施設病というダブルバインド

【追記的前書き(11月28日):統合失調症の理由がダブルバインドである、というのは、現在の精神医療では棄却されているし、また本論は、「だから母が悪い」という「母源病」に与するものでもありません。ただ、ダブルバインド的コミュニケーションが患者を拘束する、という論理が、施設病における患者の拘束と類同性を持つ、というのが、本論で書きたいことです。この点について、首都大学東京の長沼先生にご教示頂いた事を、記してお礼申し上げます。】

ベイトソンの提唱した有名なダブルバインド(二重拘束)概念。その原著を紐解くと、こんなふうに書かれている。

「母との絆を保つためには、彼女に愛を示してはならない。しかし愛を示さなければ母を失う。-これが患者を捕らえた解決不能のジレンマである。」(ベイトソン『精神の生態学』新思索社、p308)
入院患者の元に、母が見舞いに訪れた。「お母さん、来てくれたんだ」と抱きつこうとしたら、母がスッと身を引いた。「なんだ、お母さんは結局僕を好きじゃないんだ」と後ずさりすると、それを見破られたくない・自己正当化したい母は、「どうしたの、そんなに怖じ気づいて!」と説教をする。すると、子どもは「彼女に愛を示してはならない」という身体表現上のメッセージと、「愛を示さなければ母を失う」という言語メッセージの矛盾に引き裂かれ、そこで宙吊り状態になってしまう。これが「患者を捕らえた解決不能のジレンマ」である。ベイトソンは、なぜこのような現象が生じるのか、について、次の様に述べている。
「ダブルバインディングなコミュニケーション状況は、母親の心の保全にとってきわめて重要なものである。ということはつまり(論理的にいって)それが家族のホメオスタシスにとって必須のものだということだ。そうだとすれば、治療が次第に効果を発揮し、子どもが母親の制御を振り切って次第に独り立ちしていくにつれて、子どもを制御することに依存していた母親の心のバランスを失していくことが観察されるだろう。自分と子供との関係の力学を医師から説明されるというだけでも、母親は大きな不安を喚起されるはずである。(略)治療中の患者が家族と持続的な接触をもつ場合(特に家から通院する場合)、母親に-時として母親、父親、兄弟姉妹の全員に-しばしば激しい動揺と混乱のようすがみとめられた。」(p311)
簡単に言えば、ダブルバインドは、この場合で言えば「母親の面子とプライド」を護るために必要不可欠な要素である。自己欺瞞を隠蔽するためには、自分が悪いのではなく、「子供が病気だから」というラベルを、自分と子供、だけでなく、その家族全体が「鵜呑みにする」ことが求められる。「それが家族のホメオスタシスにとって必須のものだ」ともベイトソンは言い切る。このホメオスタシスは「恒常性」という日本語訳がついているが、ベイトソンはこの恒常性について「家族間の相互関係の(この場合歪んだ)バランス」と書いている。歪んだバランスであれ、家族間の相互関係が保たれて居る場合、子供がその矛盾に気づき、そこから脱しようとするならば、母親にとってそれは「自分と子供との関係の力学」の変化の可能性に映る。これは、母親だけでなく、歪んだ仮の安定に依拠している父親や家族全員にとっても「大きな不安を喚起」する可能性が高い。だからこそ、この矛盾と向き合おうとすれば、「しばしば激しい動揺と混乱のようすがみとめられた」のである。
はっきり言えば、家族も本人も、混乱する、という危機である。その際、治療者や治療チームはどちらの方向に向こうとするか、で、「その後」は大きく変わる。簡単に言えば、①患者本人の問題に矮小化して、矛盾を「本人の問題」と切り分ける、か、②その矛盾を社会ネットワーク全体の問題とみた上で、その関係性の不全に踏み込むか、の二つのアプローチが考えられる。
ベイトソンは、前者の①「本人の問題」と切り分ける、ことに関連して、次の様にも述べている。
「サイコセラピーの場でも、病院内の環境でも、ダブルバインド状況は生み出されるということ。われわれの仮説からすると、病院側の患者側に対する”善意”が、はたして患者のためになるものかどうか疑問視せざるをえない。病院は患者のために存在するのと同様に-同程度に、あるいはそれ以上に-病院のスタッフのためにも存在するのだから、そこで『患者のため』という名目で、職員の居心地を一層良くすることを目的とする活動が続けられる時には、矛盾も生じるだろう。病院側の目的に添うように組織された制度を、『患者のため』と宣告することは、患者にとっての分裂症的状況を永続化していくことにほかならないとわれわれは考える。」(p315)
「あなたのために」と言いながら、そう発言する「私」にとっての「居心地を一層良くする事を目的とする活動が続けられる」。この構造は、先の母と息子の関係と同じだ。これは、母と子という1:1の関係だけでなく、病院・入所施設職員と患者という集団的な関係でも同じだ、とベイトソンは言う。「あなたのために療養や入所が必要です」と述べていても、その現実は、「あなたが入院(入所)してくれているから、うちの病院の経営は成り立つのです」という論理で支えられているのであれば、これは「病院は患者のために存在するのと同様に-同程度に、あるいはそれ以上に-病院のスタッフのためにも存在する」という事態そのものである。そして、残念ながらこの事態は、ベイトソンがこの論文を発表した1956年から60年近く経った今も、全く変わっていない。以前、病棟転換型施設問題についてシノドスに書いた時に引用した、病院長の発言を再び引用する。
「千葉潜委員(青仁会青南病院院長)は、長期入院している精神障害者をグループホームに移行させた場合、赤字経営を強いられる可能性が高いとする試算を紹介。それでもあえて入院患者の地域移行を進める病院は、精神医療の改革を意識した良質な病院であるとし、『そうした病院が病床を減らしても食べていけるような裏付けがなければ、長期入院する精神障害者の地域移行は進まない』と訴えた。」
これは、矛盾の表出例のサンプルとして、大変わかりやすいものである。病院は、精神科であれ内科であれ、公式には「患者の治療の為」に存在する。ということは、治療が終われば、退院してもらうのが当たり前である。だが、一方で「病院は患者のために存在するのと同様に-同程度に、あるいはそれ以上に-病院のスタッフのためにも存在する」。だからこそ、「そうした病院が病床を減らしても食べていけるような裏付けがなければ、長期入院する精神障害者の地域移行は進まない」、つまりは「病院のスタッフ」「の居心地を一層良くすること」が「裏付け」されない限り、「長期入院する精神障害者」は退院させられない、というのである。これは、病院の公式な目的と、病院の本音との明かな矛盾である。
そして恐ろしいことに、医者は診断名を武器に「あなたはまだ病気が消失していないから(保護者の同意がないから、一人で生活する力がないから、刺激に耐えられそうにないから・・・○○だから)退院出来ない」と宣言することができる。これは、自己欺瞞をしている母親が、その欺瞞の隠蔽工作を計り、矛盾を入院している息子に押しつける構図と全く同じである。本来であれば、この自己欺瞞こそが、息子のダブルバインド状況を作り出している。この場合であれば、「入院する必然性」がなくなったら、即時退院させるのが当たり前である。だが、それが出来ずに、長期間入院させていることで、患者が病院側にとって「固定資産」になっている。それを維持することが、「職員の居心地を一層良くする」がゆえに、安易に退院を言えない。すると、患者も「ここしかないのか」と矛盾を自分の中に治めてしまう。
僕は、大学院生のころ、NPO大坂精神医療人権センターのボランティアとして、精神病院を沢山訪問して来たが、そこで「退院意欲のない」とラベルを貼られている患者さんに沢山出会ってきた。だが、その後「施設病」という言葉を知り、入所施設や病院が、そこから退院・退所出来ない構造を作り出している事にも気づき、そのことは『権利擁護が支援を変える』の中にも書いた。だが、もう一歩進めるならば、「施設病」に陥っている入院・入所者は、ダブルバインドの「矛盾」、その施設なり病院に住み続けることが、家族や施設・病院職員にとっての「居心地を一層良くする」ということが本音にあって、その「本音」と、「早く治ってほしい」「しっかりと生活してほしい」という建前の矛盾に苦しんで、生きる意欲が喪失し、施設や病院での暮らしに唯々諾々として従っていくのではないか。その「矛盾」を病気や障害のせいにすることによって、「患者にとっての分裂症的状況を永続化していくことにほかならない」のではないか。そう感じはじめている。
だからこそ、気になることがある。
例えば、オープンダイアローグ。
オープンダイアローグは、ブログでも何度か紹介しているが、②その矛盾を社会ネットワーク全体の問題とみた上で、その関係性の不全に踏み込む、アプローチである。決して、①患者本人の問題に矮小化して、矛盾を「本人の問題」と切り分ける、ことではない。だが、日本でこれが広まっていくとき、
「精神病院の中でのオープンダイアローグ」
という、笑うに笑えない「矛盾」が生じる危険性がある、と感じている。なぜ、病院の中でのオープンダイアローグが笑止千万なのか。ここまで読んで下さった方々はもうお気づきかもしれないが、長期入院患者や長期入所者は、ダブルバインド的な矛盾を一人で受け止めるように、構造的に追い込まれている。その中で一生暮らす事を選択するように、暗黙の内に強いられている。「お母さんは嘘つきだ」という自己欺瞞の告発を息子が出来ないのと同じように、「この施設・病院の存在そのものが自己欺瞞だ」と言えない状況に追い込まれている。しかも、職員-患者という権力関係によって、発言に蓋がされている。その前提の中で、「さぁ、自由に語りましょう」と言うこと自体が、お笑いというか、自己欺瞞なのだ。
本当に精神病院の中でオープンダイアローグをしようとするなら、「その矛盾を社会ネットワーク全体の問題とみた上で、その関係性の不全に踏み込む」なら、精神病院という構造の「矛盾」をも、自由に話すことが出来なければならない。
「あたなは寛解しています。地域に出る事だって、出来ます。でも病院の経営上(食べていくために)、あなたはここに居てもらわなければならないので、退院は出来ていません」
という「矛盾」を相手に伝えた上で、その「矛盾」をどう解消していくか、医療者と患者が共に考えること。これが、精神病院の中でのオープンダイアローグである。これは、言うは易く行うは難し、である。というのも、医療者側が、自己欺瞞とまず向き合う必要があり、当然、先の母親と同様「激しい動揺と混乱のようす」を見せる可能性がある。つまり、本気で「矛盾」と向き合う事は、病院や入所施設内の「相互関係の歪んだバランス」というホメオスタシスを大きく揺るがす事態につながる。それは、「入所・入院者を制御することに依存していた支援者・医療者の心のバランスを失していくこと」にも直結しかねない。だからこそ、地域移行や脱施設は、本人とではなく支援者・医療者のホメオスタシスを崩す事であり、「激しい動揺と混乱」を引き起こすことが容易に想像出来るため、施設や病院側は尻込みするのである。そして、入所・入院する本人はその「矛盾」を貝のように固く閉ざして引き受けるのである。この矛盾の貝殻を本気でこじ開けるつもりが無い限り、「精神病院の中でのオープンダイアローグ」は、「病院内でのSST」と同様、擬似的効果しか発揮しない可能性がある。
そして、ここまで書いていて思いだしたのだが、実はイタリアのトリエステでは、本気で病院内でのオープンダイアローグをしたのである。それが、「アッセンブレア」である。そのことは、雑誌「福祉労働」にも書き、一部はブログにも書いたことがある。精神病院の中で開かれた、誰でも参加や発言が可能な討論集会。そのアッセンブレアは、こんな様子だったという。
「イタリアのアッセンブレアとは、衝突のステージであった。というのも、ベッドや閉鎖病棟に隔離拘束されていないとしても、長年沈黙してきた人々による表現であったからだ。アメリカやイギリスの治療共同体とは違って、アッセンブレアは精神力道的な解釈や治療プロセスへの第一義的関心は避けられていた。つまり、そのミーティングは、スタッフによって運営も誘導もされなかったのである。実際、これらの集まりはまとまりもなく、コントロール不能で、怒りや熱情、無秩序に開かれていた。そこは、他人との関係の、あるいは自分自身の精神的な問題について控えめな表出をするための安全な場所以外の何物でもなかった。」(Scheper-Hughes, Nancy and Anne M. Lovell eds., 1988, Psychiatry Inside Out: Selected Writings of Franco Basaglia New York: Columbia University Press.14-15)
「怒りや熱情、無秩序に開かれていた」環境であり、「スタッフによって誘導」されなかったからこそ、「長年沈黙してきた人々による表現」が可能になった。これまで入院する中で自分が抱え込んできた「他人との関係の、あるいは自分自身の精神的な問題」という「矛盾」を、そのものとして話すことが出来る場だったのである。このアッセンブレアを提唱したバザーリアは、こんな風にも言っている。
「医師と患者の間の、看護師と患者の間の、そして医師と看護師の間の矛盾の表現の中にこそ、新しい可能性や新しい役割が生まれるであろう。私たちの仕事の治療的な側面とは、矛盾についてのこの対話的実践である。このような矛盾は無視されたり隠されたりすることなく対話的に直面される時、そしてスケープゴートを探す技術が、『しかたない』と受け入れられる代わりに対話的に議論される時、コミュニティは治療的だと呼ばれるのだろう。」(同上、p75)
オープンダイアローグによって、医師と患者の間の、看護師と患者の間の、そして医師と看護師の間の矛盾」が明らかになってこそ初めて、精神病院の中での「対話」には「新しい可能性や新しい役割が生まれる」。「矛盾についてのこの対話的実践」を「治療」として、精神病院のスタッフが踏み出すことが出来るか、が大きく問われている。精神病院が「食べていくために」患者を収容している。図らずも精神病院のオーナーが述べたこの矛盾をそのものとして認めた上で、「矛盾は無視されたり隠されたりすることなく対話的に直面される時、そしてスケープゴートを探す技術が、『しかたない』と受け入れられる代わりに対話的に議論される時、コミュニティは治療的だと呼ばれるのだろう」。
ここまでの覚悟を持って、「精神病院の中でのオープンダイアローグ」が進むのか。それは、ダブルバインドを「施設症」的に隠蔽するか、病院構造の力学を根本的に変化させるために用いるのか、の分かれ目でもある。

必然性という囚われからの自由

フランスの社会学の大家、ブルデューの翻訳者でもあり、ブルデューと個人的親交を深めておられた加藤晴久氏によるブルデュー論が、すごく面白かった。ブルデューの足跡をたどれるだけでなく、彼の社会学の価値前提のようなものまで、学ぶことができた。たとえば、ブルデューの肉声を伝えるこんなフレーズ。

「わたしが必然性というものをこれほど鋭く知覚するのはたぶん、わたしが必然性を何にもまして耐えがたいものと思うからです。貧しい人であれ富んだ人であれ、誰かが必然性にとらわれているのを見ると、わたし個人として、みずからのこととして苦しく思います。」(加藤晴久『ブルデュー 闘う知識人』講談社選書メチエ、p181)
この部分は、すごく深く頷いて共感する。僕自身が3年前に「枠組み外し旅」を上梓するきっかけになったのも、「どうせ」「しかたない」といった「必然性へのとらわれ」に対して、「みずからのこととして苦しく思」ったからだ。それは、同書の冒頭にも書いている。
「「どうせ」「しかたない」というフレーズは、自らの潜在能力の最大化にとって最大の「蓋」であり、「呪縛」の言葉である。「どうせ」「しかたない」と述べることで、自分の、社会の、世界の変容可能性を拒絶し、旧来の世界に閉じこもることを容認している。」(竹端寛『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』青灯社、p15)
僕自身が問いかけた、この「どうせ」「しかたない」という認識論的な「必然性」という枠組みに対する問いを、ブルデューは自分事として問いかけ、僕よりもずっと前から問い続けてきた。
「社会学はわれわれが演じているゲームを理解するチャンス、そしてわれわれが生きている界に作用する諸力の影響とわれわれの内部で作用する身体化された社会学的諸力の影響を縮小するチャンスを与えてくれます。」(加藤、同上、p180)
そう、「どうせ」「しかなたい」と、世の中で起こる事を「必然性」でとらえると、それに従うしかない。でも、なぜ「どうせ」「しかたない」のか、変わることは出来ないのか、という構造を問い続ける中で、「どうせ」「しかたない」と諦めているこの社会の「ゲームを理解する」ことが可能になる。そのゲームの構造やルールを意識的に理解することを通じて、「われわれが生きている界に作用する諸力の影響とわれわれの内部で作用する身体化された社会学的諸力の影響」を自覚化することが出来る。これが、「どうせ」「しかたない」という「呪縛」を解き放ち、脱魔術化し、「蓋」を外して新たに社会をとらえ直す上で、必要不可欠なのだ。加藤さんは、上記二つのブルデューの言葉を引用したあと、こんな風にも整理している。
「今ある社会秩序を人々が疑うことなく、むしろ進んで受け容れているという事態を昔から不思議に思ってきた。人々が抱いている、とらわれているこのドクサ(臆信)がパラドクス(背理)であることを明らかにすること、歴史が自然に、文化的恣意や自然的恣意に変換されてしまう過程を分解することが社会学の仕事だという訳である。」(p185)
加藤さんは本来フランス文学者だが、中途半端な社会学者より、遙かにわかりやすく社会学の仕事を定義する。前回のブログにも書いたが、精神医療における「合理化」とは、「文化的恣意や自然的恣意に変換されてしまう過程」であった。それが、DSMやGAFという分類体系によって正当化される過程であった。だが、正当化や合理化のプロセスは「ドクサ(臆信)」への「とらわれ」であること、「合理性」を重んじる科学の中で「合理化」が行われることは「パラドクス(背理)」であること、は、精神医療という「界」の構造を分析すべき、社会学者の仕事なのである。他人事ではない、僕自身もそれをちゃんと自覚化して、必要な仕事をしなければならない、と感じ始めている。
「界で進行する諸闘争はその界の特性をなす正当な暴力(界固有の権威)の独占をめざすたたかいなのです。終局的には、界固有の資本の分布構造を保守するか転覆するかの闘争なのです。」(p226)
以前のブログでご紹介したオープンダイアローグやトリエステ方式は、日本に伝えられると換骨奪胎される恐れがある。それは、日本の伝統的な精神医療の「界固有の資本の分布構造を保守」したい勢力は、その「転覆」の可能性のある価値前提を去勢し、技法論に矮小化して、伝統的なヒエラルキーの下部構造に位置づけたいからである。リカバリーやピアサポートも、そのような諸闘争の中で、「医師の指示の下で」「病院の中でも出来る」技法に矮小化された部分もある。だが、オープンダイアローグやトリエステ方式が本来問い直しているのは、技法ではなく、価値前提である。医師を頂点とした垂直型構造が、患者の治癒には有効ではない、という価値前提に立ち、治療構造を水平的関係に変えていこう、というパラダイムシフトである。これは、「あたなのために」から「あなたとともに」へのパラダイムシフトである。そして、それをすると、伝統的な精神医療だけでなく医師「固有の権威の独占」が出来なくなるため、これらの新しい価値前提は、技法論に矮小化される「闘争」にさらされている。
そして、社会学者の僕は、精神医療の科学の言葉で語られる背後にある、このような「固有の資本の分布構造を保守するか転覆するかの闘争」を、精神医療という「通常科学」の言葉で「合理化」してわかった気にならず、「精神医療の社会学」として、その「合理性」を分析していく必要があるのだ、と思い始めている。
「すべての支配関係の根源には『恣意性』がある。この恣意性を無意識の領域に抑圧し、支配関係を当然のこと、自然なこと、普遍にもとづくものとして受け入れさせるためには、支配者側が体現する世界観、見方、分け方原理を正当なものと受け入れさせる必要がある。つまり社会関係は力関係の場であると同時に意味の場でもある。支配の現実である力関係を隠蔽し、正当なものとして受け入れさせる象徴的権力、これがブルデューの言う象徴的暴力である。」(p233)
日本の精神医療の現場で今も続く精神病院への隔離拘束とは、「支配の現実である力関係を隠蔽し、正当なものとして受け入れさせる象徴的権力」が機能している実態である。日本の精神医療には「象徴的暴力」が働いている。この「象徴的暴力」の「正当化」論理を疑い、どのような「恣意性」が働いているのか、を問い直すことは、実はイタリアでは、フランコ・バザーリアが40年以上前に実践していたのであった。
「医師も看護師も患者も、この新しくて、改良された、「良い」施設を創り上げるのに貢献している全ての人が、自分自身が創り上げた牢獄に閉じ込められている事に気付くかもしれない。自分たちが影響を及ぼしたと考える現実から疎外されていることや、最も明らかな欠点をふさぎ、より大きな欠点をもたらすことになるシステムに再統合されるのを待っている、ということに。唯一の可能性とは、患者が自分自身の歴史が、常に虐待や暴力の歴史と繋がっていると主張する事であり、その虐待や暴力の起源をはっきりと覚えておくことである。」(Scheper-Hughes, Nancy and Anne M. Lovell eds., 1988, Psychiatry Inside Out: Selected Writings of Franco Basaglia New York: Columbia University Press. pp84)
「自分自身が創り上げた牢獄に閉じ込められている」とは、精神医療の象徴的暴力への無自覚な従順であり、それを「必然性」「どうせ」「しかたない」と受け容れることである。これは「ドクサ(臆信)」への盲信・猛進である。だが、自分たちの医療行為が、「虐待や暴力の歴史と繋がっている」と「はっきりと覚えておくこと」によって、「支配の現実である力関係を隠蔽」せずに、自覚化することができる。バザーリアが民主精神医療(psichiatria democratica)を主張したのは、このような「象徴的暴力」の自覚化と、そこからの脱出を目指したから、とも言える。
ブルデューのような仕事が出来る自信はないが、精神医療における「必然性」への囚われから自由になるために、研究者が出来ることは、このような社会学的分析なのかもしれない。改めて、そう感じた一冊であった。

了解不可能性を超える複雑性

先週末、イタリアのトリエステ精神保健局長であるロベルト・メッツィーナさんのセミナーに出かけた。精神科医やコメディカルを主な対象としたセミナーで、濃厚な議論が展開された。その中で、精神病院に頼らず、地域で支え続ける人材を養成するにはどうしたらよいか、という質問に、メッツィーナさんは次の様に答えていた。

「フランスのエドガー・モランという複雑性思考の哲学者の言うように、還元主義に基づかず、複雑性に対処するトレーニングは理論のレベルではすこしは出来る。だがこれは理論的抽象的な話。真のガイドは、目の前にいる具体的な人。その利用者本人の自分の持っている苦しみに与える意味が、治癒への道筋を指し示す。それは人によって違うし、治癒の道も全く違う。具体的に目の前にいるその人が導いてくれるし、それしか複雑性に対処できないが、それが最もよい対処の方法である。」
この話を聞きながら、頭に何か微弱な電流が走った。モランって・・・家に帰って書棚をみたら、やっぱり読んだ事のあるモランだった。5年ほど前、複雑系の本を貪るように読んでいた頃は、それが何につながるのか、さっぱり理解していなかった。でも、昨日読み返してみて、精神医療の変革に必要不可欠である、と改めて気づかされた。
「精神の現代的病理は、現実の複雑性にたいして人間を盲目にしてしまう超-単純化のなかにある。」(エドガール・モラン『複雑性とはなにか』国文社、p25)
例えば診断名も、「超-単純化」の一つとは、いえないだろうか。統合失調症の○○型、とラベルを貼ることで、ある程度の「見立て」はすることが出来る。だが、そのラベルを貼られた人が、そういう状態に至るまでの生きる苦悩という「現実の複雑性」に対して、ラベルを貼れば「盲目」になり、ラベルから見える問題のみに焦点が当てられる、という意味で、「超-単純化」の「病理」に陥っているのではないか、という指摘である。そして、モランはこのような「超-単純化」とは、「合理性」ではなく、「合理化」である、という。
「合理化とは、ある一貫したシステムのなかに現実を閉じ込めようと欲することである。そして現実のなかでこの一貫したシステムに逆らうものはすべて退けられ、忘却され、脇におかれ、錯覚ないしただの見かけであるとみなされてしまう。」(同上、p104)
この合理化の話は、ちょうどメッツィーナさんとの質疑応答の部分で焦点化されていた。質問したのは、以前トリエステ研修でご一緒した精神科医のFさん。こんなことを聞いていた。
「ある患者さんが、治療契約の場面では『錯乱時には○○してほしい』といっていても、実際にその状態になったら違う事を口にしたり、以前言った事を忘れてしまったりする。あるいは、急性期を過ぎたあとにそのことを指摘しても、『覚えていない』という。こういう人の『主体性』をどう支援すれば良いのか」
これに対して、メッツィーナさんは非常にわかりやすくこう答えた。
「あなたは、主体性を限定的に捉えていませんか? 主体性とは、デカルト以来の論理実証主義的な言語で表現されるものだけでしょうか? 理性的ではない、非言語の表現も含めたものの中に、主体性が表現されていることはないでしょうか? 忘れてしまったり、覚えていない、あるいは幻聴に支配されている、という形での表現もあるのではないでしょうか? その意味を探ることが大切ではないでしょうか?」
科学的な思考の中では、言語的やりとりという「一貫したシステム」の中で判断しやすい。すると、錯乱や幻聴・幻覚などで、論理的な言語によるやりとりが出来ない、と見なされた人は、「一貫したシステムに逆らうもの」とされる。すると、その人の語り、だけでなく、下手をしたらその人そのものも「すべて退けられ、忘却され、脇におかれ、錯覚ないしただの見かけであるとみなされてしまう」可能性がある。しかし、メッツィーナさんがいうのは、それは言語的なやりとり、という「ある一貫したシステムのなかに現実を閉じ込めようと欲する」意味で、「合理化」に過ぎず、「超-単純化」だ、と指摘する。そして、モランに戻れば、このような「合理化」は、科学ではない、という。本当の科学的思考は、「合理化」ではなく、「合理性」である、と。それは一体どういうことか。
「合理性とは、われわれのうちでたえまなく行われている対話の働きであり、それは論理的構造を作り出し、論理的構造を世界に適用し、この現実の世界と対話を交わす。この世界が、われわれの論理システムと一致しない場合は、論理システムが不十分なもので、現実の一部にしか出会っていないのだと認めなければならない。合理性とは、いうならば、けっして現実全体を論理システムのなかに汲みつくそうとするのではなく、自分に抵抗するものと対話することを欲する。」(同上、p104)
錯乱や妄想などで、言語的なやりとりが通じない。この時、「一貫したシステム」から外れ、「対話」が出来ない、と見なすのが「合理化」思考である。一方「合理性」の思考は、一見すると「自分に抵抗するものと対話することを欲する」。ということは、言語的なやりとりが出来ないのであれば、その人の非言語の表現とか、妄想や錯乱がどのような訴えかけをしようとしているのか、を対話的に考える。言語表現という「論理システムが不十分なもので、現実の一部にしか出会っていないのだと認め」た上で、「現実全体を論理システムのなかに汲みつくそうとするのではなく」、その「論理システム」の限界を認識し、「対話」の中からその限界を乗り越えようとする。これが、精神症状のある人の「主体性」を取り戻す上で必要不可欠だ、というのだ。
「単純性のパラダイムとは、世界に秩序をもたらし、世界から無秩序を追い払うパラダイムである。秩序はひとつの法、ひとつの原理に還元される。単純性は一、あるいは多を見るのだが、<一>が同時に<多>でありうることを理解できない。単純性の原理は、結びつけられているものを切り離すか(分離)、多様なものを統一するか(還元)、そのどちらかである。」(同上、p87)
この人は狂っていて、言語的な理解や了解が不可能である。これは「結びつけられているものを切り離す」(分離)という単純化である。あるいは、このような了解不可能性のあるひとは、双極性障害である、というのは、「多様なものを統一する」(還元)である。このとき、了解不可能(分離)に一見思える人が私とどう同じ人間としての苦しみを抱えているのだろう(還元)という、「<一>が同時に<多>でありうることを理解できない」のが、これまでの旧態依然の(日本のドミナントな)精神医療のパラダイムではなかっただろうか。だからこそ、メッツィーナさんは、複雑性というキーワードをセミナーの中で何度も繰り返し表現していた。
さて、ではその「複雑性」とは何か。モランはこのように定義している。
「まず第一に、複雑性は、切り離しがたく結合した異質な構成要素によって織りなされたひとつの織物である。複雑性は一と多のパラドクスを提起する。第二に、複雑性は、実際には、われわれの現象の世界を構成する出来事、作用、相互作用、遡及作用、諸決定や偶発性によって織り成された生地である。」(同上、p22)
言語的に了解不可能に見える言動を発する人(多)が、同じ人間としてどのような生きる苦悩を抱えているか(一)の「パラドクス」を、そのものとして受け止めること。それは、その人と周囲や世界、支援者として目の前にいる私との「出来事、作用、相互作用、遡及作用、諸決定や偶発性によって織り成された生地」を、そのものとして眺めることである。
「異常だ」「オカシイ」とラベルを貼られた人とも「たえまなく行われている対話の働き」を続ける。そのプロセスの中で、外から見たら支離滅裂に見える言動の内在的論理を探り出し、その人の中での論理プロセスの筋道を明らかにする。それが、「正常」という形で「合理化」「単純化」された世界の論理構造を超えていても、その正常と異常の「相互作用」や「遡及作用」を捉えることで、正常と異常という「切り離しがたく結合した異質な構成要素によって織りなされたひとつの織物」の構造を捉えようとする。
モランは、単純化や合理化の限界を、次のようにもいう。
「西欧的・デカルト的形而上学は、すべての生き物をそれぞれ閉じた本質存在とみなしただけで、それらがみずからの開放性のなかで、その開放性によって、それらの閉鎖性(つまり自律性)を組織するシステムであるとは考えなかったのである。」(p33)
「異常な人」を、「閉じた本質存在」と留め置くのは、<多>ではあっても<一>ではない。その人の「異常」な状態とは、「正常」との関係性の中で、「正常」のカテゴリーの外にあるという理由で、「異常」と見なされる。「正常」と「異常」は、全く関わりを持たない「閉鎖性」システムではなく、相互作用や遡及作用しあう「開放性のなかで」「閉鎖性(つまり自律性)を組織するシステム」なのである。
事実、数十年前には、LGBTは「性的志向の乱れ」、不登校は「学校恐怖症」と、それぞれ「異常」「逸脱」のカテゴリーが張られていた。だが、ご案内の通り、それらの「症状」にみえる状態の内在的論理が、主に当事者達のカミングアウトによって明らかにされ、マジョリティにも理解されるうちに、これらのカテゴリーは大きく変更し、「異常」に留め置かれなくなったのである。つまり、これらのカテゴリーは、つねに「開放性」のあるカテゴリーなのだ。
そこから彼は次の様にも指摘する。
「開いたシステムという考え方からは、次の様な二つの主要な結論が引き出される。その第一は、生体組織化の法則は平衡の法則ではなくて、安定化したダイナミズムによって捕捉された、あるいは代償された非平衡の法則だ、ということである。(略)第二の帰結は、システムを理解する鍵は、システムのなかだけではなくて、システムとその環境とのあいだにある関係のなかに求められなければならないということ、そしてまたその関係は、たんなる依存関係ではなくて、システムそのものを構成する関係である、ということである。こう考えることができれば、現実は、開いたシステムとその環境とのあいだの区分けにあるのと同じ程度に、それら両者の結びつきにある。」(同上、p33)
ここで筆者が強調する太字部分が、僕自身も今回読み直して、一番しっくりと来た部分である。
異常という「現実」だって、「開いたシステム」であり、「その環境」(=正常)「とのあいだの区分けにあるのと同じ程度に、それら両者の結びつきにある」。正常とされる論理の中で、あるいは言語的には「了解が不可能」に思える現実には、「異常」というラベルが貼られる。でも、このラベルを「閉鎖性」で捉えてはならない。あくまでも、正常という環境との「あいだの区分け」であり、それと「同じ程度」に「正常」と「異常」は「結びつ」いているのである。

これまでブログにも書いてきた「ゴミ屋敷」の問題でも、それを「異常」と片付けたところで、何も解決は生まれない。その家の主が、どのようなプロセスを経て、ゴミを溜め続けてきたのか。「ゴミ屋敷」を「異常」とラベルを貼って分かったフリをせず、その「開いたシステム」の中にある、「ゴミを溜めていないご近所」との「結びつき」を分析する中で、例えば周囲から孤立していき、孤独が深まり、ゴミを溜める行為が深まった、という悪循環の構造が析出される。

これも先月のブログに書いたが、「悪循環とは、ある人が自身の置かれている状況を問題のあるものとみなし、これを解決しようとする行動に出るが、この解決行動自体がとうの問題を生み出してしまうというメカニズムを持ち、しかもこれが反復的に繰り返されるもの」(長谷正人『悪循環の現象学』)であった。ということは、悪循環に陥る人は、勝手に陥るのではない。「解決行動」という環境との相互作用が、悪循環を生み出すのである。「ゴミ屋敷」の人だって、本人にとっては「解決行動」に思えることが、世間からは「ゴミを溜めること」の「反復」だと見なされ、周囲との軋轢が深まり、本人は孤独になり、それを解消するために、ますますゴミを溜めるという「解決行動」以外の行動に出られない、という「悪循環」のループに陥っているのだ。これも、「ゴミ屋敷」を「異常」と「単純化」して「合理化」する危険である。

その際、私たちに求められるのは、「合理化」ではなく、「合理性」を持って向き合うことである。もういちど、そのフレーズを引用し直しておこう。
「合理性とは、われわれのうちでたえまなく行われている対話の働きであり、それは論理的構造を作り出し、論理的構造を世界に適用し、この現実の世界と対話を交わす。この世界が、われわれの論理システムと一致しない場合は、論理システムが不十分なもので、現実の一部にしか出会っていないのだと認めなければならない。合理性とは、いうならば、けっして現実全体を論理システムのなかに汲みつくそうとするのではなく、自分に抵抗するものと対話することを欲する。」
ゴミ屋敷は、「われわれの論理システムと一致しない」がゆえに、異常だと析出される。だが、異常とラベルを貼ることは、「論理システムが不十分なもので、現実の一部にしか出会っていない」単純化や合理化である。単純化や合理化が切り落とした「汲み尽くせない」部分という、「自分に抵抗するものと対話すること」の中からこそ、正常と異常の切り分けを超えた、「開いたシステム」の真っ当なやりとりが展開される。それが、了解不可能に思えた「異常」の物語を理解し、了解するための、入口である、というのだ。

ここまで整理すると、メッツィーナさんの冒頭のメッセージが、よりクリアに見えてくる。

「真のガイドは、目の前にいる具体的な人。その利用者本人の自分の持っている苦しみに与える意味が、治癒への道筋を指し示す。それは人によって違うし、治癒の道も全く違う。具体的に目の前にいるその人が導いてくれるし、それしか複雑性に対処できないが、それが最もよい対処の方法である。」
「目の前にいる具体的な人」は、生きる苦悩が最大化して、苦しんでいる。その「苦しみに与える意味が、治癒への道筋を指し示す」。その大枠に従って、あとは「具体的に目の前にいるその人が導いてくれる」その人の物語世界を、単純化や合理化で「わかったふり」をせず、異常とラベルを貼られる部分の「開いたシステム」をながめて、「正常」世界との結び目をたぐり寄せるなかで、その人の生の「複雑性」を少しでも理解して、「治癒への道筋」をたぐろうとするのが、治療者の役割なのである。
DSMやらGAFという単純化・合理化のカテゴリーを「ガイド」にするのではなく、「目の前にいる具体的な人」こそを「真のガイド」にすべきだ、というメッツィーナさんの主張は、非科学的な「反精神医学」ではない。複雑性科学に支えられた、実りのある可能性との「対話」なのである、と改めて学び直した、モランの再読であった。
追伸:トリエステ方式とオープンダイアログの共通点は、単純化・合理化をすることなく、この複雑性を大切仁して、「目の前にいる具体的な人」を「真のガイド」に、複雑な物語をそのものとして理解し、その物語の固着を「対話」の中から揺り動かすことに、あるのかもしれない。