どんな内容かよくわからなくても、著者や訳者が信用できる人なら、ジャケ買いではなくても「ネーム買い」する本ってある。今回は、訳者に「プリズン・サークル」にも出てきた藤岡淳子さんと、同じ映画に登場し『刑務所に回復共同体をつくる』の著者である毛利真弓さんが並んでいたので、どんな内容かよくわからないまま購入して読み始めたら、めちゃくちゃ面白かった。
「誤解3:生徒は適切な振る舞い方を知ってから学校に来るべきです。
事実:多くの子どもや若者は、家や自分のコミュテニィの大人によって影響を受け、そこで示されたことを見て真似ています。もし彼らの生活の中にいる大人が適切な行動のモデルを示せなかったり、肯定的な社会的・情緒的行動をよく理解していなかったりすれば、生徒たちにそれらのスキルを持って学校に来ることを期待することはできません。私たちは教育者として読み書きや数学を教えるのと同じように、行動についても教える必要があります。」
(『学校に対話と尊重の文化をつくる修復的実践プレイブック』明石書店、p30)
これは教育関係者がよく間違えやすい誤解であり、核心部分に触れる話でもある。
学校の先生は、子ども時代から「しっかり」「ちゃんと」勉強が出来た「優等生」が大半だ。つまり自分自身も「適切な振る舞い方」を身につけてきた経験を持つ。一方、学校をさぼりがち、遅刻しがち、嘘をつく、問題行動をする・・・といった子どもを目の前にすると、なぜそれが出来ないのか、が理解しにくい。そして、常識的な推論からして、「親が悪い」し、「適切な振る舞い方を知ってから学校に来るべきです」となる。
ただ、その親自体が「適切な行動のモデルを示せなかったり、肯定的な社会的・情緒的行動をよく理解していなかったり」する場合も、充分に考えられる。虐待やトラウマの連鎖ではないが、自らが養育不全のなかで育ってきた親の中には、子どもにどう関わってよいかわからない・大人自身がモデルを示せない親もいる。その際、「教育者として読み書きや数学を教えるのと同じように、行動についても教える必要」が学校にはあるのだ。そして、これは「貧困地区」に限ったことではない。
この本は、「学校に対話と尊重の文化をつくる」ことを目指した本である。ただ、実は「対話と尊重の文化をつくる」ことそれ自体を、僕たちは学校で学んでいない。だからこそ、親が子どもにそのやり方を理解していない可能性は充分にあるのだ。僕の場合は、ありがたいことに、娘の通ったこども園では毎月保護者学習会を開いてくれていた。そこでは「子どもをみたら、家庭環境や親と子の関わり方がすべてわかる」という明確な原理のもと、親が子どもにどう関わるか、について毎月理事長先生から教わっていた。そういう風に親が学んで変わる機会がなければ、そのチャンスを提供することも、学校に求められている、というのも、よくわかる。
そして、「問題行動」や「困難事例」と呼ばれる現象への、現状の学校への対応のあり方にも、この本は疑問を向ける。
「修復的実践は、80%は事前対応型/先回り型、20%は事後対等型/反応型という80/20モデルに基づいて構築されています。これまで学校の方針は懲罰的なものであり、正しい罰則を与えれば行動を変えられると信じてきました。しかし、幼稚園から高校までの学校で過ごしたことのある人なら誰でも、懲罰的な行動が必ずしも生徒に望ましい結果をもたらすとは限らないことを知っています。どこか上位の機関に送る、クラスから排除する、居残り、停学、あるいは退学といった従来の懲罰的な対処は、根本的な問題に取り組んでいないため、問題の解決にはなりません。」(p35)
これまで、学校で子どもが起こした問題は、子どもの問題とされていた。それは問題の個人化であり、発達障害や精神障害ゆえなどとラベルが貼られると、「医学モデル化」することにもつながる。そして、そのような現象に対して、「クラスから排除する、居残り、停学、あるいは退学といった従来の懲罰的な対処」がなされてきた。でも、「懲罰的な行動が必ずしも生徒に望ましい結果をもたらすとは限らないこと」は、自分自身の経験でもわかっていることである。つまりやってしまった結果に責任を取りなさい、と脅すだけの「事後対等型/反応型」の懲罰では限界があるのだ。だからこそ、「80%は事前対応型/先回り型、20%は事後対等型/反応型という80/20モデル」が大切になってくる。
では、どのような「事前対応型/先回り型」が必要なのか? この本の秀逸なのは、「事前対応型/先回り型」のアプローチの具体例がふんだんに紹介されている点である。
たとえば、能動的参加の連続体の図を紹介している部分について。授業に「参加する」がもっと意欲的になると、自分も積極的に関わる「投資する」モードになり、更にやる気になると、やったことへのフィードバックまでも求める「推進する」になる。他方、授業に気が乗らない場合は「撤退する」だし、更にやる気を失うと課題を「避ける」ようになり、もっとも強烈な場合は授業時間を「破壊する」行為にでてしまうかもしれない。このような能動的参加の連続体の鍵を教えてえいる学校では、こんなやりとりがなされているという。(p95)
「今日私は『参加する』ことを目標にしました。あまり実感はありませんが、これは重要なことだし、弁論エッセイを書く必要があることはわかっていたので、『参加する』にしたんです。でもその後、動物実験について話しているうちにとても面白くなってきて、『投資する』に移りました。」
「私は『避ける』でした。いろいろなことがあって気が散っていたんです。でも他の人に影響しないようにしていました」
これは、子どもたちが自分自身の授業への参加度を、自分自身に認識させる方法である。こうやって子どもたちは自分で決めた参加や関与度に自覚的になれるし、他者を邪魔しないでいることや、出来れば積極的に参加するきっかけにもなる。また、この連続体は教員にも役立つ。
「彼女がどこにいたのか教えてくれて感謝しています。もし私が少しだけでも彼女の位置を動かすことができたら、『撤退する』に移ってもらうことができて、『参加する』になるのもそう遠くはないでしょう。これを知ることで私の不満が解消されれば、私自身と私の生徒たちの目標設定ができます。そうすれば、私たちの間でそれほど大きな争いもなくなるでしょう」
教員の仕事は、子どもたちが積極的・能動的に授業に参加出来るようなデザインである。だが、子どもの状況によって、授業から「撤退する」「避ける」「破壊する」タイプの子どもたちもいる。その言動に対して、教員が懲罰的に排除したり叱責しても、根本的な解決にはつながらない。その際、子どもたちがこの「能動的参加の連続体」モデルを知っていて、自分がどの位置にいるのか、に自覚的だと、教員もその子どもの状態に寄り添うことが出来る。一方的に叱ったり、相互が理解し合えず対立するのではなく、共に「撤退」から「参加」に向かうためにはどうすればよいか、を一緒に考え合うことができる。これが修復的アプローチの特徴だと感じた。
そして、より「ややこしい」子どもと教員が良い関係を作るためには、教員が10分間、子どもとともの一緒に時間を過ごす「バンキングタイム」が重要であることも、書かれていた。その中で、教員が何かを蓄える(バンキング)するためのアプローチとして、以下のような内容が示されていた。
・生徒がリードすることについていく:教師型質問、方向づけ、指示は制限しましょう。安全であれば、むしろ生徒が活動を方向づけ、使うものを彼らの選択で決定するとよいでしょう。
・観察する:生徒の行動、感情、言葉、行動について心のノートを作りましょう。また、あなたの反応と相互作用についてもメモを取りましょう。
・ナレーションする:生徒がしていることを説明する言葉を使いましょう。(略)例えばプレーごとに描写するようなスポーツキャスター、生徒の言葉にコメントしたり繰り返したりするリフレクション、生徒のしていることを真似する模倣などがあります。
・感情にラベルをつける:生徒が示したポジティブ・ネガティブな感情について言葉にします。生徒の表現は言語的な場合も非言語な場合もありえます。あなたの役割は、それに気づき、触れることです。
・関係性についてのテーマを発達させる:これらのコメントは、あなたにとって彼らが重要で、その関係に価値を置いているというメッセージを生徒に対して送ります。
(p148)
これを読んでいて、支援困難事例に関してのソーシャルワークの関わり方のコツでもある、と感じた。「ゴミ屋敷」などに関わる場合、「ゴミを溜めることは悪いこと」という「常識的理解」が先行して、相手のしていることを冷静に「観察する」ことが出来ない。すると、対象者の言動を「ナレーション」なんて出来ない。ついつい「ゴミを捨ている」ということにしがみついて、相手が「リードすることについていく」ことができない。すると相手の「感情にラベルをつける」こともできない。結果的には相手との「関係に価値を置いているというメッセージ」を送ることができず、「関係性についてのテーマを発達させる」こともできない。
逆に言えば、ここに書かれている5点って、相手の内在的論理の把握の方法そのものである。例えば娘に関わる父である僕にとって、こちらの注意に従わない娘にガミガミ言いたくなる局面で、娘を観察することができるか、は大きな問いだ。注意や叱る行為をせずに、彼女がやっていることを実況してみれば、彼女もその行為に気付いてくれる可能性がある。そうやって、本人がリードすることについていきながら、彼女のポジティブ・ネガティブな感情に言葉を与えつつ、父と娘の関係性をよりよいものにすることも、できそうだ。親が変われば、子どもも変わる。教師が変われば、生徒も変わる。その具体的な方法論が示されていると読んでいて感じた。
そして、本書の原題は”The Restorative Practices Playbook”である一方、訳書タイトルは『学校に対話と尊重の文化をつくる修復的実践プレイブック』となっている点も、非常に興味深い。「修復的実践プレイブック」という原題に「学校に対話と尊重の文化をつくる」という修飾語が足されているのである。これが、味噌である。
毛利さんと藤岡さんは、刑務所における回復共同体づくりにおいて、かなりの苦労をされてきた。それは、硬直した刑務所文化を変えることへの抵抗感との闘いであったことは、毛利さんの本を読んでいても感じた。そして、その二人がこの本を訳す時に、「対話と尊重の文化をつくる」ことの重要性を痛いほど感じていたことも、想像に難くない。それは、刑務所でもまさに同じであり、もっといえば学校で修復的実践が展開されていれば、「問題行動」や「困難事例」にも予防的介入を果たせるようになり、結果的には少年院や刑務所に送られる若者が減るかも知れないのだ。
そのような「対話と尊重の文化をつくる」ことができるか、は非常に現代的課題だし、本書はその具体的な方法論や、教員や支援者が自分のアプローチを見直せるワークシートもついていて、非常に有用的である。それだけでなく、懲罰から対話と尊重を基盤にすることで、学校文化を変えうる、という意味では、認識論的な枠組みの掛け替えを実践を通じて目指している、濃厚な1冊である。学校の教員、だけでなく、対人直接支援に関わる多くの人が読んでみて、気づきや発見のある1冊だと思う。