ポリフォニックな物語

1冊で491ページもあり、他にも二分冊がある社会学者ブルデューの編著『世界の悲惨 Ⅰ』(藤原書店)を読む。読み終えて、稚拙だが偽らざる感想として浮かんだのが、「僕でも読めた!」である。

以前読んだ『リフレクシヴ・ソシオロジーへの正体』(藤原書店)は、彼へのインタビューに基づく入門書であると言う事でもあり、読み通すことができた。だが彼の調査研究の本は、冒頭からなかなか難しい分析が入り、しっかり読み通せた本はなかった。だから今回、あるZoom読書会でこの本が指定された時に、正直に言えば本当に読み通せるのだろうかと半信半疑だった。

そこで第一部を読み始めた時、難解なブルデューの総括論文も、あるいは彼が描いたインタビューの対象者の社会分析もすっ飛ばし、インタビュー自体から読み始める。するとあら不思議、インタビューは普通の言葉でやりとりされているので、ちゃんと僕には読めた。これはブルデューの弟子たちによる他のインタビューでも同じである。この本の構成は、抽象度の高い総括論文の後に、インタビュー対象者の社会的属性に関する社会分析の論考があり、その後インタビューと続く。しかしながら、僕のような帰納論的な読み方が好きな人間にとっては、インタビューを先に読み、その後インタビューの背景となるような対象者の社会分析を読んだ上で、そのまとまりを全部読んだ後に総括論文を読むと、無味乾燥に見える総括論文の深い味わいがやっと読み解けることができた。

そして491ページまで続く膨大なインタビューの最後まで読み終えてから、冒頭の1ページに戻って、彼がこの本について語ったインタビューのところを読み直すと、「あー、彼はこういう意図と戦略を持ってこの論を編み上げたのか」、という全体像というかパノラマのようなものが深く理解できた。今回一番腑に落ちたのは、ハビトゥス理解である。

ハビトゥスを理解する

「一人の人間が書くものには固有の形、姿、特徴があって、それを見ればすぐ、これはあなたの書いたもの、これは私の書いたものとわかります。多様性を超えたところに、ある統一性があるわけです。ひとりの人間の、ものを食べる仕方、話し方、衣服の着方、髪の整え方、すべてに親近性、類縁性、統一性があります。これがどのようにして形成されるか。興味深いのは、ハビトゥスは明らかに後天的に獲得されるのですが、その獲得のされ方は全く無意識的であると言うことです。ハビトゥスという私たちの中にある原理、文法は私たちに左右できないもの、私たちの統制の及ばないものであるということです。」(p15-16)

この本のインタビューや社会分析を通じ、インタビュー対象者の無意識な文法であるハビトゥスというのが明らかになっている。彼は「このハビトゥスを直感的に把握すれば、人の言動を予測できることになります。的確な質問ができます。未知のもの同士の間にごく自然な、くだけた会話が成り立つのは、相手のハビトゥスについての認識があるからです」(p10)と書いている。実はこのインタビューが僕にとってすっと入ってきたのは、ここに書かれている人々のハビトゥスに、ある程度の親近感というか、知っている世界であると言う感覚を直感として持てたからである。それは以前ブログに書いたが、僕自身が京都のダウンタウンで育ち、ここに書かれているような人々のハビトゥスをある程度推測できるような原体験を持っているからである。

さらに言うと、僕は中学以降、通っていた塾の塾長や、お世話になった予備校の先生、そして大学院で弟子入りした大熊一夫氏など、尊敬する他者(僕とは違うハビトゥスを持っている人)の口真似や振る舞い方の真似をしてきた。その当時は真似して学ぶことを疑わなかったが、一方で猿真似のような気もして、気恥ずかしさも持っていた。でも20年ぶり位に当時の真似について改めて考えてみると、それは自分が持っていなかった、自分とは異なる世界に属する他者を真似する中で、その人の骨法というか内在的論理を学び、ハビトゥスを受肉化しようとしていたのではないか、ブルデューの論考を読みながら改めて感じている。

特に大学院時代、大熊一夫師匠に弟子入りし、たくさんのおいしい料理をご馳走になり、様々な彼のエピソードを繰り返し学ばせていただいた。おいしいワインの何たるかなんて知る由もなく、イタリアンもフレンチもほとんど食べたことがなかった僕にとって、新聞記者を辞めた時にシェフになろうかと思案したと言う師匠の深い食への造形や、美意識、こだわりを、内弟子として「ご相伴にあずかる」中で、しっかり学ばせて頂いた。もちろん本業に関しても、精神医療を何十年も取材し続け、特ダネを連発し、ルポの世界ではその名をとどろかせたジャーナリストとしての物の見方、考え方、対象への迫り方、文章の書き方なども、マニュアルで指導されたのではなく、師匠の生き様についていく中で、その一部を部分的に真似する中で、文字通り師匠から芸を盗むかのように学んでいった。それは師匠のハビトゥスを深く理解しようという模索であり、結果的には、自分自身のハビトゥスの書き換えにもつながっていった。なので「ハビトゥスを理解する事はその人間を理解すること」(p9)というのは本当にしっくりくる表現である。

そしてこの本が理解社会学の王道だと感じるのは、「質問を受けている人の立場に立つために、質問する者の主観の歪みを批判しなければならないのです」(p8)と言う部分に象徴されていると思う。彼はこのことを「客観化する者の視点を客観化すること」(p8)とパラフレーズしているが、まさにインタビューする側の権力性や、主観的な視野の歪みを、そのものとして理解することと、相手がどのようなハビトゥスを持ってそれを言おうとしているのかを理解しようとすることが、等しく重要である、という認識は、このインタビューがすごく読みやすい理由が示されている。

「自然に見える面談の背景には、調査者が被調査者のハビトゥスについての科学的な認識を持っているということがあるわけです。」(p10)

話が通じている!

それが最も成功しているのは、ブルデュー自身がインタビューした「フランス北部の二人の若者」をめぐるエピソードである。

齢61才の、東大より遙かに格上のコレージュ・ド・フランス教授が、アリとフランソワという、郊外の団地住まいで、フランスで生まれたアラブ人の移民二世で、「不良少年」とラベリングされた二人の青年にインタビューしている。これ以上にない「不釣り合いな両者」と思われるインタビューなのに、言葉が通じている。一期一会の信頼関係が出来ている。それはブルデューによる、少年2人への敬意と、彼らの社会的立ち位置や内在的論理に対する深い理解があったからではないかと改めて感じる。それはインタビューの前に置かれた、ブルデューによる社会分析にも表れている。彼はアリという青年が、8歳の時にモロッコからフランスにやってきて、両親とはアラビア語しか話さなかったため、フランス語を読めるようになるまで大変な苦労をしたという社会的背景を描いた後、このように分析している。

「どう見ても、彼の学校に対する拒否反応と、彼を次第に「手におえない」生徒と言う役割に閉じ込めてしまった反抗的態度の根源には、他の生徒たちの前でフランス語を読まされる屈辱から逃れたいと言う欲求があるように思われる。勉強を怠り、授業をさぼってしまうと、ますます成績が悪化し、拒絶の連鎖にはまり込んで、またしても成績が悪化する。これこそ、課されたことを進んでやると言う美徳が逆説的に働いて、学校的には悪行であることを進んでやるようになり、ほどなく彼の社会的にも不良少年にしてしまったのだ。」(p139)

これはブルデューが「客観化する視点自体を客観化する」の項目で述べている、「その人あるいは自分がどのようにして今の人あるいは自分になったかを理解すること」(p9)を地で行く分析である。不良少年は生まれつき不良少年なのではない。本人の出自や家族関係、社会的背景の中で、本人が単独で制御しきれない悪循環がさまざまに作用する中で、「課されたことを進んでやると言う美徳が逆説的に働く」サイクルにはまり込んでしまうことにより、不良少年にならざるをえなくなったのだ。これは僕自身が、京都のダウンタウンの公立中学にいた時のクラスメイトが不良少年になっていくプロセスそのものであり、先のブログで取り上げた『ヒルビリーエレジー』や『CHAVS』で書かれた構造そのものである。そして改めてブルデューが凄いと思うのは、このような分析を80年代後半から計画し、90年代初頭にやり終えてしまったと言う点である。

これがこんな分厚い学術書が10万部も売れた背景にあるのだと感じている。

ポリフォニーの力

そしてこの本の分厚い記述に迫力があるのは、単一の論点、単一の主張にまとめようとせず、異なる声を異なるものとして、世界の悲惨と言う主題のもとに並列に並べてみた、という意味で、異なる音を同時に響かせるポリフォニーの力であるようにも思う。

例えば「労働者の町の住民たち」(p75-)では、アルジェリアから移民してきたペン・ミール一家と、そのお隣さんでミール氏の娘息子と大きく対立しているムニエさんの双方に話を聞き、それをそのまま掲載している。2家族ともそれぞれの歴史があり、すれ違いがあり、それゆえにお互いがお互いを罵り合っている。そのことを、どちらが正しいと評価するわけではなく、しかしながら表面的には人種差別やご近所の対立に見えるものの、先に述べた不良少年のように、二家族がどのような悪循環に構造的に追い込まれていくことによって、今のしんどい現状に陥ったのか、が両者のインタビューを通じて明らかになってくる。

差別する側とされる側、フランス人と外国人移民、団地を汚す側と管理する側、支援するソーシャルワーカーと支援される側、取り締まる警察と取り締まられる犯罪者予備軍、若者と高齢者、裁く側と裁かれる側・・・一見すると非対称にも思えるこの両者が、「下層プロレタリア」(p356)として閉じ込められていると言う点で構造的同一性を帯びていることを、インタビューを通じて「世界の悲惨」という象徴的タイトルの下に、この本は描こうとしている。

冒頭のインタビューでブルデューはこんな風にも述べている。

「あえて言えば、私はマルクスがなすべきであったがなさなかったことをした、マルクスが自分自身と首尾一貫していたならばしたであろうことをした、ということかもしれません」(p16)

最初読んだときにここで言わんとしている事はさっぱりわからなかった。しかしながら、500ページ近い本を読み終えた後、改めてこのフレーズを振り返ると、確かにブルデューは、マルクスが抽象的概念として描いた下層プロレタリアが、実際に何を考え、どのように振る舞い、いかに生きているのかをインタビューと社会分析から明らかにしていった。これは本来マルクスがなすべきだった仕事を、マルクスがしなかったから代わりにブルデューがしているとも言えるかもしれない。

「下級公務員、そのうち特に、いわゆる「社会福祉的」な機能を果たすこと、つまり市場の論理がもたらす、どうにも耐え難い帰結と欠如とを、必要な予算もなしに埋め合わすべく期待されている人たち、すなわち末端の警官や司法官、ソーシャルワーカー、(児童・青少年)指導員、そして次第に多くの小中高校の教員たちが、経済的観点からよしとされた現実政治がもたらす唯一の確実な帰結である。物質的・精神的後輩に立ち向かって努力を傾注する一方で、見捨てられ、さらには否認されたとさえ感じているのは理解できる。国家においては、国家の右手(高級官僚・大国家貴族)は、もはや国家の左手(下級公務員・小国家貴族)がやっていることを知らず、それどころか、左手のすることをもはや望んではいないのである。」(p354)

これはインタビューデータと社会分析に基づく階級間格差の極めて象徴的な分析であり、1990年代のフランスだけでなく、2020年代の日本においても、国家の右手と左手の分断、および下層プロレタリアの内部対立も押し寄せていることを、この本を読んで改めて痛感した。

その意味で、様々な異なる他者の経験が、そのものとしており重なる中で、異なる音を奏でながらも、そこに何らかの音の共鳴が響き渡り、ポリフォニックな、複数性のある世界観がこの本の中に立ち上がってくる。しかもどれもが、世界の悲惨と言う主旋律を、別のパート、別の楽器、別の音階で弾いている。

当初はこの1冊を読み通せるかどうかもすごく不安だったのだが、気づけば第2分冊第3分冊も買い求め、何とか読み通してみたいと思うように心境が変化していた。すごく迫力のある読書体験であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。