ゼミ合宿に馴染んできた

7月はずっと連作を書いてきたが、今日は通常モードのブログ。

先週末、清里のペンションでゼミ合宿に出かけた。
ゼミを担当して7年になるが、ゼミ合宿を始めたのは、ここ5年くらいだろうか。
うちの大学の先生方、特に若手の先生方は、ゼミ合宿をされるケースが多い。ご自身も学部や大学院でそういう経験をされているから、なじみがあったのだろう。でも、僕は学部生の時には指導教官のご自宅で指導を受けることはあっても、ゼミという経験はなかった。院生も、ほぼ師匠と1:1であった。ゼミ自体は、自分が個人指導を受けたことを集団に切り替えたら、何とかイメージが出来た。でも、ゼミ合宿は、やりながら考えていく、という感じだったと思う。そして、今年の合宿のあたりで、何の意味でやっているか、が、ようやく体得された。
僕のゼミの合宿は、結構ハードにやる。お昼過ぎに現地について、午後は1時から6時前まで、みっちり4年生の発表と議論。その後、バーベキュー&飲み会をして、学生さんは遅くまで起きているが、翌朝は9時から13時前まで、またみっちり4年+3年生の発表と議論、というハードスケジュール。ゼミ生一人一人の発表と議論に平均1時間程度使うので、かなりの集中度と濃度になる。終わった頃には、学生達は「限界まで頭を使った」と口々に言う。
だが、そういう儀式が、学生さん達のブレークスルーに繋がる。
大学の研究室という日常から切り離される。涼しくて空気も良い、鳥のさえずりも聞こえる八ヶ岳のペンションの音楽堂、という落ち着いた空間。普段なら時計を気にして議論を「巻く」時もあるけれど、たっぷりと一人一人の発表や質問に時間をかけられる。三食を共にし、携帯もほぼ圏外なので、直接のコミュニケーションも深まる。同じご飯を食べ、同じお酒を飲み、同じ部屋で笑い合い、しゃべり続ける・・・。
そういう親密な空間と時間の中で、学生達の発表の質も、そして質疑応答の質も、断然バージョンアップしてくるのだ。これが不思議と。
また不思議、といえば、私の成熟度や興味関心と、学生のそれが、見事に同期している。
変な話だが、指導者である私が幼い、堅いと、ゼミ生の指導も幼い、堅いものになってしまう。多分就任時数年は、今より時間をかけて取り組んでいたが、多分その指導のやり方は幼さと堅さが残っていたと思う。一方、ここ数年はめちゃくちゃ忙しいので、合宿のような濃密な時間を作らないと、以前と同じレベルでの学生さんとの交流が出来ない、という物理的時間のなさが先行する。だが、以前より少しは柔らかく、のびのびと指導が出来るようになってきたので、ゼミ生達も、短期間でめきめき集中していく。このあたりは、指導される側より、指導する側の教育的力量の問題がかなり大きいのだな、と実感するところだ。
さらに言えば、これまでの連作で現象学的考察について取り組んできたが、教員がそれに関心があると、学生にも伝播するようだ。ゼミ生のKくんは、「生きづらさに関する現象学的考察」の発表。手品好きのKくんは、ミスディレクションを例に挙げながら、現象学的還元について考察する。「生きづらさ」の諸課題を、仕方ない、と感じてしまうことは、中心対象への居着きではないか。そうではない可能性としての背景野がある、と考えられないか。そして、背景野があるのに、そこにピントを合わせられず、今の「生きづらさ」に拘束されてしまうことは、手品のミスディレクションと同じで、錯覚を利用して魔術に引っかかるのと同じではないか。
竹田青嗣の 『現象学は《思考の原理》である』と一生懸命格闘しながら、上記のように整理していくKくんの姿は、そのまま自分自身と重なる。この本を紹介したのも自分だし、また現象学的還元について、ゼミで「目の前の課題」と「暗黙の前提」という整理でお話しした。それを受けて、自分なりに本と格闘し、ミスディレクションのような自分にわかる概念に引きつけて、考えを整理して、自分の卒論テーマである「生きづらさ」の議論に取り入れようという貪欲さ。いやはや、僕が20そこそこの時に、そこまで出来ませんでした。私の成熟度より、ゼミ生のそれの方が、むしろ高いかもしれない。
そして、驚きながらも実感したのが、そのKくんの抽象度の高い議論を、ゼミ生達は何とか理解しているのである。たぶん大学のざわついた、時間限定的空間なら無理だっただろうが、ゼミ合宿の親密な雰囲気の中では、わからないことも何となくわかってしまう、そういうquantum leapの空間になっていたのだ。なるほど、こういうブレークスルーがあるから、ゼミ合宿が大事なのですね。5年くらいゼミ合宿を主催してきて、最近その意義がようやく身体に馴染んできた。

存在論的裂け目と枠組み外し (連作 その9)

これまで外伝も含めて9回ほど、枠組み外しの旅について、書き続けてきた。体重変容という身体的変化から始まり、福祉現場、教育、そして研究における「枠組み」への問いを書き記してきた。そして、ポスト311の局面の中で、その「枠組み外し」は、私自身の実存にも向けられていた。3月26日のブログを、少し長くなるが、引用してみたい。

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ポスト311の、何も手に付かない日々の中で、ふと手にした一冊に、その内在的変容のフックになる一節が書かれていた。
「われわれはみな個人的体験から、世界のなかでのみ、世界を通してのみ、われわれがわれわれ自身になりうるのだということを知っており、また、われわれがなくとも<世界自体>は存続するであろうが、<われわれの世界>はわれわれの死とともに消滅してしまうことを知っている。」(R.D.レイン『引き裂かれた自己』みすず書房、p18)
僕は、この一節に強い既視感を感じた。レインの著作は初めて読むが、この一節は、大学生の頃からずっと感じていたことでもある。きっと池田晶子の著作などを通じて、同様のフレーズに出会っていたのだろうと思う。
由来はこの際、どうでもいい。肝心なのは、今、このフレーズに強い共感を感じるのはなぜか、という点だ。今回のカタストロフィに際して、己の自己も「引き裂かれ」たような衝撃を受けた。ネットやツイッター、テレビなどでの情報の氾濫の渦に呑み込まれ、思考が停止し、「被災地に比べて自分は・・・」と比較不能な事で落ち込み、沈んでいた。ブログの文章を書きながら、頭の中でいくら冷静さを鼓舞しても、圧倒的現実を前に文字通り「身がすくみ」、頭よりも心がショートしていた。その2週間あまりの中から立ち直り始めた時、出発点として偶然(という名のご縁で)手に取ったレインのフレーズに、今、だからこそ、強い共感を覚える。20代から僕の中にあった言葉で置き換えてみたら、こういうことになる。
「僕をめぐる世界は、僕がいなくなれば、オシマイである。」
一見すると刹那的に見えるかもしれない。だが、それはレインの次の一節を補助線に引くと、違う様相を帯びてくる。
レインは、実存主義的精神医学の騎手であり、反精神医学のカテゴリーの中にも入れられている、精神科医である。生物学的な精神医学が隆盛になり始めた1960年代にあって、精神病者の実存に寄り添う形で、狂気を作り出すこの社会の問題性を鋭く指摘した。その意味で、同時代のフーコーと共に、精神医学の権力性・暴力性の問題を焙り出した先駆者でもある。そのレインの28歳の処女作の中に、ポスト311の僕自身の実存と触れあう箇所があるのだ。少し難しい言い方だが、そのまま引用してみよう。
「自己の存在がこの一次的経験的意味で安定している人間では、他者とのかかわりは潜在的には充足したものであるが、存在論的に不安定な人間は、自己を充足させるよりも保持することに精いっぱいなのである。日常的な生活環境さえが、彼の安定度の低い閾値をおびやかすのである。一次的存在論的安定が達成されておれば、日常生活環境が自己の存在に対する絶えざる脅威となるようなことはない。生きることについてのこのような基礎が達成されない場合には、ありふれた日常的環境でも持続的な致命的脅威となるのである。」(同上、p52)
ポスト311の局面で生じているのは、「一次的存在論的安定」への大きな裂け目、亀裂である。地震と津波と原発事故のトリプルショックで露わになったのは、2万人をはるかに越える人々の死であり、生き残った多くの人々の存在論的な安定を衝撃的に奪ったということであり、直接的な被災地だけでなく、放射能汚染の影響もあり、東京も始め、広範囲な地域において「存在論的に不安定」な状態が生まれてしまった。大量生産・大量消費型社会の宿痾のようなものや、蓋をして見なかった事にしていた日本社会の歪みやひずみが、一気に奔流のように表面化してきたとも言える。某知事のように「天罰」と他責的に言い放つ不遜さには全く同感出来ない一方、ポスト311に生じたこの「存在論的な不安定」について、他者の責任ではなく、私自身の本質(=一次的なもの)における「存在論的裂け目」と、個人としては感じざるを得ない。他者への罰、ではなく、私自身への存在論的問いかけに感じてしまうのである。
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この「存在論的な不安定」を、私は無意識的に「存在論的裂け目」と感じ取っていた。そして、ポスト311における「存在論的裂け目」を通じて垣間見た、「一時的経験的安定」の脆弱な基盤という現実。その現実に向き合った時、文字通り、「裂け目」と向き合った時、あの旅の始まりである体重変容のプロセスと同じような、ある強固な枠組みが外れていく感覚を持っていた。そして、それはどうやら「現象学」と名付けられた領域で考えられてきた事に、大きく繋がっている、ということが、後付け的にわかってきた。
「哲学者というものは単に存在しようと望むだけではなく、おのれのなすことを理解しながら存在しようと望むわけですが、ただそれだけのためにも、哲学者は、その生活の事実的与件のうちにひとりでに含まれている全ての断定を一旦停止しなければなりません。しかし、さまざまな断定を停止するということはそうした断定の存することを否定することではありませんし、ましてやわれわれを物理的・社会的・文化的世界に結びつけている鎖を否認することではなく、逆にそうした結びつきを見ること、意識することです。これが『現象学的還元』というものであり、そしてその現象学的還元だけが、そうした絶えざる暗黙の断定、各瞬間のわれわれの思考の裏に隠れている『世界の定立』を露呈してくれるのです。」(メルロ=ポンティ「人間の科学と現象学」『眼と精神』みすず書房、p17)
意識的にこの「断定」を停止することは、哲学者ではない小市民のタケバタにとっては容易ではない。だが、食べ過ぎが食毒であること、胃薬を飲むことによって食べ過ぎサイクルから抜け出せなくなっていること、に気づいたということは、タケバタが物理的・社会的・文化的な「食べ過ぎ」世界に結びつけられている「鎖」(=断定)の「結びつきを見ること、意識すること」であった。それを「現象学的還元」と言われてみるなら、なるほど、確かに私自身の枠組み外しの旅は、ある意味、現象学的還元の旅でもありうる。自分がどのような思考様式に無意識に陥っているのか、どのパターンから抜け出せないのか、その様式やパターンがどう呪縛的に、植民地化的に、己の魂を既存し続けてきたのか。それらを、「断定を停止」し、ぼんやり眺め、その総体の「結びつきを見ること、意識すること」ができはじめると、自身の断定が、自分自身の行動や思考そのものの最大のリミッター(=制約)になっていることにも、気づいてきた。凡庸な結論だが、自分の視野や可能世界を限定づけているのは、自分自身、と痛切に感じるようになってきた。そして、ポスト311の局面で僕が垣間見たのも、実はこの「現象学的還元」と大いに関係していることが、わかってきた。
メルロ=ポンティは「現象学的還元」について、「われわれの思考とわれわれの個性的な物理的・社会的状況とのあいだの、生によって設定された裂け目」(p18)である、という。確かに意識的に反省する事によって「裂け目」を見る、ということでは、「生によって設定された裂け目」である、と言える。だが、ポスト311の存在論的不安定の状態の中で私が垣間見たのは、「存在論的裂け目」であった。これは、「生によって設定された」(=つまり自分自身で意識的に設定した)裂け目では無く、外発的事象がもたらした、自然というより大いなる「生によって設定された裂け目」とは言えまいか。意図的・意識的に反省せずとも、圧倒的な地震や津波、原発災害というリアリティが、日本社会の存在そのものに大いなる「裂け目」を産み出し、これまでの自明性を揺さぶっている、とはいえまいか。
現代の日本社会で、「一次的経験的意味で安定している」状態で生きてきた私にとって、これまで「絶えざる暗黙の断定、各瞬間のわれわれの思考の裏に隠れている『世界の定立』」を見ることは無かった。メルロ=ポンティの本の訳注では「世界の定立」の部分で、「これこそがもっとも根源的・包括的な先入見」(p309)であると言っているが、その自明性について、疑うこと無く、それをよりどころにしてきた自分を、震災の後、発見した。つまり、震災というとてつもない現実が、「『世界の定立』を露呈」させたのである。官僚性機能の限界や逆機能、原発対応を巡る失態の数々、放射能漏れという「想定外」の現実に対応しきれないマニュアル・・・このような出来事一つ一つが、日本社会の暗黙の前提とした『世界の定立』そのものを、限界的状況として浮き上がらせているのではないか。こう感じてしまうのである。
では、この事態にどう対応すべきか。社会変革全体の処方箋を書くには荷が重すぎるが、自分自身の対処としては、方針は定まり始めている。それは、「脱植民地化した別の視点を持つ」ということである。確かに「現象学的還元」を続けていくこと、断定をせずにその断定を眺めていくことは、「ありふれた日常的環境でも持続的な致命的脅威」になりかねない。だから、ある程度は日常性を信じて疑わない方が楽だ。しかし、そこにこそ、「世界の定立」(=呪縛の枠組み)そのものに無条件的、無批判的に強固なものにする手助けに、結果的に繋がっているのではないか。
ゆえに出来る事は、その枠組みそのものを眺めること、それもメルロ=ポンティが言うように、「われわれを物理的・社会的・文化的世界に結びつけている鎖を否認することではなく、逆にそうした結びつきを見ること、意識すること」であろう。原爆から原発へとどう「鎖」が「結びつき」を強めてきたのか。政治家と官僚の構造とはどう結びついているか。中央集権的システムから地方分権に移行できなかった日本に、どのような構造的制約があるのか。そのしわ寄せとして、福祉現場で、もっとも権力の非対称性の枠組みの中から抜け出せない人々は、結果的にどのような処遇を強いられているのか。私自身が見てきた福祉現場のミクロな現実にも、日本社会のマクロな総体、つまり『世界の定立』にある呪縛作用が現れている。その枠組みを外してみる、「現象学的還元」をする、以前のブログの整理で言うと、「福祉現場の構造に関する現象学的考察」を続けることによって、何らかのブレークスルーが見いだせるのではないか。そう、感じている。

「心的現実」と枠組み外し (連作 外伝)

僕自身の思いも寄らない体重の10キロ減少と、その時期からシンクロニシティ的に生起し続けた、様々な「呪縛からの解放」のエピソード。魂の脱植民地化、という概念との出会いや、それによって明確になった宿命論的呪縛からの解放という、自らの生き方そのもののテーマ。そういう事を連作的に綴ってきた時に、まさにドンピシャ、の二冊と出会ってしまった。今日は自分のストーリーの記述、という正伝!?は脇に置いておいて、二冊の本から考えさせられた「外伝」を記したいと思う。

その二冊は田口ランディさんの『マアジナル』(角川書店)と『アルカナシカ』(角川学芸出版)。ともにUFOを主題にした小説とノンフィクション。前者は現実に近い何かを虚構の枠組みの中に示しているのに対して、後者は「トンデも話」と思われる世界をノンフィクションで描く陰陽図。二冊で一つ、の世界観、である。この二冊を読む前に偶然手にしたダ・ヴィンチの、小説『マアジナル』に関するインタビュー記事で、著者はこんな風に書いていた。
「実は今回、同じテーマを扱ったノンフィクションを同時期に出版する予定になっています。こちらのほうはもう少しわかりやすい構成になっていますので、この小説を読んで、あまりにもわけがわからないと思う人は、そちらを解説書として合わせて読んでいただくといいと思います。そうすれば、多少は途方にくれなくて済むかもしれません(笑)」(ダ・ヴィンチ 7月号 p45)
この週末に二冊とも読み終えた僕の実感は、著者の発言とは全く逆だった。
確かに『マアジナル』は、UFOとの遭遇や様々な現実と異界との境界(マアジナル)な話が出てきて、しかも各章が別の登場人物の声に基づく「多声的ストーリー展開」ゆえ、どこに持って行かれるかわからない不確かさと、その内容の迫真性故の鳥肌感、ドライブ感がある。だが、それでも「フィクション」という枠組みの中に収まっていて、「これは物語だから」というコード内での進行なので、すっと入ってくる。むしろ、『アルカナシカ』というノンフィクションの方が、一般の読者には拒否的反応を示す人が多いのではないか。それは、『マアジナル』の中では、あくまでも登場人物の「心的現実」を、そのものとして物語化していく展開ですんだが、一方の『アルカナシカ』は、UFOや神秘体験などの「心的現実」と、著者を含めた「それを感じられない私たち」を対置させて進めていく。一見わかりやすい構成のように見えるが、著者自身の「心的現実」自体が変容していく過程に、常識や客観という枠組みに固着している人は、途中でついて行けなくなるのでは無いか、と。むしろ、『アルカナシカ』の方が、「途方に暮れる」読者が出てくるのでは無いか、と。まあ、それも織り込み済みでの上記の発言なのかもしれないが。
なぜそう思ったのか。そして僕自身の経験とこの二冊がどう結びついているのか。以下ではそれを書いてみたいのだが、小説の種明かしになってしまうのは一番興ざめなので、以下は『アルカナシカ』だけを題材に取り上げてみたい。
このノンフィクションで、今の時期の僕と感応したのは、繰り返し出てくる次のような主旋律である。
「自分の頭脳が理解できないことに関して、中学生もマスコミも知識人も、ほとんど同じであるということだろう。つまり『思考停止』である。(略) なぜこんなにも『意識の理解を超えたこと』に対して無策なのだ。」(p29-30)
「凄まじいまでにリアルなUFOや宇宙人と遭遇しても、たかがUFOでは、多くの目撃者はその行動様式を変更しません。生々しいまでの体験談と、彼らの思考様式の変化のなさのギャップが不思議な気がします。いったい体験とは何でしょうか。人間はやはりカントの言うように認識できるものしか認識できない。知らないものは認識できないのでしょうか。もしかしたら、まったく別の現象を、それを認識できないがために既成の概念を当てはめて認識しているだけなのでしょうか。だとすれば、私たちは新しい認識をどのように手に入れることができるのでしょう。そうやって、コペルニクス的転回をしたらいいんでしょうか。」(p56-57)
「私は自分が『感覚によって呪縛された奴隷』であることを、あの夜にはっきりと認識するに至った。私は支配されている。私は実はもっと自由なのだ。人は意識によって構造化されていないものを認識するのは困難である。だが、困難であるということに気づくべきだと思った。私たちは意識によって構造化されたものだけを認識し、その小さな箱庭で生きているのだ・・・ということに。」(p76)
UFOや神秘体験、オカルト現象などの大半は、科学的に証明できないけれど、その体験者の中では大きな「心的事実」として経験されたものである。それを二元論的に「ある/ない」で切り分けると、「そんなものは、ない」という一言で終わってしまう。これはデカルト的心身二元論の世界では扱いきれない領域である。それであるが故に、組織的に科学の世界からはネグレクトされてきた。以前のブログでも触れた『デカルトからベイドソンへ』を著したバーマンは、そのプロセスを「世界の脱魔術化」と名指した。その上で、ベイドソン的世界観や非線形の科学が焦点化しつつあるのは、「脱魔術化」された科学主義・論理実証主義に基づく計画制御でははみ出してしまう、しかし現実社会ではネグレクトすることの出来ない叡智であり、バーマンはその世界を「再魔術化」と呼んだのである。
ここで「再魔術化」について考え出すと大いに脱線して戻ってこれなくなるので、あくまでも『アルカナシカ』の問いかけるものとの関連性の範囲内でのみ議論をするのだが、田口ランディ氏の二冊の本が問いかけるのは、「脱魔術化」して追い出さされてしまった「何か」と、それを「心的現実」として感応する人々、その一方で「脱魔術化」体系を信じ切っていて、それ以外のものを一切ネグレクトしてしまう私たち、その境界(=マアジナル)を「ない」の一言で終わらせ(=思考停止させ)ていいのか、という問いである。UFOへの遭遇を「心的現実」として経験した人でさえ、脱魔術化の強固な枠組みへの疑いを無意識的に忌避し、「新しい認識」を拒否して、「思考様式の変化のなさ」(=信じているパラダイムへの強固な服従)自体を疑おうとしない。それは、「意識によって構造化されたものだけを認識し、その小さな箱庭で生きているのだ」というパラダイムや認識の境界(=マアジナル)自体を認識・意識する事への忌避でもある。以前ブログで触れたフレイレの言葉に戻るのなら、「宿命論的呪縛」の檻の中にいて、その檻を所与の現実だと思い、その檻そのものが自分の認知枠組みのリミッターである、ということに対して意識化されない、ということでもる。もっと言うなら、「脱魔術化」というのも、科学崇拝という一つの「魔術」である、という相対的な視点に立つ事への忌避でもある。
そう思うと、佐藤優氏が、「国家と神とマルクス」(角川文庫)の中で言っていたフレーズとも、大きく繋がってくる。
「絶対的なものはある。ただし、それは複数ある。」
19世紀から20世紀にかけての「脱魔術化」した世界において、産業革命から工業化社会に向けたブレークスルーを先導してきたのは、「脱魔術化」の中での規格化・標準化・画一化の流れであった。その中で、大量消費に耐えうる大量生産型ベルトコンベアシステムが確立された。標準化された医療は、誰でも一定のスキルを持てばある程度の病気は治せる、という意味で、かなりの修行やカリスマ的素質がないとなれないシャーマンを凌駕していた。ある時期までは。だが、20世紀後半の「脱工業化社会」の流れの中で、「脱魔術化」的な単純化・一元化では対処できない局所的な問題が起こり続けた。阪神淡路大震災、サリン事件、911同時多発テロ、イラン・アフガン攻撃、リーマンショック、東日本大震災・・・どれをとっても計画制御の範囲外にある、「想定外」の出来事だった。そういう想定外の事態の数々を前にして、「意識によって構造化された」「小さな箱庭」の中で安住していていいのか、という疑いが、そこかしこで起こっている。手触り感と安心感がある「小さな箱庭」。その内部にいて、「想定内」とか「想定外」とか、「今のところ安全性に問題は無い」という言説をを振りまきながら、様々な見え隠れする「箱庭」の外を、「みなかったことにする」日々を続けていていいのか。それより、脱魔術化を一つの枠組み(=限界、箱庭)であるとハッキリ認識し、その外に拡がる世界をも、認識の対象にして考えることこそ、本当の意味での合理的な生き方ではないか。合理的の理を、科学的客観性という「理」に限定していいのか。
断っておくが、田口ランディ氏はここまでは言っていない。上記はあくまでも、著者に触発された僕自身の「妄想」であり、「暴走」である。だが、ちょうど去年から今年にかけて、自らの認識の「小さな箱庭」の構造を客観的に眺める機会が与えられ、世界に関する手触り感そのもの、心的現実そのものが、少しずつ変容し始めている。その中にあって、『マアジナル』『アルカナシカ』の世界は、「それも、アリ、か」と思っている自分がいる。だから、研究者としての合理性や論理実証主義まで捨て去ろう、としてはいない。ただ、田口ランディ氏の次のアプローチに、すごく親近感を持っている自分が居る。
「体験を体験として伝えるためには、体験の上に薄紙をおいて、それを木炭でなぞって凸凹を浮かび上がらせるような作業が必要だ。体験そのものの輪郭を別の媒体を使って確認しなければ、他者の体験をなぞることは難しい。ではその薄紙とは何か。たぶん、私だろう。田口ランディという存在を他者の体験の上に置いて凸凹を浮かび上がらせるプロセス・・・。私にとって、それが書くという行為にほかならない。」(p158)
 
田口ランディという人は、様々な人との出会いの可能性に開かれている人である。肩書きや他者評価で無く、自分の腹の底で信じられる人か、という内的な基準で、様々な人々とつながり、関わっていく。その関わりの中から、彼女でしか見いだせない独特の「筋目」を見つけ出し、薄紙として、それを織り込みながら、作品として仕上げていく。
 
僕自身が様々な福祉現場に通いながら、へたくそだけれど、試み続けているプロセスも、薄紙という触媒としての、書くという関わりだったのだ、と、遡及的に思い始めている。

正解幻想からの枠組み外し (連作その8)

枠組み外しの旅は、少しずつ、福祉現場のことから、日本社会の構造にまで対象が伸びてきてしまった。自分の手触り感のないマクロな話をするのは、正直得意ではないが、これまで目の前の現実から立ち上げてきた感覚の延長線上で、少し、大きな地図の中での位置づけをしてみたい。

今日のフックは茂木健一郎氏のツイッターから。
茂木健一郎
けて(5)教科書「検定」の世界観が根本的に間違っているのは、この世に「正解」があって、読むべき「情報」の「集合」があると思っているところ。実際には、ネットの上にあふれている情報を見ればわかるように、玉石混淆。問題は、その中から、何が有益な情報か、判断する能力。
kenichiromogi via web 011/07/16  14:21:03
教育現場のフロントラインに立つ人間の一人として、茂木氏の言わんとすることがよくわかる。大学生と接していて大変なのは、彼らは教科書的な知識を「正解」として受け止めている、という点である。しかも唯一の正しい解としての「正解」。私がやっている講義は、数学ではないし、法律用語の暗記科目でもない。地域福祉やボランティア・NPO論などの課題に関しても、学生たちは同じ「かまえ」で講義に臨む。そして、その「かまえ」自体が、すでに宿命論的に位置づけられている。「おぼえなきゃ、しかたないんでしょ?」と。
僕の授業は、いつも徹底的に学生たちを当てまくり、「なぜ?」「なぜ?」と問いまくる。どの授業でも、最初はすごく学生たちからいやがられるが、次のように彼ら彼女らに語りかけながら、当て続ける。
「皆さんは高校生までに、センター試験に代表されるような答えを一つに確定できる正解を求める練習ばかりしてきた。だから、僕の『なぜ?』という問いかけにかんしても、『正解』を出さなきゃ、という恐怖感と、それがわからない不安などでいっぱいなのだろう。もしかしたら、皆さんの中には『(先生が求める)正しい唯一の答え』が言えずに恥をかいた記憶があり、以来発表には苦手意識を持っている人も居るかもしれない。だが、福祉的課題に唯一の正解はない。だからこそ、自分が考える『こうだ』と思うことや、その根拠も、多種多様のはずだ。それを遠慮せずに言ってほしい。どんな荒唐無稽に見えることでも、僕は否定はしない。そこから一緒に考えよう。」
年長の読者の方なら、「そこまで言わないと意見が出ないのか?」と疑いの目をもたれるかもしれない。だが、フロントラインの立場からすると、「そこまで言っても、今の学生はなかなか自分の意見を言ってくれない」のが事実である。その理由は、表題にあるような「正解幻想」に縛られているから。学校が嫌いであっても、その学校が打ち出す強烈な価値に反発できないで制度内馴化されていく学生たちは、自ずと正解幻想という枠組みの中で思考するようになる。
その事に関連して、内田樹氏は今日のブログで、「マルクスを読み、マルクスの教えを実践しようとすることは、近現代の日本に限っていえば、「子どもが大人になる」イニシエーションとして、もっとも成功したものでした」と述べている。昔なら、教科書的・制度的智に対して、マルクス主義という強烈なアンチテーゼが機能していたので、マルクスというイニシエーションを経ることによって、唯一の正解に縛られない、複眼的視点で物事を眺める、というのが、70年代までに青春を過ごした日本の若者たちには比較的容易にできた。だが、資本主義社会や日本の法制度システムのアンチテーゼとしてのマルクスという指針を失った時、内田氏は「目に見えて「大人」の数が減少した」という。僕なりに再解釈すると、「唯一の正解という幻想」の枠組みを外れ、必要とされる解決方法の選択肢はいくつものオプションがありうる、という視点で物事を考える『大人』の数が減ったのだ。
これは、大学生に限ったことではない。福祉現場でも、「正解幻想」は跋扈している。
私は障害者福祉政策に関して、県や市町村などのアドバイザーとしての役割を求められることは少なくない。その時にも痛感するのは、行政や事業所の職員が、私に「正解」を訊ねてくるのだ。 「これはどうしたらよいのでしょうか?」と。もちろん、僕は障害者福祉のオーソリティではないし、「正解」なんて浮かぶはずもないから、問われたら大概、突き返すことにしている。
その地域の課題は、僕はよく知りません、と。全体的な国の政策の流れ、障害者福祉の理念の変遷は、伝えられる。あるいは、大きな方向性については、見通しもある。でも、その地域の課題を解決する仕組みづくりを、実際に現場で立ち上げていくために、「これをすれば正解」という処方箋があるわけがない。だから、一緒に考えませんか? と。
当事者や官民にどんな役者がそろっていて、社会資源も含めたどんな舞台配置があるのか、人口規模はどれだけか、政治家にやる気があるか、過去どういう経緯と歴史をたどったか、といったその土地のローカルな文脈に沿わないと、絶対にうまくいかない。そして、これは普遍的で規範化できる唯一の「正解」ではなく、その地域のローカルノレッジを活かした形での成功作でしかない。このことを、防災教育についての議論の場面で、次のように整理されている。
「どのような現場でも、また、いつの時点でも普遍的に妥当する真理(「正解」)を研究者が同定することが目標とされているわけではなく、特定の現場において当面成立可能で受容可能な解―「成解」―を得ることが目標とされている」「『成解』は、『正解』とは異なり、ユニバーサル(普遍)ではなく、常に、空間限定的であり、かつ時間限定的な性質を持つ。」(矢守克也『j防災人間科学』東京大学出版会、p32)
「正解」と対置した「成解」概念。ローカルな文脈という空間限定・依存的で、かつその時に求められるという時間限定的な制約を持つ。だが、その中で「当面成立可能で受容可能」で、その現場を変えうる力を持つ「解」としての「成解」。福祉現場で求められる知は、この意味での「成解」ばかりである。教科書的知識や専門職の思い込み・押しつけを外在的に押し付けた「正解」では、現場が大混乱する可能性は高いが、そのメガネですっきり課題が解決する可能性は、まずない。それほど、対人直接支援の課題は、文脈依存的なのである。
にもかかわらず、日本ではシステム自体が「正解幻想」に縛られている、ということも、福祉現場のアドバイザーやコンサルタントの実践を通じて、感じ続けてきた。何か新しいことをしようとすると、「前例がない」「法律で求められていない」「国がモデルややり方を示していない」「予算がない」「人手がいない」といった「○○がない」という「出来ない言い訳」がオンパレードとなる。それは、やるからにはちゃんと「正解」を導かねばならない、という強迫観念の裏返し、とは言えないか。法律に書いてあったり、前例があったら、「正解」は真似すればできるのだから、何とかできる。あるいは、法律や前例にないことでも、ちゃんと考えてくれる人手や丸投げするお金があったら、何とかなるかもしれない。でも、ジェネラリストの自分たちが専門的な、しかもまだ見ぬ何かを新たに作り出せ、と言われても、模範解答もないのにできっこない。これが、おおむね浮かびそうな理由である。
だが、これはあくまでも、昨年のやり方を踏襲することが前提になった、平時の思考方法ではないか。ポスト311の局面で特に強く意識されたのは、「正解」が「想定内」である場合に実に機能する官僚システムが、「正解」の「想定外」の事態に陥った時に、その現場のその時点での問題を解決する最適解である「成解」を求めて立場と役割を柔軟に変えることが、実に難しかった、という事実である。人手も物資も情報もすべてが圧倒的に足りない避難所、原発事故現場、役場・・・などで、「正解」にしがみついていても、何も動けない。確かに法律やシステムを無視する振る舞いは問題であっても、それはそれとして、ブリコラージュ的に、持ち合わせの何かで、とりあえずその場をしのぎながら、最悪の事態を防ぎながら、別の文脈を作り直していくしかない。
そう考えたら、重度の障害のある人を支える福祉現場は、常に「想定外」な有事の局面であり続けている、ともいえる。圧倒的にヘルパーや医療的ケアの支援者が足りない。障害者が一人で暮らせる住宅が少ない、行政の予算も理解も少ない、地域で応援してくれる人も少ない・・・そういう圧倒的な「マイナスカードの連続」の中で、でも入所施設や精神病院で単に安心・安全を護られるだけの暮らしより、地域で自分らしく暮らしたいという事を思い続けてきた重度の障害当事者や支援者たちが、その地域の行政や支援者たちと作り上げてきた仕組みは、まさにそのローカルな文脈に依存した「成解」であった。ただ、そのローカルな「成解」の積み重ねは、他地域での共感を呼び、一定の普遍性の担保するようになると、ボトムアップ的に「正解」になりうる。たとえば、富山の看護師の惣万さんが始めた時には「脱法行為」とまで言われた宅老所が、各地に伝播する中で、「小規模多機能ケア」という形で介護保険制度の中に組み込まれたのは、局所的な「成解」のユニバーサルな「正解」への昇華だった。
この昇華のプロセスの興味深いのは、あくまでも当事者の声に基づく仕組みづくりというボトムアップ性にある。きっと理念先行型のトップダウン型であれば、うまくいかなかっただろう。対人直接支援という福祉政策の領域では、何らかのブレークスルーは、常に局所的現場の実践解という「成解」の中に、そのヒントが隠されている。そして、それを帰納的に普遍化し、新たな制度やシステムとして「正解」として形作り、現場に演繹的に投げ返す。それを運用する中で、やがて出てきた新たな問題が「成解」という形で乗り越えられ、それがまた帰納的にフィードバックされ、新たな「正解」を生み出し、という好循環のフィードバックを繰り返していく。このダイナミズムをせき止めず、うまく流れるように局所的な部分を観察する。この「成解」と「正解」の弁証法的両立と統御が求められている。だが、それは言うは易し、というのが現実である。
今の官僚システムを外から見ていて、もったいないな、と思うのも、このプロセスからの疎外、である。中央集権的システムは「正解」を演繹的に確実に地方に伝えることで、全国一律の底上げを図ってきた。これは、システム創設期から安定期に至るまでは、非常に大切な循環である。今のアフガニスタンやイラク、スーダンなどでは、この演繹的システムがないがゆえに、国としての機能が維持できるか、の瀬戸際である、という。だが、いったん安定した仕組みは、やがて周縁から問題が噴出してくる。その時、現場のローカルな知を結集した形での「成解」を生み出し、そのエッセンスを抽出する中で、現場初のボトムアップ型の「成解」を「正解」のオルタナティブや修正版という形でフィードバックさせる。そして、それを再びトップダウン的に地方の現場に差し戻す。この循環がなく、責任の丸投げとしての地方分権という分化と、予算面での中央集権の独占維持が両立していることが、システム弊害に大きな影響を与えてはいないか。「正解」と「成解」がお互いにフィードバックして好循環していく仕掛けや仕組みがなく、「正解」の鵜呑みや押しつけに終始しているところに、今のジェネラリスト志向的官僚システムの、最大の劣化や限界が来てはいないか。そして、それが教科書検定という形や、学生の「なぜ?」という疑問への畏怖という形で、前景化しているのではないか。
「正解」がいらない、とは言っていない。法や制度という寄って立つルールや規範としての「正解」は必要だ。だが、普遍のカバーできる範囲には一定の限界があり、今、多くの現場の最前線で、その限界が臨界期を迎えている。その際、「正解」への自己呪縛から脱し、「正解」を参照しつつも、その地域におけるローカルな「成解」を探し出すことが出来るか。そして、その「成解」の集積から、「正解」自体の修正や書き換えを、「正解」を維持・主張してきた霞が関側が主体的に行う柔軟性があるか。そして、この「正解」と「成解」の互いのフィードバックと好循環を、うまく導き出すことができるか。
この枠組み外しと捉え直しが求められているのは、福祉現場だけではない、と私自身は思うのだが・・・。

授業における枠組み外し (連作その7)

認識が新たになると、これまでの実践も新たな視点、別の文脈で読み解くことが可能になる。「枠組みはずし」、「宿命論的呪縛」からの解放、魂の脱植民地化・・・これらの言葉が自分ごととしてストンと落ちてみると、実は自らの実践自体が、これらの概念と非常に近い部分で呼応していることが遡及的にわかる。今までは福祉現場を対象に書いていたが、これは教育だって同じだ。
私は法学部政治行政学科で「福祉政策」「地域福祉論」「ボランティア・NPO論」などを教えている。非常勤ではこれまでに「精神保健福祉論」「ノーマライゼーション論」などを受け持ったことがある。実はそのどれもが、タイトルと毎回の内容はもちろん違うけれど、枠組み外しという文脈では非常に通低していることが、今になってわかってきた。
たとえば「地域福祉論」、この講義では認知症、引きこもり、自殺、シングルマザー、ホームレス、ごみ屋敷、限界集落・・・など様々な福祉的課題を取り上げる。教科書を使っても興味のない学生にはイメージが浮かばないので、なるべく30分程度のドキュメンタリーを授業内で見るようにしている。そして、映像のbefore/afterで、学生たちの意見を書かせていく。様々な社会問題に関しての学生たちのbeforeの感想は、実にステレオタイプなものばかりだ。
「ボケたら何も覚えていない」「引きこもりはサボりだ」「自殺は心の弱さの反映だ」「離婚したんだから自業自得だ」「ホームレスは自堕落だ」「ごみをためる人は、ごみ好きなのでは」「限界集落は仕方ない」
これらのステレオタイプな意見は、それらの社会問題への関心のなさや無知を背景にして現れる、偏見や先入観、社会の固定観念の反映だといえる。そして、映像を見て、対象者の生の声に接した後で、これも必ずといっていいほど、学生たちはステレオタイプを越えた「別の可能性」の視点を発見して、驚くのである。そこから、新たな問題や課題を発見し始める。
「認知症の人への周りの接し方やケアが、本人の混乱を助長しているのではないか」
「引きこもる人々の方が、自分たちより人生について真剣に考えているのではないか」
「自殺は個人の要因より、社会構造的な要因の方が大きいのではないか」
「母子家庭政策の不備の背景に、家父長的な日本の制度・政策の不備があるのではないか」
「ホームレスは、日本社会の産業構造のゆがみやひずみの反映の部分があるのではないか」
「ゴミ屋敷問題を解決するには、本人の納得できる支援のあり方構築が必要ではないか」
これらの視点の捉え直しから、学生たちはあるひとつの共通する疑問へと疑問が構造化されていく。それは、「こういう社会問題を引き起こす背景に、何が問題にあるのか?」と。
この問題を考えるために「社会システム適応的視点」と「社会システム構築的視点」という二つの見方を、私は学生たちに対比してもらおうと試みる。前者は法や制度を所与の前提とし、それは変えられないものだから、そのルールや枠組みの中で、現実に当てはめて考えていこう、という視点である。一方後者は、法や制度を理解するものの「鵜呑み」にせず、そのルールや枠組みと現実を照らし合わせたときに何が問題であり、ルールや枠組みをどう変えたら現実に即応するか、を構築的に考える視点である。社会問題を眺めている皆さん自身は、どちらの視点で物事を捉えていますか、と学生たちに問いかけるようにしているのだ。
すると、大半の学生が「社会システム適応的視点」である、と答える。その理由も、割とステレオタイプ化されている。曰く、「制度やルールは一人では変えられない」「制度なんだから従うしかない」「新たな仕組みを一から考えるのは大変だ」。だから、社会システムは、構築するものではなく、適応すべきものだ、という考えである。
実は、大学院生のころから研究テーマとして取り組んできた、私自身がこだわってきた、そして昨年からは自分ごととして実践してきたのは、この「社会システム適応的視点」との戦いだった。本当に「無理」「仕方ない」なのか? それは「バカの壁」に通底する可能性の限定ではないか? 社会システムという人為的枠組みを、「自分ひとりでは変えられないから」ということで、歪みも含めて内在的論理に組み込んで所与の前提とすることは、魂の呪縛(=植民地化)につながらないか。そういう「鵜呑み」「丸呑み」「諦め」の発想こそが、社会システムの硬直化や負の側面の自己組織化も加速させ、歪みの構造の強化に結果として手を貸してしまってはいないか。そんな唯々諾々で、本当によいのか。
それでも日本の社会システムのマジョリティにいる(ことを信じて疑わない)学生たちには、講義の最初の段階では、この問いは感情的な反発を生む。「言っている意味がさっぱりわからない」「理想論だ」「考えを押し付けられたくない」といった悲鳴にも近いコメントが、授業の最初のほうでは聞こえてくることもある。彼ら彼女らが信じて疑わない価値の前提事態を揺さぶってしまうことで、動揺した、反発の感情が表面化してくることだって少なくない。
だが、授業で見せるビデオに出てくる当事者たちは、学生たちよりも遥かに問題に直面している「当事者」たちである。社会システムのマジョリティから何らかの理由で落ちこぼれたり、排除されることによって、マイノリティ化、マージナル化された人々である。そして、どの社会においてもそうだが、日本社会においても、マイノリティやマージナル化された人々への視点や対応は、非常に厳しいものがある。差別や排除、偏見、蔑視の対象になる可能性が少なくない。それは学生たちの、映像を見る前のステレオタイプなワーディングからも明らかだ。で、「当事者」にとってつらいのは、そのステレオタイプのワーディングの呪縛から抜け出しにくい、という構造的問題である。自分はもっと別の形で問題解決をしたい、そうではない暮らしをおくりたい、あるいはその状況の中で最良の幸福を勝ち取りたい・・・。そう思っても、「社会的弱者」とカテゴライズされ、問題のある人、とみなされることによって、一人一人の自発性や関係性、ニーズに基づく支援、という側面が、どうかすると専門職主導の援助にすり替わりやすいのである。
その際、そうではない、という当事者たちの内在的論理をきちんと扱っている映像を、私は講義で学生たちに見せ続けている。「支援」や「社会サービス」の提供対象者お一人お一人に、どんな世界観や考え方があるのか。それがどれほど多様か。その「生の声」と比較した時、固定観念で見てきた私たち自身の先入観がいかにステレオタイプなものか。そこに縛られていることが、いかに社会システム適応的視点に呪縛されているか。そして、その枠組みへの固着は、既存システムを、その歪みも含めて強化することに、どれだけ手を貸しているか。
これらのことに気づいてもらうために、オルタナティブな実践をしている人々の映像も、あわせてみてもらうことにしている。たとえば引きこもりの当事者たちのセルフヘルプグループで展開される「引きこもりのススメ」。そこでは、「薄っぺらいつきあいでごまかして、引きこもる勇気もないやつに勝手なことを言われたくない」という当事者の声が、学生たちに突き刺さる。ゴミ屋敷支援を行うコミュニティソーシャルワーカーの実践では、「ゴミの片付け」はあくまでも「方法論」であり、その人の孤独やつながりのなさとどう向き合うかが課題だ、という、気づきもしなかった視点と出会う。認知症の当事者の語りからは、「私は全てを忘れてしまっても、その一瞬一瞬で幸福だったという経験をしていることを大切に思ってほしい」と語りかけられる。映像という間接的な形の出会いではあるが、どれも、学生たちにとっては、自分が信じてきた信念体系にはまったくなかった視点に出会い、驚き、気づかされるのだ。
これまで出会った問題は、どれも他人事ではない。外在的論理や専門職の見立ての押し付けでは解決しない。本人なりの理由、という内在的論理を重要視した当事者主体の視点が大切である。それに対して、日本社会の現状の社会システムは、外在的論理であるマジョリティのルールや規範の押し付けが多く、決してマイノリティの内在的論理に沿う枠組みになってはいない。すると、社会システム適応的視点には限界がある…。
だが、そうは言っても彼ら彼女らは、一足飛びには社会システム構築的視点に飛べるわけではない。「一から一人でやるのは無理だ」という他人事的呪縛は小さくない。そこで、「小さな制度」の実践ビデオをみてもらうことにしている。ある集落を変えた実践、社会起業家の試み、障害者の自立生活センター作り、プロボノという本業ボランティア、など、局所的かもしれないが、ある現場の実践を変えつつある取り組みも、映像で対置してみてもらうことにしている。すると、実際に変えた現実を目にする中で、「変えられないはずだ」という彼ら彼女らの呪縛も解き放たれ、「ではどうやったらそれが可能なのか」と視点は移行する。ここで、それが「○○さんだったから出来た」とカリスマ化・属人的要素に矮小化しないためにも、それらの事象に共通する、社会システムの構造的問題を超えるための、現場レベルでのソーシャルアクションの仕組み・しかけとしての共通点を整理して伝える。その中で、15回の講義の終わるころにはなんとなく、社会システム構築的視点も「ありかも」と思い始める学生が出てくるのである。
このことを別の視点で捉えると、宿命論的呪縛を事実ではなく価値観と捉える難しさとの格闘、ともいえるだろう。社会システム適応的視点に立てば、法や制度、社会システムで「決まっている」ことは、「しょせんお上の決めたこと」なんだから「しかたない」「変えるのは無理だ」という考えを暗黙の前提として信じて疑わない。このとき、その宿命論的呪縛を、それ以外にはあり得ない「事実」と受け止めてしまっている。だが、講義を通じてオルタナティブな現実を見せられ、社会システム構築的視点に立って現状を変えつつある、現状に異議申し立てをしている、違う現実を創り出す試みの存在を垣間見た学生たちは、自らの視点との違いに疑問を持ち始める。「むりだ」「しかたない」と思い込んでいたのに、その思い込みを超えてしまった現実(=事実)との出会い。その中で、自分自身の事実認識、というか、価値体系そのものが、揺さぶられる。授業で毎回しつこく「なぜ?」を問い続けるうちに、「何を信じていいのかわからない」と不安になる学生もいるが、それはある種の蓋が開きそうになる恐怖なのかもしれない。だが、その蓋が開いてしまって、別の価値観の骨太なアクチュアリティに接すると、学生たちの視点は、反転するのだ。
もしかしたら、自分が「当たり前」の事実だと思い込んでいたことは、実は価値観の一つなのではないか。そして、その価値観に、自らが宿命論的に囚われていたのではないか。
この価値相対性に気づく中で、社会システム適応的視点の限界に気づいた学生たちが、覚束ない足取りの中で、社会システム構築的視点を獲得する試行錯誤に出始める。教員の私は、その学生たちの旅立ちを支援する。そういう仕事をずっとしてきたのだ、とこのブログを書き終えて、初めて気づくのであった。
たぶん、つづく。

宿命論と戦うブリコラージュ (枠組み外し その6)

私が今振り返っている、「枠組み外し」の旅。私にとってのこの旅の意味やプロセスには、唯一無二の私の文脈があるが、「枠組み外し」の旅自体には、実は多くの先達がいる。前回ご紹介したゴフマンもそのお一人。そして前回のブログを書きながら、僕の「枠組み外し」の旅の参照元として忘れてはいけないもう一人の方の著作が、頭にしきりに点灯しはじめた。

「『銀行型』教育の概念では教育する者は教育される者を偽の知識で『一杯いっぱいにする』だけだが、問題解決型教育では、教育される側は自らの前に現れる世界を、自らとのかかわりにおいてとらえ、理解する能力を開発させていく。そこでは現実は静的なものではなく、現実は変革の過程にあるもの、ととらえられるのである。」(パウロ・フレイレ著、三砂ちづる訳、『新訳 被抑圧者の教育学』亜紀書房、p107-108)
ブラジルの貧困農村で、収奪されることを「しかたない」としていた農民達。彼ら彼女らに、単に識字教育などを教えるだけでなく、彼ら彼女らの学びを通じて、制度内馴致としての教育と、制度の枠組みを疑う教育の二つがある事に気づかされた教育者フレイレ。その彼が、現場の多くの人々の対話を通じて帰納的に導き出した叡智は、1968年の出版以後、開発教育の分野を超えて、またブラジルのコンテキストを超えて、世界中の多くの領域に影響を与えた。このフレイレの著作で示された「銀行型教育」と「問題解決型教育」の違いは、する/される側の二項対立や権力の非対称性が大きい分野では、どこでも起こりうる問題である。私自身が直接関わる領域に限っても、教育の現場、だけでなく、ボランティアや支援にも共通する課題である。教育・ボランティア・支援する側の枠組み(=偽の知識)を押しつけるだけなのか、相手が自ら考え理解し行動に移すような枠組みを、相手と一緒に作り出すのか。
このフレイレに「枠組み外し」の意味合いを強く感じるのは、彼は教育や支援、ボランティアという現場が陥りやすい「ミクロ行為論」での自閉的完結を超える視点を提起してくれているからだ。
「『銀行型』教育は、直接あるいは間接に、宿命論的な認識を強調して人間をその状況にとどめようとするが、問題解決型教育は反対に、置かれている状況を解決すべき問題としてとらえる。状況は認識行為の現れであり、すでにある魔術的あるいは従順な見方を克服する手がかりとして提示される。実際のところ従順で魔術的な現状のとらえ方とその結果として現れる宿命論的な考え方は、もう一つの見方に取って替わられる。それはすなわち自分の見える行為自体を知覚の対象に捉えるような知覚である。このようにして状況を意識によって掌握することで人間はそれを『自らのもの』とし、つまり状況を歴史的現実に変え、人間の手で変革しうるものにしていく。」(フレイレ、同上、p112)
ある問題の背景に根付く様々な構造的現実。それに対して、一人で努力しても「しかたない」、「どうせ」無理なんだから・・・、という言説。こういった言説は、私が出会ってきた福祉現場でも、何度も何度も繰り返し、聞かされてきた。だが、その「しかたない」「どうせ」というのは、ある種の枠組みへの居着きではないか、つまりは「魔術的あるいは従順な見方」という「宿命論的な認識」の内面化ではないか。「しかたない」「どうせ」と認識してしまう認識行為は、「宿命論的」状況を形作る手助けをしていないか。そうではなくて、「しかたない」「どうせ」とされている「状況を解決すべき問題としてとらえる」ことは出来ないか。この「枠組み外し」をすることによって、問題の背後ひ潜む構造的現実を「宿命論的」に捉える呪縛から解放され、「自分の見える行為自体を知覚の対象に捉えるような知覚」を獲得できるでのではないか。その知覚があってこそ、「状況を歴史的現実に変え、人間の手で変革しうるものにしていく」ことがはじめて可能なのではないか。
フレイレの考えをこうパラフレーズしていくと、次のようにまとめる事が出来る。
暗黙の前提や変えられない現実、というのは、宿命論的呪縛に陥った者がそう思い込むことによって、より強化される認識論的な現実。であれば、その認識論的前提そのものをひっくり返す、つまりは枠組み外しをして、メタ認知的に自らの呪縛された認知枠組み自体を認識する事が出来れば、その宿命論的呪縛(=魔術)の囚われから自由になることができ、現実を変える、別の可能性を探る旅路へと向かうことが出来るのではないか。これを、フレイレは銀行型教育の呪縛を乗り越えた、問題解決型教育という形で提示したのではないか。
前回のエントリーで、私自身の仕事を「福祉現場の構造に関する現象学的考察」と規定した。またその仕事の要点として、「構造的制約を括弧に入れる」という視点を書き込んだ。これをフレイレに引きつけて言い直すなら、福祉現場にはさまざまな「どうせ」「しかたない」の壁がある(養老孟司はそれを『バカの壁』と喝破していた)。その「構造的制約」を宿命論的に引き受けるのか。そうではなくて、それらの「制約を括弧に入れる」、つまりその前提自体も「ほんとうにそうか?」と疑いの眼差しを持つことによって、自分自身の行為を規定する暗黙の前提をも「知覚の対象に捉える」のか。前者に呪縛されていると、法や制度がそうだから「しかたない」というシステム内思考(=システム適応的視点)に陥るが、後者に気づけば、呪縛を乗り越え、それ以外の可能性の模索というシステム構築的視点に立てるのではないか。そして、福祉現場の「どうせ」「しゃあない」の現実を帰納的に変えてきた人々は、ある時期から「構造的制約を括弧に入れる」事によって宿命論を乗り越え、メタ認知的に全体状況を把握することにより、「そうではない別の可能性」を追い求め、「歴史的現実」を変革してきたのではないか、と気づくようになった。
このように、「福祉現場の構造に関する現象学的考察」をする中で見えてきた、宿命論を乗り越えるメタ認知的思考。これをフレイレは「問題解決型」教育と言っていたが、同じ時期に、人類学者は別の言葉で、こんな風にも言っている。
「科学者と器用人(ブリコロール)の相違は、手段と目的に関して、出来事と構造に与える機能が逆になることである。科学者が構造を用いて出来事を作る(世界を変える)のに対し、器用人は出来事を用いて構造を作る。」(レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房、p29)
必ずしも一致するわけではないが、フレイレの「銀行型教育/問題解決型教育」のカテゴライズと、レヴィ=ストロースの「科学者/器用人」のカテゴライズに親和性が高い。構造を用いて出来事を作る科学者は、規格化や標準化という構造的優位性を武器に、大量生産システムを作り上げて来た。だがその圧倒的な物量的な構造的優位性が、時として規格化や標準化の押しつけ、として方法論の自己目的化しはじめた。そこに「銀行型教育」が生まれる素地がある。そうではなくて、目の前の「出来事」から「構造を作る」知性。これは大量生産的な物理的優位性はない。だが、「出来事」を現象学的に捉え、その「構造的制約」(=という名の規格化や標準化の押しつけ)を取り除いた、「出来事」から出発した構造を作り出すがゆえに、問題の歪みを強化することなく、問題の制約条件を乗り越える、問題解決型思考や現場発の変革を導き出す事が出来るのだ。
私がアドバイザーやコンサルタントとして関わってきた福祉現場で苦労していた内容に共通するのは、実はこのメタ認知的思考であった。客観性の呪縛に囚われ、国が示す制度という「構造」を用いて支援という「出来事」を作ろうとしてきた。しかし、それでは制度や事業の当事者への当てはめである。一方、支援を求めている人の人生は、タコツボ的事業や縦割り制度のつなぎ合わせではない、トータルな一人の人生である。その際、「障害故にその地域で暮らしづらさを抱えている一人の人」という「出来事」を現象学的に捉え、その人の生活全体をどうすればよりよく支援出来るか、という「出来事」から「構造化」していけば、自ずと「構造」自体の制約に突き当たる。しかし、その「構造的制約」を「しかたない」と宿命論的に受け入れることなく、「運命へのチャレンジ」と捉え、どうすれば所与の前提をひっくり返すことが出来るか、という視点で、「出来事を用いて構造を作る」仕事。これを、同じくレヴィ=ストロースは、プラモデルのように規格化された構造を出来事に当てはめるのではなく あり合わせの材料から構造を作り出す、という意味でブリコラージュと名付けた。そのブリコラージュについて、彼はこうも言っている。
「彼の使う資材の世界は閉じている。そして『もちあわせ』、すなわちそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。」(レヴィ=ストロース『野生の思考』みすず書房、p23)
現場を変えようとしても、予算や人手には制約がある。だから「しかたない」と考えるのが宿命論的呪縛だとしよう。そのとき、この宿命論的呪縛故に行動を制約するのではなく、「限られた道具と材料の集合で何とかする」というゲームの規則だと考え、そこから新たな何かを作り出す事。実は、支援現場に求められている視点は、この宿命論と戦うブリコラージュなのではないか、と気づくようになってきた。そして、それが前回のブログで書いた、社会起業家の視点にも通じる何か、であると感じている。
多分、つづく

構造的制約を括弧に入れる (枠組み外し その5)

私は福祉現場でのコンサルタントやアドバイザーになるための、特別の経験というものをしたことがない。福祉現場で働いたこともない。ただ、少なからぬ現場で、ある程度長い期間のフィールドワークをさせていただいた。大学院生時代の5年間は精神科病院で、その途中からは精神医療の質向上に取り組むNPOで、またスウェーデン留学時には知的障害者の当事者グループで、あるいは重症心身障害者の地域生活支援の拠点で・・・。いろんな現場にお邪魔し、当事者や支援者の声に耳を傾け続けてきた。教科書的知識を吸収するよりも、現場で生起している現象を観察することに重きを置いてきた。それらの臨床の場での経験がある程度体内に蓄積した段階で、社会学や社会福祉学の「理論」と出会っていったので、現象から普遍を抽出する帰納的な理解で物事を眺め続けてきた。

それと似たスタンスで問題に取り組んだ先達がいる。たとえば社会学者ゴフマンの名著、『アサイラム』。1950年代のアメリカの精神病院をフィールドワークした上で、入院患者の相互行為や病院構造そのものの構造的問題を鮮やかに整理した名著である。だが、わが国の社会学者がゴフマンを下敷きにフィールドワークや考察をしたものを読んでも、なんだか理論を現実に演繹的に当てはめているようで、私自身が感じているアクチュアリティとの乖離に苦しんだ。当の『アサイラム』を読んでいないのに、孫引き的著作を読むだけで、その生みの親である『アサイラム』自体、読む価値のないものである、と錯覚していた。

が、ノーマライゼーションという思想について半年間講義をするチャンスに恵まれて、その関連で初めて『アサイラム』を読み込んでみると、原著の偉大さがビシバシ伝わってきた。たとえばこういうフレーズなど。

個人の自己が無力化される過程は一般に、どの全制的施設においてもかなり標準化している。この種の過程を分析することによって、われわれは、通常の営造物がその構成員に常人としての自己を維持させることを心掛けるとすれば、保証されなくてはならない仕組みはどんなものか、を知ることができるだろう。」(Goffman1961=1984:4)

ここから読み解けるのは、ゴフマンは精神病院や入所施設などの全制的施設で標準化されている「個人の自己が無力化される過程」を炙り出すことを通じて、そのオルタナティブ、つまりは「通常の営造物がその構成員に常人としての自己を維持させることを心掛けるとすれば、保証されなくてはならない仕組みはどんなものか」を析出することが出来る、というのである。

このことの意味は、決して小さくない。

今から60年も前、精神病者は隔離収容するしかない、というのが当たり前の時代。その当時に、その「当たり前」の現場でどのようなことが行われているかを観察し、他の現場とも共通する普遍的な「個人の自己が無力化される過程」を帰納法的に描き出した。しかも、それは単に研究のため、というよりも、その状況を改善するための、つまりは「通常の営造物がその構成員に常人としての自己を維持させる」ために必要な要素を対偶命題的に整理して伝えるための戦略だった。それは当時の常識から考えれば、あまりに非常識な、ある意味での「枠組みはずし」的な戦略だったともいえないか。精神病院というその当時のドミナントストーリー(=強固な枠組み・解決策)の中に入り込んで、そこで生起している現象や枠組みそのものを抽象的に描き出すことによって、その枠組み事態の問題点や、そうではない別の可能性を描くための要素を析出しよう、という試みだったのである。

それに対して、わが国で『アサイラム』に基づきながら議論をしている文献を見ていると、それは精神病院におけるミクロ行為論の分析が少なくない。私自身がそれらの論考に不満なのは、ミクロ行為論は、その行為が生起する場である精神病院という場自体を否定することなく、むしろその枠組みの強化にも役立つような分析になりかねない、という不満からかもしれない。もちろん様々な研究のアプローチがあってもよいので、他者の研究をとやかく言うつもりはない。だが、私は精神科病院で暮らす人々の生のリアリティと出会うところから、自身の研究がスタートした。そこに、「なぜ何十年も入院しなければならないのか?」「なぜ精神障害者の処遇はこんなに劣悪なのか?」という疑問や怒りといったものが、研究以前に存在していた。ゆえに、それをミクロ行為論の枠組みで分析して、わかったような気になる事は、出会った人々への冒涜のような気がしていた。同じく精神分析や臨床心理学の文献も、中途半端にわかったような気になって問題を矮小化したくないから、としばらくの間、読まないでいた。

精神病院という構造的暴力にもなりうる装置を、どうしたら縮小することが出来るか。精神病を持つ人たちの支援を、精神病院以外で実現していくためには、わが国ではどうしたらいいのか? 同じ全制的施設である入所施設の問題もどうしたらいいのか? 別の国ではどういう努力をしているのか? そういう関心を持ちながら関わるうちに、結局のところそれは社会学や社会福祉学という枠組みの中では解決しないので、福祉政策や行政学などの関連領域を読み漁らざるを得なくなっていく。

なので、前回のブログでも書いたが、いまだに自分の「専門」とは何か、がわからない。便宜的には福祉社会学とか社会福祉学とか言ってみたりする。あるときまでは、そのどちらかに依拠したい、とも思っていた。だが、去年からの枠組み外しの経験の中で、むしろそんな枠組みなどどうでもいい、と思い始めている。自前の言葉で枠組み規定してもよいのなら、「福祉現場の構造に関する現象学的考察」とでも言おうか。これは、ゴフマンがアプローチしたやり方にも、非常に似ている、と勝手に感じている。以下、少しそのことにも触れてみたい。

冒頭で、私は福祉現場のコンサルタントやアドバイザーになるための訓練を受けたことはない、と述べた。だが、私自身がフィールドワークという名目でいつもやってきたのは、福祉現場で生起しているリアリティを、ミクロ行為論で読み解くのではなく、その現場全体の構造の中で捉えようとする「福祉現場の構造に関する現象学的考察」であった。ここで敢えて「現象学的考察」と名づけたのは、その構造を分析する際に、まず理論や分析枠組みありきでは臨まない。ということだ。それよりも、生起しつつある事態に目をむけ、耳を傾け続ける。それも、エポケー(判断中止)の姿勢で、こちらの理論的枠組みという名の先入観に当てはめようとせず、なるべくその現場の文脈そのものを読み取る中から、焦点化されている事態を把握しようと努める。

これは恩師が研究者ではなく福祉ジャーナリストだった、というのが最大の理由だが、理論的言語で「わかったつもり」になるのではなく、「対象にぎりぎりと迫れ」と指導され続けてきた事が大きいだろう。「ぎりぎりと迫る」ためには、自らの仮説も捨てて、生起する事態にどっぷりとつかるなかで、その現場の臨床的知識から考察を立ち上げていくしかないのである。

そして、私のような現場で働いた経験もない若造がなぜ福祉現場の改善の仕事で呼ばれるのかの理由も、どうやら上記と連結している。一般企業が社会情勢や顧客のニーズの変化に合わせて淘汰や変容をするように、福祉現場も社会情勢や顧客のニーズ、政策の変化などに合わせた変容が求められている。だが、一般企業と違って、福祉領域は弱者救済という公的要素が強い分野であるがゆえに、なんとなく「ぬるま湯」的に残ってしまえる。さらにいえば、利用者と提供者の間の権力の非対称性が強い分野であり、「お世話になっている」利用者は文句を言いにくい、という前提があるため、なかなか現場の体質改善がしにくい。それに輪をかけるように、人員配置・報酬単価基準の低さや制度改革の重なりもあって、「目の前の対応に目いっぱい」で、問題があることはわかっているが、どこからどう変えてよいのかわからない福祉現場、がたくさんあるのだ。

その際、外在的理論や「あるべき論」を振りかざすのではなく、その組織なり地域なりの内在的論理を掴んだ上で、その内在的論理の方向を転換させたり、(再)蘇生させたり、という支援が求められている。「対象にぎりぎりと迫」るなかでその構造的問題を把握した上で、「ではどうすればいいのか?」の対案を、現場の人と一緒に模索し、デザインし、実践していく仕事。「枠組み構造」そのものを表面化・現前化させ、その構造的制約自体をもいったん括弧にくくり(エポケー)、あるべき姿と現実の落差の中で、何をどう変えていけば具体的に変容可能か、を考える仕事。

実はここまで書いていて気づいたのだが、私が出会う福祉現場では、「構造的制約自体を括弧にくくる」ということが出来なくて苦しんでいる場面が少なくなかった。一人一人の支援者レベルの実践については、その変容可能性は検討しても、組織なり制度なり地域としいった「全体像」事態は、変えられない所与の現実として、ある種の「宿命論的」に「しかなたい」と諦めている現場が、少なからずあった。その中で、私は無知蒙昧なのかオリジナリティがあるのか知らないが、この全体的構造に対する「宿命論的」な視点とも戦い続けてきたのかもしれない。本当に「しゃあない」のか? 変容可能性はないのか? 枠組み自体は問い直さなくていいのか?

福祉現場の「構造的制約」とは、今の日本社会の構造的制約に強い影響を受けている。特に財政緊縮が叫ばれる新自由主義的風潮が強まった2000年代以後、「納税者の納得」「公平・平等」を盾に、支援が必要とされる人々への政策を縮小しようとする「構造的制約」の風は強くなってきた。そんな時代背景の中だからこそ、その「構造的制約」自体を捉えなおし、現場レベルでも出来る対抗策、「あるべき姿」に向けたオルタナティブや改善をしていかないと、ますます現場は煮詰まるし、硬直化してしまう。そういう危機意識を持った現場の人々と、今ある素材を使う中で、今ない現実を作り出すための模索を、必死になって行ってきたのかもしれない。

なるほど、こう考えたら「枠組み外し」は私自身に深く根付いていた。

 

多分、つづく。

福祉現場の枠組み外し (枠組み外し その4)

ダイエットや「魂の脱植民地化」という言葉との出会いを通じて心身の変容を遂げ、自らにつけていた制約やリミッターを外す機会を経た後、大げさに言えば自らの世界観も根本的に変わり始めた。信念体系や価値観が180度転換した、というわけではない。そうではなくて、ある人なり組織なりの信念体系や価値観が、どのような構成で成り立っているのか、そこにどのような制約があるのか、ということについて、メタ認知的に捉え始めるようになったのだ。すると、様々な「所与の前提」なるものに呪縛的に捉えられ、本来持っている個人や組織のポテンシャルが十分に活かされていない例が、実に多く散見されることがわかってきた。
このことを、私がかかわる福祉現場の例に即して考えてみたい。
私は障害者福祉政策を一応の専門にしている。(とはいえ政策を体系的に学んだ機会はなく、現場に求められてOJT的に学んだのだが、専門という肩書き・枠組み・呪縛が付いてないと安心しない人のために、便宜的に自らの専門について名乗っているに過ぎない)
山梨では五年前から、三重では四年前から、県の障害者福祉政策に関する特別アドバイザーという仕事を引き受けている。中央集権から地方分権、専門家主導から当事者主体、行政処分から契約制度、慈善的福祉から権利保障、隔離収容から社会包摂、と障害者福祉分野はその前提となる価値観も具体的な政策体系も21世紀初頭以来、大きく変容する中で、市町村行政の現場では、制度変革や地域支援の課題に追いついていない。そのため、市町村現場の変革支援のために、外部者としてかかわることが両県で求められた。
この現場変革の支援を続ける中で、つくづく感じていたことが、思考の枠組みの制限の問題であり、「魂の植民地化」の課題である。
たとえばその最たるものが「予算(人手)がないから無理なんです」という呪縛。確かに、血のにじむような努力をした後で、やっぱり無理であれば、その言葉にも重みがある。だが、何もしないこと、変えられないことに対しての安易で、反論しにくい言い訳として活用されることがある。新規事業については、検討する以前からそうやって門前払いにするケースも少なくない。
市町村の現場職員への研修や、行政や支援者など官民へのコンサルテーションなどを通じて、このような「しない言い訳」を山ほど見てきた。そしてその背後に、官僚制やセクショナリズムの弊害、サボタージュ、だけでなく、労働の喜びを毀損する「呪縛」の影を、最近では見るようになった。
「余計な(法律で定められていない)ことをするな」「住民の要望などまともに聞くな」「他の市町村がしていないことに手を出すな」「他の住民との公平・平等を逸脱するな」「新規事業に手をつけるな」
このような様々な「べからず集」の背後には、官僚制の逆機能側面が満ちている。住民や事業対象者のために、という思いを持って仕事に取り組む職員も、上記の保身的組織防衛論理の同調圧力に屈して、その論理に反発するエネルギーを失っている場面も少なくない。「どうせ自分ひとりが頑張ったって・・・」「一人じゃ出来ない・・・」 このような諦めに基づく馴致、外在的論理の内面化を通じて自らの役割や可能性に蓋をして、リミッターをかけている人が、公務員だけでなく、福祉現場の職員にも少なからず蔓延していることが見えてきた。
それに対して、メタ思考に至らなかった私は、それらの職員を批判し、こうすべきだ、と説得することで、現場を変えようと躍起になっていた。だが、ちょうど自分自身の変容過程と重なる中で、「ダメだダメだと言うだけが一番ダメだ」という当たり前の真実に気づき始めた。ある価値なり信念に呪縛されている人に、外からその価値や信念の問題点を指摘しても、批判されていると思った当の相手は、自らの価値・信念体系を固守することに必死になり、下手をすれば呪縛の悪循環を強化することになりかねない。Aを前にして非Aを声高に主張することは、A自身の存在の肯定に逆説的に繋がってしまう。
それよりも、相手と私の価値や信念体系の構成要素や成り立ちの背景を分析する中で、その大元まで降り立って行き、どの部分であれば、相手にも納得して理解できる内容なのか、A以外の何かへの変容可能性のポイントはどこか、を、相手の内在的論理に添う形で探すことを心がけるようになった。
先ほどの「予算がないから無理なんです」という発言に戻って考えてみよう。
実は、市町村の福祉現場では、カリスマ行政職員・カリスマソーシャルワーカーなる存在が90年代から存在している。大学教員よりもよほど法制度や実態に精通していて、政策提言能力の高い職員のことを指す。介護保険制度導入以前にそういうカリスマ職員はたくさん増え、その中にはその後大学教員に転進していった人もいる。そういうカリスマ職員たちに共通するのは、予算ベース・事業ベースではなく、当事者のニーズを満たすという目的ベースであった。そのための、予算や事業であり、使える予算や事業は使い倒した上で、ないものはどう地域で官民協働の中で実体化していくか、を考えるプロフェッショナルだった。これらのプロフェッショナルは、官僚主義の呪縛を相対化して、システム内思考(システム適応的視点)ではなく、システム構築的視点を採用する。最初から法律を否定するのではない。徹底的に法律や制度の現状と問題点を調べつくして、使い倒して、法律にないものについては、それを実態的に乗り越えるための方策について、したたかに現場から構想していく力強さを持っているのだ。
このことと、先ほどの呪縛の悪循環問題は、密接に関連している。「予算がない」「法律にない」という言い訳を思考のリミッターや呪縛に転用しないためには、システム適応視点から、システム構築的始点への転換の支援が求められる。もっといえば、システム構築的視点でどう「ないものを作るか」のプロセスを伝え、実際にそれを体感してもらう中で、自らの仕事の枠組みへのリミッターを外し、行政の都合ではなく住民のニーズに基づく仕事をする職員へと変容してもらう、そんな支援職員の変容やエンパワメント支援が求められているのだ。
実際に私が出会った、研修やコンサルテーションを通じて仕事のあり方を変えていった現場職員達は皆、わくわく・活き活きと仕事をしている。「お役所仕事」とは全く逆の、創造性あふれ、誇り高く仕事をしている。「お役所仕事」というリミッター(=呪縛)がない分、新たな何かを産み出す苦しみを持ちながらも、福祉の仕事に情熱をもって取り組んでいる。パーソナリティの問題ではなく、労働の喜び・やりがいが、その人の仕事に表れているのだ。
これを連作の副題である「枠組み外し」との関連で言えば、官僚制の呪縛から解き放たれ、新たな仕事のやり方やイノベーションを導くためにも、福祉現場に携わる職員の、「無理だ」「仕方ない」の呪縛を解放する、枠組み外しをする必要がある。
そういえばかのシュンペーターは、entrepreneurの機能を「生産様式を革新ないし革命化すること」と述べていた。これに引き付けて考えるなら、営利企業だけでなく社会問題の解決にもsocial entrepreneurship、つまり社会問題への対応に関しての「生産様式を革新ないし革命化すること」が求められている。その際、自らのこれまでの行動規範や原理原則といった「生産様式」そのものに踏み込んでの「革新ないし革命化」が可能かどうか、が問われている。呪縛の解き放ち、とは、そのような意味で激烈な経験であり、量子力学的跳躍(quantum leap)が必要な部分である。
だが、明治以後作り上げてきた中央集権的官僚システムの思考停止や、呪縛的自己保身がその限界を迎えたことは、図らずしも、あのポスト311の局面で前景化してしまった。官僚制の順機能ではなく、最大の逆機能に向き合ってしまった今、どのような「生産様式の革新ないし革命化」が必要か、を考えることも、「魂の脱植民地化」を研究することになってしまった私自身にとって、アクチュアルな課題でもある。
(多分、つづく)

風が吹き始める (枠組み外し その3)

シンクロニシティという言葉は、自らのアイデンティティが固着する以前には、割と好きだった。

10代の終わり頃、ユングや河合隼雄の著作を読みかじる中で、ある布置状況の中での意図せざる同期性の妙味に、何となく心惹かれていた。だが、大学院生で、社会問題としての精神病院という研究テーマに取り組みはじめた頃あたりから、精神分析系の本も封印する。精神病院の構造的問題と、そのオルタナティブとしての地域生活支援とは何かを、フィールドワークを通じて考える、という研究スタイルを確立する上で、現場で生起している事を追いかけるのに必死で、それを生半可に分析するのはまずい、と思っていたのかもしれない。あるいは、社会構造の問題(障害の社会モデル的分析)を安易に個人化する(障害の医学モデル的解釈の)愚を犯しそうだから、封印していたのかもしれない。とにかく、シンクロニシティという言葉は、院生になって以後、10年以上は封印していたフレーズだった。(そして、今から思うと、これも一つの呪縛というか、後述する魂の植民地化の一つだったのかもしれない。)
このシンクロニシティという言葉が、2010年3月というタイミングで、突如、ありありとした実感(アクチュアリティ)をもって、迫ってきた。あまりに沢山のことが、たった数週間のうちに起こり始め、自らの暗黙の前提という枠組みが、竜巻に飲み込まれていった。
香港から帰った数日後、今度は学会のために、京都に出かけた。自分の発表と理事の仕事以外はサボろうと思っていたのだが、なぜか自分の発表とは全く関係ない、中国における環境問題についての、ある人のスピーチだけが、すごく気になった。そのときのアクチュアリティについては、帰りの列車の中で興奮しながら書いていたブログの一節を、少し長くなるが引用する。
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この旅で大きな収穫だったのは、「魂の脱植民地化」という言葉に出会えた事。阪大の深尾先生の研究発表の中で、環境問題も社会的な文脈のコンテキストの中で読み込まねばならない、という議論に興味を持ち、懇親会で質問していたら、出てきた。まだ、ちゃんとその言葉を理解している訳ではないので、あくまで印象的感想しか書けないのだが、私たちのパースペクティブや行動は、テレビや習慣、「○○すべき」という規範など、様々な外因性のものに「植民地化」され、情報化が進む中でその「植民地化」と個々の「植民地」の隔絶度合いが、個人の中である種の解離状態を引き起こすくらい、深刻なものになっている。しかも、その「植民地化」された状態について個々人が無自覚なので、何だかしんどさを抱えながらも、解離状態に気づかない。自身の「植民地化」された状態に気づけなければ(相対化出来なければ)、当然の事ながら、他の類型の「植民地化」された状態にある人の事も理解出来ないし、ましてや態度変容を迫る、なんて事は出来ない。少しアルコールが入った場面で先生の話を聞きながら、そんな風に解釈してみた(だから、この説明は完全に僕の読み込みである)。
そして、昨日から、この「魂の脱植民地化」というフレーズが、頭の中でワンワン鳴り響いている。そう、僕自身の「魂」の「植民地化」とは、以前書いていた、香港で相対化し始めた、「目の前の一点にしかすぎない」「明晰さ」への固執につながるのではないか、と。また、それを穿つ<明晰さ>とは、見田宗介氏によれば、「生き方を解き放つ」、固着された自分自身の視点から普遍的な世界へと開かれた「窓」であり、それが「魂の脱植民地化」ではないか、と。
別に他責的に「誰かに乗っ取られた」という意味で、「植民地化」と使っているのではない。そうではなくて、自分が納得して、その通りだよな、と思いこんでいて、かつ「自分らしさ」と思いこんでいる、自分の中での支配的な言説なり視点なりの少なからぬ部分が、ストックフレーズや手垢にまみれた思想の焼き直し・刷り込みに過ぎないのではないか、ということである。しかも、それを主体的に選び取った、と思いこんでいるけど、どこかで「選び取らざるを得ない」場面に構造的に追い込まれていませんか、とも、この「植民地化」から読み取れる。
深尾先生は、中国の黄土高原での砂漠化と、その対策としての植林を例に挙げ、人為的に砂漠化し、その反転として植林しているけど、そのどちらにも、「自然のご都合」というものを無視した「人為的な良きこと」が支配的に流れていて、それって結果的には「不自然」ではありませんか、と仰っている(ような気がした)。この場合、「魂の脱植民地化」とは、人間のあれやこれやの思惑・都合に「植民地化」されるのではなく、「自然のご都合」を考慮の対象にして、計画的植林ではなく、里山的な「自ずから」の世界を大事にする、というメタファーが当てはまる、と僕は受け取った。整然と規格化され、雑草抜きまで暑い中している植林地は、結果的に自然の快復力を奪っていませんか、と。
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「魂の脱植民地化」という語に、ダイエットは無理という体重の「植民地化」そのものの呪縛から解き放たれつつある、まさにそのときに出会ったことに、共時性(シンクロニシティ)を感じざるを得ない。かつ、単に共時的なだけでなく、この新たな枠組みで眺めてみると、自他の多くの固着した現実が、「植民地化」として見えてきたのだ。そして、その先にある「魂」のアクチュアリティについても。
そのことについて、一つ一つ書いてみよう。
また、しつこく体重の問題に戻る。
以前僕は、「食べ過ぎて、胃薬を飲む」というサイクルを繰り返していた。「食べる前に、飲む」というコマーシャルも、何の不思議もなく眺めていた。子どもの頃、夏休みなどは外に遊びに行かず10時間くらいテレビに齧り付いていた元「テレビ少年」の中では、コマーシャルで流されていた内容を、所与の前提と受け止めている節があった。
だが・・・。食べ過ぎて、胃薬を飲む。このサイクルは、そもそも「食べ過ぎ」という身体への介入を押さえる為に、「胃薬」という対処療法を人為的に行う事を指す。さらには、「食べる前に(胃薬を)飲む」というのは、食べ過ぎて苦痛を引き起こすという生起しつつある事態への方法論的介入である胃薬を事前予防的に
投入する、ということである。これは、方法論の自己目的化ではないか。これは砂漠化と無茶な植林の結果、黄土高原が結果的にやせ細っていったのと同じ帰結を人体にもたらさないか。そもそも、製薬会社の「必要以上の儲け」のためには、不必要な薬の需要が必要であり、「食べる前に飲む」とは、その目的と方法の転倒なのではないか。そして、その方法論の自己目的化されたコマーシャルをずっと見続けている中で、「食べる前に胃薬を飲む」ことに違和感を抱かないこと自体、製薬会社やテレビ局の枠組み(アジェンダ設定)の内面化であり、魂の植民地化を唯々諾々と受け入れることではないか、と。
このプロセスがありありと実感できはじめた時に、深尾先生から、ご一緒に研究されている東大の安冨先生の主催される研究会にお誘い頂いた。そこで話されていた内容もあまりに私自身に刺激的だったが、その後、安冨先生も引用しておられる次の本を読んでみて、目が点になるようなフレーズが飛び込んできた。
「私はたくさん食べます、消化不良になります、医者のところへ行くと、錠剤をくれます。私は治ります。またたくさん食べて、また錠剤をもらいます。こうなったのは薬のせいです。もし錠剤を使わないとしたら、消化不良の罰を受け、二度と過食しないようにしたでしょう。医者が間に入ってきて、過食を助けてくれたのでした。それで身体は楽になりましたが、心は弱くなってしまいました。このようにして最後には、心をまったく抑えられないような状態になってしまいました。」(ガーンディー『真の独立への道』岩波文庫、p78)
まさに「心をまったく抑えられないような状態になってしまった」私自身の姿が、そこには記載されていた。いつの間にか、「身体は楽になりましたが、心は弱くなってしま」っていたのだ。胃薬を飲んで自分自身で食べ過ぎ(=過食)のコントロールを自発的に行っている、と思い込んでいたが、事態は正反対だった。過食の苦しさを十二分に経験した上で、食べ過ぎしないという身体のリズムを作るのが健全なる魂とするならば、そこから逸脱して、薬という方法論に安易に依存する事によって、身体と魂のリズムを仮の安定に導く。つまりは目的と方法の転倒であり、魂の植民地化、ひいては胃薬の「麻薬化」や胃薬への「依存」にはまり込んでいたのである。
この3月の度重なるシンクロニシティの中で、僕の中で固着していた窓は、完全に穿たれた。それまで窓の外の世界を、自分とは関係のない別の世界だと感じ、自分なりの「明晰」な世界に自閉的に満足して、窓の外は見ないようにしていた。だが、2010年の2月末から3月にかけてのめくるめくシンクロニシティの重なりの中で、窓を眺める位置が反転していた。気づけば、開いた窓から風に誘われて、窓の外に出ていたのだ。
深尾先生からは「過剰摂取による『智恵熱?』にお気をつけになって」とアドバイスされていた。確かに、この3月は、智恵熱、というか、自己の枠組みというリミッターが外れてしまって、竜巻の中に巻き込まれたような、どこに行くかわからない存在論的な不安と共に、何かが始まる予感のようなものが、感じられていた。
そしてそこには、因果論に支配されたそれまでの私の枠組み(=信念体系)とは別の、しかしよりアクチュアルな世界が開けていた。この別のアクチュアルな世界にたって、魂の植民地化問題を眺めてみると、実は僕が関わる福祉の世界にも、沢山の呪縛や思い込みが支配していることにも、少しずつ気づき始めた。
(たぶん、つづく)

枠組み外し その2

今思い返すと、体重の変容は、その後の「大転換」のための「準備体操」だった。自分が一番気にしていて、かつもっとも無理だと無意識的に諦めかけていたもの(体重の大幅な変容)が、突然、動き始めた。しかも、自分が苦しくない形で。

炭水化物を減らす。米を食べる量を減らし、外食で麺類を食べる場合は残すことにした。その際、心が苦しくなる理由は、「もっと食べたい」という欲望よりも、むしろ「残しては勿体ない」という意識ゆえだった。その「勿体ない」という言い訳と戦うことは、最初のうちはかなり時間がかかった。だが、「皮下脂肪に蓄えるのと、残すのと、どちらもエネルギーをどこかに残す点では変わらない」「最初から麺を少なめにしたら良い」と自分に言い聞かせているうちに、心苦しくなくなってきた。これも、後付け的になるが、ドミナントストーリーの書き換え、というか、暗黙の前提としている言説に対して、新たな別の信念体系をぶつけ、その暗黙の前提を捉え直す、ある種の「枠組み外し」であり、自己洗脳だったのかもしれない。
そうやって、実際に体重が減り始めた変容の中にあって、香港に出かけた事が、次なる変容への契機となった。
海外に出かけると、否が応でも日本の常識や価値観を相対化して見ることになる。日本の「当たり前」が通じない事にいらだったり、日本では出会わないトラブルに遭遇したり、あるいは日本で見たことのない、食べたことのない、感じたことのない何かと向き合ったり。そういう「異化作用」をフィジカルに全面的に体験するプロセスの中で、自らの暗黙の前提自体が現前化する契機となる。妻と遊びに出かけた香港で、しかも旅立つ直前に偶然に本棚から取り出してナップサックに入れた一冊によって、体重変容の次の変容の口火が切られ始めた。
「とざされた世界のなかに生まれ育った人間にとって、窓ははじめ特殊性として、壁の中の小さな一区画として映る。けれどもいったんうがたれた窓は、やがて視角を反転する。四つの壁の中の世界で特殊性として、小さな窓の中の光景を普遍性として認識する機縁を与える。自足する「明晰」の世界をつきくずし、真の<明晰>に向かって知覚を解き放つ。窓が視角の窓ではなく、もし生き方の窓ならば、それは生き方を解き放つだろう。」(真木悠介著『気流のなる音』ちくま学芸文庫、p121)
自分自身の視点や思考枠組みは、所与の前提として疑いようのないものである。
これまで、そう思い込んでいた。逆に言えば、それを疑い始めたら、存在根拠が崩れ、アイデンティティの危機に陥り、全くそこから動けなくなる。勿論10代後半から20代前半にかけて、私自身にも人様同様のアイデンティティ・クライシスはあった。だが、結婚し、大学で定職に就き、社会的にも必要とされる(と感じる)仕事に取り組む中で、気づけば自分自身の思考の枠組みは固定化・強化していき、それ自身を疑う、という場面がどんどん減っていった。それを私自身は「成熟」だと思い込んでいた。
だが、体重変容の過程を通じて身につまされた事は、思考の枠組みの固定化・強化は、時として「○○だから仕方ない」という諦めの内面化・自己正当化でもある、ということだ。そして、それが内面化・自己正当化である、ということにすら、その枠組みから自由にならないと、気づけない。体重が本当に3キロ4キロと減る中で、「無理」と思い込んでいた所与の前提があっけなく崩れ去る中で、ようやくその「無理」という思い込み(=所与の前提)そのものが、実は脆い基盤の上になりたっていた、ということに気づかされたのである。真木の比喩を用いるなら、「窓」が開かれた瞬間だ。
初めて訪れる香港という場で、新たな何かを受けいるだけの心の余裕と開放的な気分が、その前提としてあった。しかも、体重変容という変化のまっただ中にあった。そこに、上記の真木のフレーズが、あまりにもぴったりの布置の中で置かれた。「そんなの無理」と思い込んでいたダイエットという「特殊性」が、「いったんうがたれ」てみると、「やがて視覚を反転」しはじめた。無理だという思い込み自体が、「とざされた世界のなかに生まれ育った」「特殊性」そのものだ、と見え始めた。それまでの自分自身の信念体系が、もしかしたら「自足する」(=つまりは閉ざされた)「『明晰』の世界」なのかもしれない、という気づき。そして、それを「つきくずし、真の<明晰>に向かって知覚を解き放つ」ことが出来るかもしれない、という可能性の発見。自分が体験していたことが、先達の手によって言語化されている事に、驚き、喜んだ。それと共に、ダイエットというフィジカルな変容が、どうやら単なる身体変化を超える可能性があることに、このテキストから気づかされ始めた。
つづく