仮住まいの我が家では本棚が足りず、段ボールに入れた本が落ちてきた。その本を拾い上げて何気なく読み始めたら、めちゃくちゃ面白くて一晩で読み終えてしまった。今日はそんな本のご紹介である。
「『ついてこれない』とは、その子どもがついてこなかったのか、ついてこれなかったのか、またついてこさせなかったのか、の状態の分析と原因を明らかにし、何とが子どもが意欲的に取り組むようにした。
また、ある集団から疎外されている子供を、その子自身の問題としてのみ受け止めるのではなく、むしろ、疎外・差別している集団の側の問題として受け止め、個々のケースでの研究、指導を行った。」(橋本直樹著『子どもを「分けない」学校(「ともに学び、ともに生きる」豊中のインクルーシブ教育)』教育開発研究所、p48-49)
橋本さんは、大阪の豊中市の公立学校教員である。そして彼が校長を務めた南桜塚小学校の研究紀要の1977年度研究に、上記の記述を発見している。
「ついてこれない」というと、どうしてもその子ども個人の問題のように、一見思える。だが、「ついてこさせなかった」と補助線を入れると、教員や学級など「疎外・差別している集団の側の問題として受け止め」る必要がある。このような視点を半世紀前から持っている学校なので、「すべての教職員がすべての子どもの担当である」という意識を持ち、「障害のある子どもが、通常の学級で他の児童・生徒とたちとともに学び生活することを保証する」「原学級」保証を半世紀かけて積み上げてきた。(その教育実践はルポ「教室から席がなくなるのはイヤ──「ともに学び、ともに育つ」大阪府独自のインクルーシブ教育、揺らぐ足元」などに詳しい)
この学校のことは報道で知っていたが、具体的な支援のあり方を読んで、すごい!と思ったのは、以下の部分だ。支援学級の先生が原学級に入ってアシストする「入り込み」について触れた場面である。
「支援学級に在籍する子どものなかには、子どもたちの人間関係や学級担任の配慮次第で十分学校生活を送ることができる子もいます。ほとんどの子どもが、学年が進むにつれて入り込みの時数を減らしていきます。人間関係の深まりや変化をよく見ながら、情報を教職員で共有し、議論もしながら、安心して学校生活を送ることができるように対応しています。
支援学級担任と3人の介助員の12人はインカム(無線)を常に身につけて、子どもたちの状況を共有しています。1日のうちに子どもの状況は変化していきます。たとえば、入り込みの時間にあたっていない教職員が廊下を巡回し、『○○ちゃんの状況がよくない』ことに気づけば、インカムで『○年○組の○○ちゃん、今入り込みないんですけど、気になるので入ることができる人いますか。いなければ私が入ります』と流すと『○○ちゃんなら私がいいと思いますので、行きます。こちら○年○組みのほうをお願いします』というようなやりとりをしています。また、緊急事態の際にも、すぐに集合して、早い対応ができます。」(p126)
この公立小学校では半世紀以上にわたって、「すべての教職員がすべての子どもの担当である」という理念が浸透してきた。だからこそ、支援学級担任も介助員も、自分の担当する特定の子どもだけに関わるのではない。インカムを通じたチーム支援が徹底していて、『○年○組の○○ちゃん、今入り込みないんですけど、気になるので入ることができる人いますか。いなければ私が入ります』と巡回中に変化に気づき、対応を始める。そして、この呼びかけを受けて、『○○ちゃんなら私がいいと思いますので、行きます。こちら○年○組みのほうをお願いします』と個別性の高いニーズへの対応を買って出てくれるのみならず、別のクラスのサポートにも回れる。この機動力と対応力がすごい。
「支援学級在籍の子どもだけでなく、応援があれば前に進める子どもがたくさんいます。子どもたちは入り込みの先生を『おたすけ先生』と呼ぶこともあります。支援学級担任が通常学級の担任と授業を交代し、通常学級担任が個別に子ども対応をすることもあります。とにかくそのときどきの最善を求めて柔軟に対応します。」(p127)
うちの娘も算数が苦手で、まさに「応援があれば前に進める子ども」なので、「おたすけ先生」がいたらめっちゃ喜ぶだろうなあと思う。特別支援学級・学校で区切られた場所にいたら、物理的には特定の子どもにしか相手は出来ないが、普通学級に入ってきてくれたら、支援が必要な子の相手をしながらも、その周りの応援を必要としている子どもたちもサポートできる。また、こういう風に「おたすけ先生」が機敏かつ柔軟に対応してくれるので、障害のある子も、その周りにいる子も、困らなくて済む。分けていなければ、より広範に・柔軟に助け合えるのだ。
「私たちは、『ともに学ぶ』なかで何度も何度も子どもたちの言葉や行動のなかに奇跡を見てきました。当初は分離したうえでの訓練や学習を望む保護者もいますが、ともに学ぶなかで、しだいに、奇跡のような出来事に出会い、子どもの成長を感じ始めます。
子どもに対して担当者・係をつくらないということと、もうひとつ大事なことは、特別な場所をつくらないことです。どんな親しみのあるいい名前をつけた部屋であっても、そこが特定の子どもが先生と向き合い学習をしたり、活動場所として使用している限り、他の子どもたちにとっては自分とはまったく関係のない特別な場所になってしまうのです。すでに特別視(特別扱いではない)されている子どもたちと『交流』の名のもと通常学級で一緒に学ぶ時間があっても、しだいに心のなかで排除が始まり、偏見は子どもの心に定着していくのです。」(p172)
大学の講義でインクルーシブ教育について議論をするときに、学生たちのネガティブな記憶で必ず出てくるのが、「障害のある子どものお世話係をさせられて嫌だった」という経験である。これは、本来は教員がしなければならないサポートを「勉強の出来る子」に押しつけている、という意味で、本末転倒である。この小学校では、12人のインカムチームが「おたすけ先生」でいるので、そういう係は作っていない。それだけでなく、「ひまわり学級」であろうが「おおぞら学級」であろうが、「どんな親しみのあるいい名前をつけた部屋であっても、そこが特定の子どもが先生と向き合い学習をしたり、活動場所として使用している限り、他の子どもたちにとっては自分とはまったく関係のない特別な場所になってしまう」というのは、本当にそのとおりである。多くの大学生が、そしてかつての私自身が、障害のある子とない子が共に学ぶのは「理想論」だと思い込んでいた背景には、「特別視(特別扱いではない)されている子どもたちと『交流』の名のもと通常学級で一緒に学ぶ時間があっても、しだいに心のなかで排除が始まり、偏見は子どもの心に定着」したから、というのがある。ここを打ち破るためには原学級保証が必要であり、先日はイタリアのフルインクルーシブ教育を紹介したが、イタリアに行かずとも、伊丹空港のお膝元である豊中市でも半世紀かけて実現してきたのである。
そうすると、こんな学び合いのエピソードが生まれる。豊中で育ち、今は西宮のメインストリーム協会で活動している鍛治さんを巡るエピソードである。
「隣の席の友だちから『かっちゃんノート書きや!』と言われたので、『障害者やからノート書かなくてええねん』と返すと、友だちは『そっか』と言って、うまくさぼることができました。
鍛治さんは、『なんてすばらしい言い訳だろう』と思ったそうですが、その日の終わりの会で大変なことが起こりました。クラスの全員から、『鍛治君は都合のいい障害者だと思います。そんな都合のいいやつのために移動教室の手伝いとかやりたくありません』と言われてしまったのです。実際にそれから3日ほど、体育や音楽の移動教室の際に一人になってしまうことがありました。
『俺、小学校でやっていかれへんかもしれへん』と母親にこの間のことを相談すると、『それはあんたが悪い。障害者である前に一人の人間として、『鍛治のためやったら力になりたい』と思ってもらえる人間になりなさい』と諭されたそうです。
次の日、泣きじゃくりながらクラスのみんなに謝って許してもらいました。この間、担任の先生は見守ってくれていました。ここで担任が『みんな、鍛治さんは障害者ですよ。冷たいことを言わないで助けてあげて』などと言っていたら、その瞬間子どもたちの人間関係は切れてしまったでしょう。
『ともに学び、ともに生きる』なかで、子どもたちはお互いに批判できる関係、本気でけんかできる関係を育んでいるのです。」(p139)
障害のある子もない子も、ズルする子はいる。鍛治さんも、そんなズルをしていた。しかも自らの障害をダシにして。すると、クラス全員から『鍛治君は都合のいい障害者だと思います。そんな都合のいいやつのために移動教室の手伝いとかやりたくありません』と宣言される。これは、彼には死活問題であり、母親に泣きついたところ、『鍛治のためやったら力になりたい』と思ってもらえる人間になりなさい』と諭された。だからこそ、「次の日、泣きじゃくりながらクラスのみんなに謝って許してもらいました」という。障害の有無ではなく、クラスメイトとして対等に批判しあい、謝罪する。本気でぶつかり合うからこそ、ほんまもんの仲間になる。それを教員が応援している構図が、実に素敵である。
なぜ豊中でそんな実践が出来たのか。これは「すべての差別からの解放をめざす、民主的な人間の育成に努める教育」である「解放教育」のバックボーンがある(p11)。実際1971年に豊中市教育委員会によって定められた「同和教育基本方針」には、以下のような規定が書かれていた。
「同和教育を推進するうえで、障害児が人間として生きる権利、教育を受ける権利を保障することは重要な課題である。障害児の生活を守り、その社会的自立をめざし、障害の種類と程度に応じた教育内容と方法が創造され実践されなければならない。
しかし、現在まで、担当者による実践の積み重ねや問題の提起はあったとしても、障害児教育全体の充実にまで発展しなかった。すなわち、教育条件の不十分さと一般的な理解の不足などから、学校教育の中での正しい位置づけがなされないばかりか、重症障害児が教育を受ける機会の保障もきわめて不十分であり、父母や子どもの強いねがいを実現するに至らなかった。
したがって、障害児教育の総合的な推進をはかり、障害児の社会的自立への手だてを明らかにしなければならない。そのためには、系統だった教育施設の整備をすすめるとともに、関係者の研修機会を拡充するなど総合計画を樹立し、教師・父母・地域・医療関係者が一体となって推進しなければならない。」(p213-214)
この宣言に基づいて、「系統だった教育施設の整備をすすめるとともに、関係者の研修機会を拡充するなど総合計画を樹立し、教師・父母・地域・医療関係者が一体となって推進」してきた半世紀の積み上げがあるからこそ、豊中では「障害児教育の総合的な推進」が展開されてきたのだ。
インクルーシブ教育は、クラスを一緒にするだけではだめだ。原学級保証のような形で、障害がある子もない子も共に学び合い、担任の先生だけでなく、全ての先生が「おたすけ先生」として関わってくれる。そのような、目の行き届いた安心できる環境だからこそ、鍛治さんとクラスメイトのような本気のぶつかり合いが可能になる。そんな環境が豊中でも出来るのだから、全国に拡がって欲しい。本当にそう思う。