相互主体と「問題行動」

今日は、元教え子が働く入所施設で「虐待防止法を機に考える、権利擁護と支援の質の向上」という研修をしてきた。

僕は入所施設や精神科病院からの地域移行について積極的に書き、話す論者である。だが一方で、実際に施設や病院現場で働く人の研修にも、時として呼ばれる。
今日も「先生って地域移行論者なんですよね」と言われた。もちろん、政策的にはその方向にすべきだ、と思っている。だが、明日から全部をそう切り替えるわけにはいかない。僕も関わった、障害者福祉の新法制定に関する骨格提言の中では、「地域基盤整備10か年戦略」も提言した。そのような方向性の転換を政策的に果たす中でも、一方で、今ある入所施設や精神科病院に暮らす方々の権利を擁護する取り組みも必要不可欠だ、と感じている。これは、学生時代から学ばせていただいているNPO大阪精神医療人権センターが一貫してとっているスタンスでもある。精神科病院を少しでも減らす政策提言と、今ある精神科病院での権利擁護活動。それは、車の両輪の課題である。
で、入所施設の中で利用者と密に接する支援者の方々と、少人数の場で話をする中で、気付いたら色々話していた。いくつか備忘録的に書いておきたい。
僕は、「意思決定支援」が必要な人を支える施設こそ、相互主体の考え方を徹底的に考えなければならない、と感じている。
この相互主体の考え方は、重症心身障害者の地域生活支援の拠点である、西宮市の青葉園の清水さんがしばしばおっしゃっておられることである。僕も何度も青葉園で学ばせていただいたが、やはり青葉園のやり方で一番重要なのが、この相互主体の考え方である。青葉園ではこれを30年前から言っているのだが、最近では、社会学者の三井さよさんが、次のように整理している。
「当事者のふるまいや思いを、自らの関与や多様な人たちとのかかわりのなかから探り、そのつどいま何が起きているのか、誰が何をどのように必要としているのかを問い直そうとする支援のあり方である。個別ニーズの判断に対してかかわりが先行している。そしてそのかかわりの内実は、支援者以外の人たちにも開かれた、多様な人たちが個別に当事者との間で育んでいくようなものである。」(三井さよ「かかわりのなかにある支援」『支援』vol1、三七頁)
対象者のニーズが、客観的な「個別ニーズ」として存在しているわけではない。支援者と当事者がかかわりあう中で、お互いの関わりのプロセスを問い直す中で、そのかかわりが支援者と当事者という1:1からより多くの関わり合いに開かれていく中で、ニーズそのものが変容していく。青葉園では、重症心身障害といわれる重い障害を持つ人と、その支援者たちが、本気のぶつかり合い、関わり合いをしながら、お互いの主体性を発揮させながら、相互に変容していくプロセスを大切にしていた。その中で、居酒屋で飲み会をしてみたり、カラオケや公民館活動に参加したり、重度障害者とカテゴリー化された人が排除されていた「ふつうの暮らし」にチャレンジする中で、その人の活き活きとした表情を増やし、わくわくや希望を膨らませていこう、という試みである。それを、言語によるコミュニケーションが難しい、意思がわからない、IQが測定不能、と言われた人と構築していこうとしてきた。
そして、多くの入所施設でこれまでも、そしてこれからも問われているのは、このような相互主体的な、関わり合う支援をどれだけ豊かに行ってきたか・これから行えるか、という問いである。これは、権利擁護の根本的課題とも通底する。
入所施設や精神科病院は、利用者と支援者の権力の非対称性が大きく、第三者の目が入りにくい密室性もあり、権利の侵害が起こりやすい構造を持っている。その中で、権利擁護を重視しようとするならば、利用者を変える前に、支援者の志向性を変える必要がある。権力の非対称性にどこまで自覚的か、がまず問われる。そのうえで、支援者が当事者から学ぼうとするか、そして支援者同士で支援の質を高めるための相互評価ができるか、も問われている。もちろん、権力の非対称性は、脱施設・脱精神病院をしないと拭い去れない。だが、今日明日の施設、精神科病院の権利擁護課題として、この部分は必要不可欠である。
先に支援者と当事者は相互主体的である、と述べたが、入所施設や精神科病院のように、生活場面においてずっと同じ関係性が継続する現場であれば特に、支援者の側の主体性が、当事者の主体性に与える影響は大きい。支援者が、当事者の将来の夢や希望、潜在的可能性について、「この人はこんなに重度の障害だから」「どうせ家族は施設入所希望だし」など、「どうせ」「仕方ない」と見切りをつけていたら、権力の非対称性が大きい現場で、支援者の顔色を見ながら暮らしている利用者にとっては、その影響は計り知れないほど大きい。
「僕はここでおとなしく我慢しているしかない」「ここしか、ない」
このような諦めや絶望は、やがて本人の主体性をどんどん矮小化させていく。逆に言えば、本人が諦めから絶望から自由になり、「どうせ」「しかたない」以外の可能性に気付くことができれば、潜在能力はどんどん開花される。これは、僕は西駒郷の地域移行調査に関わって、強く実感したポイントである。
つまり、入所施設や病院での支援者が「どうせ」「しかたない」とあきらめていれば、その諦めは利用者の主体性にも色濃く反映される。であれば、まず支援者があきらめず、施設現場でどう当事者との豊かな関わりを行い、その人の可能性開発にかけるか、が問われている。
そのためにも大切になるのは、「問題行動」「困難事例」への対処だ。
そもそも、ある行為に対して「問題」や「困難」というラベルを張る時点で、支援者から利用者に対して、あなたが「問題」「困難」なのだ、という宣言でもある。その際、支援者の側の力量不足、理解不足を棚にあげて、当事者の行為のみが「問題」「困難」とされる。そのような行為を通じて、その障害当事者がどのような自己表現をしたかったのか、その行為にはどのような内的必然性や内在的論理があるのか、という部分への推測や分析には
至らない。そういう「無理解」には、本人だってますます不満を強め、そのストレスとしてさらに劇的な行為という形で返礼し、その悪循環は加速度的に循環していく。
だがその際、相互主体的に考える、ということは、関わり合いを大切にする、ということである。支援者である私の側がどのようにかかわることによって、この知的障害の方は、どういう反応をされるのか。その相互行為の集積として、どのような行為が生まれるのか。それを「問題」や「困難」とみなすとき、それはある行為という形で当事者がアピールしておられる内容を理解できていない支援者の側の「問題」であり、「困難」なのである。つまり、問題性や困難性は、本人の側ではなく、支援者の側にあるのだ。
そう考えると、自らの支援や関わり方をどう変えることで、そのような「問題行動」や「困難事例」がどう変容するか、を自らの実践に問い直すことが求められる。これは、自閉症や認知症の人でも、まったく同じ論理である。主体性のコントロールに障害を持つひとと関わるときに、支援者の主体性や志向性が、本人の主体性に影響を与え、その相互関係の中で、「問題行動」「困難事例」と表出されてくる場合が少なくない。そこを、本人のせいと矮小化することが、もっとも危険な支援なのかもしれない。
もちろんこれは地域生活支援でも共通の課題である。だが、それが入所施設や精神科病院の中であれば、なおさらそのラベリングは重大な問題を含む。地域であれば、様々な機関の支援を受けるために、何らかのSOSの表現に関しても、キャッチされる可能性が高い。だが、入所・入院の場合は、生活の全場面を一法人、一施設、少数の支援者しか関わらない。ということは、そこで関わりの独占から、支配的関わりが構造的に生まれやすい。その中で、いったん張られた「問題行動」「困難事例」が、その人の名前と同じか、それ以上に強固なラベルとなって、それ以外の可能性に目を向けられないことも起こりうる。「あの人は問題行動が多いからね」なんてしたり顔で噂されているのは、グループホームでも、特養でも、あるいは老人病院でも共通して起こりうる事態だ。
だからこそ、本人と関わり合うなかで、新たな可能性を支援者と利用者が一緒に模索する、その中から、支援者にとっての「問題」や「困難」の背後にあるものを探り当て、新たな支援アプローチの模索へと転換を行う。そういうプロセスを通じて、まず支援者が変わり、その支援者の変容が本人の変容支援へとつながる。その中で、問題行動や困難事例というラベルもはがれていく。こういうプロセスに、入所施設や精神科病院のスタッフが積極的にコミットできるか、が大きな課題となっているのである。
つまり、「問題行動」や「困難事例」と突き放している限り、支援者にとっての「問題性」や、支援者の抱える「困難性」を責任転嫁する事態になりかねない。支援者と当事者が、その線引きやラベリングを超え、どのような相互主体の物語を構築できるのか。そのうえで、入所施設や精神科病院しかない、という「どうせ」「しかたない」の物語を、どう別の物語へと書き換えていくことができるか。これが、入所施設や精神科病院のスタッフに求められている課題である。
とまあ、こういう事を言いたかったのだけれど、書いてみたら随分話と違っていたような気もする・・・。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。