実家を出て、30年近く、ずっとアパートやマンションの借りぐらしである。そもそも、実家もマンションの一室だったので、一軒家に住んだことがない。なので、建築や家の本は「遠い存在」だと思い込んでいた。だが、優れた紹介役にかかると、ぐっと身近な存在として響いてくる。
「僕は建築家として、『人間と建築は二つで一つである』と考えています。こんなことをしたい、こんなふうに生きたいと思うことと、それを成し遂げる日々の生活空間、つまり建築は、いつもセットだからです。これらは決して切り離すことができません。建築について考えることは、自分の生き方について考えることと同じなのです。」(光嶋裕介『ここちよさの建築』NHK出版、p6)
確かに子どもが生まれてから、出張をほとんどなくした時期は、家にいる時間が格段に長くなった。当時は赤子をケアするのに必死だったが、ハイハイから一人立ちし、そして小学生となって宿題をするようになると、家の配置をどんどん変えて行った。なるべく家族三人で一緒に居られる空間と時間を作りたいと思い、居間に花を絶やさず、掃除機を毎日かけて、子どもが遊ぶのを見ながらパソコン作業をしたり、ご飯を作ったり、洗濯物を娘と一緒に片付けたり、してきた。この家のなかで娘や妻との日々を過ごす、という意味では、「人間と建築は二つで一つである」。
だが、借家の我が家は、アルミサッシ故に断熱性が低く、僕の仕事場は北向き&磨りガラスで外が見えないし、冬はものすごく寒いし夏は湿気がこもりやすい。光嶋さんの説く「ここちよさ」を目指そうとしても、そもそもソフトでは解決しないハードの問題が立ち塞がっている。それはどうしようもないものだと思い込んでいたけど、光嶋さんの本を読むと、なぜそうなるのかが、見えてくる。モダン建築の第一人者、ル・コルビジェが「身体と建築の調和する関係を求めて、普遍的な法則」として提示した「モデュロール」(p68)を指して、こんな風に説明している。
「私たちは、モデュロール的な考え方にすっかり馴らされてはいないでしょうか。さまざまなことを規格化すれば効率が上がり、大量生産が可能になります。建築においても、同じようなカタチの家、同じような無個性なガラス張りのビルがどんどん建っています。こうした風景は、そこに住まう私たちの姿であることを忘れてはなりません。」(p71)
モデュロール的な建築と言えば、ショッピングセンターやコンビニ、ファミレスのような、どこでも代わり映えのしない、効率化と規格化を徹底的に追求した建物のことが浮かぶ。基本的にそういう場は疲れるので、なるべく近づかないようにしてきた。だが、この光嶋さんの指摘を読んで、ふと考え込んでしまった。僕が半世紀近く住んできたマンション類は、すべてモデュロール的なものであった!と。京都の実家は僕が生まれた頃に大手デベロッパーが作り上げたマンション団地。その後、借りぐらしをしてきた山梨や姫路のマンションも、すべてモデュロール的な建物である。そもそも、他人に貸して稼ぐタイプのマンションは、そうすることで収益率の最大化を目指せるのだ。普段は効率化や規格化の弊害を説いている自分自身が、まさにそのような効率化と規格化の権化のような賃貸マンションに住み続けていたとは。「こうした風景は、そこに住まう私たちの姿であること」を、ぼく自身はすっかり「忘れて」、というか無自覚なままでいたのだ。なんというお間抜け!
「しかし、私たちはモデュロールではありません。一人ひとり異なる身体をもった個別の人間です。身体が個別であるということは、感覚も感性もまた個別であるということです。自分には自分の環世界があり、人と比較する必要などないのです。
では、私たちはどうすれば自分の環世界を自覚できるのでしょうか。そのためには、自分が外の世界をどのように感じ、自分がどんな空間をここちよいと感じるのかを、自分の身体を通して経験するほかありません。あらゆる感覚の中かから自らのここちよさを発見する。外の世界に対しても内なる自分に対しても、感覚を開いていくことが自分のここちよさにつながると僕は思っています。」(p72)
光嶋さんは、合気道凱風館の門人である。僕もこの4月から凱風館に入門させて頂いたので、稽古仲間でもある。彼は、合気道を通じて、身体感覚の感受性を豊かにしてきた、と述べている。そして、この「外の世界に対しても内なる自分に対しても、感覚を開いていくことが自分のここちよさにつながると僕は思っています」というのは、すごく大切なことだと、ぼく自身も思う。
たとえば道場を変えることによって、ぼく自身の環世界は大きく変わりつつある。凱風館では、呼吸法をものすごく大切にしている。光嶋さんのパートナーの永山さんが主催される高砂道場の稽古に、4月から娘と通っているが、彼女の呼吸法は本当に美しく、柔らかく、深い。その呼吸法を娘と共に学ぶ中で、「自分が外の世界をどのように感じ、自分がどんな空間をここちよいと感じるのかを、自分の身体を通して経験」させてもらっているのだ、と感じる。そして、それが「ここちよさ」を自覚するプロセスであり、自分が何を「ここちよい」と感じるのかを気づくプロセスそのものが、他者と異なる自分自身の唯一無二性に気づくプロセスなのだとも感じる。僕はいま、50近くになってやっと「感覚を開く」練習を始めたばかりなのかもしれない。
その上で、光嶋さんは「ここちよい住まいのつくり方」として「七つの条件」を掲げている。すべてを紹介したらネタバレになるので、特に今の自分に刺さっているいくつかの条件をご紹介したい。
「窓が切り取る外の風景に変化を与えてくれるのは、光です。第2章で述べた『建築の美しさの主役は光である』という話を思い出してください。季節の移ろいや日常の小さな変化を感じることができるのは、窓から入ってくる光のおかげなのです。」(p93)
京都の実家はマンションの11階で、桂川の近所だったので、南側の和室から、桂川の川の流れを眺め続けてきた。確かにその光は本当に日々変化し、季節の変化や一日の変化を光で感じることが出来た。ごく何気ない風景なのだけれど、言われてみたら、あの光の移り変わりを日々感じられたのは、実に贅沢だったのだと今になって気づく。だからこそ、書斎の窓が磨りガラスなのは本当に残念で、光の移ろいが感じられないのは、感覚遮断そのものなのだな、とも気づかされる。
「チューニングされた本棚は、生きた本棚だと言えます。生きた本棚は、物理的に本がよく動く。本を置く場所が変わったり、並べ替えられたり、手で触れられることで本棚は生き生きします。
そもそも、本に囲まれていると、もっと知りたいという学びへの渇望が発動するものです。まだこれから新たに読むことができるという無限の可能性にワクワクします。」(p97)
これもよくわかる話だ。我が家でも研究室でも、たまに本の入れ替えや間引きを行う。そして、並べ替える。すると、本棚に息吹が流れ、新たなエネルギーがわいてくる。自分の中で放ったらかしにしていた興味関心が賦活され、あれとこれが関連しているかも、とか、アイデアが豊かに湧き出す。
逆に言えば、それを怠って本棚に乱雑に積み重ねているうちに(それは机であっても同じなのだが)、エントロピーはどんどん積み重なり、乱雑さや混沌が最大化していく。それは、頭の中身の乱雑さの増幅と軌を一にしている。ただ、我が家は本棚の数が制限されているし、本を買いまくるので、整理に限度があるのが、最近の現状だ。一部分はチューニングされていても、本棚全体のチューニングにはたどり着かない。このあたり、収納スペースを増やす、だけでなく、適切に本を間引きするなど、「ここちよさ」を維持する努力がもっと必要だと、改めて感じさせられる。
そして、「他者を招く」ことの効用も光嶋さんは説く。
「他者を招くことのいいところは、他人の目という別の視点で自分の空間を認識できるところです。他者の視点によって自己が変容し、さらに他者にもその変化が伝播する。連鎖する相互作用、それもここちよさの一つなのです。」(p101-102)
これも深く納得する。他者を招こうとすると、一定程度片付けなければならない。そのプロセス自体が、「他人の目という別の視点で自分の空間を認識」するプロセスなのだと思う。そして、それ以上に面白いのは、「他者の視点によって自己が変容し、さらに他者にもその変化が伝播する。連鎖する相互作用、それもここちよさの一つ」だと光嶋さんが述べている部分である。自分の感覚や認識を開き、他者を招き、そのプロセスの中で、自己認識が変容し、その変化が他者にも伝わる。そういう「連鎖する相互作用」のなかで、「ここちよさ」が動的に形成されていく。お招き頂いて楽しいのは、そういう「連鎖する相互作用」が働いている空間だからだ、と気づかされる。
「2時間で読める教養の入り口」というシリーズなので、確かにサクッと読めた。でも、余韻が深い。それは、自分自身が「住まい」とどんな風に向き合えば良いのか、の感受性が、読書体験の中で開かれていったからである。ずっと借り暮らしだったので、そろそろ家がほしいなぁとか、今から買うなら中古でリフォームするしかないなぁ、とか、色々な妄想が、この本を通じて浮かんでくる。そういう意味で、この本は実に読み応えのある一冊だった。
(あと、どうでもいいけど、彼が集中する際にはキース・ジャレットを聴いている、と書いていて、彼との共通点がまた一つ見つかった。僕のフェイバリットはGod Bless The Child。あのうなり声が、いいんだよね)