あかんもんは、あかん

今般起きた、障害者施設における連続殺人事件は、障害者への憎悪に基づく虐殺、という意味では、ヘイトクライム(憎悪に基づく犯罪)である。これは、絶対に許してはならない。「あかんもんは、あかん」のである。そのことについて、いくつか述べておきたい。

容疑者は、「障害者はいなくなったほうが良い」とか、「重度障害者は安楽死した方が良い」と言っていた、という報道がある。この発言を聞いて、二つの事を思い出していた。

先週の金曜日、渋谷で映画を見た。「風は生きよという」というドキュメンタリーである。呼吸器を付けて暮らしている「重度障害者」とカテゴリー分けされる人々の日常を追いかけたドキュメンタリーである。この映画は元々見たかったのだが、その主役のお一人で、『まぁ空気でも吸って』という素敵なを書かれている海老原宏美さんのアフタートークも聞きたくて、渋谷まで出かけた。

海老原さんはトークの中で、この映画の主人公として「撮られる側」になった理由として、尊厳死法案の存在を挙げていた。この尊厳死法案では、終末期医療にある人が、自己決定に基づいて、延命治療をやめることを医療がサポートすべきかどうか、が論じられている。海老原さんは、一度そのような法律が出来ると、人工呼吸器を付けなければ生きる事ができない人は、「延命治療してまで生きる価値があるか?」を問われる対象になるのではないか、と危惧する。その際、非常に気がかりな事を口にしていた。

「この国では、迷惑をかけて生きる、という事に対して、否定的です」「私たちは、そんなに迷惑を掛けていますか?」

そう、日本社会の文化的規範として、「他人に迷惑をかけてはいけない」というのは、ものすごく強い呪縛として、現代日本でも機能していると感じる。これは、ゼミ生と議論をしていても、感じる。「人様に迷惑を掛けないよい子でいなければならない」というルールを守ることを、自分のしたい事にチャレンジする事より上位に置いている学生達が少なくない。そして、個性を去勢化し、同調圧力に従って、同じような振る舞いを必死にして、疲れていく。

そして、この「迷惑を掛けてはいけない」という呪縛は、「他人に迷惑を掛ける存在は、あってはならない」と、容易に転化する可能性があるのではないか、という海老原さんの問いかけは、決して妄想ではない。現にそれを「実践」した国がある。それが、ナチスドイツである。

たまたま昨日の「福祉社会学」の講義で議論するために、『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』という分厚い一冊を読んでいた。この本に書かれていた事を簡単に要約すると、当時のドイツではアーリア人の優秀性を担保・根拠付けするために、公衆衛生にも力を入れていた。その中で、善意に基づいた医師達は、次の様な信念に取り憑かれていく。

「自分たちこそおは科学者として、患者の福利とドイツ民族総体の浄化に配慮していると信じていた。近代科学技術が医学に飛躍的な革新、リハビリテーション可能な障害者はリハビリテーションし、残りの『治療不能』な場合は抹殺するという治療の過激化の機会を提供したと信じたのである。」(p14)

この「治療不能」な障害者は「生きるに値しない命」と言われ、精神病院のガス室で抹殺され、火葬=焼却処分された。これはヒトラーのメモ書きによる許可に端を発するもので、その合法性が国内でも問われたが、やがてヒトラーの言うこと=合法、と認められると、医者や法律家も全国的に荷担し、官僚主義的でシステマティックな虐殺によって20万人以上が殺された、と言われている。そして、この「やり口」はユダヤ人の抹殺に、見事に引き継がれていった。

ここで論点になるのは、「生きるに値しない命」という価値判断である。

当時のドイツ社会では「治療不能」というのが、その判断基準の一つであった。だが、実はもう一つ、大きな判断基準があった。それが、「生産能力」=お金を稼げるか、という視点である。ちょうどこのテーマを昨年取り上げた、NHKのハートネットTV「ナチスから迫害された障害者たち (1)20万人の大虐殺はなぜ起きたのか」のHPに、その当時の記録映画のフレーズが記載されていた。

「健康な国民同胞を健全にする資金が、白痴者を扶養するために使われている。施設にはそのような者がうようよいる。この遺伝性疾患のあるきょうだいの世話にこれまで154000マルクかかった。どれほどの数の健康な人々がこの費用で家を買えるだろうか!」

簡単に言えば、「生産性のない人を養うために、これだけのお金を費やす位なら、殺した方が良い」という、戦慄する主張である。それが、「安楽死」「治療可能性がない」などと、医学のフレーズで装飾されて、さも専門家が決めたのだから仕方ない、とばかりに、歯止めが利かずに、虐殺の肯定化へとつながっていった。そして、当初は遺伝病などごくごくわずかな対象者が範囲だったのだが、やがて障害者やアルコール依存者や浮浪者など、「社会に迷惑をかける」存在が抹殺の対象として広がっていく。そして、「ヒトラーが認めたのだから」という錦の御旗の下で、このシステマティックな虐殺に、医師や法律家はごく一部を除いて反対することなく、粛々と従って虐殺に荷担していく。そういう実態が、法や官僚システム、医療への信頼が厚いドイツで、起こったのである。

そして、70年後の日本で起こった、相模原の障害者施設での凄惨な連続殺戮事件。容疑者とされる男は、障害者を不幸な存在だと決めつけ、社会的活動が困難な場合、保護者の同意を得て安楽死させた方がよい、と考えていた。これは、ナチスドイツが行ったことと構造的には同じである。生産性や治療可能性、そして「社会に迷惑をかけないか」とう恣意的基準で人の「価値」を判断し、「あなたにはその価値がない」「そう査定する私には価値がある」と、障害者と自分を分けて考えた上で、自分の「価値」観を絶対化し、自己正当化を図って、人殺しも正当化する、という、身勝手極まりない発想である。他人を殺してはいけない。それは「あかんもんは、あかん」のである。「こういう場合は良いのではないか」という留保を付けると、医学的・法律的理由なんて、どんどん拡大解釈される。それは、人間の理性の限界なのである。だから、「あかんもんは、あかん」と倫理的に基礎付けなければならないのである。

それから、この件に関して、反省を込めて、もう一つ述べておきたい。

僕はヘイトスピーチやヘイトクライムは許さない。ただ、これまでそう公に表明してこなかった。ヘイトスピーチをする団体へのカウンターデモをする人々の存在をツイッターなどで知る度に、「頑張って欲しいな」とは思っていた。でも、自分はカウンターデモには行かなかった。また、ヘイトスピーチはダメだ、と、こうやって公言してこなかった。「わざわざ僕ごときが口に出さなくても」と思っていた。

でも、そういう静観・傍観者態度が、ヘイトスピーチへの「消極的荷担」をしてこなかったか? 「これくらい、言っても良いんだ」という人間の醜さ・愚かさの結果論的肯定に繋がってこなかったか? そして、そのようなヘイトに甘い環境が、今回の相模原での障害者への憎悪(ヘイト)に基づく大量殺戮(クライム)へと導かれなかったか。

それは、例えば都知事時代に「ああいう人って、人格あるのかね?」と発言した石原慎太郎氏のような、常に差別発言を繰り返す人を、放置してきたこともつながる。「有名人や政治家が言っているんだから、これくらい言っても大丈夫だ」というのが、日本社会の暗黙のルールになっていたのではないか? そして、それを許容し、そういうヘイトに甘い社会を作っていたのは、他ならぬ僕であり、あなたではないか? すると、今回の犯罪の土壌を作ってしまったことに、僕自身が全く無関係と言えるだろうか? そういう問いである。

僕は、「社会を変える前に、まず自分自身が変わる」ということを、自分の原則にしている。

今回の凄惨な事件を繰り返さないために、まず僕に出来ることは何か。それは、こういう考えを整理して伝えると共に、「あかんもんは、あかん」と繰り返し言い続けることだ。「言わずもがな」の世界ではない。ダメなモノはダメだと伝え続けないと、いつしかズルズルと、ダメなモノが許容され、このような打ちひしがれるような事件に繋がる。ヘイトスピーチやヘイトクライムは絶対許してはならない。それが、日本社会が変わるための、原点として求められていると僕は思うし、ヘイトクライムやヘイトスピーチを僕は絶対許さない。改めて、ここに宣言しておく。

「手段の自己目的化」を超えるために

職場で同僚と、大学の自己点検評価に代表される数値による評価の問題をおしゃべりしていたら、それを小耳に挟んだ科学哲学がご専門の森幸也先生から、「教育効果におけるエヴィデンス主義・実証主義の限界」という論考を頂いた。この論考がめちゃくちゃ面白かったので、ご紹介してみたい。森先生は、大学の授業の評価に関して、次の四つの項目に分けて整理している。

A 授業の個別内容の理解・習得
B 科学論的批判精神の涵養と科学の特質に対する理解
C 社会システムに対する複相的洞察
D この社会内での生きる姿勢、あるいは人間的成熟。さらには共同体への影響
この上で、「教育活動に宿された豊穣性を信じるならば、成果の重要度は、A<B<C<D」であるが、「成果の測定可能性については、A>B>C>D」である、と指摘した上で、「成果の測定可能性」について、次の様な疑義を示しておられる。
「教員が『教育目標とは測定可能なものでなければならない』と錯覚してしまう危惧を捨てきれない」
「エヴィデンスや実証主義は、よりよい教育活動を展開するという目的のための『手段』なのである。方法論を『目的』と錯認する倒錯を侵している」(p10)
これは極めて大切なことを指摘している。
文部科学省は今、補助金や交付金をダシに、大学への改革を次々に迫っている。まあ時代の転換点なのだから、必要な改革であれば、しなければならない、とも思う。でも、彼らが示すのは、数値目標であったりエヴィデンスとして示せ、というものばかりである。つまり、実際にどれくらい達成できたかを数値で示せるもの、を、クリアするように、度々求めている。これは「成果の測定可能性」で、改革の要求をされている、ということである。
だが、教育は「測定可能性」だけで計るものでは、もちろん、ない。AやBの一部は何らかの効果測定で計ることが出来るかも知れない。でも、高等教育機関に最も求められる、「成果の重要度」として最も高いはずの、CやDを評価しよう、ということが、文科省の姿勢からは感じられない。これは、森先生の表現を使えば、「方法論を『目的』と錯認する倒錯」そのものである。
ただ、もっと怖い妄想を抱いてしまう。
それは、文科省はそもそもCやDについては、大学教育の重要性として重きを置いてはいないのではないか、という妄想である。これが僕の妄想であれば良いのだが、以前L型大学とG型大学の分類に関する批判的ブログでも触れたように、文科省は本気でこのようなわかりやすい二分法を採用しようとしたり、あるいは数値目標だけで成果を測れる、と思い込んでいるのだろうか、と危惧する。さらにいえば、普通のL型大学に行くような大学生には、CやDのような人間的成熟はいらない。お上や上司が言うことを黙って粛々と従う、自発的隷従を求めているのではないか、とさえ、疑ってしまう。
森先生は、科学哲学論の系譜を紐解きながら、これを「ガリレオの倒錯」である、という。
ガリレオは、自然界の神秘を数学で解き明かそうとした。これを「実証主義」という。この実証主義は、「自然界から『質』的なものを削ぎ落とし」「自然界を探求するのに、数学的手法の適用で十分」と考えた(p12)。これがなぜ「倒錯」なのか。それを、森先生は次の様に喝破している。
「言い換えると、『自分の方法で把握できる世界こそが、真の世界である』という放漫で倒錯した思考が、ガリレオには宿っていたと思われる。これは『方法論原理主義』の一形態である。(略) 教育成果や教育目標において『実証的に提示しうる事柄のみが大事である』と錯認してしまう『倒錯』と同型の構造が、ガリレオの自然観の中には織り込まれていた。どちらも、『手段』を『目的』と取り違え、『手段』が特権化・絶対化してしまっているのである。」(p12-13)
文科省という役所の「行政指導」のやり方を見ていると、「『自分の方法で把握できる世界こそが、真の世界である』という放漫で倒錯した思考」が見て取れるのだが、これも僕の妄想だろうか・・・。
そして、この倒錯の本質的構造を、森先生はガリレオに基づき、次の様に述べている。
「ガリレオ自身はおそらく、運動理論を確立する際に、そこに哲学的『意味』が混入するのを慎重に避けていたと思われる。アリストテレスの運動論では、『なぜ』運動が起こるのか、を問題にしていた。それに対してガリレオは、『なぜ』とは問わずに、『いかに』運動は進行するのか、という問いにのみ答えようとした。戦略的に、哲学の問いを避け、技術、あるいは数学の問いに課題を絞り込んだのである。その意味で、フッサールがガリレオを『発見する天才であると同時に隠蔽する天才』と評するのも頷ける。」(p13)
ここに至っては、単に文科省批判を超えて、「お役所仕事」への共通性を見て取れる。
僕はアドバイザーとして色々な行政や社協と関わってきたが、役所や社協で働く人の中には、「なぜ」を問わずに、「いかに」をいかに上手に遂行するか、にエネルギーを投入してきた人を沢山見てきた。つまり、何らかの問題なり政策課題について、「法律で決められたからやる」という前提で動き、「なぜそれをしなければならないのか?」「自分の自治体にとって、そのことを行う事にどのような意味があるのか」という原理的な(哲学的な)「意味」の問いをすることなく、とにかく「決められたからするのだ」という「いかに」にのみ、取りかかる人が少なくないのだ。そして、大変残念なら、「いかに」思考のプロは、「なぜ」と結びつかないから、それを「業務」でのみ行い、とにかく「いかに業務として形にするか」に拘る。その施策が対象者・地域にどのような意味があるのか、を考えない。だからこそ、形だけ出来上がっても、実質的に機能しない、成果が見えない施策に繋がってしまう。
このような「なぜ」のない「いかに」が、いかにダメなのか、を散々見てきた。
そういう実感を持つと、文科省のお役人さんたちも、この「なぜ」という「意味」を問うことのない、「いかに」という問いへの埋没の危険性を感じてしまう。そして、そのような動きが、大学教育改革という問題を『発見する天才であると同時に隠蔽する天才』になってしまわないのか、という根本的危惧さえ、抱くのだ。
森先生は、この「いかに」への倒錯や実証主義、客観性への傾倒に、警鐘を鳴らす。
「客観性は、そうした背景を覆い隠し、説得力を持たせる『戦略』である。『この客観性の理想は、科学的であると同時に、政治的なものでもある』。統計的数値の背後に、さまざまな前提条件や価値観が伏在していることを、忘れてはならないだろう。」(p16)
AやBのみで、評価が出来たと思い込んでいる。これは「科学的であると同時に、政治的なものでもある」。「いかに」を遂行する能力を求め、その指示なり政策なりを「なぜ」遂行しなければならないのか、を問う力を養わせようとしないのも、一つの「政治的」な力動、パワーポリティクスが「伏在」している。その「統計的数値の背後」にある、「さまざまな前提条件や価値観」をこそ疑う力が、CやDの要諦である。これこそ、大学教育で最も必要とされている視点ではないだろうか。そして、そのような真の力を去勢する動きこそ、いくらもっともらしい「いかに」であっても、手段の自己目的化、として厳しく批判しなければならないのではないだろうか。
森先生の論考から、こんなことを考えていた。