日本で特別支援学校の教員をしていて、かつイタリア留学経験のある人って、ほとんどいないと思う。そんな逸材、大内さんが書いた本を読んでいたら、こんなフレーズに出会った。
「インクルーシブな教育を前提としているイタリアでは、特別なニーズのある生徒への配慮は、『いかにしてインクルーシブな学習環境をつくりだし、生徒がクラスの中に包摂されるようにするか』という集団的、社会的な包摂におのずと向けられることになる。まさしく、イタリアの支援教師に課せられた任務は、障害のある生徒がクラス集団に参加するための支援を、いかに有効かつ適切におこなえるかということにある。
その一方で、分離した教育を前提とした日本では、特別なニーズのある生徒への支援は、『いかに自分のことは自分でできるようにするか』といった、『個人的な自立や成長』を促すことに偏りがちになる。しかし、日本のこうした方向性での支援や配慮には、社会的な包摂への希薄さもあいまって、極端にいえば、かえって社会的な分離を推し進めてしまうというパラドックスに陥りかねないリスクも含まれている。」(大内紀彦『フルインクルーシブ教育見聞録――イタリアの現場を訪ねて』現代書館、p38-39)
イタリアでも日本でも、障害などの特別なニーズのある生徒への支援や配慮はなされている。ただ、『いかにしてインクルーシブな学習環境をつくりだし、生徒がクラスの中に包摂されるようにするか』と、『いかに自分のことは自分でできるようにするか』では、問いの向き先が全く違う。前者は特別なニーズのある生徒が普通学級で包摂されるように、クラスの学習環境を変えようというアプローチである。ただ、後者の問いは、特別支援学級での目標が「『個人的な自立や成長』を促すことに偏りがち」であるという警句である。そして、僕はこのイタリアと日本の支援観の違いは、ノーマライゼーションを巡る解釈の対立を思い出していた。
ノーマライゼーションの育ての父と言われるスウェーデン人のベンクト・ニィリエはノーマライゼーションについて、以下のように定義している。
「ノーマライゼーションとは、正常という意味ではないのだ。これは、人間を“ノーマルにする”べきであるという意味ではないのだ。これは、誰かに誰かの特別な基準(例えば隣人の51%の人たちがすることであるとか、“専門家”が最善であると考えること)に従うような行動を強制されるという意味ではないのだ。これは、知的障害のある人が“ノーマル”であるべきとか、その他の人たちと同じように振る舞うよう期待されるという意味ではないのだ。ノーマライゼーションとは、知的障害者が、可能な限り社会の人々と同等の個人的な多様性と選択性のある生活条件を得るために、必要な支援や可能性を与えられるべきであるという意味だ。ノーマライゼーションとは、“ノーマル”な社会で、障害も一緒に受け入れられ、他の人たちと同じ権利と義務、可能性を持っているという意味だ。」(ベンクト・ニィリエ『再考・ノーマライゼーションの原理-その広がりと現代的意義』現代書館 p178-179、強調は引用者)
ここで太字の部分をみてほしい。「知的障害者が、可能な限り社会の人々と同等の個人的な多様性と選択性のある生活条件を得るために、必要な支援や可能性を与えられるべきである」というのは、『いかにしてインクルーシブな学習環境をつくりだし、生徒がクラスの中に包摂されるようにするか』というのと通底している。
一方、このノーマライゼーションの原理をアメリカで受けいれられるように「改竄」したヴォルフェンスベルガーは、以下のように定義している。(ちなみに両者の価値前提の違いについて詳しくは拙著『当たり前をひっくり返す』(現代書館)参照)
「対人処遇の手段は、できるだけその独自の文化を代表するようなものであるべきであり、逸脱している人(その可能性のある人)は、年齢や性というような同一の特徴をもつ人たちの文化に合致した(つまり、通常となっている)行動や外観を示しうるようにされるべきだ、ということである。『通常となっている』という用語は、道徳的というより統計的な意味であり、“標準的“とか“慣例的“と同じと考えられよう。『可能な限り通常となっている』という語句が示唆しているのは、何が、どれだけ『可能な限り』ということになるかは、経験をしていくプロセスで決定されるということである。」(ヴォルフェンスヴェルガー「対人処遇における逸脱の概念」『ノーマリゼーション』学苑社、所収、強調は引用者)
ここでも太字の部分をみてみよう。「年齢や性というような同一の特徴をもつ人たちの文化に合致した(つまり、通常となっている)行動や外観を示しうるようにされるべきだ」というのは、『いかに自分のことは自分でできるようにするか』という「『個人的な自立や成長』を促すことに偏りがち」な視点そのものである。
そして、前者は差異を抱えた(障害があるまま)でも自立しているというノーマライゼーションの「異化的側面」と整理され、後者は障害がある人が『可能な限り通常となっている』という意味で、ノーマライゼーションの「同化的側面」と言われている。そして、この二つは本質的に対立する。なぜならば、後者は障害の差異を肯定せず、健常者に近づけること=ノーマル、と標準化を目指す思想だからである。一方、前者は障害という差異を肯定し、その差異がある人を標準化するのではなく、差異がある人でも馴染めるクラス環境をどう構築するか、と環境を変えることに主眼を置いているからである。
こう整理していくと、日本の特別支援教育はイタリアのインクルーシブ教育と真逆である理由が見えてくる。それは、学校教育において、障害者を健常者に近づける「同化的側面」を重視する日本に対して、障害のある子どもが普通学級で安心して学べるようにクラス環境を変えるイタリアは、障害という差異を肯定する、ノーマライゼーションの「異化的側面」を重視しているからである。
そして、障害という差異を抱えた子どもたちも普通学級で学ぶためには、当然環境を大きく変えていく必要がある。大内さんが見学した小学校の1年生はこんな風に構成されていた。
「40人弱の生徒がいる小学校の第一学年は、『パンドーロ』クラスと『チャンベッラ』クラスの2クラスに分けられていた。どちらのクラスにも、イタリアを代表するお菓子の名が用いられていた。(略) 最初に足を踏み入れたのは、算数をやっていた『チャンベッラ』クラスだった。2名の障害児を含む20名弱の生徒のクラスに、4名の指導者が配置されていた。もう一方の『パンドーロ』クラスには、1名の障害児を含む20名弱の生徒がいて、3名の指導者が配置されていた。」(大内、前掲書、p21-22)
普通学級のクラスサイズが基本的に20名前提でやっている! これはOECD諸国の平均(21.9人)であるが、日本は小学校1年で35名である。娘の通う小学校は1年生の時に105名がいたので、35名マックスだった。正直、障害があろうとなかろうと、こないだまでこども園や保育園で走り回っていた子どもたちを45分なり50分なり座らせておくだけで、先生はめちゃくちゃ大変である。(そのあたりについては『ケアしケアされ、生きていく』でも分析した)
一方、イタリアでは20名がクラスサイズで、複数担任制をしいていて、さらに障害のある子ども一人に指導者が一人つく。だから、2名の障害児なら4名の指導者がつく。こう書くとめちゃくちゃ贅沢なようだが、じつは日本では特別支援学校の建設費に20億とか40億円!もの費用をかけている。箱物の建築費にそれだけの費用をかけ、運営コストも考えると、その費用を人件費に充当すれば、十分に可能なようにも思われる。
さらに、これは昔スウェーデンで聞いた話を思い出す。スウェーデンでも障害のある子がいるクラスの方が保育園や小学校では人気だ、と聞いていた。それって、スウェーデンの親が意識高い系だから、と思った人、いませんか? もちろん、そうではなくて、教員の数が多いほど、障害がない子どもへの目配りも増えるのだ。だって、20人しかいないクラスで、4人の先生がいたら、障害のある子が2人いても、その指導員はつきっきりで障害のある子に関わっていたとしても、その周りの子どもたちに声かけとか、躓いている部分をアドバイスすることくらいできる。すると、よりきめ細やかな指導が、障害のない子へも与えられるのだ。
さらに、一人の教員が指導する状況は、ミニ王国を作り出し、指導力のない教員だと学級崩壊の危機がある。でも、複数担任でチーム支援にすると、クラス全体の指導力がある。インクルーシブ教育を進めるにあたって、こういう形でクラスサイズや学級運営の形を変えていくことは、現実的な選択肢である(複数担任制についてはこの記事も参照)。
そして、障害のある子を支援する「支援教師」養成講座の様子が書かれた部分でも、非常に興味深い箇所があった。
「注目すべきなのは、各々のグループの中で支援の対象の生徒が抱えている『困難』や『問題』が、クラス全体の活動の中に明確に位置づけられていることである。こうすることで、支援対象の生徒の課題は、クラスメイトの目にも見えやすくなり、クラス全体に共有することになり、さらには、この課題にどう対応し、解決し、乗り越えていくのかを、一緒に考える機会が生み出されていくことにもつながっていく。
たとえばグループAであれば、『電動車いすを活用するステファノの移動の不自由さ』、グループBであれば『見通しのもてなさに由来するエンマの不安』、グループCであれば、『生徒Pの人間関係づくりの不得意さ』といった事態に対する課題はクラス全体の協働学習を通じて改善されていくように道筋が立てられている。クラスの雰囲気や環境やルールに障害のある生徒を適合させていくのではなく、彼らの特性をクラスの側で受け入れて共有し、一緒に共存のための対処法を考え、解決策を講じるという方法がとられているのである。そして、この活動をいかにサポートするかが、まさに支援教師の腕の見せどころになっている。」(p54-55)
これは、障害がある子どもがクラスのなかにいることを前提として、障害のある子とそうでない子がどう協働学習をできるのか、をクラスの成長課題と捉えている部分である。障害のある子は差異がある=標準化されないので、他の子どもと同じ協働学習は出来ない、と切り捨てず、むしろ差異のある子との協働を、クラス全体の学びのチャンスと捉えている点が、非常に魅力的だ。その際、大内さんのこの指摘が本質的だ。
「クラスの雰囲気や環境やルールに障害のある生徒を適合させていくのではなく、彼らの特性をクラスの側で受け入れて共有し、一緒に共存のための対処法を考え、解決策を講じるという方法がとられているのである。そして、この活動をいかにサポートするかが、まさに支援教師の腕の見せどころになっている。」
同じ事が出来ないから排除するのとは、真逆である。障害という差異があり、違いがある子どもと協働するために、「一緒に共存のための対処法を考え、解決策を講じるという方法」が模索される。そして、そのためにこそ、支援教師がいるのだ。支援教師は、『いかに自分のことは自分でできるようにするか』ではなく、いかに障害のある子とそうでない子が協働するか、をサポートするために存在するのである。
実は、このことは、日本の義務教育でも求められている。学校教育法第21条では、以下のように規定されている。
「第二十一条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。」
義務教育の目標の第一優先順位は、教科教育ではなく、「自主、自律及び協同の精神」を育てることにある。そのために、チーム教育、チーム学習は基盤である。そして、それは学校を分ける分離教育では出来ない。日本の学校教育法第21条を真面目に遵守しようとすれば、同化的側面で障害者をノーマルにしようとするのではなく、差異のある障害のある子とそうでない子が協働できるようにクラスサイズや学校運営のあり方を変える、ノーマライゼーションの異化的側面が求められている。そして、それこそ大内さんのいう、フルインクルーシブなのである。
まだまだ書きたいが、長くなったので、この本の紹介はこの辺で。すごく読みやすくて、イタリアのインクルーシブ教育がすごくわかりやすくわかるので、この本はオススメです。