「自国の異邦人」の理解社会学

積ん読になっていた話題の書、『壁の向こうの住人たち:アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』(ホックシールド著、岩波書店)を読む。ホックシールドは、客室乗務員やケア労働者などが自らの感情をマネジメントする事が職務の一つになっている、という「感情労働」概念を作り上げただけでなく、共働き労働者が会社の論理に呑み込まれていく『タイムバインド』など、優れたエスノグラフィーを書き続けた社会学者である。その彼女が、トランプが大統領になる直前の、ティーパーティー運動が盛んだったアメリカ南部を何度も訪問し、「アメリカの右派」の一般市民と友人になりながら、彼ら彼女らの話に耳を傾けていく。そこから見えてくる世界を描いた、優れたエスノグラフィーである。

この本の原題はStrangers in their own landと書かれている。「自分の国にいる異邦人」というタイトルは、訳書のタイトルと重ねると、クリアに見えてくる。アメリカでは右派の共和党と左派の民主党、だけでなく、北部と南部、など様々な「壁」があり、その向こう側の住人たちは「自分の国にいる異邦人」に見える。それだけでなく、この本の副題(これは原題も変わらず)にある「アメリカの右派を覆う怒りと嘆き」とは、ティーパーティーに集まる白人の中高年齢者保守層が、自分自身のことを、「自分の国にいる異邦人」だと見なしている。政府のことが信用できない。そんな中で、自分たちの感情を鼓舞してくれる右派に傾いていく、そんな心情倫理の内在的論理を描いていく名作である。

例えば不動産管理会社で会計士として働いているジャニースのことを、以下のように描く。

「ジャニースの仕事観は、より大きな道徳的規範に根ざしている。その道徳観は、アメリカンドリームをめざす列の前後に並ぶ人々に対する彼女の感情を形づくっていた。『懸命に』というのが重要だ。適性や報償、成果以上に、勤勉は自尊感情をもたらしてくれる。それは、清く正しい生き方を貫いて教会に通っていれば、おのずと備わるものだ。列の前に割り込む者は、こうした信条を持たないのだと、ジャニースは感じている。リベラル派—列に割り込む者を産みだした社会運動に関わる人々—は、よりルーズで不明瞭な道徳規範を共有しているにちがいない。リベラル派は、たぶん、教会に所属していないから、個人の倫理観そのものをきちんと認めないのだ。(略)ジャニースがたいせつにしているアメリカの一部は、いま国家という荒波に勇敢に抗う小さな防波堤のようにしか見えない。アメリカンドリームそのものが、奇妙で、非聖書的で、過度に具体的で、尊厳に欠けたものになってしまった。辛抱強く列に並んでいるジャニースは、自分の国にいながら異邦人のような気持ちを味わわされている。古きよきアメリカを守る唯一の砦は共和党なのである。」(p224-225)

なるほど、アメリカンドリームは、聖書的な希望だ、と理解すると、色々つながってくる。「懸命に」働くこと、という勤勉さが聖書的であり、その聖書的な働き方をしながら、夢を手に入れる「列に並ぶ」白人労働者たち。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で描いた、禁欲的なプロテスタントの論理そのものである。懸命に働けば夢がつかめると信じてきたのに、どれだけ働いても給料は良くならないし、会社からレイオフされる危険性もある。それはおかしい。「辛抱強く列に並んでいる」のに、「自分の国にいながら異邦人のような気持ちを味わわされている」。

それの原因はなにか、そう考えたときに、思い当たることがある。「リベラル派—列に割り込む者を産みだした社会運動に関わる人々」は、このアメリカンドリームの「列」を乱してきた。アファーマティブ・アクションなどを通じて、黒人や移民、障害者、女性・・・などマイノリティに対して、学校や職場での優先枠を作った。これは、「懸命」に働いている白人労働者からすれば、「列に割り込む者を産みだした社会運動」であり、非聖書的なものに映った。それを「国家という荒波」が助長している。環境保護やアファーマティブアクションに税金を沢山投入するのは、アメリカンドリームの列をかき乱す「荒波」であり、辛抱強く列に並んでいる白人労働者にとっては、余計なこと以外の何物でもない。そういう余計なことをしなかったのは、古き良きアメリカであり、それを支持するのがティーパーティーや共和党右派なのだ。かつて、民主党員だった労働者たちがこぞって右派転回するのは、ティーパーティーが自らの心情倫理を適切にすくい上げてくれている、と感じるからである。

そして、「懸命に働けばアメリカンドリームを手に入れられる」という心情倫理は、「構造的忘却」をもたらす。ホックシールドがフィールドワークをしたこの本の舞台はアメリカ南部、ルイジアナ州レイクチャールズ市なのだが、ここは全米屈指の重化学工業地帯であり、汚水や危険物質の河川への廃棄や投棄、地下の空洞への埋設などで、その自然がズタズタに破壊され、環境破壊がひどい。だが、住民達は、その環境汚染についてはみんな口をつぐんだり、見ないようにしている。熱心に教会に通うジャッキーに聴いたことを、こんな風に記述している。

「『この町全体が石油で動いていますのでね。だからわたしは、工場に勤めている人の奥さんふたりと話が出来るんです。ふたりとも、政府の規制は、雇用の悪化を招いたり、工場の新規進出を妨げたりすると考えています。危険のことは触れたくないんです。だって、あの人達がそういう仕事をしていることを非難したように聞こえますもの。傷つけたくないんですよ』
またもや、黙して語らず。多くの工場労働者は板挟みに陥っている。地元のカルカシュー・ロッド・アンド・ガン・クラブ(釣りと狩猟の同好会)の熱心なメンバーであり、野生動物をこよなく愛している彼らは、環境汚染については罪悪感をいだいている。しかし工場の従業員としては、口をつぐむ義務を感じているのだ。ジャッキーもヒースも、そうした気持ちを尊重して黙っている。」(p251)

この本に出てくる、ホックシールドが友人となった、ティーパーティーに関わるルイジアナの白人労働者家族は、たぶんお友達として出会ったら、ふつうに「いい人」なのだと思う。だからこそ、カリフォルニアのバークレーという、民主党のメッカ!から舞い降りた白人女性のホックシールドだって、主義主張の違いをわかりながらも、受け入れてくれた。そして、幼少期はザリガニ釣りや魚釣りを楽しむ、アメリカの田舎を満喫した経験をホックシールドに語ってくれた。だが、石油産業に依存し、それしか工業がないとなると、環境汚染については罪悪感があるけれども、懸命に働く職が奪われては元も子もなくなるので、「口をつぐむ義務を感じる」。そして、そういう友人や教会仲間と繋がっているので、地元の人は「黙して語らず」となる。恐ろしいほどの環境汚染や事故が起きても、その責任を原因企業に求めたり、規制を強化するような連邦政府や州政府の環境保護政策を敵視し、逆に自分たちの税金をそういう企業の誘致に湯水のように使う政治家を応援する。そのことは、ジャッキーの次の発言に象徴されている。

「わたしたちは資本主義のために、環境汚染という犠牲を払ったんです」(p255)

資本主義を擁護するためには、環境汚染という犠牲は仕方ないし、ましてや政府が環境汚染対策のために公金を投入するのは許せない。自分が環境汚染されている地域で暮らすにもかかわらず、自分の生活環境を破壊する大企業を擁護する。一見すると論理的に見えず、ホックシールドもこの問いは難問だったが、フィールドワークを重ねるうちに、徐々にある構図が見えてきた。

「わたしは何度も首をひねった。なぜこんなに問題が山積みなのに、それを軽減してくれる連邦政府のお金をあんなに疎んじるのだろう、と。これらの疑問は、経済的利益を重視したものだった。経済的利益がまったくの無関係であったわけではないものの、わたしは、感情的利益—自国にいながら異邦人であるという感覚からの、めくるめく解放感—がきわめて重要であることを発見した。
政治的に正しい感じ方のルールから解放され、似たような考えを持つ強力な多数派の一員である、という高揚感、“ハイ”な気分を一度経験すると、多くの人は、この高揚感にいつまでも浸っていたくなる。そのために、彼らは異論を退ける。肯定を求める。わたしが話を聞いたある女性は、六時間ものあいだずっとトランプのことをとうとうと話し続けた。想定されうる批判を先取りして反論し、疑問を差し挟む余地をいっさい与えなかった。そんなふに盾でかばうようにして話をしたのは、自分の高揚感を守るためだったのだろう。」(p324)

大企業によって、自分たちの生活環境が汚染されている。また、大企業のロビイストが政治家に働きかけ、州政府や連邦政府の環境規制の法制度を規制緩和し、企業誘致の名目で、大企業の法人税を減税したり、建設費補助に莫大な税金を投入する。これらを「経済的利益」の観点でみるなら、全くの損失である。そして、リベラル派からみれば、なぜルイジアナの住民達は、このような「経済的利益」の損失をゆめゆめ放置しているのか、が理解出来ない。

だが、南部の白人労働者階級は、「アメリカンドリームという列に並ぶ」のを黒人や移民、女性などに割り込まれたと感じている。アメリカの産業衰退も伴って、自分たちの夢が実現出来そうにない。経済的利益が今後あまり得られなさそうな現実において、「自国にいながら異邦人であるという感覚からの、めくるめく解放感」としての「感情的利益」は、「経済的利益」と違ってすぐに獲得できるし、高揚感ももたらされるので、一度経験したらやみつきになる。そして、「カウボーイ頭」(p324)であるトランプの口から「偉大なアメリカを取り戻す(Make America Great Again)」という呪文を唱えられたら、その感情的利益=異邦人性からの解放やアメリカンドリームの再来に心を躍らされる。それが、ティーパーティーからトランプ旋風にいたる原動力になってきたのだ。

そして、ホックシールドは、経済的利益より感情的利益を求める白人保守層を生みだしたのは、リベラル派でもある、という。

「私が話をした人の大半と同様、ダニーも、自分が犠牲者だとは思っていなかった。そういう言葉を使うのは、自分を『かわいそうなわたし』と哀れんで政府のお情けにすがろうとする輩だけだ。『犠牲者』という単語はしっくりこないようだった。実際、彼らは、犠牲になったというリベラル風の解釈に立ってものを言うこと自体を批判する。しかしわたしは、ルイジアナ州南西部に暮らす年配の白人保守層—チームプレイヤー、信奉者、カウボーイ—は紛れもない犠牲者だと思う。彼らは産業システムの負の部分を、精いっぱい虚勢を張って引き受けている。そしてリベラル派は、規制が行き届いたきれいな環境の遠く離れた“青い州”で、そのシステムの恩恵を享受しているのだ。」(p271)

「産業システムの負の部分を、精いっぱい虚勢を張って引き受けている」アメリカ南部の工業地帯の労働者階級と、「規制が行き届いたきれいな環境の遠く離れた“青い州”で、そのシステムの恩恵を享受している」東部や西部のアッパークラスのリベラル派。この構造的差異を受け入れることは、「犠牲者」と認めることであり、「自分を『かわいそうなわたし』と哀れんで政府のお情けにすがろうとする輩」に成り下がりたくないから、それは選ばない。「虚勢を張って」でも、自分たちの感情的利益を守ろうとする。そして、その虚勢に基づく感情的利益をティーパーティーの人々が享受している一方、規制に守られた民主党の地盤では、リベラル派は住環境が保護され、南部の重化学工業地帯で作られたプラスティック製品を使って便利な生活をする、という意味で、経済的利益を得ている。

このような対立は、超富裕層への異議申し立てをしたオキュパイ・ウォールストリート(ウォール街を占拠せよ)の運動との対比として、以下のように語られる。

「今日の右派にとって、主たる戦場は、工場のフロアでも、オキュパイの抗議活動でもない。ディープストーリーの中では、地元の社会福祉事務所や、受け取るに値しない者に障害年金やフードスタンプが届けられる郵便受けがそうした闘いの場なのだ。やる気のない怠け者に給付金を支給している。これほど不当なことはないと思う。オキュパイの活動家たちにとって“不当”とは、財源が“正当に分配”されず、適正に配分された社会が実現していないという、モラルの問題だ。しかし右派の人々のディープストーリーの中では、税金を“払う者”とそれを“奪う者”という文脈で、“不当”が語られる。つまり、左派の怒りの発火点は、社会階層の上部(最富裕層ととその他の層とのあいだ)にあるが、右派の場合はもっと下の、中間層と貧困層の間にあるわけだ。左派の矛先の矛盾は民間セクターに向けられるが、右派の場合は公共セクターである。皮肉なことに、双方とも、まじめに働いたぶんの報酬をきちんともらいたい、と訴えている。」(p212−213)

アメリカの南部白人保守層は、アメリカンドリームを夢見て、聖書を信じて、懸命に働いてきた。そんな彼ら彼女らにとって、超富裕層は、夢の体現者であり、憧れの的である。彼らが税金を納めていない、脱税をしていても、そもそもそれも自助努力の末にお金を有意義に使っている、と見なされる。一方、自分の税金をかすめ取ると右派には見える、生活保護受給者や障害年金の不正受給は許せない。税金を“払う者”として、それを“奪う者”が許せないのだ。それは、中間層と貧困層の争いだけでなく、公教育や公的セクターそのものが「税金を奪う」存在と信じられている。超富裕層が所得の再分配に応じないこと、所得税も法人税も減税するように政治家に働きかけることは、左派からみたら由々しき“不当”な行いにみえるが、政府を信用せずアメリカンドリームを夢見るカウボーイ的白人保守層にとっては“正当”な自己防衛に見える。「まじめに働いたぶんの報酬をきちんともらいたい」という訴えが元になるが、左派は超富裕層や大企業を攻撃し、右派は公共セクターと貧困層を攻撃する。同じ国にいながら、全く違う論理が、どちらも内的合理性を持っているのだ。

そんな「自分の国にいる異邦人」の友人とたくさん出会い、彼ら彼女らの話を聴き続けたホックシールドは、最後に、リベラル左派の友人に手紙を送るとしたら、こんな内容になるだろう、と書く。

「あなたはこう思っているかもしれない。右派の組織作りを進める有力者たちは、自分たちの金銭的な利益を追求するために、一般の右派支持者の心に巣くう悪魔—欲、利己主義、人種的偏見、同性愛恐怖、恵まれない人のために使われたくないから税金を払わずにすませたいという欲望—に訴えかけ、彼らを『ひっかけ』ようとたくらむのだ、と。私がニューオリンズのトランプ支持者の集会で見た限りでは、たしかにそうしたアピールはいくらかおこなわれています。しかしそれが目立つがために、右派の人々の別の一面—どんなに不安な経済状況でも列に並んで待つ辛抱強さ、忠誠心、自己犠牲、忍耐力—が見過ごされているのです。ディープストーリーを生きる彼らの、天使のような心が。
もし彼らと同じような状況におかれたら、あなたも同じような見方をするようになるかもしれません。その可能性を考えてみてください。」(p331)

「もし彼らと同じような状況におかれたら、あなたも同じような見方をするようになるかもしれません。その可能性を考えてみてください」というのが、これぞ、「他者の合理性の理解社会学」そのもの、なのである。相手をバカだ、非合理だ、悪魔だ、非理性的だ、と糾弾しない。そうではなくて、相手の中にある良い部分である、「どんなに不安な経済状況でも列に並んで待つ辛抱強さ、忠誠心、自己犠牲、忍耐力」を、話をしながらじっくり理解する。そして、そのような良い部分が毀損されている、という彼らの認識を、そのものとして受け止める。だからこそ、自らの誇りやプライドを取り戻したい、という感情的利益を再度得るために、経済的利益を度外視しても、列に割り込む黒人や移民が悪だ、という「ディープストーリー」に浸りたくなるのだ。

最後に、この「ディープストーリー」についてのホックシールドの解説を引く。

「ディープストーリーとは、“あたかもそのように感じられる”物語のことだ。シンボルという言語を使って、感情が語るストーリーなのだ。そこからは良識に基づく判断は取り除かれている。事実も省かれている。物事がどのように感じられるかのみが語られる。そのような物語は、政治的対極にある者同士が一方後ろに引いて、たがいに相手がどのような主観のプリズムを通して世界を見ているかを探索する機会を与えてくれる。わたしは、そのような探索を経なければ、左だろうが右だろうが、他人の政治観は理解出来ないと考えている。なぜなら、わたしたちは誰もがみんななんらかのディープストーリーを持っているからだ。」(p191)

事実や経済的利益よりも、“あたかもそのように感じられる”という感情的利益を重視した物語。それがディープストーリーである。主観のプリズムを通じた世界観であり、右派であろうと左派であろうと無党派層だろうと、「わたしたちは誰もがみんななんらかのディープストーリーを持っている」。そして、事実や論理を整理して、こちらの方が正しいとか、こう考えることが良識だ、と主張しても、別の主観のプリズムを通じて、経済的利益より感情的利益を優先するならば、その事実や論理、良識は受け入れられないこともある。それは自分の“あたかもそのように感じられる”という実感と異なる事実や論理、経済的利益だからだ。だから、超富裕層より貧困層がズルいと感じるし、危険物質を垂れ流す企業より環境汚染を規制する政府の方が役立たずだと感じるし、「列に並んで待つ辛抱強さ」を馬鹿にするリベラル派は許せないのだ。

そして、「他者の他者性」を理解するとは、「ディープストーリーを生きる彼らの、天使のような心」を理解する事だと、左派のホックシールドは友人や読者に伝えようとする。相手のディープストーリーを理解するプロセスを通じて、それとは違う己のディープストーリーをも理解する必要がある。そして、二つの物語の違いには、どのようなシンボルという言語が使われているのか、いかなる感情が語られているのか、を分析する必要がある。これが、経済的利益の分析ではなく、感情的利益の分析に必要不可欠である。それこそ、感情労働を一貫して研究の柱にしてきたホックシールドの分析枠組みがしっかり見据えられている。

これは、アメリカだけで使えるレンズだとは思えない。米軍基地や原発被災地などで、価値観が分かれている沖縄や福島、だけでなく、例えば選挙では維新が圧勝するけど都構想は否決された大阪など、日本国内でも「壁の向こうの住人たち」を理解する必要がある。そのディープストーリーに耳を傾ける必要がある。そんなことを気づかせてもらった労作だった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。