認識が新たになると、これまでの実践も新たな視点、別の文脈で読み解くことが可能になる。「枠組みはずし」、「宿命論的呪縛」からの解放、魂の脱植民地化・・・これらの言葉が自分ごととしてストンと落ちてみると、実は自らの実践自体が、これらの概念と非常に近い部分で呼応していることが遡及的にわかる。今までは福祉現場を対象に書いていたが、これは教育だって同じだ。
私は法学部政治行政学科で「福祉政策」「地域福祉論」「ボランティア・NPO論」などを教えている。非常勤ではこれまでに「精神保健福祉論」「ノーマライゼーション論」などを受け持ったことがある。実はそのどれもが、タイトルと毎回の内容はもちろん違うけれど、枠組み外しという文脈では非常に通低していることが、今になってわかってきた。
たとえば「地域福祉論」、この講義では認知症、引きこもり、自殺、シングルマザー、ホームレス、ごみ屋敷、限界集落・・・など様々な福祉的課題を取り上げる。教科書を使っても興味のない学生にはイメージが浮かばないので、なるべく30分程度のドキュメンタリーを授業内で見るようにしている。そして、映像のbefore/afterで、学生たちの意見を書かせていく。様々な社会問題に関しての学生たちのbeforeの感想は、実にステレオタイプなものばかりだ。
「ボケたら何も覚えていない」「引きこもりはサボりだ」「自殺は心の弱さの反映だ」「離婚したんだから自業自得だ」「ホームレスは自堕落だ」「ごみをためる人は、ごみ好きなのでは」「限界集落は仕方ない」
これらのステレオタイプな意見は、それらの社会問題への関心のなさや無知を背景にして現れる、偏見や先入観、社会の固定観念の反映だといえる。そして、映像を見て、対象者の生の声に接した後で、これも必ずといっていいほど、学生たちはステレオタイプを越えた「別の可能性」の視点を発見して、驚くのである。そこから、新たな問題や課題を発見し始める。
「認知症の人への周りの接し方やケアが、本人の混乱を助長しているのではないか」
「引きこもる人々の方が、自分たちより人生について真剣に考えているのではないか」
「自殺は個人の要因より、社会構造的な要因の方が大きいのではないか」
「母子家庭政策の不備の背景に、家父長的な日本の制度・政策の不備があるのではないか」
「ホームレスは、日本社会の産業構造のゆがみやひずみの反映の部分があるのではないか」
「ゴミ屋敷問題を解決するには、本人の納得できる支援のあり方構築が必要ではないか」
これらの視点の捉え直しから、学生たちはあるひとつの共通する疑問へと疑問が構造化されていく。それは、「こういう社会問題を引き起こす背景に、何が問題にあるのか?」と。
この問題を考えるために「社会システム適応的視点」と「社会システム構築的視点」という二つの見方を、私は学生たちに対比してもらおうと試みる。前者は法や制度を所与の前提とし、それは変えられないものだから、そのルールや枠組みの中で、現実に当てはめて考えていこう、という視点である。一方後者は、法や制度を理解するものの「鵜呑み」にせず、そのルールや枠組みと現実を照らし合わせたときに何が問題であり、ルールや枠組みをどう変えたら現実に即応するか、を構築的に考える視点である。社会問題を眺めている皆さん自身は、どちらの視点で物事を捉えていますか、と学生たちに問いかけるようにしているのだ。
すると、大半の学生が「社会システム適応的視点」である、と答える。その理由も、割とステレオタイプ化されている。曰く、「制度やルールは一人では変えられない」「制度なんだから従うしかない」「新たな仕組みを一から考えるのは大変だ」。だから、社会システムは、構築するものではなく、適応すべきものだ、という考えである。
実は、大学院生のころから研究テーマとして取り組んできた、私自身がこだわってきた、そして昨年からは自分ごととして実践してきたのは、この「社会システム適応的視点」との戦いだった。本当に「無理」「仕方ない」なのか? それは「バカの壁」に通底する可能性の限定ではないか? 社会システムという人為的枠組みを、「自分ひとりでは変えられないから」ということで、歪みも含めて内在的論理に組み込んで所与の前提とすることは、魂の呪縛(=植民地化)につながらないか。そういう「鵜呑み」「丸呑み」「諦め」の発想こそが、社会システムの硬直化や負の側面の自己組織化も加速させ、歪みの構造の強化に結果として手を貸してしまってはいないか。そんな唯々諾々で、本当によいのか。
それでも日本の社会システムのマジョリティにいる(ことを信じて疑わない)学生たちには、講義の最初の段階では、この問いは感情的な反発を生む。「言っている意味がさっぱりわからない」「理想論だ」「考えを押し付けられたくない」といった悲鳴にも近いコメントが、授業の最初のほうでは聞こえてくることもある。彼ら彼女らが信じて疑わない価値の前提事態を揺さぶってしまうことで、動揺した、反発の感情が表面化してくることだって少なくない。
だが、授業で見せるビデオに出てくる当事者たちは、学生たちよりも遥かに問題に直面している「当事者」たちである。社会システムのマジョリティから何らかの理由で落ちこぼれたり、排除されることによって、マイノリティ化、マージナル化された人々である。そして、どの社会においてもそうだが、日本社会においても、マイノリティやマージナル化された人々への視点や対応は、非常に厳しいものがある。差別や排除、偏見、蔑視の対象になる可能性が少なくない。それは学生たちの、映像を見る前のステレオタイプなワーディングからも明らかだ。で、「当事者」にとってつらいのは、そのステレオタイプのワーディングの呪縛から抜け出しにくい、という構造的問題である。自分はもっと別の形で問題解決をしたい、そうではない暮らしをおくりたい、あるいはその状況の中で最良の幸福を勝ち取りたい・・・。そう思っても、「社会的弱者」とカテゴライズされ、問題のある人、とみなされることによって、一人一人の自発性や関係性、ニーズに基づく支援、という側面が、どうかすると専門職主導の援助にすり替わりやすいのである。
その際、そうではない、という当事者たちの内在的論理をきちんと扱っている映像を、私は講義で学生たちに見せ続けている。「支援」や「社会サービス」の提供対象者お一人お一人に、どんな世界観や考え方があるのか。それがどれほど多様か。その「生の声」と比較した時、固定観念で見てきた私たち自身の先入観がいかにステレオタイプなものか。そこに縛られていることが、いかに社会システム適応的視点に呪縛されているか。そして、その枠組みへの固着は、既存システムを、その歪みも含めて強化することに、どれだけ手を貸しているか。
これらのことに気づいてもらうために、オルタナティブな実践をしている人々の映像も、あわせてみてもらうことにしている。たとえば引きこもりの当事者たちのセルフヘルプグループで展開される「引きこもりのススメ」。そこでは、「薄っぺらいつきあいでごまかして、引きこもる勇気もないやつに勝手なことを言われたくない」という当事者の声が、学生たちに突き刺さる。ゴミ屋敷支援を行うコミュニティソーシャルワーカーの実践では、「ゴミの片付け」はあくまでも「方法論」であり、その人の孤独やつながりのなさとどう向き合うかが課題だ、という、気づきもしなかった視点と出会う。認知症の当事者の語りからは、「私は全てを忘れてしまっても、その一瞬一瞬で幸福だったという経験をしていることを大切に思ってほしい」と語りかけられる。映像という間接的な形の出会いではあるが、どれも、学生たちにとっては、自分が信じてきた信念体系にはまったくなかった視点に出会い、驚き、気づかされるのだ。
これまで出会った問題は、どれも他人事ではない。外在的論理や専門職の見立ての押し付けでは解決しない。本人なりの理由、という内在的論理を重要視した当事者主体の視点が大切である。それに対して、日本社会の現状の社会システムは、外在的論理であるマジョリティのルールや規範の押し付けが多く、決してマイノリティの内在的論理に沿う枠組みになってはいない。すると、社会システム適応的視点には限界がある…。
だが、そうは言っても彼ら彼女らは、一足飛びには社会システム構築的視点に飛べるわけではない。「一から一人でやるのは無理だ」という他人事的呪縛は小さくない。そこで、「小さな制度」の実践ビデオをみてもらうことにしている。ある集落を変えた実践、社会起業家の試み、障害者の自立生活センター作り、プロボノという本業ボランティア、など、局所的かもしれないが、ある現場の実践を変えつつある取り組みも、映像で対置してみてもらうことにしている。すると、実際に変えた現実を目にする中で、「変えられないはずだ」という彼ら彼女らの呪縛も解き放たれ、「ではどうやったらそれが可能なのか」と視点は移行する。ここで、それが「○○さんだったから出来た」とカリスマ化・属人的要素に矮小化しないためにも、それらの事象に共通する、社会システムの構造的問題を超えるための、現場レベルでのソーシャルアクションの仕組み・しかけとしての共通点を整理して伝える。その中で、15回の講義の終わるころにはなんとなく、社会システム構築的視点も「ありかも」と思い始める学生が出てくるのである。
このことを別の視点で捉えると、宿命論的呪縛を事実ではなく価値観と捉える難しさとの格闘、ともいえるだろう。社会システム適応的視点に立てば、法や制度、社会システムで「決まっている」ことは、「しょせんお上の決めたこと」なんだから「しかたない」「変えるのは無理だ」という考えを暗黙の前提として信じて疑わない。このとき、その宿命論的呪縛を、それ以外にはあり得ない「事実」と受け止めてしまっている。だが、講義を通じてオルタナティブな現実を見せられ、社会システム構築的視点に立って現状を変えつつある、現状に異議申し立てをしている、違う現実を創り出す試みの存在を垣間見た学生たちは、自らの視点との違いに疑問を持ち始める。「むりだ」「しかたない」と思い込んでいたのに、その思い込みを超えてしまった現実(=事実)との出会い。その中で、自分自身の事実認識、というか、価値体系そのものが、揺さぶられる。授業で毎回しつこく「なぜ?」を問い続けるうちに、「何を信じていいのかわからない」と不安になる学生もいるが、それはある種の蓋が開きそうになる恐怖なのかもしれない。だが、その蓋が開いてしまって、別の価値観の骨太なアクチュアリティに接すると、学生たちの視点は、反転するのだ。
もしかしたら、自分が「当たり前」の事実だと思い込んでいたことは、実は価値観の一つなのではないか。そして、その価値観に、自らが宿命論的に囚われていたのではないか。
この価値相対性に気づく中で、社会システム適応的視点の限界に気づいた学生たちが、覚束ない足取りの中で、社会システム構築的視点を獲得する試行錯誤に出始める。教員の私は、その学生たちの旅立ちを支援する。そういう仕事をずっとしてきたのだ、とこのブログを書き終えて、初めて気づくのであった。
たぶん、つづく。