーワークというのは「賃金不払い労働」(=アンペイドワーク)だと思っていた。そして、賃金不払い労働というのは、賃金労働ではないものに対しても対価を払え、というフェミニズムの運動の中から出てきた言語だと思い込んでいた。だが、その発明者でもあるイヴァン・イリイチは、以下のように賃労働とシャドーワークの関係性を整理する。

「これは、産業社会が財とサービスの生産を必然的に補足するものとして要求する労働である。この種の支払われない労役は生活の自立と自尊に寄与するものではない。全く逆に、それは賃労働とともに、生活の自立と自尊を奪い取るものである。賃労働を補完するこの労働を、私は<シャドー・ワーク>と呼ぶ。これには、女性が家やアパートで行う大部分の家事、買い物に関する諸活動、家で学生たちがやたらに詰め込む試験勉強、通勤に費やされる骨折りなどが含まれる。押し付けられた消費のストレス、施療医へのうんざりするほど規格化された従属、官僚への盲従、強制される仕事への準備、通常「ファミリーライフ」と呼ばれる多くの活動なども含まれる。」(イリイチ『シャドー・ワーク』岩波書店、p192-193)

この指摘の中で着目すべきポイントは、シャドーワークを「賃労働を補完するもの」として捉えていると言う部分である。賃労働から排除されたものではなく、賃労働とシャドーワークは対の存在であり、シャドーワークのおかげで「産業社会が財とサービスの生産を必然的に補足する」ことが可能である、と定義する。その上で、焦点化すべき部分が二つある。一つは、家事育児という不払い労働に対価を払え、というのは、賃金労働を、「変えられない所与の前提」とした上で、その賃労働の範囲を広げよ、という主張である。だが、イリイチは、そもそも、賃労働とシャドーワークという二分法そのものを疑ってかかる。二つ目は、シャドーワークは賃労働を補完する労働であるため、その範囲を家事育児だけに限らず、試験勉強や通勤、教育・教育に代表される官僚制システムへの従属など、より広範な「ファミリーライフ」をシャドーワークと定義している点である。

鶴見和子はこの「シャドーワーク」を「影法師のしごと」と解釈した上で、以下のように整理している。

「影法師の仕事は、生存のための仕事(サブシステンス・ワーク)の対立概念である。中世期ヨーロッパでは、男女ともに生存のため最低限必要なものを自分たちの手で作って暮らした。結婚は生存のための仕事における男女の協働の基地であった。ヨーロッパでは、工業化による男女の役割分化が明らかになった19世紀前半に、男性は余剰価値の生産に駆り立てられる賃金ないしは給料取りに変身する一方、女性はそれを支える影法師の働き人に変化(へんげ=「トランスモグリフィケイション」)した。ただし職場への通勤に必要以上のエネルギーを消費することも、月給取りになるために学校で強制的に勉強させられることなども、影法師の仕事だから、男性もまた多かれ少なかれ、影法師的存在ではある。影法師におんぶしなければ、賃金取りも給料取りもできない仕組みになっている工業化社会のカラクリと、人間と自然との破壊をもたらすその恐るべき結果とを、イリイチは、この滑稽な表現によって警告しようとしたのである。」(鶴見和子「影法師のしごと」『イリイチ日本で語る 人類の希望』新評論p114-115)

「余剰価値の生産に駆り立てられる賃金ないしは給料取り」とは、生活の大半の時間を「余剰価値の生産」という「賃労働」に「駆り立てられ」、「生存のための仕事における男女の協働」をする余裕がなくなった人のことを指す。すると、家事育児だけでなく、通勤や強制的に勉強することも含めて、賃労働の対象外ではあるが、賃労働をするために必要不可欠な「影法師におんぶしなければ、賃金取りも給料取りもできない仕組み」ができあがる。これが「工業化社会のカラクリ」である。そこにも賃金を払え、というのが、未だ支払われていない賃金を支払え、という意味での「アンペイドワーク」の論理でもある。だが、そもそもイリイチが問うているのは、賃労働に駆り立てられることによって、生活の自立と自尊が奪われるのではないか、という問いである。賃労働とシャドーワークの対は、「生存のための仕事(サブシステンス・ワーク)」を消し去ろうとしているのではないか、という仮説である。

つまり、賃金が支払われない仕事と、賃金が支払われる仕事を対立させた上で、より多くの労働に賃金を支払えと言う論理は、「不払い労働」は労働として価値がない、という価値前提を認めることになる。そして、自らの「生活の自立と自尊」を売り渡して賃労働を行う現状を、追認することにもなる。イリイチはここに本質的な問い直しを行う。

「生活の自立と自尊を目指す活動を商品で代替する事は、必ずしも進歩とはみなされなくなっている。女性たちは、家事に伴う稼ぎのない消費活動が特権であるかどうか、あるいは彼女たちが実際には消費を義務づける支配的な構造によって堕落的な仕事を押し付けられているのではないか、を問うている。学生たちは、自分たちが学校へ行くのは学ぶためにあるか、それとも協力しておのれ自身の愚鈍化につとめるためか、を問うている。消費のために苦労が増え、消費が約束する心の安らぎはますます減っている。だんだん多くの人に知られるようになってきている事は、おそらくはそれほど非人間的でもなければ、それほど破壊的でもない、よりよく組織された労働集約的な消費と、人間の自立と自尊を目指す現代的な諸形態との間の選択である。この選択は、影の経済の拡大とヴァナキュラーな領域の回復との相違に対応している。」(イリイチ、『シャドーワーク』、p79)

「生活の自立と自尊を目指す活動」とは、自分の頭を使って考え、自分なりに試行錯誤しながら何かを産み出す活動だ、と仮に定義してみよう。その一方で、「消費活動」を「生活の自立と自尊を目指す活動」に対置するものと定義すると、自分の頭を使わなくても、試行錯誤しなくても、お金を出せば手に入る活動と定義してみよう。そしてそのような「商品」とは、標準化規格化された賃労働によって産み出されたものだ、としてみよう。

その上で、イリイチのいう「学生たちは、自分たちが学校へ行くのは学ぶためにあるか、それとも協力しておのれ自身の愚鈍化につとめるためか、を問うている」という課題を取り上げてみる。これは、自らも教育に携わる人間としては、この問いは自己否定に繋がりかねない、キツい問いだが、本質的でもある。

例えば僕の家の前には公立中学校がある。今年はコロナ危機でそうではないが、昨年までは毎年初夏のころ、中学校1年生向けの軍隊式の行進の練習がなされていた。号令に合わせて行進し、右向け右、回れ右、全体止まれなどの一糸乱れぬ形でやるように「教育」している。そして三角座りをさせ、乱れが生じたら先生からの怒号が飛ぶ。このようなことは、先生に反抗しない、自発的に隷従する身体を作り上げるための「教育」であり、イリイチの言葉に従えば、「協力しておのれ自身の愚鈍化につとめるため」の学校である。そうやって、世間に盲従することになれてしまえば、「消費を義務づける支配的な構造」を問うことなく、広告などで消費喚起されたものを自発的に購入し、その商品を購入するためには、よりよい賃労働は必要不可欠だ、と必死になって勉強し、先生に忖度し、良い成績・内申点を取ろうと必死になる。学校以外にも塾に通い、必死になってより偏差値の高い大学に合格しようと努力する。

これは、まさに賃労働主体になるための、賃金はもらえないけどそれに準備する「ファミリーワーク」としての、シャドーワークそのものである。そして、そのシャドーワークにおける子ども達の熾烈な競争主義は、さらに賃労働における弱肉強食主義を加速させ、「消費を義務づける支配的な構造」を問うことまま、そのような悪循環は再生産されていく・・・。

では、どうしたらこの悪循環を止めることができるのか? それをイリイチは、「生活の自立と自尊を目指す活動」であり、ヴァナキュラーな領域の回復である、という。

「ヴァナキュラーな仕事、つまり生存に固有の仕事(に価値:引用者挿入)を置く考えを、私としては提案したい。それは同じ支払いでない活動であるにしても、日々の暮らしを養い、改善していく仕事であって、標準的な経済学の内側で開発された概念を用いた分析では、全く捉え切れないものである。私はこうした活動に対してヴァナキュラーという語をあてたい。それというのも、「インフォーマルな部門」とか「使用価値」とか「社会的再生産」などの用語がカバーしている領域内では、この語によるのと同様な区別が可能な、一般に流布されている概念が他には見当たらないからである。ヴァナキュラーとはラテン語の用語であって、英語として用いられる場合には、有給の教師から教わることなしに習得した言語に対してのみ使われる。ローマでは紀元前500年から紀元後600年にかけて、家庭で育てられるもの、家庭でつくられるもの、共有地に由来するものなど、そのような価値のいずれをもあらわすことばとして使われた。さらにまた、人間が保護し、守ることができる価値—ただし市場では売買されない—を表す言葉としても使われた。商品とその影に対置させる用語として、この簡素な「ヴァナキュラー」という言葉を復活させてみてはどうだろうか。この言葉によって、<影の経済>の拡大と、その逆、つまり<ヴァナキュラーな領域>の拡大と区別することが可能になると思われる。」(イリイチ、『シャドーワーク』、p68-69)

イリイチのいう「ヴァナキュラーな言葉」とは、例えば「有給の教師から教わることなしに習得した」僕の話す関西弁である。部分的には商品を用いてはいるけど、「家庭で育てられるもの、家庭でつくられるもの」なら、我が家ではぬか漬けや塩麹、キュウリ・らっきょう・ショウガのピクルス、梅ジュースなどがある。どれも購入する商品より手間暇かかるし、へたをしたら安い完成品と同程度のお金がかかる場合もあり、「標準的な経済学の内側で開発された概念を用いた分析」では、非効率で無駄の多い作業かもしれない。でも、市販の商品よりは我が家の味として馴染んでいて美味しく、そうした食べ物を作るプロセスは、「日々の暮らしを養い、改善していく仕事」そのものである。なによりそれらは苦役としての賃労働やシャドーワークとは異なり、楽しいし、美味しい! そして、英語や日本語標準語をしゃべるときよりも、関西弁の方が、自分の気持ちが素直に表現出来るので、楽だ。

このような楽しさや、心地よさ、という感情を、賃労働とシャドーワークは商品を介在する形でしか認めない。そうしないと、多くの商品を買ってもらえないし、「経済が回らない」と思い込んでいるからだ。でも、楽しさや心地よさ、という感情や感覚は、過剰に消費をしなくても、ほどほどの消費で回っていくことが出来る。だが、このような発言は、消費をあおる生産性至上主義社会においては、禁句である。イリイチもこう述べている。

「「パックス・エコノミカ」はゼロ−サムゲームを守り、その公然たる進歩を保障するものだ。すべてのものがプレイヤーになり、「ホモ・エコノミクス」のルールを承認するように強いられる。このゼロ−サムのモデルに合うように行動することを拒否するものは、平和の敵として追放されるか、妥協するまで教育されるか、そのどちらかである。このゼロ−サムのゲームのルールでは、環境と人間労働の両者は希少な賭けである。そこでは一方が得をすれば他方が損をする。」(p35)

経済が支配する「パックス・エコノミカ」では、「一方が得をすれば他方が損をする」という「ゼロ−サムゲーム」がゲームのルールになる。そして、そのルールの中で勝ち上がる「ホモ・エコノミクス」として全ての人々がプレイヤーになることが強制される。「このゼロ−サムのモデルに合うように行動することを拒否するものは、平和の敵として追放されるか、妥協するまで教育されるか、そのどちらかである」。

生産性至上主義を括弧にくくろうとすると、狂人と言われて、精神病院に閉じ込められる。あるいは病院長であったフランコ・バザーリアが同じことをしたら、反精神医学だ、と、イタリアの精神医学会からは「平和の敵として追放され」た。しかしながら、ホモ・エコノミクスも、パックス・エコノミカも、人間の生存形態の多様性の中の一つに過ぎない。それ以外のやり方はあるはずである。にもかかわらず、「これしかない」「バスに乗り遅れるな」とばかり、「このゼロ−サムのゲームのルール」を極端に押しつけてきたのが、新自由主義的価値前提であり、規制緩和や労働市場の流動化、ニューパブリックマネジメントに代表される非市場領域の市場化・民営化ではなかっただろうか。

イリイチはこのようなパックス・エコノミカやホモ・エコノミクスに対抗する概念として、ヴァナキュラーな領域の回復を主張するだけでなく、「生活の自立と自尊を目指す活動」を重視した。別の本ではそれをコンヴィヴィアリティという形で整理している。

「私が差し迫ったものとして述べてきた危機は、産業主義社会内部の一危機ではなくて、産業主義的生産様式そのものの危機なのである。私が述べてきた危機は、自立共生的(コンヴィヴィアル)な道具か、それとも機械に圧しつぶされるかという選択に、人々が直面させる。この危機に対する唯一の対応の仕方は、危機の深さを完全に認識して、避けがたい自主的限界設定も受け入れることしかない。」(イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』ちくま学芸文庫、p234)

「産業主義的生産様式そのものの危機」なのだから、「産業主義社会内部」を漸進的に改良するだけでは済まされない。そうではなく、その生産様式に全面的に従うことに疑問を持ち、それ以外の方法で生きられないか、他の生活様式に基づいて、自立共生的(コンヴィヴィアル)な道具を用いて、「生活の自立と自尊を目指す活動」が展開できないか、を模索することである。塩と麹を配合して毎日かき合わせて塩麹を作る。ぬか床を毎日かき混ぜる。そのような、ごく小さい変化からはじめて、商品や消費に煽り立てられたり、過度に依存しない、自立共生的な食生活のあり方を考えてみる。

「このゼロ−サムのモデルに合うように行動することを拒否する」ことは、簡単ではない。でも、それを変えられない所与の前提として、「どうせ」「しかたない」と自発的に隷従するのではなく、「それ以外のあり方は出来ないだろうか?」とか、「賃労働とシャドーワークの両方に絡め取られない形で、子育てや家事などをするにはどうしたらよいだろうか?」という「問い」を抱き、誰かの「正解」を鵜呑みにせず、自分なりに頭で考えて、試行錯誤の実践をして見ることが問われているような気もする。

賃労働から完全に自由になることは、そう簡単ではない。でも、賃労働とシャドーワーク、というツインズの支配から、少しでも逃れるための努力は、可能である。苦役とか賃労働の為の準備としての「影法師」には、できる限り支配されたくない。自らの自立や自尊を取り戻すような、面白くて、楽しくて、そっちの方が楽だ、心地よいと思える、労働環境以外での生活をどう増やしていけるか。それは、子どもが喜んでくれるから、とピクルスや塩麹を作り始めた僕の動機とも一致している。そういう自立共生的な、コンヴィヴィアルな生き方の模索が、ある種の土着の生き方とつながっているのかもしれない。

しかし、土着の生き方、といえども、単なる復古主義とは違う。Zoomやメールなどを通じてオンラインで世界の多様な世界とつながり、そのつながりに喜びを覚えながら、移動を減らすことによって、時間的余裕を取り戻し、その時間をゆっくりゆったりまったりと、消費や消尽ではなく、「ヴァナキュラーな仕事、つまり生存に固有の仕事」をしながら、生を充実する。そういう生き方の領域をもっともっと増やしたい。

そう思い始めている。

そして、ツイッタにブログの紹介文を書いていて気づいたのだが、消費や賃労働とは別次元の「ヴァナキュラーな、生存に固有の仕事」を増やしていくことは、パックス・エコノミカという経済=生産性至上主義を越えるための、草の根レベルの個々人に出来るゲリラ戦的な生き方なのかもしれない、とも思い始めている。

ポリフォニックな物語

1冊で491ページもあり、他にも二分冊がある社会学者ブルデューの編著『世界の悲惨 Ⅰ』(藤原書店)を読む。読み終えて、稚拙だが偽らざる感想として浮かんだのが、「僕でも読めた!」である。

以前読んだ『リフレクシヴ・ソシオロジーへの正体』(藤原書店)は、彼へのインタビューに基づく入門書であると言う事でもあり、読み通すことができた。だが彼の調査研究の本は、冒頭からなかなか難しい分析が入り、しっかり読み通せた本はなかった。だから今回、あるZoom読書会でこの本が指定された時に、正直に言えば本当に読み通せるのだろうかと半信半疑だった。

そこで第一部を読み始めた時、難解なブルデューの総括論文も、あるいは彼が描いたインタビューの対象者の社会分析もすっ飛ばし、インタビュー自体から読み始める。するとあら不思議、インタビューは普通の言葉でやりとりされているので、ちゃんと僕には読めた。これはブルデューの弟子たちによる他のインタビューでも同じである。この本の構成は、抽象度の高い総括論文の後に、インタビュー対象者の社会的属性に関する社会分析の論考があり、その後インタビューと続く。しかしながら、僕のような帰納論的な読み方が好きな人間にとっては、インタビューを先に読み、その後インタビューの背景となるような対象者の社会分析を読んだ上で、そのまとまりを全部読んだ後に総括論文を読むと、無味乾燥に見える総括論文の深い味わいがやっと読み解けることができた。

そして491ページまで続く膨大なインタビューの最後まで読み終えてから、冒頭の1ページに戻って、彼がこの本について語ったインタビューのところを読み直すと、「あー、彼はこういう意図と戦略を持ってこの論を編み上げたのか」、という全体像というかパノラマのようなものが深く理解できた。今回一番腑に落ちたのは、ハビトゥス理解である。

ハビトゥスを理解する

「一人の人間が書くものには固有の形、姿、特徴があって、それを見ればすぐ、これはあなたの書いたもの、これは私の書いたものとわかります。多様性を超えたところに、ある統一性があるわけです。ひとりの人間の、ものを食べる仕方、話し方、衣服の着方、髪の整え方、すべてに親近性、類縁性、統一性があります。これがどのようにして形成されるか。興味深いのは、ハビトゥスは明らかに後天的に獲得されるのですが、その獲得のされ方は全く無意識的であると言うことです。ハビトゥスという私たちの中にある原理、文法は私たちに左右できないもの、私たちの統制の及ばないものであるということです。」(p15-16)

この本のインタビューや社会分析を通じ、インタビュー対象者の無意識な文法であるハビトゥスというのが明らかになっている。彼は「このハビトゥスを直感的に把握すれば、人の言動を予測できることになります。的確な質問ができます。未知のもの同士の間にごく自然な、くだけた会話が成り立つのは、相手のハビトゥスについての認識があるからです」(p10)と書いている。実はこのインタビューが僕にとってすっと入ってきたのは、ここに書かれている人々のハビトゥスに、ある程度の親近感というか、知っている世界であると言う感覚を直感として持てたからである。それは以前ブログに書いたが、僕自身が京都のダウンタウンで育ち、ここに書かれているような人々のハビトゥスをある程度推測できるような原体験を持っているからである。

さらに言うと、僕は中学以降、通っていた塾の塾長や、お世話になった予備校の先生、そして大学院で弟子入りした大熊一夫氏など、尊敬する他者(僕とは違うハビトゥスを持っている人)の口真似や振る舞い方の真似をしてきた。その当時は真似して学ぶことを疑わなかったが、一方で猿真似のような気もして、気恥ずかしさも持っていた。でも20年ぶり位に当時の真似について改めて考えてみると、それは自分が持っていなかった、自分とは異なる世界に属する他者を真似する中で、その人の骨法というか内在的論理を学び、ハビトゥスを受肉化しようとしていたのではないか、ブルデューの論考を読みながら改めて感じている。

特に大学院時代、大熊一夫師匠に弟子入りし、たくさんのおいしい料理をご馳走になり、様々な彼のエピソードを繰り返し学ばせていただいた。おいしいワインの何たるかなんて知る由もなく、イタリアンもフレンチもほとんど食べたことがなかった僕にとって、新聞記者を辞めた時にシェフになろうかと思案したと言う師匠の深い食への造形や、美意識、こだわりを、内弟子として「ご相伴にあずかる」中で、しっかり学ばせて頂いた。もちろん本業に関しても、精神医療を何十年も取材し続け、特ダネを連発し、ルポの世界ではその名をとどろかせたジャーナリストとしての物の見方、考え方、対象への迫り方、文章の書き方なども、マニュアルで指導されたのではなく、師匠の生き様についていく中で、その一部を部分的に真似する中で、文字通り師匠から芸を盗むかのように学んでいった。それは師匠のハビトゥスを深く理解しようという模索であり、結果的には、自分自身のハビトゥスの書き換えにもつながっていった。なので「ハビトゥスを理解する事はその人間を理解すること」(p9)というのは本当にしっくりくる表現である。

そしてこの本が理解社会学の王道だと感じるのは、「質問を受けている人の立場に立つために、質問する者の主観の歪みを批判しなければならないのです」(p8)と言う部分に象徴されていると思う。彼はこのことを「客観化する者の視点を客観化すること」(p8)とパラフレーズしているが、まさにインタビューする側の権力性や、主観的な視野の歪みを、そのものとして理解することと、相手がどのようなハビトゥスを持ってそれを言おうとしているのかを理解しようとすることが、等しく重要である、という認識は、このインタビューがすごく読みやすい理由が示されている。

「自然に見える面談の背景には、調査者が被調査者のハビトゥスについての科学的な認識を持っているということがあるわけです。」(p10)

話が通じている!

それが最も成功しているのは、ブルデュー自身がインタビューした「フランス北部の二人の若者」をめぐるエピソードである。

齢61才の、東大より遙かに格上のコレージュ・ド・フランス教授が、アリとフランソワという、郊外の団地住まいで、フランスで生まれたアラブ人の移民二世で、「不良少年」とラベリングされた二人の青年にインタビューしている。これ以上にない「不釣り合いな両者」と思われるインタビューなのに、言葉が通じている。一期一会の信頼関係が出来ている。それはブルデューによる、少年2人への敬意と、彼らの社会的立ち位置や内在的論理に対する深い理解があったからではないかと改めて感じる。それはインタビューの前に置かれた、ブルデューによる社会分析にも表れている。彼はアリという青年が、8歳の時にモロッコからフランスにやってきて、両親とはアラビア語しか話さなかったため、フランス語を読めるようになるまで大変な苦労をしたという社会的背景を描いた後、このように分析している。

「どう見ても、彼の学校に対する拒否反応と、彼を次第に「手におえない」生徒と言う役割に閉じ込めてしまった反抗的態度の根源には、他の生徒たちの前でフランス語を読まされる屈辱から逃れたいと言う欲求があるように思われる。勉強を怠り、授業をさぼってしまうと、ますます成績が悪化し、拒絶の連鎖にはまり込んで、またしても成績が悪化する。これこそ、課されたことを進んでやると言う美徳が逆説的に働いて、学校的には悪行であることを進んでやるようになり、ほどなく彼の社会的にも不良少年にしてしまったのだ。」(p139)

これはブルデューが「客観化する視点自体を客観化する」の項目で述べている、「その人あるいは自分がどのようにして今の人あるいは自分になったかを理解すること」(p9)を地で行く分析である。不良少年は生まれつき不良少年なのではない。本人の出自や家族関係、社会的背景の中で、本人が単独で制御しきれない悪循環がさまざまに作用する中で、「課されたことを進んでやると言う美徳が逆説的に働く」サイクルにはまり込んでしまうことにより、不良少年にならざるをえなくなったのだ。これは僕自身が、京都のダウンタウンの公立中学にいた時のクラスメイトが不良少年になっていくプロセスそのものであり、先のブログで取り上げた『ヒルビリーエレジー』や『CHAVS』で書かれた構造そのものである。そして改めてブルデューが凄いと思うのは、このような分析を80年代後半から計画し、90年代初頭にやり終えてしまったと言う点である。

これがこんな分厚い学術書が10万部も売れた背景にあるのだと感じている。

ポリフォニーの力

そしてこの本の分厚い記述に迫力があるのは、単一の論点、単一の主張にまとめようとせず、異なる声を異なるものとして、世界の悲惨と言う主題のもとに並列に並べてみた、という意味で、異なる音を同時に響かせるポリフォニーの力であるようにも思う。

例えば「労働者の町の住民たち」(p75-)では、アルジェリアから移民してきたペン・ミール一家と、そのお隣さんでミール氏の娘息子と大きく対立しているムニエさんの双方に話を聞き、それをそのまま掲載している。2家族ともそれぞれの歴史があり、すれ違いがあり、それゆえにお互いがお互いを罵り合っている。そのことを、どちらが正しいと評価するわけではなく、しかしながら表面的には人種差別やご近所の対立に見えるものの、先に述べた不良少年のように、二家族がどのような悪循環に構造的に追い込まれていくことによって、今のしんどい現状に陥ったのか、が両者のインタビューを通じて明らかになってくる。

差別する側とされる側、フランス人と外国人移民、団地を汚す側と管理する側、支援するソーシャルワーカーと支援される側、取り締まる警察と取り締まられる犯罪者予備軍、若者と高齢者、裁く側と裁かれる側・・・一見すると非対称にも思えるこの両者が、「下層プロレタリア」(p356)として閉じ込められていると言う点で構造的同一性を帯びていることを、インタビューを通じて「世界の悲惨」という象徴的タイトルの下に、この本は描こうとしている。

冒頭のインタビューでブルデューはこんな風にも述べている。

「あえて言えば、私はマルクスがなすべきであったがなさなかったことをした、マルクスが自分自身と首尾一貫していたならばしたであろうことをした、ということかもしれません」(p16)

最初読んだときにここで言わんとしている事はさっぱりわからなかった。しかしながら、500ページ近い本を読み終えた後、改めてこのフレーズを振り返ると、確かにブルデューは、マルクスが抽象的概念として描いた下層プロレタリアが、実際に何を考え、どのように振る舞い、いかに生きているのかをインタビューと社会分析から明らかにしていった。これは本来マルクスがなすべきだった仕事を、マルクスがしなかったから代わりにブルデューがしているとも言えるかもしれない。

「下級公務員、そのうち特に、いわゆる「社会福祉的」な機能を果たすこと、つまり市場の論理がもたらす、どうにも耐え難い帰結と欠如とを、必要な予算もなしに埋め合わすべく期待されている人たち、すなわち末端の警官や司法官、ソーシャルワーカー、(児童・青少年)指導員、そして次第に多くの小中高校の教員たちが、経済的観点からよしとされた現実政治がもたらす唯一の確実な帰結である。物質的・精神的後輩に立ち向かって努力を傾注する一方で、見捨てられ、さらには否認されたとさえ感じているのは理解できる。国家においては、国家の右手(高級官僚・大国家貴族)は、もはや国家の左手(下級公務員・小国家貴族)がやっていることを知らず、それどころか、左手のすることをもはや望んではいないのである。」(p354)

これはインタビューデータと社会分析に基づく階級間格差の極めて象徴的な分析であり、1990年代のフランスだけでなく、2020年代の日本においても、国家の右手と左手の分断、および下層プロレタリアの内部対立も押し寄せていることを、この本を読んで改めて痛感した。

その意味で、様々な異なる他者の経験が、そのものとしており重なる中で、異なる音を奏でながらも、そこに何らかの音の共鳴が響き渡り、ポリフォニックな、複数性のある世界観がこの本の中に立ち上がってくる。しかもどれもが、世界の悲惨と言う主旋律を、別のパート、別の楽器、別の音階で弾いている。

当初はこの1冊を読み通せるかどうかもすごく不安だったのだが、気づけば第2分冊第3分冊も買い求め、何とか読み通してみたいと思うように心境が変化していた。すごく迫力のある読書体験であった。

ノーマライゼーションと入所施設

気になる記事を読んだ。

「老朽化による建て替えを段階的に進める宮城県の知的障害者施設「船形コロニー」(大和町)のうち居住棟2棟が完成し、現地で1日、開所式があった。」「村井嘉浩知事は「思い入れの強い施設。ノーマライゼーションの哲学を生かし、有効に施設を活用したいと思い、残した。入居者や家族が安心できるよう充実を約束する」とあいさつした。」「船形コロニーは1973年開所。浅野史郎前知事が04年、県内全ての知的障害者施設の閉鎖を目指す「施設解体宣言」を打ち出したが、村井知事が06年にコロニー解体を撤回した。」(河北新報2020年9月2日

船形コロニーには、「施設解体宣言」が打ち出された直後に、調査に出かけたことがある。巨大な敷地に多くの知的障害者を収容する、障害者の大規模入所施設だ。もともとグループホームの推進を厚生労働省の課長として進めてきた浅野史郎さんが宮城県知事になった時、入所施設を解体し地域の中で暮らしてもらうことを宣言した施設解体宣言が出された。スウェーデンでは2003年に入所施設をゼロにした実情を現地調査していた僕にとっては、日本でもやっとその方向が打ち出されたことを、歴史の転換点として喜んで受け止めた。そして、船形コロニーの前にすでに実質的な施設縮小を始めていた長野県の西駒郷の調査も行っていたので、いよいよ日本でも入所施設は本格的に縮小解体されていくのだとこの時点では感じていた。

だが村井知事は「コロニー解体の撤回」をした上で、「重い障害がある人は入所施設でケアをし続ける」と言う宣言でもある。知事は「ノーマライゼーションの哲学を生かし」と述べているが、これは本当の意味でのノーマライゼーションの哲学を知るものからすると、全くその哲学を生かしていない、理念の誤用・逆行である。

2年前、「ノーマライゼーションの育ての父」と言われるベンクト・ニィリエのことを掘り下げた本を書いた。1969年に英語でノーマライゼーションの原理を発表し、アメリカを始め世界中に脱施設化の動きを進め、知的障害者福祉の歴史を変えた重要人物の1人と言われる人である。そのニィリエが、半世紀前にノーマライゼーションの原理を初めて言語化した文章の中で、居住環境についてこのように述べている。

「ノーマライゼーションの原理の重要な部分は、例えば、病院、学校、養護施設、生徒のホーム(訳注:学校に通う子どものための小規模グループホーム)や下宿ホームなどの建物の基準は、一般の市民向けの同様な建物に対するものと同じでならなければならないと言うことだ。この原理により、いくつもの特殊な結果を見出した。
a それは、知的障害者向けの施設の規模は、社会にあるノーマルな人間的なものと同等でなければならないと言うことだ。知的障害者の施設は、周辺社会の人々の生活の場よりも、多くの人々が一緒に生活する場として考えられたものではなく、周辺社会と同等なものにすることを常に念頭に置かなければならないと言う意味だ。
b ということは、さらに知的障害者のための施設が、単に知的障害者向けというだけの理由で、孤立した場所に設置されてはならないと言うことを意味しているのだ。
ノーマルな立地条件と建物の水準、そしてノーマルな規模のものであれば、知的障害者向けの施設は、そこに住み生活する人たちに統合成功に向けてのより優れた可能性を与えてくれる。」(ベンクト・ニィリエ著『再考・ノーマライゼーションの原理』現代書館、p19-20)

ニィリエは「知的障害者向けの施設の規模は、社会にあるノーマルな人間的なものと同等でなければならない」と述べている。「多くの人々が一緒に生活する場として考えられたものではなく、周辺社会と同等なものにすることを常に念頭に置かなければならない」ということは、人里離れた場所にある大規模入所施設を否定し、グループホームに代表されるように、普通の人の住居と同じ規模のもので、少人数での生活を念頭においている。このニィリエの哲学と、村井知事が言う「ノーマライゼーションの哲学」は、全く真逆である。

ニィリエは、知的障害者も他の人と同じような生活環境を与えられるべきであると主張した。障害者だけが集団生活をさせられるのはおかしい。この単純な原則に基づき、普通の暮らしを実現するためには、入所施設を解体縮小し、街の中で少人数で暮らせるような支援システムを作るべきだと唱えた。実際にスウェーデンでは、2003年に入所施設は本当になくなり、どんなに重い知的障害を持っている人でも、グループホームなど街の中にある住まいで暮らすことができ、そこから買い物や余暇など地域での暮らしを楽しめるような仕組みを作った。

そして日本における施設解体宣言とは、1人の知事による人気取りのパフォーマンスではなく、本来であれば重い障害のある人も地域の中で当たり前に暮らせる、ニィリエが言う意味でのノーマライゼーションの原理の実現に向けた方向転換であったはずだ。

宮城県での施設解体宣言が出される前から、実質的に施設の縮小を進めてきた長野県の西駒郷に調査に入っていたこともある。これは大阪府立大学の三田優子さんの研究チームに混ぜてもらった時のことだ。この西駒郷の地域移行は、「ノーマライゼーションの哲学」を極めて忠実に守ったものであった。入所施設で暮らしている人にじっくりと本人の意向を聞き取った上で、本人の居住位置に近いところにグループホームを作り、そこで仕事の場を探す。そしてグループホームでの生活に自信ができたら、一人暮らしへの移行(グループホームからの卒業)も支援する。そんなプロセスである。(詳しくはこの当時の調査報告書もネットで読むことが出来る)

この当時、多くの知的障害のある当事者に聞き取りをしていて、非常に印象的だったことがある。それは、入所施設にいたときには、「もうここでいい」と思っていた人が、グループホームで住むようになると、自分の自由が増え、誰にも邪魔されない1人部屋の快適さや、制約の少ない生活環境を楽しむようになり、入所施設に戻りたくないと言い出したと言うことである。入所施設の生活しか知らない人は、「ここでいい」と思っている(諦めている)が、別の生活の選択肢もあり得るのだと知ると、入所施設でない生活の方が良いとおっしゃるのである。

ただ西駒郷の地域移行にも限界があった。強度行動障害や、いわゆる重度障害とラベルが貼られている人を地域で支えるには、かなりの人員配置が必要なのだが、国の制度ではそこまでの体制が十分に整えられていなかったため、思うように地域移行が進まなかったのである。 また「親なき後の我が子の幸せ」を切実に願う、知的障害者の保護者たちの中には、入所施設こそが安心できる場であり、入所施設をなくされると我が子の生活保障はできないと強く思い、施設存続を求める人もいた。その中で西駒郷も重度障害者のための新しい入所施設を作り、現在でも重度障害の人はそこで暮らしている。つまり障害の重い軽いの違いによって、暮らす場所が異なっているのである。そしてこの論理が、船形コロニーにも引き継がれてしまった。

だが「入所施設こそ安心できる場」と言うのは、幻想である。そのことを明確に知らせてくれるのが、神奈川県の入所施設での事件である。相模原で起きた障害者連続殺傷事件の舞台である入所移設と同じ法人が経営する、別のやまゆり園で、虐待事件が発生した。

「愛名やまゆり園は、知的障害のある人約100人が入所。県に匿名で「人権侵害にあたるのでは」との情報が寄せられたことから調査に踏み切った。関係者によると、男性の居室(1人部屋)のドアの引き戸の取っ手にガムテープがはられていることを県担当者が確認した。男性は、けが防止を理由にミトンの手袋をはめられており、自分ではドアを開けられない状況だったという。」(毎日新聞2020年9月2日

僕はこの記事の「男性は、けが防止を理由にミトンの手袋をはめられており、自分ではドアを開けられない状況だったという」を読んで、船形コロニーの重度棟で自分自身が体験した、あることを思い出していた。それは、こんな風に言語化したことがある。

「10年以上前,とある入所施設で調査研究を行う際,まずはその施設の実情を学ばせてもらおう,と「1 日体験」 をさせてもらった。私が受け入れられたのは「重度棟」と呼ばれ,強度行動障害をもつ方や,重症心身障害の方が入所されていた。その棟に足を踏み入れてまもなく,何も言わずにスッと近寄ってきて,私の手を握ってくれた男性がいた。仮に Aさん,と呼ぼう。
Aさんは言語的コミュニケーションが難しい方である。 私がいろいろ話しかけても,何も答えてくださらない。でも,ずっと手を握って,施設内をあちこち動こうとする。 「なるほど,今日は 1日 A さんが私にお付き合いしてくだ さるのだな」と勝手に納得して,手をつながれるまま,施設内をぶらぶらしていた。その後,とある「事件」が起こることなど,全く予期せぬまま。
Aさんと私は,日中はデイルームとして開放されている,食堂の片隅に座っていた。やがて夕食の配膳の準備が始まると,支援スタッフがそこにいた当事者のうちの何人かを食堂の外に出し,食堂の扉の鍵を一旦施錠する。多くの利用者は,食堂の外からガラス越しにこちらを眺めている。私と A さんはその光景を,食堂の中からぼんやり見ていた。
そして,支援スタッフは当日の夕食の配膳を始めた。味噌汁にご飯,おかずと各テーブルに並べていく。A さんと私が座っているテーブルにもその食事が並べられていった。すると突然 A さんは,目の前のおかずを猛烈な勢いで食べ出した。必死の形相で,目の前の一人分だけでなく,他の人の分まで食べようとする。私はオロオロして, 「A さん,食事時間まで待とうよ!」と語りかけ,ご飯を食べる手を押さえようとするものの,A さんは食事に集中して聞いてくれない。するとベテランスタッフたちが「しまったなぁ」という顔でやってきて,暴れて抵抗する A さんを二人がかりで抱きかかえ,食堂の外に連れ出す。オロオロしながら後から私もついて行くと,「静養室」と書かれた部屋に A さんを入れ,外から鍵をかけた。A さんは必死に扉をガンガン叩いているが,あるスタッフは「もう今日の晩飯は十分に食べたから,オシマイ」と言って,食堂に戻っていった。
後でそのスタッフに伺うと,食堂の配膳時には,きちんと食事まで待てる人以外は外に出ておいてもらわないと今日のようなことが起こるということ,そして A さんは普段は外に出される人であるということ,今日は私が一緒にいたのでそれをしなかったこと,が語られた。私には,「静養室」の中から扉を叩きながら私を見つめる A さんの表情が,今でも脳裏に浮かぶ。そして,「静養室」から出された後の A さんは,私と目を合わせず,決して手もつないでくださらなかったことも・・・。」
(竹端寛「私たちが目指す共生社会の 実現に向けて」さぽーと 2014.02 )

やまゆり園で「けが防止を理由にミトンの手袋をはめられて」いた男性も、僕が船形コロニーで出会ったAさんも、「自分ではドアを開けられない状況」だった。おそらく二人とも、言語的コミュニケーションでやりとりすることが難しく、「強度行動障害をもつ方や,重症心身障害の方」とラベリングされていたのだろう。そして、「注意しても聞かないから」と、「自分ではドアを開けられない状況」に押し込められていた。

ただ、どちらも入所施設での制約だった、というのがポイントである。大規模入所施設では、集団生活が基本であるため、一人一人のニーズが尊重されにくい。そもそも、支援の人手がかかるため、50人など多人数を「効率的」に収容し、24時間同じ場所にいてもらうことで、「効率的」にケアするのが、入所施設の根本的特徴である。そこには第三者の目が届きにくい。そのような現場で、自分自身の尊厳が守られない生活を送っていると、「必死の形相で,目の前の一人分だけでなく,他の人の分まで食べようとする」のである。それは、Aさんが野蛮だから、聞き分けのない人だから、ではない。ふだんから満足に自分の希望が満たされていないと思い、それがやっと第三者(=何も知らない竹端)の介在によって満たされるから「必死の形相」になるのである。逆に言えば、普段から自分の希望が満たされていたら、そんなに必死にはならない。

そのように、自分自身の願望が満たされてないと言う欠如があるだけではなく、もう一つ大きな問題がある。それは職員が言うことを聞かない場合、外から鍵がかかる部屋に閉じ込められると言うことである。施設収容においては真にやむを得ない場合のみ隔離拘束が認められているが、それが現場レベルでは、どんどんと拡大解釈され、濫用されていると言うことである。やまゆり園はその濫用が内部通報によって発覚した。

入所施設はただでさえ第三者の目が入りにくく、職員と利用者の間でヒエラルキー的な支配—服従に結びつく、強固な上下関係が成立しやすい。しかも最近の入所施設は、職員の賃金構造がいびつで、若手職員を中心に臨時職員の雇用が多く、十分な研修等が受けられているわけではない。強度行動障害や重症心身障害の人でも、適切な関わり方をすれば充分に落ち着く事は可能(RDIなど色々な支援方法は日本でも導入されている)なのに、そのような適切な関わり方の支援の研修を受けないまま、とりあえず目の前にいる利用者の危機に対応することが求められる。すると少人数で場を治めるためには、いうことを聞かない人は、とりあえず別の部屋に閉じ込めておくというのが、安易な解決手段である。今から振り返ってみると、Aさんが閉じ込められていたのも、その安易な解決策だった。

つまり入所施設と言うのは、当事者にとって決して安心できる場ではないのである。しかも、施設職員個人が悪だとか、そのような個人レベルの問題ではない。そもそも一人ひとりの支援ニーズが異なる人々を集団で集めて、規格化された支援の中に押し込もうとする、入所施設の構造そのものが問題なのである。だからこそ脱施設化や施設解体が必要であるとノーマライゼーションの原理で述べていたのである。ノーマライゼーションの哲学を本当に理解しているのであれば、せめて入所施設を小規模にしたり、地域の中で重い障害がある人も暮らせるような支援体制を構築することこそ求められている。まかり間違っても新しい入所施設を作って、それがノーマライゼーションの哲学に沿っているなどと言うのは、誤解も甚だしい。

100歩譲って保護者が求めるからと言うのであれば、本人が本当に求めるような生活を保護者と共に作り上げていく必要がある。実際相模原で連続殺傷事件が起こった津久井やまゆり園の元利用者達に向けては、地域の中で暮らしたい人のニーズに沿った支援が展開され始めている。そのことを物語る、象徴的な記事がある。

「事件が転機になった。神奈川県が園を現地で再建する方針を決めると、障害者団体からは「障害者の生活の場を施設から地域に移す『地域移行』の流れに逆行する」と批判が噴出した。
「園でしか生活できない人がいることを知って欲しい」。剛志さんは当初、強い反発を覚えたという。
だが、事件を考える講演会やシンポジウムに参加するうちに、重い障害があっても、介助を受けながらアパートなどで自立して暮らす人がいることを知った。実際に自立生活をしている人を訪ねた。重い知的障害がある人が、介助者とともにアパートで暮らし、外出したり家でご飯を食べたりしていた。
「そういう暮らしもあるのか」
昨夏から、毎週の面会に、介護福祉士の大坪寧樹(やすき)さん(51)が加わっている。今後は、大坪さんと2人で外出したり、短期間の2人暮らしを経験したりするつもりだ。施設暮らしと、アパートでの生活と、どちらがいいか。両方を経験し、一矢さんが決める。
「事件があって、一矢の生活も変わった。一矢の選択肢を増やすのが、僕にできることだと思う」と剛志さん。」
やまゆり園か地域か 生活の場、自分で選ぶ 事件3年

一矢さんは、バリバラの映像で何度か拝見したことがあるが、僕が出会ったAさんと同じような、「重度」とラベリングされる障害を持っている。そして、親の剛志さんは、事件後も「園でしか生活できない人がいることを知って欲しい」と当初は訴えていた。だが、一矢さんやAさんと同じような重い障害のある人も地域で暮らしていることを知り、「そういう暮らしもあるのか」も知ることで、別の暮らし方を模索し始める。それが、「一矢の選択肢を増やすのが、僕にできることだと思う」と剛志さんの考えを変えるにいたった。

このプロセスが、たまたま残虐な事件が起こった津久井やまゆり園の元入所者には与えられ、別のやまゆり園で「けが防止を理由にミトンの手袋をはめられて」いた人や、僕が出会ったAさんには与えられていなかった。それは、あまりに不平等だし、一般社会の人と同等な暮らしが提供されていない。アブノーマルであり、おかしい。

村井知事は重度障害者施設を建てることではなく、意思決定支援や重度訪問介護、重度障害者向けのグループホームなどの支援体制を増やし、「園でしか生活できない人がいることを知って欲しい」と思っていた当事者や保護者に対して、「一矢の選択肢を増やすのが、僕にできることだと思う」と剛志さんの考えが変わるような、そういう支援を提供すべきではないのか。それが村井知事のいう「ノーマライゼーションの哲学」ではないか。

そんなことを考えている。