事件・事故報道の社会モデル

大きな事件や事故が起こったとき、マスコミはかならずその遺族のもとに殺到する。「今のお気持ちを!」と。確かに、不慮の事故で亡くなられた方は、実に無念だと思う。その方のご家族やかかわりのある方の落胆、憔悴は本当に大きいと思う。

だが、マスコミがその不幸な現場に殺到して報道合戦になる、という事態は、不幸の商品化のような気がしてならない。「知る権利」を盾に取り、視聴者・読者の欲望を建前に、人の不幸のど真ん中にズカズカと土足で入るような報道はないだろうか。
いや、単に報道被害の問題を言いたいだけではない。そもそも、大きな事件や事故が起こったとき、どうして「被害者の不幸」や「加害者の凶悪性」といった、個々の問題に「ばかり」目を向けるのか。きついことを言ってしまえば、「私ではない他人の不幸」「私ではないひどい凶悪犯罪者の愚行」に対する憐みや非難、興味本位の関心が、「客観」や「中立的」な報道の陰に隠されていないか。
本当にその事件や事故が「お気の毒」と思うなら、本当にその犯罪が「許せない」と報じるなら、なぜそのような事件や事故が起こったのか、を一個人や一組織の悲劇や性格、逸脱性、異常性といった個人因子に帰結させて満足していてはいけないのではないだろうか。
アルジェリアの事件では、イスラムの原理主義と独裁国家、という構造的暴力や貧困、搾取の問題が指摘されている。随分以前のブログに書いたが、尼崎のJR脱線事故なら、JR西日本という会社の体質、だけでなく、少しでも遅れたらヒステリックに怒り出す乗客や日本社会の時間への強迫性の問題が背後にあるはずだ。つまり、個々の犠牲者の不幸を、個々の加害者の無責任を、本当に許さないなら、個々の不幸・無責任を追い掛け回し、憐みと糾弾にエネルギーを注ぐより、再発防止やその問題の構造的課題の分析にこそ、調査報道として精力的に取材に取り組むべきではないか。
僕が専門とする障害者福祉の世界では、「個人(医学)モデル」と「社会モデル」という二つの考え方がある。前者は、障害は個人の悲劇や不幸であるととらえ、その障害を治すこと、健常者世界に戻ることが目標とされる。一方、後者の社会モデルでは、障害は一つの個性であり、障害があるままでの自立が目指される。すると、障害は個人の問題ではなく、障害ゆえに社会の中で生活しづらさがある場合、個人の不幸ではなく社会的差別や抑圧の問題、とされる。問題なのは個人、ではなく、社会の側をどう変えるのか、が焦点化される。
今のマスコミの事件や事故報道を見ていると、どうもこの「個人モデル」に依拠しているようにしか思えない。事件の特異性や奇異性、属人性ばかりを強調する。これは事件報道に限らず、政治の話題だって、政策的課題という社会モデル的視点ではなく、いつの間にか政局や政治家個人の資質といった個人モデル的な視点に歪曲化される。率直に言って、社会構造を扱うより、個人を称揚したり貶めたりするほうが、「わかりやすい」と考えるからだろう。
でも、それは「わかりやすい」のではなくて、「わかったふり」をしているだけではないか。本当に問題を理解し、より良い社会に変えていきたい、と願うなら、属人的要素の悲劇を追い掛け回したり、加害者の異常性・逸脱性をことさら糾弾するだけでは、何も変わらないことに、当のマスコミだって、気付いているはずだ。そして、心ある記者は、そういう地味な取材も続けておられる。
本当に必要なのは、複雑で、地味に見える、構造的な問題に目を向けることだ。それをひも解いていくと、アルジェリアの問題だって、笹子トンネルの崩落だって、JRの脱線だって、「他人事」では済まされない。問題を引き寄せて考えると、どこかで「私の日常」と地続きな問題である。決して遠いテレビの向こうの「他人事」の問題、と高をくくっていられない。今の自分だって、もしかしたら被害者にも加害者にもなりうる課題だって、決して少なくない。そのような社会構造の暴走や暴力と、逃げずに向き合い、自分事として考えること。そのための補助線や解説こそ、マスコミが果たせる役割のはずだ。池上彰氏の解説スタイルが視聴者に受けているのも、「複雑な問題を、無視せず逃げずに考えるための補助線」という視点で見れば、頷ける。
問題を個人化・矮小化させて、その不幸を追い掛け回す、他責的で消費者的な振る舞いをマスコミが続けていることは、果たして再発防止のために適切なアプローチなのだろうか。事件や事故報道も、やはりその背後にある構造的課題に肉薄する社会モデルに向かうべきではないか。
今朝テレビをつけたら、主要なテレビチャンネルが一斉に、アルジェリアから日本に帰ってくる政府専用機、およびそこから出される棺の映像を、生中継で大々的に映していた。この事件も、再発防止に向けて、社会モデル的にきちんと取材してほしい。政府から死者の実名が公表されたが、遺族や関係者を追いかけ回し、「お気持ちを」と迫るより、マスコミにしてほしいことがある。そう感じた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。