「心的現実」と枠組み外し (連作 外伝)

僕自身の思いも寄らない体重の10キロ減少と、その時期からシンクロニシティ的に生起し続けた、様々な「呪縛からの解放」のエピソード。魂の脱植民地化、という概念との出会いや、それによって明確になった宿命論的呪縛からの解放という、自らの生き方そのもののテーマ。そういう事を連作的に綴ってきた時に、まさにドンピシャ、の二冊と出会ってしまった。今日は自分のストーリーの記述、という正伝!?は脇に置いておいて、二冊の本から考えさせられた「外伝」を記したいと思う。

その二冊は田口ランディさんの『マアジナル』(角川書店)と『アルカナシカ』(角川学芸出版)。ともにUFOを主題にした小説とノンフィクション。前者は現実に近い何かを虚構の枠組みの中に示しているのに対して、後者は「トンデも話」と思われる世界をノンフィクションで描く陰陽図。二冊で一つ、の世界観、である。この二冊を読む前に偶然手にしたダ・ヴィンチの、小説『マアジナル』に関するインタビュー記事で、著者はこんな風に書いていた。
「実は今回、同じテーマを扱ったノンフィクションを同時期に出版する予定になっています。こちらのほうはもう少しわかりやすい構成になっていますので、この小説を読んで、あまりにもわけがわからないと思う人は、そちらを解説書として合わせて読んでいただくといいと思います。そうすれば、多少は途方にくれなくて済むかもしれません(笑)」(ダ・ヴィンチ 7月号 p45)
この週末に二冊とも読み終えた僕の実感は、著者の発言とは全く逆だった。
確かに『マアジナル』は、UFOとの遭遇や様々な現実と異界との境界(マアジナル)な話が出てきて、しかも各章が別の登場人物の声に基づく「多声的ストーリー展開」ゆえ、どこに持って行かれるかわからない不確かさと、その内容の迫真性故の鳥肌感、ドライブ感がある。だが、それでも「フィクション」という枠組みの中に収まっていて、「これは物語だから」というコード内での進行なので、すっと入ってくる。むしろ、『アルカナシカ』というノンフィクションの方が、一般の読者には拒否的反応を示す人が多いのではないか。それは、『マアジナル』の中では、あくまでも登場人物の「心的現実」を、そのものとして物語化していく展開ですんだが、一方の『アルカナシカ』は、UFOや神秘体験などの「心的現実」と、著者を含めた「それを感じられない私たち」を対置させて進めていく。一見わかりやすい構成のように見えるが、著者自身の「心的現実」自体が変容していく過程に、常識や客観という枠組みに固着している人は、途中でついて行けなくなるのでは無いか、と。むしろ、『アルカナシカ』の方が、「途方に暮れる」読者が出てくるのでは無いか、と。まあ、それも織り込み済みでの上記の発言なのかもしれないが。
なぜそう思ったのか。そして僕自身の経験とこの二冊がどう結びついているのか。以下ではそれを書いてみたいのだが、小説の種明かしになってしまうのは一番興ざめなので、以下は『アルカナシカ』だけを題材に取り上げてみたい。
このノンフィクションで、今の時期の僕と感応したのは、繰り返し出てくる次のような主旋律である。
「自分の頭脳が理解できないことに関して、中学生もマスコミも知識人も、ほとんど同じであるということだろう。つまり『思考停止』である。(略) なぜこんなにも『意識の理解を超えたこと』に対して無策なのだ。」(p29-30)
「凄まじいまでにリアルなUFOや宇宙人と遭遇しても、たかがUFOでは、多くの目撃者はその行動様式を変更しません。生々しいまでの体験談と、彼らの思考様式の変化のなさのギャップが不思議な気がします。いったい体験とは何でしょうか。人間はやはりカントの言うように認識できるものしか認識できない。知らないものは認識できないのでしょうか。もしかしたら、まったく別の現象を、それを認識できないがために既成の概念を当てはめて認識しているだけなのでしょうか。だとすれば、私たちは新しい認識をどのように手に入れることができるのでしょう。そうやって、コペルニクス的転回をしたらいいんでしょうか。」(p56-57)
「私は自分が『感覚によって呪縛された奴隷』であることを、あの夜にはっきりと認識するに至った。私は支配されている。私は実はもっと自由なのだ。人は意識によって構造化されていないものを認識するのは困難である。だが、困難であるということに気づくべきだと思った。私たちは意識によって構造化されたものだけを認識し、その小さな箱庭で生きているのだ・・・ということに。」(p76)
UFOや神秘体験、オカルト現象などの大半は、科学的に証明できないけれど、その体験者の中では大きな「心的事実」として経験されたものである。それを二元論的に「ある/ない」で切り分けると、「そんなものは、ない」という一言で終わってしまう。これはデカルト的心身二元論の世界では扱いきれない領域である。それであるが故に、組織的に科学の世界からはネグレクトされてきた。以前のブログでも触れた『デカルトからベイドソンへ』を著したバーマンは、そのプロセスを「世界の脱魔術化」と名指した。その上で、ベイドソン的世界観や非線形の科学が焦点化しつつあるのは、「脱魔術化」された科学主義・論理実証主義に基づく計画制御でははみ出してしまう、しかし現実社会ではネグレクトすることの出来ない叡智であり、バーマンはその世界を「再魔術化」と呼んだのである。
ここで「再魔術化」について考え出すと大いに脱線して戻ってこれなくなるので、あくまでも『アルカナシカ』の問いかけるものとの関連性の範囲内でのみ議論をするのだが、田口ランディ氏の二冊の本が問いかけるのは、「脱魔術化」して追い出さされてしまった「何か」と、それを「心的現実」として感応する人々、その一方で「脱魔術化」体系を信じ切っていて、それ以外のものを一切ネグレクトしてしまう私たち、その境界(=マアジナル)を「ない」の一言で終わらせ(=思考停止させ)ていいのか、という問いである。UFOへの遭遇を「心的現実」として経験した人でさえ、脱魔術化の強固な枠組みへの疑いを無意識的に忌避し、「新しい認識」を拒否して、「思考様式の変化のなさ」(=信じているパラダイムへの強固な服従)自体を疑おうとしない。それは、「意識によって構造化されたものだけを認識し、その小さな箱庭で生きているのだ」というパラダイムや認識の境界(=マアジナル)自体を認識・意識する事への忌避でもある。以前ブログで触れたフレイレの言葉に戻るのなら、「宿命論的呪縛」の檻の中にいて、その檻を所与の現実だと思い、その檻そのものが自分の認知枠組みのリミッターである、ということに対して意識化されない、ということでもる。もっと言うなら、「脱魔術化」というのも、科学崇拝という一つの「魔術」である、という相対的な視点に立つ事への忌避でもある。
そう思うと、佐藤優氏が、「国家と神とマルクス」(角川文庫)の中で言っていたフレーズとも、大きく繋がってくる。
「絶対的なものはある。ただし、それは複数ある。」
19世紀から20世紀にかけての「脱魔術化」した世界において、産業革命から工業化社会に向けたブレークスルーを先導してきたのは、「脱魔術化」の中での規格化・標準化・画一化の流れであった。その中で、大量消費に耐えうる大量生産型ベルトコンベアシステムが確立された。標準化された医療は、誰でも一定のスキルを持てばある程度の病気は治せる、という意味で、かなりの修行やカリスマ的素質がないとなれないシャーマンを凌駕していた。ある時期までは。だが、20世紀後半の「脱工業化社会」の流れの中で、「脱魔術化」的な単純化・一元化では対処できない局所的な問題が起こり続けた。阪神淡路大震災、サリン事件、911同時多発テロ、イラン・アフガン攻撃、リーマンショック、東日本大震災・・・どれをとっても計画制御の範囲外にある、「想定外」の出来事だった。そういう想定外の事態の数々を前にして、「意識によって構造化された」「小さな箱庭」の中で安住していていいのか、という疑いが、そこかしこで起こっている。手触り感と安心感がある「小さな箱庭」。その内部にいて、「想定内」とか「想定外」とか、「今のところ安全性に問題は無い」という言説をを振りまきながら、様々な見え隠れする「箱庭」の外を、「みなかったことにする」日々を続けていていいのか。それより、脱魔術化を一つの枠組み(=限界、箱庭)であるとハッキリ認識し、その外に拡がる世界をも、認識の対象にして考えることこそ、本当の意味での合理的な生き方ではないか。合理的の理を、科学的客観性という「理」に限定していいのか。
断っておくが、田口ランディ氏はここまでは言っていない。上記はあくまでも、著者に触発された僕自身の「妄想」であり、「暴走」である。だが、ちょうど去年から今年にかけて、自らの認識の「小さな箱庭」の構造を客観的に眺める機会が与えられ、世界に関する手触り感そのもの、心的現実そのものが、少しずつ変容し始めている。その中にあって、『マアジナル』『アルカナシカ』の世界は、「それも、アリ、か」と思っている自分がいる。だから、研究者としての合理性や論理実証主義まで捨て去ろう、としてはいない。ただ、田口ランディ氏の次のアプローチに、すごく親近感を持っている自分が居る。
「体験を体験として伝えるためには、体験の上に薄紙をおいて、それを木炭でなぞって凸凹を浮かび上がらせるような作業が必要だ。体験そのものの輪郭を別の媒体を使って確認しなければ、他者の体験をなぞることは難しい。ではその薄紙とは何か。たぶん、私だろう。田口ランディという存在を他者の体験の上に置いて凸凹を浮かび上がらせるプロセス・・・。私にとって、それが書くという行為にほかならない。」(p158)
 
田口ランディという人は、様々な人との出会いの可能性に開かれている人である。肩書きや他者評価で無く、自分の腹の底で信じられる人か、という内的な基準で、様々な人々とつながり、関わっていく。その関わりの中から、彼女でしか見いだせない独特の「筋目」を見つけ出し、薄紙として、それを織り込みながら、作品として仕上げていく。
 
僕自身が様々な福祉現場に通いながら、へたくそだけれど、試み続けているプロセスも、薄紙という触媒としての、書くという関わりだったのだ、と、遡及的に思い始めている。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。