施設みたいなもん

 

必要に迫られて読み始めた本の中に、ほほぉ、と引きつけられるページを発見した時ほど、嬉しいことはない。今日はこんな感じ。

ある老人はこう呟いた。『誰かさんがあんたの家にケアをしにやってきた時だって、もしその支援とやらがこちらの気をそぐようなもの(disempowering)だったり、決まり切ったことの繰り返し(routinised)だったりするならば、彼らは入所施設みたいなもん(something of the asylum)を、また造り直しているだけだよ。』
Glasby, J. (2007), Understanding health and social care, Bristol: The Policy Press. p40

図式的に考えれば、入所施設とは、人里離れた所に作られた集団管理型一括処遇の場。それに対置するものが、イギリスで言うコミュニティケアであり、日本語では地域(自立)生活支援なんて言われている。自立支援法の中でも、精神病院に入院中の社会的入院患者の72000人を平成23年度までに地域移行させる、また知的障害者や身体障害者の入所施設の1割を上記の年度までに削減する、ということが、国の目標にも掲げられている。市町村や都道府県は、その目標に沿った行動計画をとろうとしている。だが、この数値目標は諸外国に比べて低すぎるのだが、それでも達成することは難しい。

こういった事は、自治体関係者なら誰でも言えることである。だが、地域移行すればそれで成功なのか、というと、そうではないのが、洋の東西を問わず言えること。以前、スウェーデンで滞在時に、現地のグループホームを取材して回った。知的障害者の入所施設を全廃したスウェーデンでも、今度はグループホームがミニ施設化する危険性がある、という話をよく聞いた。それを防ぐためには、ユニット型という、例えば普通の集合団地の101号室が世話人の部屋で、301号室と405号室、203号室が各々の居室、というように、他の人と当たり前の居住環境が保障され、かつ地域の中にとけ込み、障害者だけで固まらない、という工夫が必要だ、とも聞いた。普通の人の最低居住水準が、34平米なのだったら、障害者だってそれと同じほどの広さを保障すべきだ、と聞いて、なるほどと思いながらも、ぶったまげた思い出がある。なぜって、日本では普通の人だって、20平米どころか、ワンルームマンションの学生だって少なくないからだ。

で、こう書いていて、こないだ読んだ早川和男先生の『居住福祉』(岩波新書)を思い出す。今、本が手元にないので正式に引用出来ないのだが、早川先生は、住宅問題は福祉問題である、という観点から、日本人の在宅介護の困難性や入所施設偏重は、一般人の居住水準の低さによる。だから、ディーセントな居住環境の広さが確保されなければならない。普通の人の住宅が広くないのに、障害者や高齢者だけ広くすることは出来ない、という主張をされていた。確か97年に出た本なのに、10年以上経って初めて読む未熟者。しかし、10年を超えても色褪せない魅力を持つ一冊に、早川先生の研究の鋭さと、日本社会の変わらない実態に、憧れと、ため息を同時に抱く一冊であった。

そう、この早川先生の本を読んだ後、パートナーとこの話をしながら、スウェーデンで借りていたアパートを思い出していた。確かに、一般人のアパートも広かったねぇ、と。

私たちがエバコさん、とあだ名で呼んでいたその女性のアパート。彼女は年金生活者で、シングルである。毎年冬の時期にスウェーデンを脱出するから(その年は確かタヒチかどこかに出かけていた)、その間の半年、持ち家のアパートを貸している。普通の公務員か何かをしていた彼女は、築50年程度のアパートに暮らすが、すごくしっかりしたアパートで、かつ70年代のバリアフリー法が施行された後、後付でエレベーターも付いている。家は4人がけのテーブルが入るこじんまりとしたダイニングに、20畳近いリビング、それ以外に部屋が3部屋あるから3LDKだが、確か全部で100平米近い広さ。エバコさんの部屋は他人に使われては困る私物が入っているらしく、鍵がかかっていたが、その部屋以外は自由に使えた。めちゃめちゃ広い。その暮らしを半年して、パートナーと誓ったのだ。日本に帰ったら、とりあえず広い部屋に暮らそう。それだけ、部屋の広さは、人間の心のゆとりにもつながっていたのである。そして、改めて強調するが、彼女は決して金持ちではない。調度品やらなにやらが物語るのは、ごく中流かそれより少し低めの暮らし、なのである。

話がえらく横飛びしていくが、そう、早川先生によれば。部屋は広くなくては人間的でない、という居住権運動をスウェーデンでもイギリスでも続けてきたそうである。だから、僕が暮らしたスウェーデンでは。障害者が暮らす入所施設は、あまりにも非人間的に映った。ノーマルな暮らしに比べてあまりにも落差がある、と。またグループホームだって、普通の暮らしと同程度を保障するためには、3LDKの中に見ず知らずの3人が暮らすのはオカシイ、ならばせめて1LDKでもまともな一区画を障害者も住めるようにすべきだ、という展開が進んでいったのである。

一方我が日本では。ご承知のように、普通の人の住宅環境の質、なるものがよろしくないので、当然!?障害者や高齢者の質は悪くても問われなくなる。そんな前提だから、収容所的な現実が他国に比べて未だに温存されているし、また、地域移行が進んでも、地域の暮らしがそういう最低限な居住環境のままになる可能性が少なくない。悲しいかな、居住環境が「気をそぐようなもの(disempowering)」なのは、少なからぬ都会暮らしの日本人が共通して持っているものなのかもしれない。もしかしたら、私たちの暮らす場が、「入所施設みたいなもん(something of the asylum)」だとしたら。あまり考えたくないけれど、私たちに染みついたパースペクティブにその要素がないか、を考えたら末恐ろしい

信じて、疑う

 

「だが、人間の手になるもので無謬なるものがありえようか。否である。われわれが唯一無二と信じうる真理でさえ、それは人の手になるものである以上、無謬ではありえない。諸君は問うであろう、では、真理とは、人間が拠って立ちうるものになりえないのか、と。たしかに一見すれば、誤りを含んだ真理とは、語の矛盾以外の何ものでもない。だが真理として究められた以上、あくまで真理性を主張することができる。否、あえてその真理性を擁護しなければならぬ。だが、諸君、同時に、諸君はその真理が、さらに一段と高い真理に進みうる道を、そこに開いておかねばならぬ。実にこの道こそ、真理の中における懐疑である」(辻邦生『背教者ユリアヌス上』中公文庫、p257

ここのところ、辻邦生にはまっている。以前ご紹介した『西行花伝』に続き、『安土往還記』を読み終え、こないだから3巻ものの長大作、『背教者ユリアヌス』へと突入した。歴史小説を、本人の心理描写だけでなく、周辺人物の心理描写を重ね合わせながら、タペストリーのように織り込んでいく語り口が、僕にとっては新鮮だった。日頃仕事の本しか読まないことが多く、小説は敬遠しがちだったが、何だか今年に入ってから、無性に読みたくなり、未知のジャンルに切り込んでいる。最近はじめた合気道と同じで、自分が知らない分野での「真理」に触れることの面白さ、を実感しているのを感じる。

さて、この『背教者ユリアヌス』、実は高校生の頃から名前だけは知っていた。高校時代の国語教師が辻邦生の大ファンで、これ程凄い歴史小説はない、と何度も繰り返して言っていた。だが、今から思えば、辻邦生に親しむほどの内的成熟が出来ていなかった故、あれから15年間、出会うことはなかったのだと思う。今も成熟したとは思えないが、30代になり、多少なりとも試行錯誤を重ねてきた今だからこそ、辻邦生が作品を通じて語りだす人生観や哲学から、さまざまな刺激や触発を受ける。今回引用したのは、若きユリアヌスが半幽閉状態の時代に出会った哲人、リバニウスが自らの学塾での講義時に述べていた一フレーズ。目の前で、こういう講義を受けているかのようなアクチュアリティが読者に迫ってきて、読み出したら止まらない。

中身に少し触れておくならば、「誤りを含んだ真理」とは、これまた玄妙なる表現である。確かに「人の手になるものである以上、無謬ではありえない」。だが、「あえてその真理性を擁護しなければならぬ」ほどの、正しさや真理性が満ちあふれているものも、この世には存在する。理にかなっていて、一般原則としての筋目が通っている考えなり、捉え方なり、動きなりは、確かに存在する。だが、その無謬性を盲信・過信してしまうと、大やけどをする。「真理の中における懐疑」とは、単に疑い深くなることではない。「その真理が、さらに一段と高い真理に進みうる道を、そこに開いてお」くための方法論が、「真理の中における懐疑」なのだと思う。真理を自己目的化し、方法論的懐疑を捨てた絶対化をするところから、歪みが始まる。それは、真理の歪み、ではなく、解釈する側の「人の手」による歪みなのではないか。

真理の正しさと、人の手の誤謬性。その両方が真であるからこそ、「信じて疑え」というテーゼが成立するのだと思う。どちらかが欠けても、バランスや平衡が破られる。全くの対極的思考を自身の中に両立出来るだろうか。書き写しながら、ふとそんなことを考えてみた。

ミクロとマクロの接点

 

今日もまた、最終一本前の「かいじ」である。今宵は函館からの帰り道。

障害者団体の連合体であるDPI日本会議の総会が函館であり、分科会のパネリストとしてお話しさせて頂くために、土日の一泊二日で函館入りをする。函館駅までバスで来てみて、かなりビックリ。とにかく、寒い! 駅前の電工表示板では夕方の段階で13度! 春先の寒さである。パートナー曰く、甲府は30度を超えたそうなので、20度の温度差。長袖シャツにジャケットの姿でも、やはり、寒い。携帯用のウインドブレーカーを持っているのに、研究室においていて「宝の持ち腐れ」が続いている。荷物を一杯持って行くにもかかわらず、肝心の何か、を忘れるいつもの間抜けな癖がやはり出てしまう。

で、函館の二日間は予想以上に興味深い日々だった。勿論、ウニやサンマ、生牡蠣など美味い魚に舌鼓が出来たのは、めちゃ収穫だった。だが、それ以上に、最近の自分があれこれ考えていることに、様々な補助線を引き込める内容が目白押し、だったのだ。

今日の分科会のテーマは、「障害者総合福祉サービス法にむけて」というもの。え、そんな法律がいつ出来たって? もちろん、まだである。この自立支援法の対案と位置づけられたものは、私もお手伝いさせて頂いたDPI日本会議の研究チームが検討を積み重ね、まとめて内容だ。本当は今日、この分科会の日程にあわせてミネルヴァ書房から書籍化されて出版される、はずだったのだが、諸般の事情で一週間ほど発刊が遅れてしまった。しかし、来週くらいに出来ますので、また宣伝させてもらいます。結構良い本に仕上がりました。

閑話休題。そう、この本の編集に携わったこともあり、この本のお披露目と、あわせて自立支援法の対案とは何か、今の自立支援法をいじるだけではどう限界なのか、を整理して検討する場になっていた。

で、北野誠一さんや尾上浩二さんといった論客もおられ、そもそも障害の範囲は変だという難病当事者の山本さんの整理も受け、マクロ的・制度政策的議論としても面白かったのだが、ここまでのご発表は共同研究をしてきた皆さんの発表なので、織り込み済み。むしろ、その後の展開が予想外だった。休憩を挟んだ後で、地元北海道から3障害の3つの実践報告、それからフロアとのディスカッションという「ありがち」の流れだったのだが、実はこの中身が予想を遙かに超えて「刺激的」な場となっていったのだ。

3人のパネリストのお一人目の横川さんは、障害ゆえにささやき声しか出ない。マイクボリュームを全開にしても、隣で開かれているコンサートの声量の大きさで聞き取り辛い。。だが、耳を傾けてみれば、声の大小を超えた、本質的な提起がなされている。「運動の盛んな地域に障害者が集中する傾向にありませんか。自分が住みたい町に住めるような支援体制が必要ではありませんか。」と。

なんでも、進行性神経症筋萎縮症の彼女は、青春時代に長期間、病院・施設生活をした後、旅行に訪れた函館に「住んでみたい」と一目惚れして、その後移り住んだという。これは障害の有無にかかわらずよくあることで、例えば沖縄のホテルにとまると、従業員の非沖縄人比率が意外に高くてびっくりする。一目惚れして住む、ということが、しばしば見られる。横川さんも、その一例である。

だが、ここで障害の有無が、大きく左右する。彼女は夜間人工呼吸器をつけて暮らしているから長時間介護が必要。だが、この国では長時間介護をすんなり国が全時間認めてくれる、という仕組みになっていない。自立支援法では国庫負担基準なるガイドラインがあって、その基準以内であれば、国が予算の面倒を見てくれる。逆に言えば、その基準を超えたら、市町村はその経費を持ち出ししなければならない。自治体はどこも財政が豊か、とは言えないから、当然持ち出し分を削ろうとする。そのことで、札幌や和歌山など各地で裁判も起こっている(札幌の原告も来てお話しておられた)。つまり、住みたい場所に住む、という当たり前のことが、障害故に制約されるのだ。だから結果として、障害者運動が自治体と協議して、国基準を超える長時間介護への市町村支出を認めた地域に「障害者が集中する」という事態が生じるのだ。これは、ナショナルミニマムの不全がもたらした個人へのしわ寄せ、とも言えるだろう。

彼女は以前住んでいた東京よりも支給決定量が函館では減ったが、それでも好きな街に住みたい、という。これを自治体の財政基盤の強弱にかかわらずナショナルミニマムとして保障するか、「そういう障害者は住んでくれなくて結構」と実質的に排除する裁量を自治体に与えるか、という大きな問いかけなのだ。

次の能都さんのお話も興味深かった。NPO全国精神障がい者地域生活支援センターを主催されている彼は、一方で街作りの仕掛け人でもある。函館の庶民の台所である「中島廉売」という市場の事務所を無償で借り受け、そこに障害者だけでなく地元住民が集まる拠点を作り上げていく。「ここまで法人が活動してこれたのは、人の手助けと支援があったから。今度は私たちがそれを地域に還元したい」というアイデアから、市場の中に屋台村的な「中島れんばい横丁」を作る。精神障害者とは、という大上段の普及啓発ではなく、その場に集う人が、一緒に酒を飲んで、一緒に活動して、お互いの事を徐々に知り合いながら、一緒に何かを作り上げていく、という。

Social Capitalとか社会的起業とか言われているものを、実際に自然体で切りもりされておられるお話に、グイグイ引き込まれていく。制度が悪い、問題だという視点を一方で持ち、であるが故にこのDPIの全国集会をお手伝いする中で、何か函館で出来ないか、を考えようとする。他方で、自分たちに出来る地に足着いたボトムアップの活動をしておられる。こういう「地べた」の活動の積み重ねは、その地域の文化を変える非常に大きな力になるのでは、と実感しながら伺っていた。この中島廉売に是非とも行ってみたくて、能都さんからも「今晩も函館におられるのなら、ご招待します」と言われたのだが、山梨に戻るスケジュールを入れて後悔至極。是非とも一度、伺ってみたい場所だ。

で、最後に札幌みんなの会の三浦さんの話も色々考えさせられた。彼は知的障害の当事者として、自分たちの仲間の虐待や権利侵害に非常に心を痛めている。就労した障害者が、寄宿舎と職場で24時間管理されて逃げることが出来ず、年金や障害者雇用の助成金、賃金の3つとも雇い主に搾取され、挙げ句の果てに虐待を受ける、というケースが後を絶たない。権力関係が起きやすい入所施設や精神病院では、40年前から事件沙汰になってきて、未だに新聞沙汰になる話である。これは変わっていないし、その後の会場からの意見の中にも、ご自身が虐待を受けた当事者の方の訴えも聞かれた。こういう事態に対して、当事者の立場から「それはオカシイ」「制度や政策は私たちを交えて決めて欲しい!」と訴える三浦さんのお話は、非常に説得力がある。

3人ともそうなのだが、当事者活動という「地べた」の活動がしっかりあって、その上で、仲間のこと、地域のことを考えようとしている。こういう当事者主体のボトムアップ型活動が様々にされていることを伺い、非常に元気をもらった。そう、マクロシステムがどうであれ、自分自身を、仲間を、地域を元気にする活動をしておられる当事者も結構いるじゃん、と。

で、改めて深く学ばされたのが、この3人の「地べた」からのボトムアップ型の報告が、先のマクロ的・制度政策的議論とくっついている、ということだ。障害者自立支援法という制度政策上の問題点について、決して無視もしていないし、オカシイとも思っている。だが、単にそれに文句や批判を言ってオシマイ、ではなく、それぞれの「現場」で出来る「対案」となる活動を作り出し、着々と芽吹かせ、育んでおられる。この、批判だけでなく対案の形成とその実践、という点では、私もその作成のお手伝いをさせて頂いた「障害者総合福祉サービス法」も、まさに障害者団体という現場で作り上げた厚労省への対案であり、この作成を通じて、実践化にむけた様々な論点を検討してきた。こういう「地べた」の積み重ねは、ミクロ・マクロ限らず、ある内容を成功させる為には必須の動きであり、何かを本当に変える上での前提条件なのだ。

そう、その前提条件という歯車が、ミクロとマクロで一瞬であってもかみ合ったのが、今日の分科会であり、だから知的興奮も沸いてきたのだった。逆に言えば、これまでの多くの批判や提起といった言説の中に、ミクロとマクロのズレ、かみ合わせの悪さ、乖離などがあったのでは、とも考えさせられた。「地べた」から遊離している制度政策も、逆に現実にこだわりすぎて理念を見失う「地べた」も、共に中途半端である。別側の極を常に見据え、対極との接点を考える実践、それが大切だと興奮の余韻の中でかみしめていた。

最近気づいた墓穴

 

6月に入り、仕事が立て込むシーズンが到来した。ブログの更新も、、こうして遅れがちになり、そしてまたいつものように夜の「かいじ号」ブログになるのである。今日は三重から。

先週末は、八王子で「ノーマライゼーションの今日的課題」というたいそうなテーマで、研究会プレゼンを行い、日曜日は名古屋で、「障害福祉政策における政府間関係と市民参画」というこれまた大きなテーマで研究発表を行う。二日続けて、全く違うネタで話をするということは、当然準備もいつもの二倍かかる。通常の学内業務に県の仕事も入れながら、なので、かなりハードであった。ただ、おかげさまである程度準備をして臨んだので、両方の発表ともかなり充実し、次につながるレスポンスも頂け、大変勉強になる。そういう発表をすると、改めて感じるのだ。昔は、不勉強なまま発表していたなぁ、と。

正直、研究発表というものを、かつては嘗めていた自分がいた。耳障りのよいフレーズを、ほどよくまぶせばそれで許される、と大きく誤解をしていた。ただ、襟元をただしてくださったのが、恩師のお一人、K先生だ。ある時一言、こうおっしゃった。

「研究者の発表と落語を誤解するな」

曰く、落語という芸は、同じネタを何度も繰り返し練習する中で、自家薬籠中のものにした上で、ストーリーという型をベースに、芸としてのオリジナリティを出していくもの。研究者の発表発表とはそれとは真逆で、毎回違うネタをどんどん継ぎ足していく中で、新しい考え方を自分の中に貪欲に取り入れ、その考え方を自家薬籠中のものにしていくこと。落語の芸と研究者の研究とは、全く違う。そこを誤解してはならない。だから、研究者の発表において同じネタを繰り返し使うようになっては、研究者としてはオシマイだ、と。

その話を伺ったのは、ちょうど1年半前あたりのこと。講演や研究会などに出るチャンスが多くなり始めた頃だった。そして、阿呆な僕は、そういう人前で話すチャンスが増えた事に、あろう事か増長しはじめていた(のだと思う)。先生の「落語になるな」という一言に、まさに冷や水を浴びせられるだけでなく、心まで凍り付いたのを覚えている。図星だ、と。

その時期、忙しくなって来たことを理由に、同じネタをたらい回しにしたりする傾向がみられた。直接ご指導頂いたのは、ある学会発表の際、テーマは勿論新しいものだったが、分析枠組みとしては、これまでにある程度斜め読みをしていてわかったつもりになっていた日本語文献を、それこそ権威漬けのようにまぶしたような、いい加減な発表だったのだ。その発表をご覧になった先生曰く、「こういう品位のかけらもない発表をしていたら、君の研究者としての力量そのものを疑われる。それに学会発表という、新しい内容へのチャレンジの場を誤解している」と言われたのだ。

まさに、その通り。手抜きの発表は、私は馬鹿です、と公言して回るようなもの。また、同業者のピアレビューの場なのだから、知ったかぶりをするよりも、自らにとってもチャレンジングな課題に果敢に取り組んで、その内容について研究者仲間からアドバイスをもらうことこそ、一番必要とされていること。そう気づいて以来、口頭発表(講演も含め)の内容を、大きく変えはじめた。とにかく、発表するテーマに関して、絶えず新しい(自分の中では消化し切れていない)内容を盛り込んで、何とか発表するために自家薬籠中のものにすべく苦闘する。その努力が出来ないテーマでは発表しない。講演においても、与えられたテーマに関して、今までのパワポ(というなの紙芝居)のつなげ合わせだけではなく、必ず何らかの新しい情報なり考え方を入れ込む。

これを原則にしたので、以後の学会発表なり講演なりの準備は本当に苦しい。終わり無き新ネタ主義、は、特に日程がタイトになると、目が回りそうになる。だが、それでもやっているうちに、吸収効率があがり、何とか作り込めるようになってくる。そして、そういう作り込んだ内容で発表してみると、発表後のレスポンスが確実に変わってくるのだ。聞き手を揺り動かすかどうか、というのは、話し手側の努力に確実に比例しているのだ、と。これまでの努力をしないクズ発表を痛烈に反省し、今は多少努力をしておりますです、はい。

そして、今日は三重でのお仕事。昨日の学会発表で話したテーマの延長線上で、三重県の特別アドバイザーとして関わる現場での打ち合わせ。一つは、ある市のモデル事業に関する打ち合わせと、県レベルでの研修に関する打ち合わせ。昨年度の成果を踏まえ、今年度何が出来るか、を話し合う議論であった。

こういう議論の場で、研究者というアドバイザー役割について、しみじみと感じることがある。それは、「他人を通じて事をなす」という以前引いた伊丹敬之氏の箴言だ。

山梨でもそうなのだが、市町村なり県なり事業所なり様々な組織やシステムに関わるが、私は経営者でもないし、そこの従業員でもない。外部者としてのアドバイスを求められる。その際、どこまで何をするか、が大きく問われている。この点について、肩肘を張っていた部分があったことや、「失敗する権利」もあると言われて少し楽になったことなど、こないだのブログでは書いた。この件に関して、実はその後、お忙しい中にも関わらず、尊敬する先輩であるとみたさんから個人メールで色々ご指摘頂く。現場の人と外部者である研究者の「失敗する権利」とは違うのではないですか、と。

そうなのだ。現場の人は、失敗したら後がなかったり、あるいは良くない結果を自分で引き受ける、という第一義的責任と、それゆえにどのような選択をするか、という選択権がある。外部者である僕は、責任を引き受けないため、最終的な選択権はないのだ。つまり、どんなに良いと思った事でも、それがよいかどうかを決めるのは、その現場にある。その部分で、あなたが余計な責任を引き受けたつもりになって、無駄な刀を振り下ろしていませんか、と、ご指摘頂いた(のだと僕自身は勝手に解釈している)。つまり、研究者としての役割とその限界を理解していますか、ということだ。

先ほどの話とくっつけるならば、この部分が、僕には無理解だったと今になって理解出来はじめた。全く遅すぎてすいません。研究者が落語家と違って持つべき職業的矜持と、それゆえに犯してはいけない一線。ここが不明確であったり不十分であったりすると、あらぬ誤解やいらぬフラストレーション、ハレーションなどを巻き起こす。私もしんどいし、周りもしんどい。故に、最終的には、ごり押しをしても、自滅する以外の道筋がなくなっていく。そう、役割の無理解と逸脱は、自らの選択肢を狭めるだけの、文字通り墓穴を掘る行為なのだ。

そういう理解ができはじめたから、少しは真っ当に仕事ができはじめた。と共に、今更ながら掘り続けてきた墓穴という穴の大きさと深さに、自分の阿呆らしさに、情けなくなるばかりだ。

お稽古と「失敗する権利」

 

昨日読んでいたブログで、思わず「その通り!」と唸る説明してくれる一文をみつけた。

「素人がお稽古することの目的は、驚かれるかもしれないが、その技芸そのものに上達することではない。
私たち「素人」がお稽古ごとにおいて目指している「できるだけ多彩で多様な失敗を経験することを通じて、おのれの未熟と不能さの構造について学ぶ」ことである。
それは玄人と目指すところが違う。」
内田樹の研究室「失敗の効用」

先月から僕自身も久しぶりに新たな「お稽古」をはじめた。それは、合気道。高校時代に1年、いやいや柔道を授業でしたが、まさかその後、自ら進んで武道に入門するとは思いも寄らなかった。始めた理由は色々あるが、この内田氏の整理に深く頷く部分がある。

もともとのきっかけは、大学に合気道の授業も作って自ら教えている思想家、内田樹氏のブログやら本を読んでいて、興味をもったことが発端だった。また、昨年度まで一緒に仕事をしていた行政職員のTさんがずいぶんと長く合気道に親しんでいる、と言うのも聞いていた。だが、なかなか「では自分が」という段になると躊躇して出かけられなかった。

それがいったん出かけ始めると、何で今まで行かなかったのだろう、と悔やまれるくらい、楽しい。その理由は、きっと先生の教え方が、初めての素人でもとにかく他の方と一緒に型ををやらせて下さる、という所にあるのだろう。当然、いきなり「はいどうぞ」といわれて出来るわけがない。他の人がさらりと出来ることも、その構造が頭に入っていないし、例え理解出来ても身体が納得しないと、簡単にはいかない。まず、明治維新以後、国策として導入された西洋式軍隊行進が推奨した!?手と足のズレ(右手と左足を出すのが普通、という感覚)が染みついているので、ナンバに代表されるような、同じ側の手と足を出す、ということすら、出来ない。説明されて、そういえば、と上記のトリビアが頭に浮かんでも、実際身体がついてこない。毎週、下手な動きをして身体のあちこちが痛み、湿布をはることも少なくない。

でも、1時間半が滅茶苦茶たのしい。それは、先のブログを読む前までは、こんな風に考えていた。

仕事とは全く関係ない場所で、全くの一素人として、宇宙語のようなさっぱり理解出来ないことを、少しずつわかりかけていく面白さ。とにかく全身を使って、格闘するのではなく、身体の流れにあらがわずに技を身につけていく面白さ。全く使ってこなかった感覚を刺激する楽しさ・・・。

だが、内田氏は、僕の冗長な感想を「おのれの未熟と不能さの構造について学ぶ」と一言でまとめてくださった。まったくその通り。道場で感じるのは「おのれの未熟さと不能さの構造」なのである。そして、それを痛切に感じたい、と機運が高まっていた理由は、前回のブログにも書いていたりする。役割期待に構えてしまう、というのは、「おのれの未熟と不能さ」を出せない、と過剰反応していることに対しての、防御反応の一つ、なのだ、と。

これに関連して、「玄人」として働かなければならないある現場のことで、少し煮詰まっていた昨日、ピアの立場で関わる「おっちゃん」のお宅に相談に出かけた。ピアカウンセリングの名手でもある「おっちゃん」からは、いつも多くのことを学ばされる。今回も、一言、「タケバタさんにだって『失敗する権利』があるのではないですか」と。この言葉は効いた。

そう、入所施設や精神病院にいる障害者は、安心・安全が守られていても、いや守られているが故に、「失敗する権利」が奪われている。食べ過ぎたり、包丁で手を切ってみたり、人に騙されそうになってみたり・・・社会人として経験する、自らの愚かさから学ぶ、つまり、「おのれの未熟と不能さ」から学ぶ機会を奪われてしまっているのだ。日本の障害者の自立生活運動が唱えてきた「失敗する権利」とは、そういう社会人として当たり前に出来ることを奪わないで、というメッセージだった。

自らも自立生活運動の闘志である「おっちゃん」は、僕にも、「失敗する権利」があるよ、と伝えてくれる。肩肘張って、成功しようと必死になっていませんか、と。図星だ。ある枠組みが動き始めたら、それが失敗しないように、必ずうまくいくように、とそこに無理な力をかけ、肩肘を張り始めている自分がいた。だからこそ、役割期待なんていうゾンビに捕らわれ始めていた。それゆえに、無意識的反動として、ゾンビとはまったく関係ないお稽古が猛烈にしたくなりはじめた。

もちろん、その構造に気づいたからお稽古はおしまい、ではない。自らの陳腐な「成功」体験を絶対化することなく、「失敗する権利」を最大限に行使するためにも、武道場ででくの坊のような身体を今日も動かす。「おのれの未熟と不能さの構造について学ぶ」喜びにひたる。本務に関係ない部分で、失敗をしながら学ぶから、本務における無駄な肩肘も張らなくて済むようになる。まさに一石二鳥、とはこのことだ。

僕自身、料理をすること以外は、しばらく無趣味であった。そういえば、中学まで電車オタク、高校時代は白黒写真、と凝ってみたが、15年ぶりくらい持った、本格的お稽古なのかもしれない。今晩のお稽古のことを考えたら、もうすでにワクワクしている。