トリエステとオープンダイアローグに共通する論理

前回のブログを書いた翌日の8月29日から、9月14日まで、久しぶりに長い調査旅に出かけた(15泊17日)! フィンランドの西ラップランド、スウェーデンとの国境の町トルニオ郊外にあるケロプダス病院で、オープンダイアローグという新しい精神医療の形に関する調査に混ぜてもらうことができた。また、その後はヘルシンキ→ローマ→トリエステと移動し、トリエステの精神医療改革について、突っ込んだインタビュー調査を行った。

濃厚なインタビューの毎日に、美味しいけど脂っこい料理とワインにビール、そして調査の疲労も重なり、帰国後は強烈な時差ぼけで1週間へばっていた。だけど、昨日一昨日と合気道の合宿にも参加し、やっと体調も時差も元に戻ってきたようだ。調査の詳細(の一部)については、オープンダイアログについては雑誌『精神医療』に、トリエステ方式については雑誌『福祉労働』に書くつもり。なので、このブログでは、帰国後に感じたことを断片的に綴っておきたい。
オープンダイアログとトリエステ方式に共通することであり、日本でも未だに誤解されていることがある。それは、「反・精神医学ではない」ということだ。精神病が存在しない、と言っているのではない。大きな精神的なクライシスは存在する。ただ、そこに病名をつけて満足するより、そのクライシスが鎮まり、社会生活をよりよく過ごせるようにするために、投薬以外の他の方法論が有効なら、そちらだって試してみる。そういう意味で、薬物療法中心主義ではないが、患者の治療に役立つことなら何でも取り込もうとする実践である。この点を何度も強調しておかないと、「科学ではない」「一種のカルトである」という誹謗中傷が、繰り返し繰り返し生じてくる。
ちなみに、「反・精神医学」とは何か、についても、その主導者であるサズの論考(翻訳)を引用しておく。
「現在精神病と呼ばれている現象を新しく単純に見直し、いわゆる病気のカテゴリーから除外させること、そして、人の如何に生きるべきかの問題をめぐる葛藤の表現とみなされることを示唆しようとするものである。」(トーマス・サズ 1975 『狂気の思想―人間性を剥奪する精神医学』新泉社、p27)
ケロプダス病院でもトリエステでも、精神病を「病気のカテゴリーから除外させること」を目的にした実践はしていない。その意味では、「反・精神医学」ではない。だけれども、精神病を、脳の器質的な問題で、セロトニンだのドーパミンだの・・・という脳神経科学的に説明することよりも、「人の如何に生きるべきかの問題をめぐる葛藤の表現」である、と捉えることを重視している。脳科学的な問題もあるかもしれないが、それを重視するより、目の前の人が人間的な葛藤が最大化し、大きな危機の状態にいる、ということを、支援の大前提においているのだ。
そのことは、科学的・論理的であるとは何か、ということにもつながる。
精神病を「病気のカテゴリーから除外」してしまうと、精神病の治療や支援の「科学」のカテゴリー全体を無視することになる。フィンランドでも、イタリアでも、そういう事はしていない。ただ、これまでの「精神医療」という「科学」の一分野が積み上げてきたものを、「ほんまかいな」と疑いの眼差しで眺め、ゼロベースでやり方を再構築する、という論理の積み重ねを行っているのだ。それが、イタリアでいうならば、現象学に基づく「括弧でくくる」というアプローチであり、フィンランドで言うならば、診断名を付けることよりもじっくり患者の話を聞いて、症状や状態について治療者と本人が話し合うオープンダイアログのアプローチである。どちらも、それをあくまでロジカルにやろうとしている。
ただ、双方の主張で共通して、これまでの治療の認識論に疑義を挟み込んでいる部分がある。それは、Evidence Based Medicineや診断名絶対主義への違和感である。
診断名をつけることは、あるカテゴリーに分類することで、そのカテゴリーに関する支援や治療を行いやすくする、という意味で、操作的定義である。ある人に、「うつ病」「統合失調症」と診断名を付けることで、「この病気だったら、この薬が効果的ではないか」という治療アプローチがある程度決まってくる。それが、診断名を付ける最大の効能である。ちなみに、トリエステでもケロプダス病院でも、診断名自体を否定しているわけではない。だが、それを重視しているわけでもない。それはなぜか。それは、「この病気だったら、この薬が効果的ではないか」という薬物治療のアプローチに、「それは本当に効果的なのだろうか?」と疑いの目を挟んでいるからである。それはクーンのパラダイムシフト論に接続させるなら、「診断名パラダイム」への挑戦、といえようか。これも、一応クーンの翻訳を引用しておく。(ちなみに、このクーンのパラダイムシフト論とイタリア精神医療革命については、以前、紀要論文を書いたのでそちらもご参考までに。)
「(あるパラダイムは:筆者補足)その構成中の一種の要素、つまりモデルや例題として使われる具体的なパズル解きを示すものであって、それは通常科学の未解決のパズルを解く基礎として、自明なルールに取って代わり得るものである。(トマス・クーン1971『科学革命の構造』みすず書房:一九八頁)
「いかなる種類の科学の発展においても、はじめパラダイムが受け入れられると、その学問の専門家たちにはおなじみになっている観測や実験の大部分が、きわめてうまく説明できるものと普通見なされる。そしてさらに進んでゆくと、精巧な装置ができ、専門家仲間にしか通用しない用語や特殊な技術を発展させ、ますます常識とはかけはなれた概念の精密化を要求することになる。このように専門家が進んでくると、一方では科学者の視野を非常に制約することになり、これがパラダイムの変革に対する大きな抵抗となってくる。その科学は、ますます動脈硬化してくる。」(同上:七三頁)
ここで、論理的に考えてみてほしい。病気の治療において科学が果たすべき最も重要な課題は、「どうやったらこの患者さんが治るのか」である。薬とは、その為の「方法論の1つ」である。薬を使わなくても(その使用を最小限にしても)、それで病気が治るなら、なぜ薬を使わなくても(最小限にしても)治るのか、を分析し、その理由を探索することが、真に科学的な振る舞いである。だが、薬の使用を減らしたり、使わなくても治る、と言うだけで、多くの医療者は「非科学的」で「反・精神医学」だ、と頭ごなしに信じ込む。それは、「薬物治療絶対主義」という、ある「パラダイム」への「信仰」とも言える事態である。
一方、ケロプダス病院も、トリエステも、この「薬物治療」が、「唯一の事実」だと見なさない。それは「1つのパラダイム」であり、薬物治療以外の支援や治療の方法もある、という別のパラダイムを選択する。その行為は、患者を治すための最善の方法を探す、という意味で、極めて論理的であるのに、多くの医療者はそのアプローチを忌避する。それは、クーンの言葉を借りるなら、「専門家仲間にしか通用しない用語や特殊な技術を発展させ、ますます常識とはかけはなれた概念の精密化」をした上での「動脈硬化」に、専門家が陥っているからである。
実はこの部分について、オープンダイアログの主導者であるセイクラ教授達が書いているOpen Dialogue and Anticipationsという去年出版された本の中の、特に9章で詳細に述べたれている。僕はこの9章をヘルシンキ行きの飛行機で「一夜漬け」的に読んでいたのだが、精神医療におけるEBMの中心となるRCT(ランダム化比較試験)に関して、かなり批判的な考察をしていて面白かった。例えば、薬を飲んだ方が再発が防げる、というEBMの論文を詳細にみてみたら、実は急性期に薬物投与がされたけれど、その後プラセボに切り替えられた人は、ずっと同じ薬を投与されていた人より再発率が高かった、という比較実験であった。つまりこれは投薬中断と再発の関係性の比較研究であり、「薬物を投与されることそのものと再発の関係性に関する調査でない」のである。さらに言えば、その投薬を止めたグループの7年後調査をみたら、機能の快復率は高かった、ともいう。ここからRCTやEBMは、精神医療に関していえば、non-valid studies(根拠が不確かな研究)である、と科学的・論理的に積み上げて行くのである。その上で、このようなEBMによる「標準化・普遍化」の影に、「製薬会社が待ち望んでいる巨額の利益がある」(pp187)とまで書いている。この部分の主張は、トリエステの支援者達の発言と通底する。(この辺りは原著を読んで確かめてほしいが、幸いにしてこの本は斎藤環さん達のグループで近々翻訳がでるので、それが楽しみでもある)。
薬物治療は、「通常科学の未解決のパズルを解く基礎として、自明なルールに取って代わり得るものである」。だが、「未解決なパズル」を解くために、この方法しかない、ということではない。薬物治療というパラダイムによって、「おなじみになっている観測や実験の大部分が、きわめてうまく説明できる」ようになるが、それは一方で、薬物治療以外の治療や支援アプローチを否定する、という意味で、「科学者の視野を非常に制約する」「動脈硬化」を起こす元凶にもなっている。セイクラさん達の主張は、薬物治療は1つのパラダイムに過ぎないのであり、それ以外のパラダイムによって、つまりはオープンダイアログをメインに据えて、治療に成果を出すことだって可能である、と主張しているのである。これは、精神病院が必要だ、というのも1つのパラダイムであって、精神病院なしでも地域の中で重度の精神障害者を支援できる、というイタリア・トリエステの方式と通底している。そして、トリエステでもケロプダス病院でも、その効果は実際に「患者が治る」という形で証明済みであり、別のパラダイムが有効なものとして機能しているのである。それに比べたら、まだ日本は「夜明け前」というか、アンシャン・レジームのパラダイムにしがみついているのかもしれない。
そんなことを改めて確認出来た旅であった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。