悪循環の構造を眺める

10代後半から20代にかけての思い出の中には、後から考えると「あちゃー」と恥ずかしさが先立つ思い出も少なくない。僕の場合、中身がないのに背伸びしていた部分が、随分ある。そんなことを思い出させてくれる記述と出会った。
「自由に個性的に着るという『意図』によって選択された衣服は、『結果』として他者とそっくりのものになってしまう。このとき、人々は自分が他者とそっくりなものしか着れていないこと、つまり自分の『不器用さ』を自覚している。このため、悪循環が生じることになる。彼らは、現在流行っている衣服を選択して他人そっくりになることを回避しようとして、かえって他人そっくりの(新しい流行の)衣服を着てしまっているからだ。これがモードという制度である。モードの持つ制度性は、単に個人が同じような衣服を着ているというところにあるのではなく、こうした画一性から離れて他者とは異なる服装を着ようとする人々の『意図』がかえって流行を繰り返し更新させてしまうところにある。」(長谷正人『悪循環の現象学』ハーベスト社、p136-137)
拙著をお読み頂いた教育社会学の先生が、「こんな本もあるよ」と教えて下さったのが、今の興味関心にもドンぴしゃの一冊。四半世紀前に出たとは思えない、シンプルで鮮やかな切り口は、ハーシュマンのExsit and Voiceの理論を彷彿とさせる。しかも、その本の一節で、まさか自分の昔の「汚点」の構造分析がされている、とは思わなかった。
話は20年前、大学1年生の頃から始めた塾講師時代の出来事である。僕が中学の頃にお世話になっていた塾に、大学生になってから、バイトで働かせてもらうことになった。この塾の中間管理職のAさんと僕は、元々折り合いが悪く、しばしば対立した。その元凶の一つに、「服装」問題があった。
20歳頃といえば、必死になって「個性」を模索する時期である。しかも大半の20歳は、まだ他人に誇るべき「個性」という「ちがい」が有徴化していない。ましてや、自分の中を掘り下げて「ちがい」を見つけるなんてことが出来ていない。よって、安易に人との「ちがい」を産む手段として、多くの人同様、「服装」に着目する。そして、これがAさんとの対立の原因になった。なぜなら、Aさんは「白のシャツで、派手ではないネクタイをするように」とルール化していたからである。
今なら、白いシャツとシンプルなネクタイは、オシャレの王道を行く着こなしである、という知識もあるし、少しはそれを楽しむ余裕もある。でも、当時の僕にとって、白シャツや落ち着いたネクタイは、没個性の象徴のように思えた。抑圧的な受験勉強の反動!?で、ようやっと20歳になってオシャレに目覚め始めた僕にとって、白シャツを受け入れることは、個性を引っ込めることにしか思えなかった。つまり、自分がオシャレではないという「不器用さ」を自覚していたがゆえに、何とか他人との「ちがい」を出そうと必死になっていた。そして、その結果選んだものも、「自由に個性的に着るという『意図』によって選択された衣服は、『結果』として他者とそっくりのものになってしまう」という構造にはまり込んでいた。僕は、しっかりと「モードという制度」に囚われていた。しかも、それが「個性的でありたい」という「意図」に基づきながらも、選んだ服装がより没個性になるという「意図せざる結果」をもたらしていた。さらに、白シャツでもおとなしくもない服装だから、Aさんにますます嫌われる、という二重の悪循環がついて回っていた。
この時の悪循環とは何か。これも、長谷さんのわかりやすい説明が役立つ。
「悪循環とは、ある人が自身の置かれている状況を問題のあるものとみなし、これを解決しようとする行動に出るが、この解決行動自体がとうの問題を生み出してしまうというメカニズムを持ち、しかもこれが反復的に繰り返されるものを言う。」(p78-79)
当時の僕は、白シャツを着ることと、教えることは、全く別のことだと考えていた。むしろ、教えるのが上手で実績も出していれば、シャツの色なんて関係ない、と思っていた。そして、一律に白シャツにせよ、と押しつけるA氏の振る舞いを、「没個性的だ」と思っていた。だから、彼の指導を半ば無視し、校則破りのように、しばしば叱責されていた。しかし、僕自身の「白シャツを着ない」という「解決行動自体」は、二重の意味で、悪循環を反復させていた。
その一つ目が、先にも書いた、「個性」的でありたいと願いながら選んだ服が、「意図せざる結果」として「没個性」であった、という点。白シャツを選ばなくても、スーツを着ている時点で、選択肢は限られる。すると、色シャツでのネクタイの組み合わせも、雑誌などでみる定番パターンの中に納めるしかない。その結果、必然的に、色シャツでおとなしくないネクタイなんだけれど、「無難な組み合わせ」に落ち着く。つまりは、白シャツでは「没個性」だ、という決めつけに縛られて、白シャツこそ「問題のあるものとみなし、これを解決しようと行動にでる」が、選んだ色シャツやネクタイという「解決行動自体」が「没個性」という「当の問題を生み出してしまうというメカニズム」に綺麗にはまり込み、それを「反復的に繰り返」していたのである。
さらに、この反復行動の中で、もう一つの悪循環も反復されていく。それが中間管理職のAさんとの反目である。僕はこのAさんに、ずいぶん批判され続けてきた。あるときなど、「タケバタは増長だね」と言われて、情けなくもその意味を知らず、家に帰って辞書を引いて、その意味を知り愕然とすると同時に怒りに震えた思い出を持つ。当時、憧れていた塾講師になって、一生懸命その勤務に励み、わりと塾生からも人気がある、と思い込んでいたのに、「そんな言われ方はないよなぁ」、と思っていた。「あんたの方が増長やんけ!」と心の中で言い返していた。でも、今ならよく分かる。確かに僕は増長であり、悪循環を反復させるシステムの一部になっていたのだ。
これは一体どういうことか。長谷さんの論考が鋭いのは、悪循環を論理ではなくコミュニケーション問題だ、と喝破するところである。
「『行為の意図せざる結果』においては、別に行為者がパラドキシカルなメッセージを発しようとしているわけではない。彼の言明の内容はパラドックスではないにもかかわらず、それが他者との関係を規定することから生じる意味によって、パラドックスが結果的に構成されてしまうだけである。問題なのは論理というよりコミュニケーションである。」(p34)
「個性的でいたい」という「論理」自体が問題であるのではない。問題は、その「個性的でいたい」という言明の内容を、「白シャツを着ないで、ネクタイも派手にする」という手段で実現しようとしたことである。そのことにより、中間管理職のAさんと、一大学生アルバイターの僕自身との「関係」において、「職場の上司の指導を聞き入れない」という関係の問題が生じる。つまり、僕が「白シャツを着ない」のは、「個性的でいたい」という思いだけでなく、「個性」にかこつけて、職場の上司の意見を聞きたくない、と文字通りわかりやすく表明しているのである。それは、上司の側からすれば「増長」そのものである。そして、抑圧的に指導をしてくる上司に反発し、ますます白シャツから遠ざかり、その結果さらに怒られ、そんな指導に従ったら個性がなくなると思って反発し・・・と、わかりやすい悪循環構造を、自分自身で作り出していたのである。
そんな記憶を、長谷さんの次の分析を読みながら、まざまざと思い出していた。
「『行為の意図せざる結果』を引き起こす人々は、自分がいま行っている解決行動だけは、いつも問題を作り出しているときとは異なる立場から行われていると信じているのである。例えば、『私って嫌われ者なの』と言って嫌われてしまう女のことを考えてみよう。この女は、この自己批判的発言だけは、自分が嫌われている要因にならないと考えているのである。つまり、透明な行為だと信じられている。ところがこの自己批判的発言は、少しも透明ではなく、一つの行為として他者に影響を与えてしまう。つまり、自分が好かれているかどうかを気にしすぎる性格を表象しているものと受け取られ、嫌われる原因となってしまうのである。このように、『行為の意図せざる結果』における偽解決とは、必ず透明人間の立場から行われる。しかし、偽解決行動はいささかも透明ではない。それは、一つの行為として、その問題を維持するように機能するのである。」(p56)
僕自身は、「個性的でありたい」と思って「白シャツを選ばない」のは、僕の内面の自由の問題であり、それが問題を反復させる、という自覚はあまりなかった。つまり、自分の白シャツを着ない行為そのものは、他人とは関係のない、純粋な個性の選択であり、その意味で他者から独立している「透明な行為」だ、と思い込んでいた。でも、その選択は、透明でも何でもなく、「上司の指示に従わない」という意味で、実に政治的だった。僕の白シャツを選ばないという「一つの行為」は、中間管理職のAさんという「他者に影響を与えてしまう」だけでなく、彼の指導や助言を拡大させ、それを抑圧だと見なした僕の反発は加速し・・・と、「マッチポンプ」現象を作り出していた。「個性的でありたい」という意図に基づいた「白シャツを着ない」という「偽解決構造」は、結果として個性的でないという「問題を維持するように機能する」だけでなく、その「個性化」を抑圧しようとするAさんとの関係を悪化させるという「問題を維持するように機能する」役割も果たしていたのである。
ここまで書いていて、それって長谷さんの以下の記述そのものである、と気付いた。
「コミュニケーションのなかで、互いに相手の悪循環的行動を悪循環的に維持しあうという複雑な事態も発生するのだ。これが病理的であり、分裂病者の症状を維持するシステムの特徴でもある。」(p79)
中間管理職のAさんの視点に立ってみると、タケバタは一学生アルバイトのくせに、「白シャツで地味なネクタイ」という指示に全く従わない。それは、面白くない。だからこそ、「ルールに従え」と指導する。しかし、その指導に従うどころか、相手は余計に反発する。そこで、「きみは増長だね」と嫌みの一つも言いたくなる。でも、その発言に相手は更に頑なになり、白シャツを断固拒否する姿勢をみせる・・・。つまり、今書いていてようやく気付いたのだが、Aさんにとってもタケバタとの関係は「互いに相手の悪循環的行動を悪循環的に維持しあう」ものだったのだ。
長谷さんはこの事をさして「コミュニケーションのパターンが固定的で、同じことを反復してばかりいる」(p96)とも言う。確かに、このAさんとの関係に限らず、極端に関係が悪くなったり、絶縁状態になった関係性を思い出してみると、「互いに相手の悪循環的行動を悪循環的に維持しあう」という意味で「コミュニケーショのパターンが固定的」で「反復」し続けていた。そして、それが「病理的」であるというのは、指導と反目という「逸脱増幅的相互因果過程」としてのポジティヴ・フィードバックを引き起こし、悪循環は加速していった、だけでなく、そのコミュニケーションパターンの外に出られないという意味で「逸脱解消的相互因果過程」としてのネガティヴ・フィードバックも引き起こしていたのである(p93)。
「近代社会の人間は、あるルールから自由であることによって、別のルールに従ってしまっている。ルールへの従属を回避しようとすればするほど、別のルールに従属してしまう神経症的な悪循環に陥っていて、どうしてもそこから抜け出せない。従って、近代社会はたんに『不器用な』社会であるわけではない。『不器用さ』を克服して『器用さ』を獲得する努力を反復して行い、そのことによってますます『不器用』になるというパターンのなかに閉じ込めれているのである。」(p137-138)
そう、僕の20代はこのパターン=悪循環、の繰り返しであった。いま、そのパターンからやっと出つつある。それは、「不器用さの克服」や「器用の獲得」を目指さなくなった、という点にある。個性的というのは、当たり前の話だけれど、選ぶ服で決まるのではない。自分が気持ちよく着れて、かつワクワク出来ていれば、どんな服を来ても、個性は出てくる。逆に言えば、どんなにお金を積んでも、パーソナルスタイリストに上から下までコーディネートしてもらっても、自分自身の気持ちが乗らなければ、個性もへったくれもない。
そう思えるようになって、30代中盤になった頃から、僕は白シャツを好んで着るようになった。色シャツへの呪縛というか、「個性」という「ルールへの従属」から、やっと自由になり始めた。それは、自分自身が、個性のエッジが立っている「器用」な人間ではなく、どこにでもいる凡庸な「不器用さ」を抱えた人間である、と認めることからはじまった。でも、それを一旦認めてしまえば、不毛な個性化を目指した悪循環構造のパターンから、すっと抜け出すことが出来た。それと共に、ほんまもんの個性化がスタートし始めた。そんな今だからこそ、20年前に陥っていた悪循環構造を、素直に振り返り、鎮魂できる状態になったのかもしれない。あの頃のタケバタヒロシくん、どうもお疲れ様でした、と。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。