信じて、疑う

 

「だが、人間の手になるもので無謬なるものがありえようか。否である。われわれが唯一無二と信じうる真理でさえ、それは人の手になるものである以上、無謬ではありえない。諸君は問うであろう、では、真理とは、人間が拠って立ちうるものになりえないのか、と。たしかに一見すれば、誤りを含んだ真理とは、語の矛盾以外の何ものでもない。だが真理として究められた以上、あくまで真理性を主張することができる。否、あえてその真理性を擁護しなければならぬ。だが、諸君、同時に、諸君はその真理が、さらに一段と高い真理に進みうる道を、そこに開いておかねばならぬ。実にこの道こそ、真理の中における懐疑である」(辻邦生『背教者ユリアヌス上』中公文庫、p257

ここのところ、辻邦生にはまっている。以前ご紹介した『西行花伝』に続き、『安土往還記』を読み終え、こないだから3巻ものの長大作、『背教者ユリアヌス』へと突入した。歴史小説を、本人の心理描写だけでなく、周辺人物の心理描写を重ね合わせながら、タペストリーのように織り込んでいく語り口が、僕にとっては新鮮だった。日頃仕事の本しか読まないことが多く、小説は敬遠しがちだったが、何だか今年に入ってから、無性に読みたくなり、未知のジャンルに切り込んでいる。最近はじめた合気道と同じで、自分が知らない分野での「真理」に触れることの面白さ、を実感しているのを感じる。

さて、この『背教者ユリアヌス』、実は高校生の頃から名前だけは知っていた。高校時代の国語教師が辻邦生の大ファンで、これ程凄い歴史小説はない、と何度も繰り返して言っていた。だが、今から思えば、辻邦生に親しむほどの内的成熟が出来ていなかった故、あれから15年間、出会うことはなかったのだと思う。今も成熟したとは思えないが、30代になり、多少なりとも試行錯誤を重ねてきた今だからこそ、辻邦生が作品を通じて語りだす人生観や哲学から、さまざまな刺激や触発を受ける。今回引用したのは、若きユリアヌスが半幽閉状態の時代に出会った哲人、リバニウスが自らの学塾での講義時に述べていた一フレーズ。目の前で、こういう講義を受けているかのようなアクチュアリティが読者に迫ってきて、読み出したら止まらない。

中身に少し触れておくならば、「誤りを含んだ真理」とは、これまた玄妙なる表現である。確かに「人の手になるものである以上、無謬ではありえない」。だが、「あえてその真理性を擁護しなければならぬ」ほどの、正しさや真理性が満ちあふれているものも、この世には存在する。理にかなっていて、一般原則としての筋目が通っている考えなり、捉え方なり、動きなりは、確かに存在する。だが、その無謬性を盲信・過信してしまうと、大やけどをする。「真理の中における懐疑」とは、単に疑い深くなることではない。「その真理が、さらに一段と高い真理に進みうる道を、そこに開いてお」くための方法論が、「真理の中における懐疑」なのだと思う。真理を自己目的化し、方法論的懐疑を捨てた絶対化をするところから、歪みが始まる。それは、真理の歪み、ではなく、解釈する側の「人の手」による歪みなのではないか。

真理の正しさと、人の手の誤謬性。その両方が真であるからこそ、「信じて疑え」というテーゼが成立するのだと思う。どちらかが欠けても、バランスや平衡が破られる。全くの対極的思考を自身の中に両立出来るだろうか。書き写しながら、ふとそんなことを考えてみた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。