映画「どうすればよかったか?」をやっとみた。(今日のブログは映画のネタバレあり!です)
両親が医師で研究者でもある、というエリート家庭で育った藤野雅子さん。親の期待を一身に背負い、4度目でやっと医学部に入学する。そして、在学中に統合失調症らしき状況に陥り、救急車で父の教え子のいる精神病院に運ばれるものの、翌日には「彼女は病気ではない!」ときっぱり言い切る父が連れて帰る。以後25年間、精神科を受診することなく、家に閉じ込められた状態だった。その姉のことがずっと気になっていた8歳下の知明さんは、「研究者の父と母は偉そうに理屈を言うが、姉に対し無力で事実をかくす嘘つきだと感じた」(パンフレットp5)という。彼は、研究者の夢を捨て、映像学校に通ったあと、2001年からずっと家族3人を被写体にカメラを回し続ける。そして出来上がったのが、本作である。
知り合いが何人もみて、色々な感想を教えてくれた。でも、僕は見る踏ん切りがつかなかった。それは、「家の中で鍵をかけて閉じ込めている」「25年間の未治療」・・・といった前情報でうんざりしていて、わざわざしんどい気持ちになる映像を2時間も見てられるだろうか、が不安だったからだ。ただ、精神医療に詳しい友人たちが「モヤモヤするけど、見る価値はある」と教えてくれたので、ようやく重い腰をあげた。
で、見てどう感じたのか。それは友人の評価と一言一句変わらない。「モヤモヤするけど、見る価値はある」という感想である。
まがいもない本物の「家族の葛藤と修羅」が描かれていた。
幻聴や妄想に支配されたのか、独自の世界について語り続ける雅子さん。それに対して、医師の父母は、幻覚妄想を聴いてはいけない、というその当時の医学教育を踏襲してか、彼女のしんどい言葉や叫びにまったく応答しようとしない。でも、毎日ご飯を作り、食事を囲み、彼女を「まともな人」であると思って付き合おうとしている。見ているようで、見ていない。聴いているようで、聴いていない。退職後立てた都市郊外の立派な外見の邸宅の中で、夫婦で研究所を作り、医学部を卒業して家の中にいる娘を手伝わせていた、という。彼女の葬式の際、父は娘と一緒に書いていた論文を棺に入れた。あくまでも、彼女を「親が想定するまともな人」の枠の中で捉えて、それ以外の部分は「見て見ぬ振り」をしているように見えた。
にもかかわらず、雅子さんは強烈な存在として、あの家の中で存在した。嵐を避けるかのように歯を食いしばってじっと様子をうかがっているか、と思えば、饒舌に「あちらの世界」からの呼びかけに応答している彼女がいる。時には叫び、苦しいことを伝えようとする。その映像を見ると、幻覚妄想に支配された「あちら側の人」に一見思える。以前の僕なら、そう思い込んでいたかもしれない。でも、どんなにしんどい時でも、叫んでいる時でも、「お茶あるよ」という声かけに一瞬応答したり、黙り込んで自分の世界にこもっているように見えるときでも、カメラ越しの知明さんをちらっと見ている雅子さんがいた。つまり、彼女は「あちらとこちら」を行ったり来たりしながらでも、強烈に存在していたのである。それを、知明さんはずっと捉えようとしていた。その一方で、父と母は、見ようとしていなかった。
そして、母が認知症になり、父は母も娘も一人で支えきれないと思って、やっと知明さんの提案に応じ、精神科への入院を決断する。三ヶ月で合う薬が見つかり、家に帰ってきた際には、「あちら側の人」の部分がずいぶんなりをひそめ、「こちら」の世界で生き始めた。母が亡くなった後は、朝食を作るようになり、買物や宝くじを買いに行き、好きなタロット系の買物もし、父と知明さんと三人で旅行にも出かけた。25年分の青春を取り返すように、少しずつ、生活を楽しみ始めた。正直言えば、彼女のこのリカバリーの部分が映像に入っていたから、この映像は、何とか最後まで見ることが出来た。
で、知明さんは、この映画を、姉の統合失調症の発病の原因を探ったり、両親を糾弾することが目的で作ったのではない、という。だからこそ、僕もそれはしない。彼はパンフレットにこうも書いている。
「我が家は統合失調症の対応の仕方としては失敗例でした。
現在は統合失調症を発症しても通院しながら仕事に就いている方々の話も聞きます。
医学の助けを借りることはもちろん、家族会や専門家、書籍、ネット、色々な助けがあります。隠したり、閉じ込めたりしたら、その先は袋小路です。それだけは確かです。」(p8)
そう、知明さんが書くように、「隠したり、閉じ込めたりしたら、その先は袋小路」なのだ。その家族の修羅や葛藤を、彼は隠さず、閉じ込めることなく、「どうすればよかったか?」という映像として私たちに示してくれた。
「私はどうすべきなのか、25歳くらいで自分なりに答えを出しました。
まず事実を受け入れて、次に解決のための行動をとる。
しかし両親を説得し姉を受診させるまでに25年もかかってしまったのはあまりに長すぎました。
もっと良い方法はなかったのか、今も自問しています。
このタイトルは私への問い、両親への問い、そして観客に考えてほしい問いです。」(p8)
ここからわかることは、医師で研究者の両親は雅子さんのしんどい状況を、そのものとして「事実を受け入れ」ることが出来なかった。そして、おだてて医師免許を取らせようとさせたり、それが無理なら家の中で一緒に研究をしたが、「解決のための行動をとる」ことを頑なに拒否した。知明さんはその状況を理解しながら、息子・弟という「立場」で、一人で状況を変えることが出来なかったのだ。
この映画評で、オープンダイアローグを実践する医師である斎藤環さんはこんな風に述べている。
「「ぼくならどうするか?」は言える。僕はお姉さんと「対話」してみたかった。誰からもスルーされた意味不明な話題に食いついて、理解できそうな断片を掘り下げたり、どこがわからなかったか感想を伝えたり、すれ違い続ける対話に家族みんなを巻き込みたかった。それができると強く感じた。」
僕もこれに強く同感する。
雅子さんは、「あちらの側」のエネルギーに強く巻き込まれている時でも、「こちらの側」との接点は確実にあった。カメラを向ける知明さんを認めていた。だからこそ、彼女がその状況でどう苦しくて、どんな風に感じているのか、その声を聴いてみたかった。話すまで待ってみたかった。知明さんは書いているが、「母は私が姉に話しかけても姉の代わりに答えることがしばしばありました」(p5)そうだ。お母さんに奪われる前の、彼女の声が聴きたかった、というのは、僕が映像を見ていていも、強く感じた。
そして、知明さんがカメラを持って果敢にチャレンジしたことは、カメラという「第三者」を持ち込んで、「すれ違い続ける対話に家族みんなを巻き込」もうとする努力だった。でも、知明さん一人とカメラだけでは、医者であり研究者という親の圧倒的で時に抑圧的な、有無を言わせぬパワーに対抗しきれなかった。そして、母が認知症になる、という形でパワーを失いかけるまで、状況が25年続いたのだ、ともいえる。
「どうすればよかったか?」を僕は軽々に言う気にはならない。
でも、これからの社会で、雅子さんと同じような状況に合っている人と出会った際、「これからどうすればよいか?」は言える。それは、家族以外の第三者を巻き込んだ対話をしていくことである。「すれ違い続ける対話に家族みんなを巻き込」みながら、袋小路の回路を開くことである。
雅子さんが発病した90年代とは異なりオープンダイアローグやACTなどが、日本でも展開され始めた。以前紹介した近田真美子さんの『精神医療の専門性—「治す」とは異なるいくつかの試み』(医学書院)の舞台であるACT-Kのようなチームが藤野家に関わることができれば、雅子さんの苦悩、だけでなく、父や母の孤立や頑なさ、にも別の視点から関わる事が可能だ。そういう意味では、入院させることなく、地域の中で、25年後に雅子さんが笑顔で暮らしていたような支援が、今では日本でも可能なのだ。だからこそ、「これからどうすればよいのか?」の可能性が、既にそこかしこにある。
そのことを言語化しておきたくて、今日のブログを書いた。いずれにせよ、やはり見て良かった映画だった。