2013年の三題噺

いよいよ今年も、今日まで。

先週末に早めに実家&墓参り1000キロツアーを果たして、昨日は疲れも溜まって「あまちゃん祭り」を10時間見ていたので、やっと年賀状の印刷を果たせたのが、先ほど。ブログ読者と年賀状の送り先は恐らく殆どかぶらないので、年賀状にも書いていた、今年の三題噺を、少し長めに書いてみよう。
①二冊目の単著が出る
何度もブログやツイッターでも言及しているが、11月に二冊目の単著、『権利擁護が支援を変える-セルフアドボカシーから虐待防止まで』を現代書館から出して頂いた。去年に引き続き、二冊目の単著である。「精力的ですね」と言われることもあるが、確かに一冊目の刊行直後から、この二冊目を何とか2013年度中に出したい、という一心で取り組んで来た。
同書のあとがきにも書いたが、大学院生の頃から「権利擁護」については考え続けてきており、様々な媒体に書き続けた原稿を集めたら、既に4年前の段階で、単著一冊分以上の原稿は書きためていた。その当時、単著が一冊もなかったので、当初はこの本を先に書き上げる「つもり」だった。だが、社会学の大家の恩師から、「一冊目が、全てを決める。いきなり寄せ集め論文で本を出したら、その後、誰も読んでくれなくなるよ」と、ありがたいご助言を頂き、全くその通りだったので、この原稿はお蔵入りしていた。その後、合気道やダイエット、「魂の脱植民地化研究」との出会い、そして3・11の衝撃と様々な出来事に遭遇する中で、気がつけば2012年に『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』の方を、先に上梓することになった。
そして、この『枠組み外しの旅』を上梓した後だからこそ、視座と根性が定まった。権利擁護について考える上で、支援と支配の近接性や、権力構造の分析など、際どい事を書く必要がある。業界慣れしていくに従って、数年前はそこを「自主規制」していた自分がいた。だが、『枠組み外しの旅』は、そのような自主規制や自らの囚われを「意識化」すると共に、そこから自由になって、より本質的な構造を直視する事を目指した、ある種の理論書であり、自己変革を社会変革とつなげる為の道筋を書こうとした書籍だった。その本を書いたからこそ、権利擁護に関しても、これまで書いた原稿を再度点検し、徹底的に手を入れ、いくつかは全く一から書き直すことによって、魂を込めた権利擁護論を仕上げることが出来たのではないか、と思っている。
あと、一冊目は、自分の世界観を構築する為の文章でもあったため、ゴリゴリと鋭角的な文章だった。「講演はわかりやすいのに、本は取っつきにくい」と批判されることも、少なからずあった。一冊目は理論書的に書いたが、二冊目は実践現場に重ね合わせる形で書いたので、なるべくわかりやすく書こう、と四苦八苦した。予備校時代からお世話になっている田平先生に徹底的に校正に付き合って頂き、半泣きになりながら、言葉をわかりやすく言い換える努力をした。お陰で、「一冊目よりわかりやすい」という評価も頂け、少し胸をなで下ろしている。でも、初版1800部を何とか売り尽くすための、講演時の地道な手売り活動は2014年も続けていくつもり。権利擁護関係での講演は、お引き受けしますよ(^_^)
②合気道で初段を頂く
二冊目の単著と共に、今年の二大目標だったのが、実はこの合気道の初段の審査を通過すること、だった。あこがれの袴を目指して、の稽古に精進していた。
思い起こせば、合気道に入門したのが、2009年の5月。入門当初はうぶな事をブログに書いているが、その時の「楽しさ」はおかげさまでずっと続いている。いや、少しずつ技を身体が覚えるようになってくると、出来る範囲も広がり、楽しさやワクワクがむしろどんどん深まっていった、という方が正しいだろう。週1回の稽古も2回、3回と増えるようになり、いつしか稽古の時間を何とか空ける事を日程調整の柱にし始めていた。
そして、昨年あたりから、「袴を着ける」という目標が、現実的になりはじめた。だが、有段者への審査は、白帯・茶帯の時代の審査とは、格段にレベルも内容も異なる。剣や丈などの武器技が増え、自由技もたくさん出来なければならない。だがそれ以上に、基本の技に対する正確さや丁寧さが、級の時代とは比較にならないほど、求められる。それまでは、何となく力技で投げていた、その所作の一つ一つが、問われる。合気道とは、気を合わせる道。つまり、相手と接点を見出しながら、相手と自分の気を合わせながら、うまく導く必要がある。その際、基本動作をきちんと一つ一つ丁寧に運用していくことで、その気が合う基本が出来る。その部分こそ、実は上達するための、最も基本であり、最も難しい壁なのだ。この1年くらい、その壁を前に、ウンウンと唸っている日々だった。
もちろん、7月の昇段審査の後も、劇的に上手くなった、なんてことはない。でも、袴をはいて、初心者の方と一緒に稽古をする中で、自分が先生や同門の先輩に言われ続けてきたことを、気づいたら口にしている自分がいる。「もっとリラックスして(落ち着いて、ゆっくりと・・・)」とは、僕が常に指摘されてきたこと。それを、初心者の方にお伝えしている自分がいる。僕は、人に教えている時が、最も学べる、OJT型の人間なので、実は合気道の学びは、初段から深まりそうだ、とワクワクしている。
③山登りを始める
合気道で基礎体力と足腰の筋肉がついてきたようなので、発作的に5月くらいから、山登りを本格化させた。実は職場のハイキング隊で以前から何度か誘って頂いていたのだけれど、一冊目の単著が出るまでは、なかなかご一緒出来なかった。だが、今年は少し自分のための時間も確保しようと、月に一度、山登りをスタートさせ、これが結構楽しく、ハマリ始めている。
5月 茅ヶ岳(1703m)→6月 鬼ヶ岳(1783m)→7月 瑞牆山(2230m)→8月 東天狗岳(2640m)+甲斐駒ヶ岳(2965m)+赤岳(2898m)→10月 乾徳山(2031m)→11月 小楢山(1712m)
こうして記録を改めて振り返ると、結構沢山登っていますね。ちなみに東天狗岳以外は、全て一人で登っている。
山梨って、実は3000m級の高度な山から、1500mくらいの手頃なハイキングコースまで、沢山の山登りが出来る場所だったことに、今まで住んでいて、全然気づいていなかった。職場の同僚にハイキング隊に誘ってもらい、でも仕事も一杯一杯だったので、なかなかそこから一歩が踏み出せなかった。でも、単著二冊目に取りかかり、合気道も初段審査の近づいた5月の連休辺りに、発作的に「山登りって楽しいかも」と思い立ち、アウトレットでハイキング用のシューズを買い求め、発作的に登り続ける。合気道と同じで、これもすごく楽しい。で、色々装備を少しずつ揃えながら、東天狗岳を登る際、ハイキング隊の隊長に「タケバタさんなら一人で登れるんじゃない」と太鼓判も押され、調子に乗って甲斐駒ヶ岳と赤岳を夏に本当に制覇。すごく嬉しかった、のだが、軟弱なハイキングシューズでの下り坂は随分と危険で、右足の親指と薬指に血豆を作り、結局親指の爪は剥がれて、今小さいのが生え替わりつつある。そんなアクシデントにも見舞われた。
その後、本気のトレッキングシューズも買い直し、その後も登り続けている。合気道に続き、二つ目のハマる趣味が出来てしまった。まあ、そうは言っても、基本は日帰りで天気の良い日にしか登らない、という軟弱スタイルだけれど、それも良し。実は1年前にハイキング隊の隊長に甲斐駒ヶ岳の麓まで連れて行ってもらうも、整備不良で引き返す、悔しい思いをしたが、今年はそれに完全にリベンジ出来た。
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あと、地域包括ケアシステム関連の仕事で、色々な現場の人々とのコラボレーションが面白くなったり、いろいろ書き足りないことはあるけれど、これくらいにしておこう。

来年も、もっとワクワク出来ますように、と願掛けして、今年最後のブログとします。

みなさま、良いお年をお迎え下さい!

『台湾海峡一九四九』雑感

「人生はときにどこかで誰かの人生と交差する。しかし偶然の一点で交わったあと、それぞれの方向へと遠ざかり、すべてはぼんやりとした全体に含まれて、消える。」(龍應台著『台湾海峡一九四九』白水社、p332)

戦争にまつわる記述は、どちらかといえば「読まず嫌い」のジャンルだったのだが、今年の正月に読んでブログにも感想を書いた『沖縄の記憶-<支配>と<抵抗>の歴史』以来、ジョン・ダワーや色々な著者の本を、ぼちぼち、読んでいる。僕は為政者や政治家、軍幹部がどう考えたか、という大局的・戦略的記述(=ドミナント・ストーリー)より、戦争時代に、一人の個人が、どのような境遇で、何を考え、どう翻弄されたか、という「小さな物語」に、なぜか興味がある。
今回密林をブラウジングしていて、偶然出会ったは、台湾出身の女性作家による歴史ノンフィクション。自らの両親のルーツを辿る物語からスタートさせて、やがて中国・台湾・香港・マレー半島で、1949年を軸に、時代がどのように動き、その時代の波に人々がどう翻弄されたのか、を多くの「当事者」の証言を元に織り上げていく。彼女のドイツ人との息子、フィリップ君が19歳の時、学校の宿題でオーラルヒストリーを習って、龍さんのファミリーヒストリーを聞こうとした時、彼女がこれまで直視してこなかった、一九四九を巡る大きなうねりを、彼女なりに書いてみよう、と思い立った。抗日戦線をそれぞれ戦った国民党軍と共産党軍が、日本軍なき後、両者による内戦につながっていく。その過程で、昨日まで共産党軍だった兵士が、捕虜になり、国民党軍の一員として銃を持たされた。その逆もある。しかも、中国人兵士の多くが、誘拐された元農民である。彼らが、中国本土から台湾へ、台湾からマレー半島へ、様々な形で強制的に運ばれていった。そんな、戦闘や強制収容された経験を持つ市井の人々に、丹念に聞き取りをする中で、「偶然の一点で交わった」、その時代の「交差」ポイントを描こうとする。
「どんな物事であろうと、その全貌を伝えることなど私にはできない。フィリップ、わかってくれるだろうか? 誰も全貌など知ることはできない。ましてや、あれほど大きな国土とあれほど入り組んだ歴史を持ち、好き勝手な解釈と錯綜した真相が溢れ、そしてあまりのスピードに再現もおぼつかない記憶に頼って、何をして『全貌』と言えるのか、私にはひどく疑わしい。よしんば『全貌』を知っていたとして、言葉や文字でどうしたら伝えられるのか。たとえば、一降りの刀で頭を真っ二つに切られたときの『痛み』をどう正確に記述するのか? またその『痛み』と、遺体にしがみつく遺族たちの心の『痛み』を、どう比較分析するのか? 買った側の孫立人郡長は、殲滅された敵軍の死体を見て涙を流した。それも『痛み』というのか?それとも別の何かなのか?
だから私が伝えられるのは、『ある主観でざっくり掴んだ』歴史の印象だけだ。私の知っている、覚えている、気づいた、感じたこと、これらはどれもひどく個人的な受容でしかなく、また断固として個人的な発信だ。」(同上、p161)
この本が400頁を超える大著なのに、一気に読み進められた最大の理由。それは、これが龍さんの「個人的な発信」である、という点だ。俯瞰的に歴史を眺めながらも、あくまでも龍さんや出会った人や資料と対話する中で、彼女の記憶や感覚とリンクしながら、一九四九を挟んだ大きな時代の奔流を、彼女の「主観でざっくり掴んだ」物語として描ききってくれたからこそ、中国の内戦のことを殆ど何も知らなかった日本人の僕にも、スッと受け止められる。第二次世界大戦や日中関係については、「あれほど大きな国土とあれほど入り組んだ歴史を持ち、好き勝手な解釈と錯綜した真相が溢れ」ているが故に、理解しようとしても、「とりつく島」がなく、最初の一歩が踏み出させなかった。でも、龍さんが出会った、着目した市井の人々の「痛み」を巡る物語に立ち会う中で、中国や台湾、日本という文化的な差を超え、一人の人間の人生が翻弄されていく悲劇を、我がことのように共感し、共に「痛む」ことができた。そういう意味で、希有な作品である、と感じた。
香港や台湾、そして沖縄など、戦争と被支配の痕跡がある街を、気づけば旅することが少なくない。今までは旅先で現地人のご老人に出会っても何とも思わなかったが、これからは、市井の人々が関わったかもしれない、激動の時代の痕跡を、思い浮かべながら旅をするかもしれない。
*ちなみに龍さんへのインタビュー記事もネット上にあります。

関係性の捉え直し(増補版)

先週末は、大阪で二つの濃厚な講演会に参加した。

この二つの講演会をつなぐキーワードは、わたしとあなた、を巡る関係性をどう捉え直せるか、という点にある。忘れないうちに、そのあたりを少し考えてみたい。
13日は、イタリア・トリエステの精神医療改革に取り組んだペッペ・デラックアさんが、現象の背景にあるパターンや構造について熱く語っていた。(イタリアの改革については、僕も以前紀要に書いた事がある)。
その中で特徴的だったのが、冒頭に語られた、「強制治療下においては、人間がいない」という指摘だ。精神病院では、「人」はおらず、「モノ」として扱われている、と。だから、非人間的処遇もまかり通る、と。そして、強制医療施設の扉を開く、とは、モノの処遇から、人の処遇へと返ることである、と。これは重要な指摘である。
精神科病院や入所施設の持つ権力構造を分析した社会学者ゴッフマンは、その特徴を次の4点として指摘している。
①生活の全てが同じ空間で一元管理されている。
②一元管理の下で、プライバシーは存在しないか極端に軽視されている。
③毎日の全活動が決められたスケジュール通りにとり行われている。
④強制される全ての活動は、各施設の設置目的を遂行する意図で想定されている一貫した流れに基づき、計画されている。(Goffman, 1961:6、拙訳)
この4つは何を物語っているか。それは、強制的に入れられている・あるいは実質的にそこしかないと思い込んでいる(込まされている)場所で暮らし続ける(=特定の居住施設で生活する義務を実質的に負っている)と、当たり前の市民としての権利を奪われてしまう、ということだ。そして、当たり前の権利が奪われた状態で暮らしていると、支援者と障害当事者の関係性は、いつの間にか「お世話してあげる人」と「支援してもらう人」という非対称性が強まり、ひいては支配-服従の関係につながる、ということだ。で、支配者は服従者を人として扱わず、モノとして扱う。その際、服従する事を良しとせず、支配者に必死に反抗しようと声を荒げたり、拒否的反応をすると、「問題行動」「強度行動障害」「暴力行為」とラベルが貼られ、縛る・閉じ込める・薬漬けにする、という「対抗手段」がとられる。これが、強制治療に関する最大の悪循環である。しかも、その際、縛る・閉じ込める・薬漬けにする行為を行う支配者側のスタンスは、問われる事はない。「治療行為」「支援」という正当化言語の枠内に収まってしまう。
ペッペさんが問いかけたのは、この治療者の正当化言語そのものに対する問いかけだ。治療や支援の文脈の中で合理化・正当化される隔離や拘束、薬物治療。これらの「もっともらしい言語」を使ってみても、やっていることの実態は、市民の権利を著しく制約・剥奪すること。で、そのような制約・剥奪をせずに、本当の支援をするにはどうすればいいか、を徹底的に考え抜くのがトリエステ流のやり方だ、と受け取った。興奮したり攻撃的になるには、訳がある。「精神病(強度行動障害、認知症、BPSD、発達障害)だから」とラベルを貼って「わかったふり」をすることなく、ある行為をする背景に、どのような生きる苦悩の最大化が潜んでいるのか、を徹底的に当事者と支援者が共に考えることで、自分を傷つけたり他人に危害を与える前に、その前兆の段階で芽を摘む支援へと導く。もちろん、言うは易しだが、実践はすごく大変であることは想像できる。でも、専門知識を持つあなたと、生きる苦悩が最大化して困っている私。この二者が出会うとき、あなたが私の生きる苦悩に寄り添うことなく、私の一種のSOSのサインとしての行動や状態のみに目を向け、それにラベルを貼り、そこにしか対応してくれないならば、私の苦悩はさらに深まり、状態は悪化する。私が悪くなる初期段階で、あなたは支配者ではなく、支援者として、その苦悩を減らす・苦悩が悪化し行動化するのを食い止める支援をしてくれたら、もっと救われるのに。
こんな風に彼の発言やイタリアの実践を受け止めてた。だが、これは現在の主流となる精神医療のパラダイムとは、全く異なる。
現在の精神医学の主流は、アメリカ精神医学会が作っているDSM (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)に大きく依拠している。訳せば「精神障害の診断と統計の手引き」となる。このDSMは、アメリカ中の、そして他国の医師が診察しても同じ診断が下せるように作ったガイドラインである。ということは、裏を返せば、このガイドラインが出るまでは、文化間・医師間での診察はバラバラだった、ということだ。だから、一定程度の標準化・規格化が求められた。つまり、DSMとはあくまでも診断や統計の手引きであり、一つの方法論である。
だが、この方法論が現在、ずいぶん自己目的化しているように思える。たとえば他科と同じように、診断名やカテゴリー分類さえ出来たら、その標準化された治療方法に沿った投薬をすることで、問題は解決する、というクリティカル・パスが導入されている。でも、双極性障害でもアルツハイマー病でも、その症状の現れ方は千差万別。投薬は統計学的に標準化可能化もしれないが、関わり方は、標準化不能である。精神障害を抱えて暮らす、という部分では、治療と支援の双方が必要不可欠だ。その際、治療はある程度標準化可能でも、支援は個別のニーズに合わせながら、支援者のあなたと当事者の私が出会う中で、その関係性の上で成り立つ標準化不能な生命現象である。この部分を、標準化可能であるかのように思い込むから、「一元管理」のような発想が出てくる。そして、そのような集団管理や一括処遇は、一人一人と向き合った支援ではない(=市民としての権利を疎外する)ものだから、当然、本人は納得しない。故に、反発する。その正当な反発に「問題行動」「攻撃性」などのラベルが貼られる。すると、支援や治療のまずさが、いつの間にか本人の問題にすり替えられ、更なる悪循環に陥る・・・。
だからこそ、まずは対象者を「病者」というモノ扱いをせず、どのような人間的な苦悩なのか、に向き合う為にも、強制医療の扉を開く必要がある、という。つまり、卵が先か鶏が先か、の論で言えば、強制医療を最小化することこそが先だ、という議論になるのだ。
「常識」を問い直すことにより、あなたとわたしの関係性が変わる。これは『枠組み外しの旅』でも考えたことだが、実は加害者と被害者の関係性でも同じである、と気づき始めた。
15日の講演会では、西鉄高速バスジャック事件被害者の山口さんと、池田小学校襲撃事件の被害者の主治医であり、時には加害行為をする精神障害者の主治医でもある大久保さんの二人が講演した。このお二人の話は、実に濃厚で、かつイタリア精神医療改革の話と、根本的には通じる部分があった。
山口さんは、バスジャックの犯人の少年に何度も切りつけられ、殺される寸前にまで至った。でも、死刑廃止を求めている。その理由はなぜか。それは、実際にバスの中で少年と出会った際、「モンスター」「悪魔」とは思えなかったから、という。他人事には思えなかった。不登校している娘さんの事も重なり、「少年はこんな事をしなければならないほど、追い詰められている」と共感出来た。すると、相手の背景を納得してしまうと怒れなくなった、という。実際、山口さんは事件の示談の際、「もし少年が会ってくれるなら、私は会いたい」と伝え、その後少年との面会も果たした。そして、事件の後、不登校の子ども達の居場所作りの活動を続けている。「あなたは、あなたでいい」という「ありのまま」の関係性を作る活動が、バスジャック事件の少年のような追い詰められた子どもを作り出さない為にも必要不可欠だ、との確信を持っておられるようだ。
また、池田の開業医の大久保さんは、これまで講演では語ってこなかった池田小学校事件の後のケアの実情や、そこから考えた事を講演で話してくださった。また、虐待やトラウマを抱えた人のケアもするなかで、「不条理」という考え方をどう捉えるか、という根本的な問いを提起する。「不条理」とは、本来理解できない、わけのわからない事態のこと。そこに巻き込まれた時、それを何とか理解するための言葉として、「責任」概念が出てくる、という。だが、この責任概念に基づき、その判断を司法に委ねることで、被害者と加害者は分断され、あとは加害者と司法の二者関係になり、被害者はその二者関係から疎外され、蚊帳の外に置かれる。被告人の人権が軽視されている、という問題構造はここにあり、司法による疎外状態から回復する必要が求められている。それは、被害者の人権の重視・軽視の問題とは全く別次元の話であり、そこを混同してはならない。被害者もその怒りをどこにぶつけてよいかわからないから、加害者への「責任」論になっている部分もある。
このお二人のお話を伺う中で、「被害者と加害者」という位置づけは、支配と服従、のような二項対立的な部分とも、ある種、通じる部分がある、と感じ始めている。犯罪や加害行為はあってはならない。がゆえに、その許されない事が起こってしまった場合、不条理や大きな不幸に突然見舞われた被害者は、絶望的な気持ちになる。その際、山口さんや大久保さんの話を伺いながら感じたのは、不条理の後にどう生き延びるか?という「問い」だと感じた。絶望的な不条理に見舞われながら、その後の人生をどう主体的に生き延びるか? その際、加害者を恨み、責任者出てこいと追求する「被害者」の位置づけに固定されてしまうと、それ以外の人生が全て奪われてしまう。突然の、あってはならない、とんでもない不条理や大きな不幸。だが、それに見舞われた人が、それをどう自分の人生の中に落とし込み、再び生き続けるのか? 山口さんは、それを自分の中で何度も問い続け、講演活動などを通じて、単なる「被害者」役割を超えた、山口さんという人生の主人公として生き延びておられるように、お見受けした。
大久保先生は、加害と被害とは「突然、大声で呼びかけられてしまった関係」とも語っていた。出会いたくなくても、不条理にも出会ってしまった関係。それを、憎しみや恨み、怒りという関係だけで「被害者」の位置づけに固定化されると、被害者は、それ以後の人生を、自分のものとして生きにくくなる。同じように、加害者も、罪を償ったあと、人間として更正していく旅に出る必要がある。つまり、被害と加害の関係を、善と悪の二項対立の物語で「わかったふり」をすることは出来ない。被害者も、加害者も、その被害者・加害者役割に同定されることなく、どうそれ以外の人生を生き直すことができるか、で、二人の物語は大きく変わる。
この部分を、先の医療者のあなたと、支援を受ける私の二人の物語の書き換え、と重ねてみると、どんなことが言えるだろう。その為に、ジャーナリスト佐々木俊尚さんの補助線を使いたい。
「本来われわれは絶対者ではない。絶対的な悪でもなく、絶対的な善でもない。その悪と善の間の曖昧でグレーな領域に生息している。しかしそのグレーな領域で互いの立ち位置を手探りでたしかめている状態、その状態こそが当事者である。われわれはそういうグレーな領域のなかに生息することで、つねに当事者としての立ち位置を確認する。グレーな領域こそが、インサイダーの本質なのだ。そしてこのグレーを引き受けることこそが、社会をわれわれ自身で構築するということにほかならない。」(佐々木俊尚『当事者の時代』光文社新書、p361)
絶対的な悪や絶対的な善はない。グレーな領域で生きている私たち。しかし、医療者側、被害者側に立つと、その役割を引き受ける時点で、「善」の立場が覆い被さる。そして、問題行動を起こす患者や加害者は「絶対的な悪」とカテゴライズされやすい。だが、「絶対的な悪でもなく、絶対的な善でもない」という原則に立ち戻るならば、私たちが陥る二項対立図式から、逃れられるかもしれない。とはいえ、わかりやすい勧善懲悪やパターナリズムを拒否し、「グレーな領域」に居続ける、ということは、ずっとその意味を考え続けなければならない、ということでもある。
「あなたは悪い、私は悪くない」
こう白黒はっきり付けた方が、わかりやすい。でも、それでは、グレーであることを拒否し、いつしか社会を他人事の視点で眺めることになりはしないか。そして、他人事の視点から、自分事になってしまった人に対して、勝手に批評家的に「あいつは悪い、こいつは悪くない」とラベリングして、「わかったつもり」になっていないか。さらに言えば、この「わかったつもり」の善悪の判断こそが、真の理解や本物の再犯防止、あるいは問題の最小化を阻む、最大の壁なのではないか。安易に他者の枠組みやラベリングでわかったふりをせず、「グレーな領域」で考え続けることとは何か。
そんなことを、グルグルと考え続けている・・・。

根源を問い直すソーシャルワークへ

僕はソーシャルワーカーでもないし、ソーシャルワークの正式な教育を受けてはいない。だが、大学院時代に精神科ソーシャルワーカー117人にインタビュー調査をした博論研究に端を発し、ソーシャルワーカーとは何か、ソーシャルワークが社会に果たす役割とは何か、を気づけばずっと考え続けてきた。今も、地域包括ケアシステムの推進という文脈で、コミュニティ・ソーシャルワークの可能性や、そこでソーシャルワーカーがどう変容すべきか、ということを、現場のワーカーと一緒に考えている。

とはいえ、率直なところ、博論を書いた後、最近あまりソーシャルワークの専門書を読んでいなかった。理由は簡単。ワクワク出来る本がそんなに多くないからだ。技法論の栄枯盛衰は色々あって、生態学的アプローチからリカバリーまで、色々読んでいるけれど、ソーシャルワーク魂が感じられる本に、最近なかなか出会えなかった。だが、久しぶりにワクワクする専門書と出会った。
「過去20年にわたるソーシャルワークへの新自由主義的な攻撃の主要な方向の一つは、ソーシャルワークの教育と実践から『ソーシャルワークの価値をめぐる話題』を削除もしくは格下げしようと企てることであり、またソーシャルワーカーを倫理中立的な職務を遂行する社会的技術者もしくは社会的エンジニアとして再構築しようと企てることであった。しかし、このような企ての意図に反して、ある社会集団を悪魔とすることを含む新自由主義的アプローチは、結局のところ、ソーシャルワークの価値の核となる部分を切り崩すものとして人々に経験され、この経験が、幅広い層のソーシャルワーカーに不満を抱かせ、社会正義と社会連帯に基づいたソーシャルワークの形態に回帰することを求める声が広がっている。」(イアン・ファーガソン『ソーシャルワークの復権』クリエイツかもがわ、p228-229)
何がワクワクするって、最近のソーシャルワークに感じていた不全感そのものをテーマに挙げていたからだ。イギリス人の著者は、精神保健サービス領域のソーシャルワーカーの現場経験を持つ研究者である。イギリスのサッチャリズムやニューレイバー、その背後にある新自由主義的アプローチが、ソーシャルワークのどの部分を変節させたか、を巧みに分析し、何がソーシャルワーク魂を矮小化させているか、をあぶり出す名著である。
この著者は、ケアマネジメントがマネジド・ケアの流れを組む費用抑制的色彩があること、それゆえ個人にのみ着目し、社会的な構造の問題に着目しなかったことを、「倫理中立的な職務を遂行する社会的技術者もしくは社会的エンジニアとして再構築」する営みだ、と厳しく批判している。また、新自由主義的なアプローチは、社会的弱者を「依存する人」という文脈で、「ある社会集団を悪魔とすること」のラベリングを行っている、とも指摘している。その上で、「倫理的中立」を超え、「ソーシャルワークの価値の核となる部分を切り崩」す営みに反旗を翻すことこそ、「ソーシャルワークの復権」にとって必要不可欠だ、と整理している。そして、その際の「価値の核」となるものとして、1970年代に世界各地で広がったラディカルソーシャルワークの「遺産」を次のように整理している。
「①中核的な思想として、「抑圧された立場にある人々を、彼ら・彼女らの生活の社会的・経済的構造の背景から理解する」という特有の信念がある。その信念は、1980年代から1990年代に及ぶ反抑圧実践の発達を活気づけた。
②ワーカーとクライエントの間のより対等な関係への要求である。それは共通する利害の認識とクラエイエントの経験の尊重とに基づいたものであり、10年後の利用者参加の発展を先取りしていた。
③主流のソーシャルワークにおいて留意されることが次第に少なくなっていった集団的アプローチの重視である。それは、1980年代のサービス利用者運動の発展、特に障害者運動や精神保健サービス利用者運動の発展に反映されていた(それらには専門的ソーシャルワークの関与はほとんどなかった)。」(同上、p181)
この3点も、僕自身にとっては実にすんなりと頷ける部分である。
①に関しては、パウロ・フレイレが『被抑圧者の教育学』で取り上げた事であり、僕の単著一冊目の『枠組み外しの旅』でも「反ー対話」と「対話」の対比で取り上げた視点である。また、イタリアの精神医療改革の先駆者、フランコ・バザーリアが重視したのも、精神病に人々を追い込む社会構造について、であった。このことも以前ブログに「個人的苦悩」に対する「社会的苦悩」に絡めて書いたことがある。
②についは、二冊目の拙著『権利擁護が支援を変える』の中で、「支配」と「支援」の違いについて論じた部分でも取り上げた内容もあった。専門家主導がいつの間にか専門家「支配」に簡単に転化しやすいこと、それを防ぐには、ワーカーとクライエントが相互主体的に関わり合う中で、お互いの認識も共有され、クライエントの経験も尊重される、ということである。この点も、以前ブログで「問題行動」と「相互主体」を絡めて考えたことがある。
③については、システムアドボカシーというのは集団的アプローチそのものである。これについては、僕自身がNPO大阪精神医療人権センターに大学院生の時から関わった中で教わったことだし、障がい者制度改革推進会議の総合福祉部会にコミットした時は、ある種、システムアドボカシーのお手伝いの側面もあった、と理解している。
つまり、僕自身、このラディカルソーシャルワークの「遺産」を、実は勝手に引き継いでいる(つもりになっている!?)人間の一人だったのだ、ということを、この本を読んで初めて気づいた。だからこそ、ワクワクするのは当たり前である。
一方で、ソーシャルワークの新自由主義的な「変節」の中では、「選択」や「利用者エンパワーメント」という、一見聞こえの良いフレーズが繰り返されてきたが、それは方法論的個人主義と合理性、市場の優位性という新自由主義の文脈の枠内でのみ、活用されたフレーズであったことを筆者は喝破している。
「『自己利益を追求するために個人
は常に合理的に行動する』という考え方は、社会的ケア市場の消費者としてのクライエントやサービス利用者の在り方を再構成する根拠とされてきた。」(p49)
ダイレクトペイメントという現金給付やパーソナルアシスタンスも、社会運動的な側面で出てきたものである一方、『自己利益を追求するために個人は常に合理的に行動する』という新自由主義の枠組みに適合的であるがゆえに、政策として採用された部分もある。この政策適合性の背後にある社会構造的な枠組み(=新自由主義)の価値前提そのものへの問いが、根源を問い直す、ラディカル・ソーシャルワークにつながる。それは、貧困や障害、病気を「個人の不幸」と矮小化させず、社会構造の問題と捉える「障害の社会モデル」とも通底する視点である。
こう考えてみると、「ソーシャルワーカーを倫理中立的な職務を遂行する社会的技術者もしくは社会的エンジニアとして再構築しよう」とする「企て」とは、ソーシャルワーカーに対して、政策価値に関しても「中立」、いや「忠実」な「社会的技術者」でいなさい、という服従の論理にも見えてくる。厚労省関係者が喧伝する地域ケア会議の実態が、自立支援にケアプランがなっているかどうかをチェックする「お白砂会議」になっているのは、予算削減(=マネジド・ケア)という政策遂行者の価値に「忠実」である事をケアマネに求めている事態そのものである。そのような「価値前提」そのものを「根源を問い直す」営みをソーシャルワーカーがすることは、ある種、現状肯定の論理に関しての価値破壊的側面があるのかもしれない。だが、本来の「本人中心=当事者主体」の論理を貫くならば、そのような現状の政策の根源を問い直すことこそ、必要不可欠とされている。そして、それをソーシャルワーカー自身が問いかけることこそ、求められている。
厚労省が言う、地域包括ケアシステムにしても、総合支援法の見直しにしても、あくまでも政策遂行者の論理に過ぎない。その論理を鵜呑みにする時、それはアドボカシーの価値や理念を忘れた、「社会的技術者」である。ほんまもんのソーシャルワーカーなら、政策遂行者の論理そのものに対しても、当事者主体という自らの「価値前提」を通して、自分の頭で考え直し組み立て直すべきだ。そんな気概を、この本から受け取ったバトンとして記しておく。僕はソーシャルワーカーではないのだけれど・・・。
追記: この本については、山森先生がわかりやすい書評を書かれています。僕とは着目点は違いますが、学びの多い書評です。