里海資本論と精神医療の生態系

前回のブログで書いたイタリアから帰国後、オープンダイアローグやトリエステ方式の論文を読み続けている。そういうモードの中で、『里海資本論』(角川新書)を読むと、何だか多くの共通点があって、びっくりした。その共通点を考える為、まずは解説の藻谷さんの当該部分を引用してみる。

「一神教の伝統に立つ西洋で発達した学術の中には、意識的にか無意識的にか、こうした多神教的な考え方を忌避しつつ成り立っているものが見受けられる。生きとし生けるものがお互いに微妙なバランスで影響しあって生態系を形作っていると考えるのではなく、誰か絶対的な裁定者や何か卓越した裁定システムが存在すると発想し、モデルを組むのがだ。そうしたモデルを信じ込むと、『裁定者・裁定システムに無関係のその他大勢は、均衡の形成に自分も参画しようなどという余計な考えを起こすべきではない』と考えるようになる。神は一人だけなのだから他の者は手前勝手にしておけばいい、帳尻は神が合わせてくれるというわけだ。(略) 彼らは、『自然に多様性をもたらすのは自然であって人間ではない』という、自然を裁定者とした『一神教的』発想に囚われており、『人為も自然の中に均衡や多様性を生むことができる』という『人間も八百万の神の端くれ』というような発想を理解できなかったのだ。」(p222)
ここにピピッと来た理由。それは、精神医療も地域福祉も、「一神教的な裁定者・裁定システム」の毒牙に浸りきっていて、それをどう脱皮するか、が大きな課題になっているからである。
例えばオープンダイアローグで追求しているのは、「精神科医が何でも知っている・どんな精神病でも治療できる」という「一神教的な裁定者・裁定システム」への疑問だった。具体的には、その手段であるEvidence Based Medicineが、本当に効果的なのか、への問いである。これは、投薬と精神症状の関連に関しては、人が「生態系」の中で生きている限り、その薬がある人の心に直接作用するかどうかきちんと科学的に実証できていないのに、科学的に統制された(つまりは現実社会とは違って管理された)状態での比較実験から、「この薬はこの症状に効く」と言っているものに、「ほんまかいな?」と問いを挟んでいるのだ。そして、精神科医や薬という「裁定者・裁定システム」とは一見「無関係」に見える、医療従事者や家族、知り合いなどのソーシャルネットワークなど、「生きとし生けるものがお互いに微妙なバランスで影響しあって生態系を形作っていると考える」のである。
ゆえに、3時間待って3分診療で投薬して終わり、ではなく、医療者がナースも医師も心理療法の資格を取った上で、本人や家族、関係者等を集めたネットワークミーティングを大切にする。これは、「微妙なバランス」の崩れの中で、「患者とみなされた人(Identified Patient)」に、その「生態系」の弱さや問題が集中し、それが精神症状の形で表出される、という家族療法的な考えに基づいている。そこで、家族療法的な考え方を発展させると、薬と精神科医に頼りきりで、「その他大勢は、均衡の形成に自分も参画しようなどという余計な考えを起こすべきではない」という一神教的な考えを捨てる、ということである。「「『人為も自然の中に均衡や多様性を生むことができる』という『人間も八百万の神の端くれ』」なのだから」、治療に向けたミーティングに、看護師やソーシャルワーカー、家族や恋人、友人も入って、「患者と見なされる人」の「生態系」のひずみそのものに向き合い、動的平行を持ち直すべく、関わり合いをしていこう、というアプローチなのである。これは、明らかに「里海」的な関与である。
そして、トリエステでは、それをもっと深化させている。オープンダイアローグでは、治療における「生態系」的アプローチを取り入れた。一方、トリエステでは、治療そのものを問い直す「生態系」的アプローチを行っているのである。それは一体どういうことか。
簡単に言えば、トリエステでは、異常と正常、規範と逸脱、という価値判断自体が、精神科医などの「一神教的な裁定者・裁定システム」によって作り出されたものである、と考え、それが精神病を作り出す生態系システムの根っこにある、と考えているのである。トリエステの思想的中核であり、イタリアの精神病院を閉鎖に導いた医師フランコ・バザーリアはこう語っている。以前のブログで引用した箇所をもう一度引いておく。
「規範の定義は、明らかに生産と同時に起こっている。そのことは、社会の端にいる人間は誰でも逸脱者として現れることとを意味している。逸脱行為は、価値の裂け目であり、それゆえこれと同じような価値は、この価値観を破る人は誰でもアブノーマルであると科学的に分類することによって、擁護され強化されなければならない。(略) 本人の選択によって、あるいは必要性に迫られて、生産役割を担えない人間や消費者になることを拒否する人間は、適切な科学的イデオロギーを通じて、規範とその境界を擁護することを強いられなければならない。」(Scheper-Hughes, Nancy and Anne M. Lovell eds., 1988, Psychiatry Inside Out: Selected Writings of Franco Basaglia New York: Columbia University Press. pp105)
「この価値観を破る人は誰でもアブノーマルであると科学的に分類することによって、擁護され強化されなければならない」のは、社会規範のことである。そして、「正常」という「価値観」に関する規範の擁護者が、「異常」と「科学的に分類する」精神科医なのである。これは見事に、「一神教的な裁定者・裁定システム」そのものである。ここまでの認識は、オープンダイアローグもトリエステも共有している。そして、トリエステが興味深いのは、そこから一歩掘り下げて、そもそも精神科医や精神医療が「正常」という「価値観」に関する規範の擁護者である、ということ自体が、オカシイのではないか、と問いかけているのである。精神症状を持つ人は、単にその人の社会的ネットワークの歪みが析出されただけではない。もっと言えば、その社会の歪みや膿などが、脆弱性のある・感受性の豊かな個人に降りかかって、その人に症状として析出され、「患者と見なされる人」になったのではないか、と問うのだ。つまり、患者の個人的な人間関係というソーシャルネットワークを「生態系」と見なし、そこに介入するのがオープンダイアローグだとすれば、患者が生活するその地域社会やコミュニティを「生態系」と見なし、そこに介入しようとするのがトリエステモデルなのである。バザーリアはこうも語っている。
「この仕事の基礎となっている接近法は決して病気が中心にあるという事実を避けようとするものではない。しかしながら、この新しい潮流の中ではこれまで患者に、あるいは少なくとも精神病院に内在するものとされていた葛藤がそれら葛藤が因って来たるところのより広い社会に投げ返される-というのは病気というものは本質的に社会的関連における自我の特異的な矛盾の歪んだ表現と見なされるものだからである。精神医療従事者にとってこのことは全く新しい役割を担うべきことを意味している。つまり患者と病院との関係の中にいて仲介者の役割を果たすのではなく、家族、仕事場、あるいは福祉事務所といった現実世界での葛藤に介入しなければならないのである。これらの場は『治療』の新しい活動舞台となる。」(バザーリア、フランコ「管理の鎖を断つ」D.イングレビィ編『批判的精神医学』悠久書房、一九八五:三二一頁)
従来は、異常な人を精神病院に閉じ込める事によって、精神病院という「人工的な生態系」の中で完結する仕組みが取られていた。これは、障害者や高齢者の入所施設でも同じ論理である。一般社会の「生態系」の中で「厄介者」とされた人を、別の「生態系」を人為的に作り、そこに閉じ込めて、その生態系の中で貧しい動的平衡を作り出す、という論理である。これは、社会学者のゴッフマンは刑務所や強制収容所と同じ論理である、と喝破したし、ナチスドイツは障害者抹殺計画(T4計画)によって、この「貧しい生態系」そのものを殲滅しようと試みた。
だが、バザーリア達が試みたのは、この「人工的な生態系」の破壊であった。「精神病院に内在するものとされていた葛藤がそれら葛藤が因って来たるところのより広い社会に投げ返される」ことを目標にした。というのも、「患者と見なされる人」が持っている「葛藤」とは、それを「患者」に「押しつけた」「しわ寄せという形で析出させた」社会の問題だからである。バザーリアはそれを端的に「病気というものは本質的に社会的関連における自我の特異的な矛盾の歪んだ表現と見なされるものだから」と述べている。「社会的関連」、つまりは「その人の生きる社会の生態系」の中で、ある人の「自我の特異的な矛盾の歪んだ表現」が「精神病」だと言うのだ。これは、脳の器質性障害とかドーパンミンがどうちゃら、という医学モデル・個人モデルで説明しない、ということである。その社会の「矛盾」や「歪み」がある人の「自我」において「特異的」に「表現」されたもの、と理解しているのだ。だから、ドーパミンの量を抑制をする薬、よりも、その人の「生態系」である「家族、仕事場、あるいは福祉事務所といった現実世界での葛藤」に関わる事が、精神医療従事者には求められる、というのである。つまり、患者の社会的ネットワークという個人的関係に留まらず、その患者が関わる社会という生態系そのものに関与しようとするのが、トリエステ的なアプローチである、と言える。
そして、オープンダイアローグもトリエステも、薬物療法中心という「一神教的な裁定者・裁定システム」の限界を超えた効果をもたらすと共に、患者の回復、だけでなく、家族や関係者、医療者自身、そして社会のリカバリーにも効果をもたらしているのである。これは、生態系そのものへの関与であり、、『人為も自然の中に均衡や多様性を生むことができる』と考えるアプローチである。しかも、その人為を精神科医という「一神教的な裁定者・裁定システム」に限定せず、関わり合う人々の力を信じる、という「八百万の神」のアプローチなのである。
そして、この考え方は地域福祉にも大きく繋がっているのであるが、今日は時間切れなので、久しぶりにこの続きは、次回のブログへと持ち越すことにする。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。