ライフハックは何のため?

2005年に大学教員になった時、効率的に仕事をしないと仕事が終わらないことに焦っていた。当時は山梨に住んでいたのだが、東京や大阪に出張した折は、大きな本屋で色々買いあさるついでに時間管理や仕事術系の本も買い込んで、100冊以上は読みあさってきた。だが、あるときからその生産性や効率性は、新自由主義的合理性を内面化するものだ、と気づき、それはすごくいやだな、と思った。それ以来、生産性や効率性を上げるノウハウ本を読むのをやめて、そういう本はあらかた処分した。

そんなぼくなのだが、久しぶりにそのものズバリの生産性や効率性本を読む。『ライフハック大全 プリンシプルズ』(堀正岳著、角川新書)である。

ある程度知っているノウハウも、この本を読んで知ったノウハウも色々あって、辞書的に活用できるのだが、今回一番ピンときたのは次の部分だった。

原則:時間管理とはどれだけ忙しくできるかではなく、与えられた状況のなかで能動的な選択の自由をどれだけ生み出せるかのスキルである。
その上で、生み出された裁量の窓を長期的に向かいあいたいと思っている航路に向けるために、行動を入れ替えていくこと。つまりは、抱いている目標と時間の使い方にアライメントがとれている状態を増やすのが、本質的な時間管理になります。」(p46)

ここに、ライフハックは何のため?という問いの答えが詰まっている。以前のぼくは「より沢山本を読んで、より沢山の業績を作るんだ」と意気込んでいた。それは確かに生産性至上主義そのものの発想である。そういう形でしゃかりきに働くために、ライフハックを使うこと「も」できる。

ただ、子育てをし始めて、馬車馬の論理(=生産性至上主義)よりもケアの論理を優先させるようになって、そういう業績至上主義ではケアが出来ない、ということが骨身にしみてわかった。その当時のぼくは、だからこそ、ライフハック系の本を一度捨てた。

でも、いま改めてこの本の原則を読んで、別の道があり得るとようやく気づいた。子どもや妻との時間を大切にしたい、そして自分のリフレッシュの時間も確保したい、そのような価値前提を置いた上で、「抱いている目標と時間の使い方にアライメントがとれている状態を増やすのが、本質的な時間管理にな」るのである。以前は、その目標が無自覚に「どれだけ忙しくできるか」に向いていたので、時間管理に追い立てられていた。でも、ある程度時間的・精神的な余裕を持つための時間管理、であれば、生産性至上主義や新自由主義的合理性を括弧に入れるための時間管理、という考え方もありうるとやっと気づいた。

悪いのは時間管理やライフハック本ではない。時間管理やライフハックを何のために使うのか?という自分の主体性が問われているのだ。

その上で、この『ライフハック大全』は、大学院生とか社会人で、これからどんな風に生きていこうともがいている人にお勧めする一冊である。来年度の大学院のリサーチトレーニングの担当回で紹介しようとも思っている。アウトプットでいきなり完璧を目指さなくてもいい、とか、日々大量に読んで大量にアウトプットすることが、アウトプット術の練習になるとか、王道的なことがしっかり書き込まれている。ぼく自身も、ツイッタで色々書いて、ブログにまとめて、それを論文にする、というサイクルを回していた時期があったので、それはよくわかる。で、その癖がつくと文章を書くのがめちゃくちゃ早くなり、師匠から「タケバタくんは文章の自動販売機のようだね」と言われる始末。褒められているのだか、けなされているのだか。。。

40代後半に久しぶりにこの手の本を手に取って、50代に向けて、時間管理によって「生み出された裁量の窓を長期的に向かいあいたいと思っている航路に向けるために、行動を入れ替えていくこと」をしてみたい。その目標を、いくつか備忘録的に書きたい。

いま一番したい「行動の入れ替え」は、洋書を読む時間を毎日1時間は確保したい、という目標設定である。最近は読書会で読まねばならない本以外は全然手をつけられていない。でも、海外の学会発表もオンラインで参加の敷居が低くなったし、ちょっと英語で日本の福祉的課題をしっかり発信したいよなぁ、と思い始めている。そのために、圧倒的に語彙力と文脈形成にかける時間が足りない。コツコツと積み上げる必要がある。

とはいえDeepL訳という素晴らしい武器に最近お世話になっているし、まだ使いこなしていないけど英文を書くならGrammalyとかも使えそうなので(p204-205)、日本語でやり続けてきたインプットとアウトプットの一部を英語に切り替えてやってみようと思っている。以前から気になってきたAudibleも試して見ようかな(p258)。とりあえず、3月中頃〆切の某学会発表のアブストをまず考えるところから、かな。

そしてこれも死守したいのは睡眠を守る10−3−2−1ルールである(p337)。

・10時間前にはカフェインを控えるようにする
・3時間前には食事も控える
・2時間前には仕事をするなどの緊張感を高める作業を止める
・1時間前には液晶スクリーンを見るのをやめる

良質な睡眠がないと、僕はすぐに風邪を引く。そして、今のご時世、風邪は結構命取りである。であるからこそ、ぼくは11時には寝ることが多いので、お昼の早い時間に珈琲を飲んでしまい、夜7時にご飯を食べて、9時にはメール仕事も終えて、10時にはKindleやPDF化した本も読まないで、紙の本を読んで眠る、というのは定番化したい。

明日出来るメールを「今日のうちに書いておかないと」と11時近くまで書いていると、眠りが浅くなってろくな事はない。メールと言えば「3分以内に返事できるメールは、その場で返事する」「返事する必要のあるものは、『読みました、あとで返事します』とだけ返信する」(p123)というのも使えそうである。

どれも生産性至上主義になるため、ではない。自分の余裕を取り戻し、カリカリせずにゆっくり子どもや妻とおしゃべりする時間を確保し、ケアを中心として生きていく為に、必要なライフシフトなのだと思う。

あと、苦手な領域で時間をかけずに済むために、パスワードマネージャーを活用する(p212)とか、せっかくスキャンスナップを持っているのだからレシートは家計管理ソフトに連結させる(p197)とか、そういう自動化を促進させようと思う。

「数年に一度、自分をアップデートする」(p294)と書かれていたが、この本はまさに、久しぶりに自分の行動様式を見直し、「長期的に向かいあいたいと思っている航路に向けるために、行動を入れ替えていくこと」を意識化させてくれるきっかけとなった。

子育てと民主主義

子どもを育てていてつくづく感じるのは、子どもへの接し方を通じて、自分自身の変容課題と向き合わざるを得ない、ということである。子どもと関わる中で、己自身の癖とか無意識・無自覚な思い込みや偏見が表面化する。それと向き合うのか、子どもの問題だから、とごまかすのかで、大きく変わると思っている。そんな折りに読んだ本で、強く心を揺さぶられた。

「民主主義には、相手の声に耳を傾けることの価値や誰に対してもインクルーシヴであることの価値に加えて、すべての人が自分の気持ちや意見を聞いてもらえるという共通の価値が存在します。」(アルネール&ソーレマン『幼児から民主主義 スウェーデンの保育実践に学ぶ』新評論、p9)

訳者のお一人の伊集守直さんと、ある研究会でご一緒している関係でお送り頂いた。実に素敵な本で、読みながら頷いたり、いてて・・・と自分自身の関わりを問い直していたり、しながら、ゆっくり読んでいった。

何に「いてて」となるのか。それは、ぼく自身が子どもの「気持ちや意見を聞く」ことが出来ているか、子どもの「声に耳を傾けることの価値」を尊重しているか、と問われると、十分に出来切れていないよなぁ、と思うことがしばしばあるからだ。

「民主主義社会に生きる人間であれば、年齢に関係なく、自分の話を聞いてもらう必要があります。生まれた瞬間から亡くなるまで、人は『自分の声』をもつことができます。生まれたばかりの子どもを見てください。小さな赤ちゃんは泣くことで何かを表現しています。そして、泣くことで大人が駆け寄ってきてあやしてもらいます。このような行為が、子どもに影響力をもたせることになります。一方、年老いて最期を迎えようとしている人も、話を聞いてもらうことで家族などに影響を与えるという権利をもっています。」(p39)

僕は娘に注意したり、叱ったりすることで、娘に影響力を与えようとしている。でも、娘だって、「年齢に関係なく、自分の話を聞いてもらう必要があ」る。振り返ってみれば、「赤ちゃんは泣くことで何かを表現してい」たし、親の役割は、その泣き声から、おなかがすいているのか、寒い・暑いのか、しんどいのか、疲れたのか・・・と、どのようなことを表現したいのか、を想像してきた。

ただ、こども園に入る年齢になり、自分で話せるようになってくると、大人であり親であるぼくは「言葉で伝えたらわかってもらえるはず」と思い込んで、子どもにあれこれ伝える。でも、注意したり、何度か伝えたことなのに、子どもが出来ていない場合、やめてほしいことをし続けている場合もある。すると、ついついその理由を聞くことなく、「何度言うたらわかるの!」と頭ごなしに叱りつけたくなる。でも、それは子どもなりの理由を聞くことなく一方的に決めつけている、という意味で、ぼく自身が民主主義的なプロセスを重視していない、ということなのである。「すべての人が自分の気持ちや意見を聞いてもらえるという共通の価値」を大切にしたいのに、自分自身が娘に対して、それが出来ていない。これが、いてて、と感じる最大の意味だ。

「私たち大人は、子どもを対等な存在として見ていないために叱るという接し方をしています。もし、子どもの行動が大人にとって望ましいものでなければ、多くの場合、『それはよくない行動だ』と解釈してしまいます。しかし、子どもの視点から見れば、その行動は私たちが叱るといった対象ではなく、関心をもって学ぶべき、合理的で論理的なことかもしれないのです。」(p86-87)

これを書き写していて、さらに「いてて」が広がる。なぜって、それは福祉における「問題行動」「困難事例」を扱うときに、ぼく自身が常に意識してきたこと、そのものだから。

親が子どもを叱るとき、「『それはよくない行動だ』と解釈して」いる。でも、子どもにはそうする内在的論理がある。つまり、親にとって問題だと感じても、子どもにとっては「合理的で論理的な」理由があるのである。それは、『ゴミ屋敷』などにも共通する論理である。そういうことを講演で何度も支援者向けに伝えながら、いざ子育てになると、自分自身が思う「望ましさ」を子どもに押しつけて、それに従わないからと叱っている。それは、「私たち大人は、子どもを対等な存在として見ていないために叱る」ことそのものなのである。言っていることとやっている事が違うじゃん、と。これでは、子どもの手本にはならないなぁ、と。いてて、いてて・・・。

この本を読んだり、観察が大切だとこども園の先生方から教わったこともあり、最近は叱りたくなったら、とりあえず深呼吸をして、子どもに理由を聞こうとしてみる。すると、「その行動は私たちが叱るといった対象ではなく、関心をもって学ぶべき、合理的で論理的なことかもしれない」ということが見えてくる。子どもなりに、そうしたくなる理由があるのだ。

「それがじゃまだった」「○○ができるとおもった」「××をやってみたかった」

これらの理由は、大人のぼくからすると、非合理であったり、受け入れにくいものである場合もある。でも、いずれにせよ、子どもなりの合理的で論理的な理由があるのだ。それを頭ごなしに「何してんの!」と叱り飛ばしてしまうと、子どもはその理由を「親に言ってはいけないんだ」と思って、本心を言わない子どもに育ってしまう。それでは、「すべての人が自分の気持ちや意見を聞いてもらえるという共通の価値」を尊重していないことになる。だからこそ、「言い訳を言うな」ではなく、まず子どもなりの理屈を教えてもらう必要があるのだ。その上で、子どもなりの理由(合理性や論理性)と、大人のぼくが考える合理性や論理性の両方提示した上で、どちらの方が良いかを一緒に考える必要があるのである。

それは結構面倒くさいし手間がかかること、である。でも、よく考えてみたら、子育てとは、そのような面倒くさいし手間がかかるプロセスそのものである。でも、そのプロセスを共有するからこそ、子どもが育つ、だけでなく、子育てを通じてぼくたち親自身も学び直す事が出来るのかも知れない。

「これまで伝統的に、大人は自分の視点で、さまざまな方法によって子どもたちの評価を行ってきました。しかし、『関係的な視点』から子どもたちを見ることで、子どもたちがどんな人間『である』かではなく、どんな人間『になる』可能性を含んでいるのかが理解できるようになります。そしてそれは、子どもと大人の出会いや関係がどのように築かれるのかということに影響してきます。」(p171)

子どもの声にまず耳を傾けることなく、「○○するな」「何度言ったらわかるの!」「だめでしょ」といった言葉が絶対にダメ、な理由は、「子どもたちがどんな人間『である』か」を固定してしまうような言説だから、である。親や教師の言うことが絶対で、その絶対的なルールを逸脱する・受け入れられない・守れない、からダメなやつだ、と決めつけているし、それによって、子どもの可能性は縮減されてしまう。

子どもは大人に比べて遙かに可塑性に富んでいて、様々な「人間『になる』可能性を含んでいる」のである。だからこそ、子どもなりの内的合理性や論理性を、それが稚拙であったり我田引水的であろうと、まずは聞く必要があるのだ。それは、「子どもと大人の出会いや関係がどのように築かれるのか」に大きな影響を及ぼす。つまり、子どもとぼくや妻がどう関わるか、という「関係的な視点」で考えると、子どもを通じて僕たちも成長できるし、その親の成長は子どもの成長にも伝わる、のである。

そうは言っても、子どもの言うことをじっくり聞いたりするのが、面倒くさいときもあるし、イライラする時だってある。でも、そんなときこそ、次のフレーズを思い出したいな、と感じている。

「子どもたちは、制限されるのではなく、責任を持つことについて学ぶ機会を必要としているのです。子どもたちが大人に対して自らの『道』を示してくれるように、私たち大人は、子どもたちが一歩踏み出すことができるような『道』を示さなくてはいけません。」(p181)

そう、道を指示するのではない。そうではなく、子どもが責任を持って自分の道を歩めるように、その一歩踏み出す後押しをするだけでなく、大人自身が相手の声に耳を傾けながら責任を持って歩き続ける「道」を示す必要があるのだ。大きな自戒を込めて、そう書き記しておく。

己の唯一無二性を自覚する

やっと授業がおわったので、今年の初投稿。

こないだツイッタで、非常に印象深い図に出会った。「大学でインポスター症候群(周りの評価よりも自分のことを過小評価すること)をなんとかしようみたいなオンラインレクチャーがあったときに提示された図」と書かれた図が、本当にぼくのニーズにぴったり合った図だった。

ぼくは先月くらいまで、ずーっと「知識が足りない、足りない。。。」と思い続けてきた。博識ですね、とか、大量の本を読んでおられますね、と言われることも最近増えてきたが、ぜんぜん本人の自己意識とは違って、「まだまだ学びが全然足りない」と思い込んできた。

それには理由がある。ぼくが専門性がない、と思い込んできたからだ。

実際、大学の研究者の大半が、ご自身の専門をしっかりと定め、それを深掘りしておられる。一方、ぼくは、興味の向くままに、あれこれとつまみ食いしている。ここしばらく、原稿依頼されたのは、「レジリエンス」「ボランティア」「コロナと精神医療」・・・と、テーマはバラバラである。今、校正している紀要原稿は「アクターネットワークと義父の死」だし、連載中の原稿タイトルは「ケアと男性」。大学院の授業では「子どもの貧困」についての本を読みあさってきたし、ファシリテーションやオープンダイアローグの本を読んでいたか、と思うと、新自由主義批判の本とか若者支援の本を研究会で読み続けている。最近集中的に読み進めている吉福伸逸さんのことが、『ファシリテーションとは何か』の中野論文で描かれていて、一人でにんまりしていた。本当に雑多でまとまりがなく、深みがない。ハチャメチャである。だからこそ、いつまでも専門がないのだ、と落ち込んでいた。

でもそれって、各分野の専門家の深みのある知識と比較して、「ぼくは全然知らない」という、「ないものねだり」の発想だった。ただ、今頃になって気づいたのだが、ぼくの守備範囲はどうやら結構広いらしい、ということ。確かに福祉領域の研究者で、権利擁護も精神医療も地域包括ケアもオープンダイアローグもカバーしていて、魂の脱植民地化とか能力主義を問い直す視座に基づき、それなりに原稿を書いたり、講演や研修をしたりしている人材は、あんまりいないんじゃないかな、と改めて気づく。つまり、他の人が色々深めている複数の領域を興味向くままにあれこれ囓りながら、それを自分なりに統合しているのが、ぼく自身の「知っていること」なのだ、とやっと気づかされた。

だからこそ、他者比較の牢獄に陥る必要は全く無いし、他者と比較するだけ無駄である、と改めて気づかされた。

ちなみに、imposterとは詐欺師の、という意味である。ぼく自身、自分は専門を深めていないのに大学でずっと働いている、という意味で、詐欺師とまではいかないが、ずっと自分が「うさんくさい」と思っていた。そして、imposter syndromeって結構有名な概念のようで、こんな整理もあった。正直知らなかった。

これを読みながら改めて思ったのだが、「他人から評価されているにも関わらず、自分が偽物であるという感情を抱いている」というのは、ぼく自身の心象風景そのものである。それは、ぼくが一つのことに没頭できず、あれこれとつまみ食いして渡り歩いてきたし、だからこそ未だに専門はこれだ、と言えないし、それが中途半端の極みだと思ってきたから、である。

でも、よく考えてみたら、ぼくは他者より広い守備範囲を持っていて、それをつなぎ合わせて言語化することが、己の唯一無二性なのかも知れない、とやっと腑に落ち始めた。というか、それぞれの領域をグッと深めるなら、他の領域の学びを削るしかない。でも、ぼくはあれもこれもどれもそれも、気になることは知りたいし、囓りたいし、自分の経験に引きつけて考えたい。ならば、専門を一つに定めず、あれやこれやを行ったり来たりしながら、それを面白がって、関連付けて、自分なりに言語化して、深めていく。一つの学会や専門家集団に貢献することはあんまりできないだろう。でも、そういう雑多な知をハイブリッド的に結びつけていくことで、現場のわけのわからん問題に対応する対応力は増しているし、それなりに社会貢献も出来ている様な気がする。

実際、ぼくの所に「ご相談があります」と持ち込まれる案件って、どれも「非定型」案件ばかりである。普通の専門家のところには持ち込まれない、色々な要素が絡み合った課題が、なぜかぼくの所に持ち込まれる。こちらはそもそもどうしていいのかわからないので、相手に困っていることを話してもらい、こちらからおたずねをしながら、絡み合った糸をご一緒にほぐしていく。するとある時点で「やっぱり、そうなのですね」と言われることがある。つまり、相手が意識していなかった、でも言われてみたらその通りで納得出来る、そういう要素を探り当てていくプロセスである。それは、断片化された情報をつなぎ合わせて、相手が自分が納得出来る形で体系化する支援、というのだろうか。実際、ぼく自身がやっていることを、相手にもやってもらう、という感じなのだが、案外それは具体的な問題を解決したり、前に進める上で、役立っている。

王道の研究者は、それぞれの専門を深掘りして、極めてくれたらいい。でも、ぼくは飽きっぽいし、一つの深掘りは向いていない。であれば、あちこちの鉱脈をランダムに掘り進めながら、その根底でつながる部分を自分なりに横穴を掘ってつなげて、それを言語化していく仕事が出来たらそれでいいし、それしかぼくのオリジナリティはない。そして、それは時には他者にも役立つアプローチとなり得る。そう思い始めている。

40代後半まで気づけなかったのも、愚かと言えばその通り。でも、ここで腹をくくって、ぼくの実存に引きつけながら、面白さをどんどん横串していったら、それはそれでオモロイ未来になるのではないか、と夢想している。

それが、己の唯一無二性の自覚になれば、いいのだが。