怒りからの気づき

 

猛烈に今、腹が立っている。
何に腹が立っているのか。それは、今、羽田空港からの帰りのバスの中にいるのだが、1時間、バスはほとんど動かない。石和の花火大会終了直後に巻き込まれ、全く身動き出来ないのだ。ただ、勘違いしないでほしい。この渋滞そのものは、確かにうんざりするが、それに腹を立てているのではない。腹が立つのは、この花火大会がある、という事実を、僕はバスに乗って運転手に言われるまで知らなかった、ということだ。空港で乗る前に教えてくれていたら、絶対に「あずさ」を選択した。後出しじゃんけんの様に、バスに乗った後になって「ご承知のように今日は花火大会があるので、石和以後、甲府竜王方面は相当に到着が遅れると思います」と言われ、しかもそれ以外の選択肢が奪われていること、このことにものすごく腹を立てているのだ。そして、ふと気づいた。この怒りは、あの怒りと同じだ、と。

火曜日朝一の飛行機で帯広に行き、水曜日は往復6時間かけて浦河まで遠征し、駆け足で2泊3日の調査に出かけた。久しぶりに師匠の取材に同行させて頂き、帯広と浦河、という、日本の地域精神保健を変えた二大先進地に出かけ、先駆者達のお話に耳を傾けたのだ。この二つの先進地の最大のポイント、それは「当事者の声に基づいた支援づくり」である。精神病という病のつらさ、だけでなく、この病を持つことによって様々な生活のしづらさ、人間関係のしんどさを抱えて生きている人に、どれだけ寄り添い、そこから支援を展開できるのか。この二つの地域はそのことに、真正面から向き合ってきた。そこで向き合った内容の一つに、前段で書いた僕の怒りと共通する怒りがあるのではないか、と思う。では、どういう点で、精神病者の方が感じたであろう怒りと僕の今の怒りが共通しているのか。それは、「理不尽なこと」というカテゴリーだと思われる。

突如襲った絶望的な現実。しかも、対処する術が、その時点でない。ただそのことを「諦め」るしかない。回避したり、被害を最小化する術もあったかもしれないが、この状態になった後にそう言われても、どうしようもない。怒りの持って行きようもない。とにかく、閉ざされた空間で、ただただ諦めて待つしかない。

ただ、僕の場合、この待つということも、所詮1,2時間程度の、終わりがある「待つ」である。この1時間で、1キロも進んでいないこと、そして抜ける術がないこと自体は本当に腹立たしいが、後1時間もすれば抜けれる(はず)である。終わりが見えている。しかし、精神病の場合、一過性のものではない。いつまで持続するかわからない不安。ずっと奈落の底に落ちていくのではないかという焦燥。以前の自分に戻ることが出来ないのではないかという絶望。それらが合わさった怒り。そんな理不尽の渦の中に放り込まれたのなら、どれほど激しく怒り、どれほど深く絶望するだろう、と考えてみる。それで僕自身の怒りが収まる訳ではない。だが、こんなもんじゃない怒り、とはどれほどのものか、と思うとき、その怒りに寄り添うことの意味合いをすごく感じてしまうのだ。

僕が今、ここで相当に怒っていることの理由として、お腹がすいていること(なんせもう夜10時だ)、疲れていること(二泊三日の強行軍の疲れが一気に出ている)、抜け出せないこと(バスから降りれない)、1人でいることなどが挙げられる。精神疾患でも、病気から抜け出せないことだけでなく、不眠や幻聴などで疲れがたまっていること、人間関係にひびが入って1人でいる孤独、働けなくなってしまった場合にはそれに加えて食事も含めた生活の維持に関する不安も重なるだろう。これらの不安が怒りに、そしてやがては絶望へと結びつくのだ。

では、この状態を変えるために、どうすればいいのか。まず、「抜け出すこと」は容易ではない。そもそも、抜け出せないことから、この怒りや絶望は始まっているのだ。では、現実的な対処として、お腹を満たしてほしい、それが無理なら(確かに鞄の中には弁当はない)、まずは「大変だねぇ」と共感してほしい。そう思っていたら、妻から電話があり、愚痴をぶちまけ、多少はすっきりした。そう、浦河も帯広も、精神障害者のしんどい現実に、まずは寄り添い、共感するところからスタートしていた、と今回の取材の中でわかったのである。(疲れているから、少し強引なつなぎに見えるかもしれないが)

セルフヘルプグループ研究の大家の上智大学の岡知史先生は、その著書の中で、セルフヘルプグループの三段階を説明している。同じ悩みや苦しみを持つ当事者同士が集まって、まず自分たちのしんどさを「わかちあい」できることが、出発点だ。その中で、苦しみを対象化し、そこから「ひとりだち」するきっかけが出来てくる。その過程の中で、苦しさや怒り、絶望や諦めといったものから「ときはなち」がうまれる。また、自身を押さえつけていた環境を変えようと、「ときはなち」は社会変革へも向かう。浦河や帯広でみたことも、このセルフヘルプグループの動きそのものであった、とも言える。絶望や怒りの渦の中にいる当事者であっても、同じ渦の中にいるもの同士なら、その苦しさや怒りを含めて共感(=わかちあい)が出来る、というのが、このセルフヘルプグループの最大の魅力であり、入口なのだ。

今、石和の交差点の大渋滞をようやく抜けだし、次は横根の信号までの混雑でまだのろのろ運転だが、多少動き始めたバスの中で、タケバタにはこの怒りを同時期に共感し合う仲間はいない。だが、読み手のあなたと「わかちあう」ことを目指したこの文章を書く中で、少しだけ、この怒りから「ときはなち」が出来、本来の自分の有り様に「ひとりだち」する契機をもらった。なるほど、どんな経験でも、考えようによっちゃあ養分になるのですね。でも、早くおうちに帰って、本物の養分(夕食)にありつきたい。バスは2時間弱の遅れが見込まれながら、少しずつ甲府駅を目指している。

作業前の心得

 

困った時は原点に返るとよい。

大雨の一日だった昨日、週末に〆切の原稿を前に、何をどう手をつけて良いのやら、途方に暮れていた。北海道の出張の後、金曜土曜の二日間はオープンキャンパス、日曜は障害者団体の勉強会、そして月曜火曜とゼミ合宿で、身体に疲労が蓄積されていたのかもしれない。ゆえに、水曜は打ち合わせ講演打ち合わせと外回りをした後、木曜日はグッタリだった。土曜までにやり終える予定の原稿なのだが、全く力が沸かない。ついでに、と図書館で資料を集めてみるものの、頭の中に入ってこない。集中力も持たない。悪循環のスパイラル。外では土砂降りの雨

何もしていないのに、出来なかったからこそ、疲労困憊で家に帰り、のんびり風呂の中である本を読み返していた。読んでいて、自分の詰まっているポイントを見事に言い当てる一節に出会った。

「『本を読まざるべし』などということをいうのは、昔こういう経験があるんです。これはアメリカで理論の世界での論文を書いているときのことなんだけれど、ある程度いろいろな理論の論文を読んでから、その理論を概念的に、あるいはオペレーショナルに拡張したり、新たに解釈するというのを書いていたんです。そのとき自分の先生にこういわれた。『伊丹さん、参考文献とか、似たようなリサーチをやっているとか、そういう論文は論文を書き終わってから読むようにしてね』と言われたんです。論文の本体を書き終わってから、自分と同じことを言っている者はいないかといって、確認のために他人の論文を読みなさいと。
 驚きましたね。しかしその意味は、最初から全部読んじゃうと新しい発想とか、新しい仮説を作るとか、そんなふうにならないから、ということなんです。何か思いついたら、とにかく理論でゴリゴリ考えろ、10日か一週間あれば、何か結論がが出てくるでしょう。それまでまずやっちゃうんですと。他人の論文なんか読んでは駄目ですと言われた。」(伊丹敬之『創造的論文の書き方』有斐閣、p110-111)

ようやく夏休み後半の今頃になって、ルーティーンワークも終え、研究に集中出来る僅かな期間が戻ってきた。だからこそ、既存の内容の焼き直し、ではなく、新しい視点で今やっている内容をまとめるようなものを書きたい。そう力むのだが、どうしていいか当惑していた。だから、あっちの本で気づきを得て、こっちの本にフラフラ。そこで新たなキーワードに気づき、あわてて図書館に駆け込みいくつかの文献に当たって。なんてしているうちに、例の悪循環にはまって、気がつけばすっかり消耗していたのだ。

一番の問題、それは、他人の論(=考え)に依存・幻惑してしまい、自分の頭で考えなかったことである。自信のない時ほど、他人の智恵にすがりたくなる。だが、自分の中から何かを生み出そうという真っ当な苦労をすることなく、他人の御説を適当に編集しているだけでは、ぱっとしないことこの上なし。「何か思いついたら、とにかくゴリゴリ考え」るのである。その上で、ある程度の結論が自分なりに出るまでやってみて、「確認のために他人の論文を読」む。こういう当たり前の、基本の「き」、をすっかりきれいさっぱりに忘れていたのである。阿呆ですね。

で、この本の最後には、停滞状態を突き抜ける為の「5つの心がけ」も書かれていた。

「本質は何かを考える」「狭く入って、深く掘る」「鳥の目と虫の目を、使い分ける」「スピーディーに思考実験する」「言葉を大切に使う」

何故自分がこのテーマを「オモシロイ」と思ったのか、の本質を捉えようとしているか。そのために、あれこれ関連テーマも気になるけれど、欲張らずに対象を限定し、その対象に対してトコトンどっぷり浸かって考えられているか。そういうマイクロな虫の目と共に、ある程度書けた段階で、俯瞰的に「この考察は何の一部なのだろう」という鳥の目でものを見れるか。以上の事をするために、論理的な筋道を追いかける営みをスピーティーに行い、駄目なら次の論理展開を考える、というしつこさがあるか。そして、一番重要なのは、文章として書く時に、いい加減な言葉を使わず、適切な言葉を、適切な場面で使えるか。

こういう風に整理をしていると、職人さんが、自分の仕事の前に道具を研いだり磨いたりしているように、書き手も頭の中を研いだり磨いたり、を、特に書き始める前にはきちんと行っていくのが大切だ、とわかりはじめた。

時代を超えて変わらぬもの

 

お盆休みだから、という格別な理由もないのだが、この週末に偶然読んだ3冊は、色んな意味で「戦争つながり」であった。

「『瀬島さんはこれからどういう仕事をなさるんですか』と河野が聞いた。
『国家のために奉公します』
『国家のためとはどういう意味ですか』
……
瀬島は黙ったままだった。」(共同通信社社会部編「沈黙のファイル-『瀬島隆三』とは何だったのか」新潮文庫、p298)

元大本営参謀シベリア抑留某大手商社会長政界の「影のキーマン」、と変遷を遂げた瀬島氏の軌跡を辿りながら、第二次世界大戦の前後で、何が変わり、何が変わらずに残ったか、を浮かび上がらせていくノンフィクションの秀作。先の引用は、元関東軍の一兵卒であり、シベリア抑留中に瀬島氏を見たという河野氏が、戦後大気汚染訴訟の原告団として、臨調委員の瀬島氏に「再会」した折りのやりとり。河野氏の陳情に対して素っ気ない瀬島氏に河野氏が迫ったところの一シーンである。

ここに象徴されるように、瀬島氏には「枠組みのために身を捧ぐ」という「枠組み」があった。この枠組みの名称が、天皇、国家、会社と変わろうとも、枠組みを固守する、という型は、一貫して変わらなかった。そして、この枠組みを守るための戦略というか身のこなしというのが、抜きんでて良いと評価されたため、第二次大戦抑留のあとも、再び表舞台に立つ。この視点で見ると、個人や社会というより、ずっと枠組みに囚われていた人間の哀しさ、というものが、読後感におそわれる。彼が日本の第二次世界大戦参戦について、「侵略戦争ではない」と言い切ったのも、自身の枠組みの固執のためには、譲れない一線であった、とすれば納得出来る。そして、この枠組みの固執や堅持、は一軍人に限ったことではなかった。

「日本にとってアメリカは、欲望や憎悪の対象ではあったとしても、分析や観察の対象として戦略的には位置づけられてはいなかった。日本はむしろ、『アメリカ』を欲望し続けながらも、『鬼畜米英』の幻想的な標語によって敵国アメリカの実態を視界の外に追いやり、他者として直視することすら避けて内閉していた。」(吉見俊哉「親米と反米」岩波新書、p57)

文化社会学者の手による明治維新から戦後にかけての、日本社会のアメリカ受容と「政治的無意識」に関する考察は、先の瀬島氏を巡る論考の読後に見ていくと、興味深い。思わず「嫌いは好きのちょっと前」という言葉が浮かんでしまう。反米というのは、親米と対極ではなく、むしろ地続きで繋がっている。この切断されない無意識は、枠組みの固持により、敗戦後に急速な経済復興を遂げた日本社会にとっての、大きな固定資産だった。そして、GHQも、この固定資産を破壊せずに、冷戦時代の到来もあって、うまく活用した。その枠組みの固持の結果として、今の日本の繁栄がある。そう考えていくと、個人瀬島氏の戦争責任云々、だけでなく、彼は実に日本的価値観を体現した人、とも捉えることが出来る。つまり、これを書いている僕自身の中にある無意識をも、両書は浮かび上がらせているかもしれないからだ。

で、もう一冊読んだのは、うって変わって実に秀逸なるエッセイ。ただ、ここにも戦争の陰影が見事に記載されている。

「それにしても、人一倍食いしん坊で、まあ人並みにおいしいものを頂いているつもりだが、さて心に残るごはんをと指を折ってみると、第一に、東京大空襲の翌日の最後の昼餐。第二が、気兼ねしいしいたべた鰻丼なのだから、我ながら何たる貧乏性かとおかしくなる。
おいしいなあ、幸せだなあと思って食べたごはんも何回かあったような気がするが、その時には心にしみても、ふわっと溶けてしまって不思議にあとに残らない。
釣針の『カエリ』のように、美しいだけではなく、甘い中に苦みがあり、しょっぱい涙の味がして、もうひとつ生き死にかかわりのあったこのふたつの『ごはん』が、どうしても思い出にひっかかってくるのである。」(向田邦子「父の詫び状」文春文庫、p92)

このエッセイは、もう10年以上前に古本屋で買いながら、全くその後ご縁がなく、本棚に「積ん読」状態のまま、京都茨木神戸甲府、と居住地を変えてきた本だ。何の気なしに一昨日手にとってみて、グッと引き込まれていく。情景がこれ程までに目の前に浮かび上がるエッセイも珍しい。昭和の戦中・戦後の、僕が全く経験していないはずの食卓が、本当に具体的なディディールとして浮かび上がってくる。そんな珠玉のエッセイの中でも、10代に終戦を迎えた著者ゆえに、戦争の経験がそこかしこに出ている。だが、決して告発調でも、厭世的でもない。その時代を生き続けた著者が変わらず持ち続けた庶民としての視点から、食にまつわる記憶が紡がれる。ただ時折、「釣針の『カエリ』のように」、読み手をも引っかけてくるフレーズに、心を捕まれるのである。

同時代的な内容の読書だけでなく、時代も文脈も超えた内容にアクセスすることの大切さ(そして面白さ)をかみしめていていた週末だった。

書棚と頭の整理

 

週末の行脚のあと、月曜日には真面目に大学に。

前日夜、新大阪駅構内で買い求めた551の餃子を肴にビール白ワイングラッパと深酒をしていたので、少し二日酔い気味だが、約束があるので、よろよろ出かける。その約束とは、そう、学生さんにお手伝いを頼んで、半年以上ぶりに、研究室の大掃除をすることになったのだ。

そんなの一人で出来るでしょ、という声に対しては、ただただ、すんません、と答えるしかない。ただ、僕は昔から、部屋の整理が大の苦手。リスか何かのようにモノは溜め込むのだが、そのうち溜め込んだことをすっかり忘れ、溜め込まれたモノは部屋のあちこちに沈殿している。ゆえに、大掃除というと、そういう沈殿していたモノが日の目を見ることになる。「あ、こんな資料があった」「こんなのもとっておいたんだよねぇ」と、作業をやめる「言い訳」が一杯準備されているのだ。そして、色々読み始めたら、手も足も動かず、結局何も片づかないで過ぎてしまう、という悪循環に陥る。ゆえに、「次どうするんですか?」「これは捨てるんですか?」と急かされながら、渋々モードで進めないと、部屋は片づかない。ま、お陰でかなり片づいたのですが。

この前期は、他大学で初めての講義を持ったり、あるいはある研究グループは報告書作成の時期だったり、他の研究会で新たなジャンルに挑戦したり、と様々な事が重なったので、部屋の中も書架も、ぐっちゃぐちゃだった。多少はお勉強した痕跡、というか、戦った日々の残骸が部屋のあちこちにバラバラに散らばっている。まだ採点業務は残っているが、一方で夏休み中にしたい研究を、と考えるにあたっては、まずはこの前期の残骸を処分して、心機一転するしかない。もともとそう考えていた訳ではないが、部屋を片づけているうちに、やはり書架の整理をやるしかない、とわかって、心機一転モードに切り替わっていく。

本棚や書架の整理、というと、大きく分けて二つのやり方があると思う。例えば上野千鶴子氏や、うちの大学のM先生など広範囲をカバーする大蔵書家は、ジャンルも区切らずアルファベット順で整理しないと、収集がつかないそうな。しかし、まだ蔵書数がたいしたことない僕は、分野ごとに固めておいている。両者を比較すると、アルファベット順ならば、その著者の名前を思い出さないと見つけ出すことは出来ないが、ルールは機能的で整然としている。その一方、ジャンル別なら、大体このジャンルの本は、と見当がつきやすい一方、当時のジャンル設定と今の自分の気持ちが別なら、あるいは単に元の場所に戻さなかったら、当該図書は発掘出来ない危険性がある。最近、どうも本を探し当てられないことがある僕も、アルファベット順に対する興味があるが、しかし全ての著者の名前を覚える自信がなくて、分野ごとに固めておく、ということをしている。すると、蔵書数が増えたり、仕事の区切りの際には、本棚を入れ替える必要があるのだ。

で、前期の仕事がとにかくおわり、まずは机に一番近い棚に占めていた、福祉政策やノーマライゼーションに関する文献のグループを元の位置に戻していく。どちらも、講義の為に必要な文献グループだったのだが、特にノーマライゼーションのグループについては、講義を進める中で、学生とのやり取りに対応する為にも、施設福祉の文献も沢山途中で追加していった。ゆえに、講義が終わった後、新しいコーナーを作って、ノーマライゼーションと施設福祉・地域移行といった一区画をつくる。そして、前期の途中で学会発表したテーマについて、この夏もう少し調べて、別の学会発表につなげたい、と思いながら本を並べ直していると、別の区域においておいた数冊が、そのジャンルに関係している、と整理の中で気づいたりする。

つまり、ある区切りの段階で、改めて本の背表紙という現物を眺めながら、新しい文脈・関連づけを作り直す作業をしているのだ。一冊一冊は固有の主張をしていても、その本と本との間の関係性、自分が捉える意味づけを、自分なりに捉え直し、新たに定義づけ直して、書棚に新たに納めることによって、価値づけていく。書棚の整理は、主に動かすのは身体だけれど、やりようによっては頭もフル回転させ、そして次の仕事への原動力になっていく。これは大変だけれど、意義深い。

あと、本棚だけでなく、部屋を整理していると、一区切りがつき、新しい気持ちになれる。その感覚は、だいぶ前に読んだ「ガラクタ捨てれば自分が見える風水整理術入門」(カレン・キングストン 著、小学館文庫)に触発されているのかも知れない。風水整理術、というと、何だか胡散臭いと思う人もいるかもしれないが、著者の主張はとてもシンプル。ゴミだめのような部屋には悪い運気が流れる、きれいにすると、よい気が流れる、というもの。気の科学的存在の是非はさておき、実際部屋が汚いと、仕事をする気にならない。その本を読んで以来、焦っているとき、落ち着かない時、いらいらする時、やる気が出ない時は、とにかく部屋を片づけてみる。すると、気の流れ、もあるのかもしれないが、単純作業に集中する事によって、雑念のとらわれを追い出すことが出来、結果的に切り替えや場面転換が出来るようになったのだ。我が家ではこの本に感化されて、家人共々、以前よりはモノを捨て、甲府に引っ越してきた時よりは少しは整理がついてきたと思う。

とここまで書いてみて、ハッとこの自宅の仕事部屋を眺めてみると、雑然としていて汚い。せっかく昨日、大学で新たな関連づけを果たし、発掘した本も持ち帰ったのに、これでは仕事にならない。さて、昨日に引き続き、今日は自室の整理から始めますか。

骨太に二分法を超えるために

 

昨日は大学院時代の同窓会。言い出しっぺ故に「実行委員長」になってしまったので、司会進行役に徹してゆっくり昔の仲間と話すチャンスはなかったのだが、参加者から帰りがけに、あるいはメールで「参加してよかった」、と言われると、何だか嬉しい。こういうまさにボランティアの集いは、企画から実現まで結構面倒くさいことも沢山超えたけれど、参加者からの「ありがとう」という言葉に救われる、典型的な「やりがい」という名の報酬が得られる結果となった。

で、二次会の後、美人滋賀コンビの二人と京都まで新快速でご一緒し、久しぶりに実家に帰る。身体は結構疲れているのだが、何だか話したりない。司会でぺらぺらしゃべったが、そういうのじゃない、話、がしたい。そんな時、ひょんな弾みで、最寄りの西大路駅の近所に1人暮らしをしているナカムラ君を思い出す。もしかして、と思って電話をしてみたら、なんとお暇なそうな。ありがたや。早速駅前の本屋に呼び出してしまい、近所の焼鳥屋のカウンターで1時間ほどウダ話におつきあい頂く。同窓会は企画屋モードで、二次会含めて話し込むモードになっていなかったので、ナカムラ君とウダウダ話すうちに、ようやく、しゃべりたいモードが落ちついてくる。夜中なのに急に話につきあってくれて、旧友のナカムラ君は、感謝!多謝!

で、ナカムラ君と待ち合わせの、駅前の本屋で手に取った本は、今日の移動時間の間に、最近のもやもやを整理するための一助となった。

「宗教学は客観性を強調する。そこで言われる客観性とは、対象とのかかわりを断って、傍観者の立場に立つことを意味しない。ときには対象とぶつかり合い、火花を散らすことも必要になる。そのなかで本当に客観的といえる見方を確立していくことが、宗教学には求められる。その意味で、宗教学は自分という存在のすべてが試される学問なのである。」(島田裕巳『私の宗教入門』ちくま文庫、p265

オウムバッシングで大学を辞職に追い込まれた宗教学者。そういえば最近著作を割と出しているよなぁ、と思いつつ、今まで読んだことは無かった。そこで文庫だから、と手にとってみたのだが、結構おもしろい。自身の師から何を受け継ぎ、自分自身がどのようなイニシエーション体験をし、それを基にどう宗教学を教え、考えてきたのか、という筆者の遍歴を垣間見ることが出来る。対象領域が違っても、独自の視点で考え続けた先人の学びの軌跡を辿る本からは、後人が学べる部分は少なくない。そして、上記の引用部分は、宗教学を福祉社会学なり社会福祉学なりに入れ替えてみると、まさに自分自身にも当てはまる。

最近とみに思うのだが、山梨に引っ越してから特に、「対象とのかかわりを断って、傍観者の立場に立つ」だけではいられなくなってしまった。福祉政策という「対象」に対して、研修やアドバイザー、そして県自立支援協議会の座長など、気がつけば「当事者」性を持つようになってきた。その際、研究者として大切にすべき「客観性」とは何か、がよくわからなくなり、ぼんやり考えていた。そんな折りの、この島田氏の整理は、そうだよね、と膝を打つものであった。

「ときには対象とぶつかり合い、火花を散らすことも必要になる。そのなかで本当に客観的といえる見方を確立していくこと」、これは宗教学だけでなく、福祉を扱う学問でも必要だと思う。宗教学とアプローチや方法論は違えど、福祉も価値を扱い、かつ人間の生そのものに肉薄する、という点が宗教学と共通しているからだからだ。

最近、特に行政関係からお声がかかることが少なくない。そして、ご存じのように、世の中には行政にすり寄る、いわゆる「御用学者」なるものがいる。そういえば、件の島田氏もオウム真理教に一定の理解を示した、という意味で、「御用学者」とラベリングされた故に、激しいバッシングに遭う。しかし、この島田氏の本の中で、自身の師である柳川啓一氏の本を引用して次のように書いている。少し長いが、引用してみる。

「柳川先生は聖と俗以外の二分法についても暗号解読を試みていくべきだと主張し、『人びとの日常の世界と質を異にする別の世界を想定する二分法の認識にとらわれている所があれば、たちまちわれわれの視界の中に入る』と述べていた。ここでいう二分法には、左と右、内と外、東と西、生と死、子どもと大人、天と地、上と下などが含まれる。
柳川宗教学の立場からすれば、問題は、われわれの意識がこのような二分法によってとらわれている点にある。たとえば男と女との絶対的な差を強調し、両者の役割を固定的に考えるような見方は、二分法にとらわれたものとして宗教学の研究対象になるというのである。
ゲリラとしての宗教学は、二分法に対するとらわれを指摘することによって、結果的には人びとの意識を解放していくことになる。そこにゲリラのゲリラたるゆえんがあるわけで、宗教学の営みは文化的な解放闘争としての意味を持つことになる。一つの学問の枠にとらわれ、その方法を絶対化することはセクト主義として、ゲリラ性の対極にあるものと見なされる。」(同上、p252)

ここからもわかるように、島田氏のスタンスは、「二分法に対するとらわれを指摘すること」であった。ゆえに、オウム真理教=何の弁解余地もない絶対悪、という二分法に対しても、その「とらわれ」を指摘した。しかし、当時の断罪的なマスコミ報道の中で、一面的な断罪に同調しない氏の指摘は、白ではない(=断罪しない)、ゆえに黒(=やつらと一緒)という二分法的ラベリングの中に陥った。このあたりは、この文庫化に際して補論として加えられた「私の『失われた十年』」でも言及されている。ただ、この二分法に関する異議申し立ては、森達也氏の「A―マスコミが報道しなかったオウムの素顔」や村上春樹氏の「約束された場所で」などと通じる部分が大きいと感じた。

そうそう、だいぶ回り道をしたが、引用したのは、「御用学者」について考えたいからだ。確かにどの世界にも「御用学者」がいる。例えば早川和男氏も指摘してやまないが、審議会などでは行政の原案にお墨付きを与えるだけの、文字通りの「御用学者」にふさわしい方もおられるのも、一方で事実だ。他方で、だからといって、行政に関わる=「御用学者」というのも、「絶対的な差を強調し、両者の役割を固定的に考えるような見方」そのもののような気がしていた。批判されるべきは、行政に関わる研究者の「関与の仕方」という内容であり、「関与する」という形式のみを指して、「だから御用学者だ」という整理の仕方は、明らかに二分法的とらわれ、と言わざるを得ない。

「御用学者」になることなく、二分法的とらわれから自由になり、かつ客観的に学としてのスタンスを貫くためにどうすればいいか。それが、「ときには対象とぶつかり合い、火花を散らすこと」なのだと思う。対象世界を無批判に肯定するわけでも、全てを批判するのでもない。文字通り是々非々を貫くために、「ぶつかり合い、火花を散ら」し続けることが「本当に客観的といえる見方を確立していくこと」につながる。ただ、これは確か早川氏が書いていたことだと思うが、審議会など行政という「対象」と関わると、その相手の論理がわかる故に、気がつけば、その相手の論理に取り込まれる可能性は少なくない。つまり、ミイラ取りがミイラになる可能性がゼロではないのだ。だからこそ、対象の内在的論理をきっちり把握・理解した上で、それでも「対象とぶつかり合い、火花を散らすこと」をし続けることが出来るのか、が問われているのだと思う。

なるほど、最近もやもやしていたことの内実、自分に問われている内容、のようなものが少しずつわかってきた。では、上記のような骨太な「客観性」を持った人間にどう育つことが出来るのか。とんでもない宿題に気づいてしまったあたりで、ワイドビューふじかわ号は甲府盆地に戻ってきた。

二つの裁量

 

伊勢湾の朝日をホテルから眺める。山梨にはない光景である。もやがかかった昨朝とは違って、今朝の上空は澄んでいて、17階からは伊勢湾ごしに対岸の知多半島をもぼんやり眺めることが出来る。京都の盆地に生まれ育った僕にとって、水平線を眺められる、というのは、なんだか珍しく、故に大好きな光景の一つだ。

昨日は、ご当地の障害福祉に関わる方々の職員研修に関わらせて頂いた。その後、とある若手の自治体職員と話していたら、ぼそっと次のような感想を漏らされた。「目の前の仕事をこなすだけで必死だったけど、福祉の仕事って、理想を持ってやってもいいんですね。」 

どれほどの対価よりも、こういう感想ほど、嬉しいものはない。研修って何のためにやるのか、というと、もちろん知識や技術を伝えるのも大切だけれど、一方でその知識や技術を何のために使うのか、という魂の部分、というか、志の部分を伝えることも大切だ、と感じている。青臭いかもしれないけれど、そういう心意気は、ご自身の仕事の方向性に大きく影響している。

福祉の仕事は、特に市町村など最前線で行う業務は、その担当者のやる気や心意気、考え方といった一個人の裁量で、大きく変わる部分がある。これをリプスキーは「ストリートレベルの官僚制」として批判した。確かに、その担当者が「障害者は家族が基本的に支えるものであり、行政サービスはあくまでもどうしてもサポートできないかわいそうな人への残余的なものだ」と考えるなら、その人へのサービス支給決定はすごく限定的なものとなる。その一方、「重い障害があっても、この人は地域で自分らしく暮らす権利があるし、それを行政として、限られた財源の中でもどう支えられるかを一緒に考えたい」という気持ちで臨めば、相談支援事業者との連携の中で、何かを産み出すきっかけになるかもしれない。

つまり、行政担当者の裁量は、ポジティブにもネガティブにも働きうるのである。そして、厚労省が「好事例」として全国的に広める事例の中には、こうしたポジティブな裁量を活かした最前線の職員の努力の中から、現場の変革に結びついた場合も少なくない。福祉の世界では90年代以後、「カリスマ職員」という言葉がはやったが、彼ら彼女らの「カリスマ」な理由は、当事者の声にふれあい、自分の枠組みを超え、裁量権をポジティブに発揮して現場を変えてきたことが、滅多にない、カリスマ的な存在であったゆえ、と認識している。

そして、自立支援法の中で、相談支援体制や地域自立支援協議会のような、そういうカリスマ職員が個人的に切り開いてきたネットワークを公的な責任の下で行う「枠組み」が形作られた。だが、私が研修に呼ばれたように、おそらく全国的に、こういう「枠組み」をどう活かしていいのかわからない、という事態は少なくないと思う。これは三重や山梨だけでなく、この前、相談支援従事者初任者研修で訪れた札幌でも痛感したことである。つまり、形作って魂入らず、という事態が、今全国で見られているのだ。

だからこそ、研修の局面で、これまでの障害者福祉の流れを説明した上で、権利擁護やノーマライゼーションをキーワードに、どうして相談支援が大切なのか、を伝える仕事は、重要性を増してくる。その中で、仕事をされる最前線の方々が、自身の仕事にどのような意味や背景があり、どういう方向に向かって、どんな裁量を活かすことが、その地域の障害者福祉を充実するために大切なのか、に自覚的であってほしいからだ。そういう意味では、微力ながらも研修では知識や理念だけでなく、そこに魂を込めようとするし、それが伝わって冒頭のような感想を頂けると、少しはお役に立てた、という実感がわいて、すごく嬉しくなってしまうのだ。

もちろん、だからって図に乗ってはいけないし、乗るつもりもない。こういったことを人前で話せるようになったのは、多くの方々の実践から学ばせて頂いた叡智を、自分なりに受け止め、整理したにすぎない。つまり僕自身が、先人の多くのバトンを引き継ぎ、会場で聞いてくださっている方々に次のバトンを託したにすぎない。そういうバトンリレーの中で、制度だけでなく、魂も引き継がれていくのだ、と感じている。そして、引き渡した僕は、また次のバトンをもらうべく、次の地点に向けて、走りながら考え続けるのだと思う。その中で、時には論文や原稿という形で、時には講演、ある時には授業という形で、後の人にその走りながら考えた事を整理して、伝え、共有していく役割が自分なのかな、とも感じている。そういう意味では、研究者と言うよりは、媒介役としてのメディア的存在であるのかもしれない。

その際に、文字の原義である中間的存在、が「中途半端」にならぬよう、更に勉強せんとまずいなぁ、と思いつつ、これから大阪に向けて旅立つのであった。

記憶と閾値

 

名古屋から津に向かう近鉄特急の中でレッツノート君を開く。久しぶりにあった知人との議論の余韻が残っている。

Mさんとは、大学時代に深くコミットしたボランティア現場で「同じ釜の飯を食」った年長のお仲間、という間柄。ちょうど干支が一回り前の時代に、ある共通の目標に向かって戦った仲間である。その時の熱狂と騒乱を一緒に体験した仲間として、同じ戦場にいたのがわずか10ヶ月間だった、と伺い、改めてビックリしてしまう。なぜなら、僕はそのMさんと、少なくとも2,3年は一緒にいたと思いこんでいたからである。それほど、その時期、その現場を共有した空気は濃密で、自分にとっては忘れがたい経験だった。それは、インド料理屋でビール片手に昔話に花を咲かせるMさんも同じだと思う。

その内容を、12年たった今でも、まだ具体的に書くことにはためらいがある。それほど、自分の中では過去形になっていない、生々しい体験なのだ。だからこそ、客観的に「あの頃は」と振り返ることに躊躇を感じてしまう。

若い頃は、20代までは、10年というとトンでもないロングスパンのように感じた。もちろん、今だってロングスパンである事には原則変わりない。だが、自分の中で蓄積された経験としての10年の中には、すっかりその時の事を跡形もなく忘れてしまったエピソードが大半であるが、上記のように、未だにそれを対象化して客観的記述をすることがためらわれるほど、アクチュアルでリアルな記憶として残っているものもある。もちろん、記憶、というくらいだから、Mさんとしゃべっていても、言われてみて初めて思い出すことも多い。だが、そこで思い出される記憶はまだ鮮やかで、さっと出てくるし、一旦出てきたら、ちょっと前の記憶のように蘇るのだ。

記憶、と言えば、明後日は大阪で大学院時代の同窓会が開かれる。これも記憶の一つ。こちらは、もう対象化して書き出しても良い記憶。どうやら自分の引き出しの中には、寝かせる必要のないゴミのような記憶だけでなく、数ヶ月、数年熟成させると芳醇な味わいを見せる記憶や、あるいは12年如きでは「寝かせる」度合いが少ない、深みが足りない、そんな記憶もあるようだ。

そういえば、村上春樹があるエッセイ(確か「遠い太鼓」だったと思うが)の中で、滞在記や旅行記など自分の体験を軸とした文章を書く場合、その体験の直後にはメモを取り(場合によってはそれもせず)、体験の後一定の時間、その記憶を寝かせてから書き上げる、と書いていたような気がする。ただ、この村上春樹のエッセイの発言の記憶自体、既に僕自身のフィルターが入った「うろ覚え」なので、正しいという自信はないし、事実の成否はどうでもいい。大切なのは、この村上春樹のエッセイを思い出して書いているように、ある対象を、今の自分のコンテキストに引きつけて書くためには、一定時間を沈殿させることが大切だ、ということである。そうしないと、体験なり経験そのものの力に引っ張られてしまい、それをくぐった自分の核のようなものが消えてしまうからだと、今の自分は考える。

大学院時代のあれこれも、もちろん自分のその後の人生を形成する上で、とても大切な体験であり、一時代の経験である。それは間違いない。だが、今年同窓会をしよう、と実は言い出しっぺが僕自身なのだが、そう言いたくなり、仲間と動き始めたきっかけは、大学院生が終わってはや5年半、という期間の中で、そろそろ昔の仲間ともう一度集いたいよな、という閾値、というか、臨界点に達したからだと思う。そういう体感する閾値感覚は、結構大切だと思う。そして、この閾値は、体験した内容の深さや時間、だけでなく、インパクトの強さや、その後の自分の人生に与えた影響の大きさによって、大きく異なるような気がする。

冒頭のMさんと一時期共有した、大学生時代の思いでは、まさに竜巻の渦に飲み込まれたような日々であり、まだ、言語にして書いてみよう、という閾値に達していない。それほど、ディープに自分の中に根付いている、と、これを書きながら改めて理解した。

断っておくが、別にトラウマ体験とか、そういったネガティブな経験ではない。自分が今、出張で三重に来ることになったのも、就職活動をほとんどせずに大学院に行くことになったのも、その大学院で将来の生活を方向付けることになったのも、そして縁あって山梨の住民になったのも、もとはといえばこの竜巻の渦に巻き込まれた経験が遠因にある。そんな追憶をかみしめながら、駅前のホテルから、伊勢湾の対岸に光るセントレアの夜景をぼんやり眺めていた。

峻別する視点

 

「テクストは、語ることによって騙り、(語ってよさそうなことを)語らないことによって語るのである。」(竹内洋著『丸山眞男の時代』中公新書、p201)

戦後最大の知識人の一人である丸山眞男の膨大なテクストや、それ以上に山ほどある「丸山論」を図として、その背後にある「語ってよさそうな」語られていないこと(地)を探りながら、大学や知識人、ジャーナリズムの果たした歴史的役割やその変遷を捉えた一冊。

以前取り上げた間宮陽介氏による「丸山論」が、正統派、というか、「彼がどのような問題と格闘したかを理解する」ために、「思想家という生身の人間の歴史と社会の歴史とそして思想の歴史という三つの歴史の交わる地点」を丹念に追いかけた力作とするならば、竹内氏の新書は、蓑田胸喜という戦前・戦中に活躍した右翼思想家を丸山理解のための「補助線」として用いることによって、「語ることによって騙」られている、つまりは無意識or意識的に外されている論点を焙り出そうという手法である。テキストを徹底的に読み込むことによって「語り」の背後にある著者の格闘を追体験しようとする間宮「丸山論」と、外側にある「語らないこと」から新たな丸山像を出そうとする竹内「丸山」論。対称的な両者の論だからこそ、図と地をつなぐ事が出来、複眼的に「丸山眞男」を通じての現代史を振り返ることが出来た。甲乙つけがたいほど、両方ともオモシロイ。

ただ、今回の竹内「丸山論」の最大の面白さは、丸山が代表する主流派知識人に対して糾弾姿勢をとった戦前の「蓑田的なるもの」(国家主義)と、戦後の「全共闘世代」(マルクス主義)が、「政治的教養主義としては等価なもの」(p286)と整理してみせた部分や、あるいはその補助線を元に次のようにまとめているポイントなどであろう。

「晩年の丸山の研究は、長い間、生理的嫌悪の対象でしかなかった蓑田・原理日本社的なるものへの正面からの格闘であった」(p272)

「補助線」の活用によって、「(語ってよさそうなことを)語らないことによって語る」部分とは何かを指摘し、丸山の意図をより立体的に焙り出そうとする著者の論点の鮮やかさが際立っている部分のひとつでもある。

僕自身は思想家ではないし、なれる能力もない。だが、一読者として、ジャンルは別だけれど研究の世界の端っこにいる人間として、この竹内氏が焙り出す「方法論」は、多いに学ぶ点がある。冒頭に引用したが、テクストの中から、「語ることによって騙り」、つまり煙に巻かれている部分と、「(語ってよさそうなことを)語らないことによって語る」部分を峻別する視点をこそ、ちゃんと持ちたいよなぁ、と思わせてくれる一冊だった。

暗黙の価値観

 

3日(日)の朝日新聞3面と社説では、介護・看護における外国人労働者の受け入れに関する記事が大きく載せられていた。そして、社説のタイトルは「ケアの開国」。こういう記事を読んでいると、何だかなぁ、と思ってしまう。それは、記事が暗黙の前提としているいくつかの「事実」が、強く一定方向の「価値」を帯びている、と感じてしまうからだ。

例えば、外国人労働者を受け入れる前提として「人手不足の解消」というのが、「事実」として語られる。しかし、そもそも「なぜ」人手不足なのか、については、「労働環境がきびしく」としか書かれていない。では「なぜ」労働環境が厳しいのか、について、言及することなく、社説では次のように書いている。

「まずは働く人がそこでがんばろうと思える職場に変えることだ。特に介護の職場では、重労働のわりに低い賃金が離職の主な原因になっている。そのような労働条件を放置したままで日本で腕を磨こうと海を越えてくる人たちを失望させてしまうのではないか。来日志望者たちは、高い学歴や実務経験があり、将来はリーダーになれるような人たちだ。」

これを読んで、ボンヤリ頭の私でも、「おいおい」と思ってしまった。たった数行のこの文章は、事実の表明ではなく、多くの価値が投影されている。前半の「介護の職場では、重労働のわりに低い賃金が離職の主な原因になっている」という所までは、否定出来ない事実だ。だが、その後、急に外国人労働者が「失望」と書いてある。しかし、ちょっと待って、そもそも、人手不足になっているのは、この「労働条件の放置」にまず「失望」したのは、国内の労働者ではなかったか? その国内労働者が「もう介護分野には戻って来ない」という価値判断をした上で、更に「来日志望者」は「将来はリーダー」になる、つまり「介護分野は外国人労働者が支配的になる」という価値判断をしている。さらっと事実言明のような装いをしながら、大きな分岐点を軽々と超え、価値判断をしている。この価値判断、本当に正しいの?

大阪にいる時にはよくわからなかったが、山梨に来てよくわかったことがある。それは、特に地方出身の若者の多くが、自分が生まれ育った地方で暮らしたい、と願っている、ということである。親の面倒を見たい、住み慣れた地域がいい、東京は怖いいろんな理由があるが、ともあれ、生まれ育った地域で住みたいという人は少なくない。だが、大都会以外では、安定した収入を確保出来る労働が少ない。だからこそ、私の所属校のように、公務員試験に受かる学生が多い、という大学には、全国各地の「地方」とよばれるエリアから、多くの志願者がやってくる。ゼミ生に聞いても、「実家の近所で安定収入があるって、やっぱ公務員くらいしかないっすから」という答えが返ってくる。そして、生まれ育った地域での「安定収入」、という幻想が、少なくとも3年前くらいまで、介護の分野でも続いていたのではないか?

介護は、全国あまねく全ての地域で必要とされる。しかも、地方に行けば行くほど、そのニーズは一般的にいって強い。地元経済が弱い(少ない)地域であっても、確実に要介護者はいる。だから、介護や福祉の分野なら、食いっぱぐれはないだろうし、地元でずっと暮らせるのではないか? 90年代の福祉学部のバブル的増加や、社会福祉士・介護福祉士など空前の国家資格取得ブームの背景に、こういう「地方のニーズ」が少なからずあったと思う。しかし実態はご案内の通り、政府の社会保障費の伸び率の抑制等により、介護報酬を減らし、看護の世界でも人手不足が激しい。「重労働のわりに低い賃金」という現実が構成されている。福祉学部の定員割れも、ここ一二年ひどいらしい。だが、ここで朝日の社説では外されているが、この現実を変えたら、私はまず日本人の労働者が戻ってくる可能性があるのではないか、と思っている。

勘違いして頂きたくないのは、私のこの整理は、外国人労働者の排除を意図しているのではない。そうではなくて、まずは国内労働者の、特に「地方で働きたい」というニーズに応えていない中で、付け焼き刃的に「安かろう」の発想で外国人労働者をこの分野に導入することは、結局のところ、当の外国人労働者だけでなく、日本人の潜在的労働者の排除にも繋がるのではないか、という点である。

昨年の2年生ゼミでは、介護労働者の労働実態に関して県内での調査を行った。その中でわかったことは、介護の仕事にやりがいを感じる人は全体の53%に達する一方で、賃金に不満のある人は46%という結果だった。この結果は県の社会福祉協議会の季刊紙に掲載して頂いたが、結構反響が大きく、報告書が欲しい、と、いう問い合わせもいくつかった。(その掲載紙「やまなしの福祉」2008年5月号はネットでみれます)

介護保険スタート以後、介護労働に関わり始めた労働者の少なからぬ数が、仕事そのものにはやりがいを感じている。だが、その一方で、低賃金という待遇上の問題から、離職を含めた検討をしている、というのだ。つまり、人手不足はその労働自体の魅力のなさ、ではなさそうだ、というのが、山梨で調査したゼミ生達の調査から明らかになっただけでなく、実はこないだ発表された全国調査も同様の結果だった。介護労働安定センターの調査によると、平成19年度での介護労働者の「現在の仕事の満足度」としては「仕事の内容・やりがい」が55.0%である一方、「働条件・仕事の負担についての悩み、不安、不満等」について、「仕事のわりに賃金が低い」が49.4%を占めた、という。(平成19年度介護労働実態調査結果

ただ、もちろん、仕事は金だけではない、というのも確かだ。どんな仕事であれ、対価だけがインセンティブになっているわけではない。やりがい、働きがい、そこでの人間関係や充実感によって、仕事を継続するか、辞めるかが変わってくる。とはいえ、そもそも対価が低いとわかっていて、やりがいがあるから頑張りなさい、というのは、とみたさんも言うようにガソリンをくべずに「死ぬ気で頑張れ」と言っているのに等しい。ガソリンを入れずに、あるいはガソリンの量を極端に減らして、精神論だけで頑張りなさい、無理なら、外国人で穴埋め、という発想(=この記事が前提としている暗黙の価値観)は、60年前以上に日本が突き進んだ道と全く変わっていない。その悲劇を何度繰り返せば済むのだろう

事実の背後にある価値観を前景化させるために、「なぜ」としつこく問い続けること。このごく当たり前のことが、今更ながら、すごく大切だよなぁ、とこの記事を読みながらため息をついていた。

真似て学ぶ

 

ようやく夏休みモードに入る、と共に、既に夏バテ。夜、クーラーをつけると、てきめんお腹に負担が来る。小さい時から冷たいモノを飲んではお腹を壊していたが、その名残のようだ。

夏のお昼、と言えば素麺に限るのだが、でもそれも冷やっこい。付け合わせに何か腸を温かくするものを食べないと、と思って冷蔵庫を覗いてみたら、つるむらさき君がいる。そう言えば、台湾やバンコクで菜っ葉の炒め物なんて食べたよなぁ、と思いながら探索すると、山梨産の美味しいニンニクや干しエビを発見。オリーブ油でとんがらしとニンニクを炒めた後に、つるむらさき君とインゲン豆君も放り込んで、白ワインで少し蒸す。仕上げに干しエビを放り込んだが、後で考えたら最初に入れた方がよかったかも。まあ、何はともあれ、ピリリと辛みの効いた炒め物が、素麺をゆでている間に出来上がる。当然、うまい。腸が温かくなる食べ物だ。

で、一杯汗をかいた後、水浴びをして、そろそろ採点をと思いながら、同僚の先生にお借りした「トゥーランドット」をDVDで流してみる。そういえば件のY先生は「イッヒッヒ、夏休みの仕事の邪魔を」などと仰っておられ、何のことかよくわかっていなかったのだが、DVDが流れ始めるとよくわかった。確かに、ひとたび見始めたら、面白くて、仕事を忘れて見入っていたのだ。

このDVDをつけるまで、オペラなんぞ高尚なもので自分にはさっぱりご縁のないもの、と思い込んでいたが、さにあらず。中国北京を舞台にしたこのドラマ、途中で「ピン・ポン・パン」なんて3役が出てきたり、喜劇的側面も充分に取り入れた、西欧人からすると「異国情緒たっぷり」なストーリー。20世紀初頭の、まだテレビも衛星放送もなかった時代に、劇場にいながら異世界を垣間見るための仕掛けとお芝居、それらをまとめていく音楽的熱狂、という構成は、高尚でも何でもなく、ほんとにオモシロイ。講談師が「それからそれから」なんてストーリーテリングする代わりに、なぜだかみんなが歌いながら話をつないでいく冒険活劇、そんな風にストンと落ちたあたりから、テレビに釘付けだった。久しぶりに二時間、テレビにかぶりつく。後二本も、こりゃ楽しみだ!

てなことを書くと、たまにこのブログを覗かれる友人のチエちゃんならきっと、また師匠かぶれして、と揶揄するかもしれない。そう、私の師匠は、ジャーナリストよりイタリア料理のシェフかオペラ歌手の方に真剣になりたかった、という多趣味な方。私が料理に興味を持ったのも、クラシックの面白さに気づいたのも、多分に師匠を間近で見ていたからだ。そんな「まねし」を揶揄されるのもなぁ、と思っていたら、思わぬ援軍の文章に出会う。

「物書きは恋の達人だ。他の作家にすぐ恋してしまう。実はそれが書くことを学ぶ方法なのだ。物書きはある作家を気に入ると、その人の振る舞い方やものの見方が理解出来るようになるまで、全作品を何度も繰り返し読む。恋人になるとはそういうことだ。自分の中から抜け出し、誰かの皮膚の内側に入っていく。人の作品を愛する能力とは、そんな可能性を自分の中に目覚めさせることなのだ。それはあなた自身を大きく広げることはあっても、物真似屋にすることはけっしてない。人の作品の中で自然だと感じられるものは、やがてあなたの一部になり、書く時にその動作のいくつかが使えるようになる。」(ナタリー・ゴールドバーグ『魂の文章術』春秋社、p117)

僕は、師匠の「内弟子」のように、弟子入りをした。間近で弟子としていさせて頂いたのは、5年近くになるだろうか。師匠の近くで、その師匠の「振る舞い方やものの見方が理解出来るようにな」りたい、と切実に願った。自分「自身を大きく広げ」たいのだが、どうしていいのかわからなかった20代の僕にとって、師匠は憧れの存在だった。そんなに簡単に近づけない、遠い目標だった。だからこそ、まずは「振る舞い方」や口調を真似することから始めた。いや、意識して真似た、というより、その方の「振る舞い方」から、料理や音楽など、自分が経験したことのない世界の豊かさを気づかせて頂いた、というのが正しいのかもしれない。そうすると、師匠から勉強だけでない、人生の多くのことを学ばせて頂いてきたし、今も学ばせて頂いている途中である。

この、師を真似て学ぶ、という姿勢は、実は大学院時代が初めてではない。昔から、憧れを持つ対象に対しては、その対象と一体化することによって、何かを学び取ろう、というクセが気づいたら自分にはあった。中学時代に通った塾の塾長、予備校時代からお世話になった英語の先生、そして師匠、とその時代に憧れを持つ人は変わるが、その師匠を真似ることから学ぼうとする、その型は一貫していたと思う。だから、大学時代、昔通った塾で講師をしていた時には「塾長そっくり」と言われ、予備校で教えていた時には、「予備校の先生そっくり」、大学院では「師匠そっくり」と言われた。別に多重人格になったのではなく、自ずとその所作が頭の中に入っていたのだろう。師の「振る舞い方」から入ることによって、いつしかその方の「ものの見方」(の一部)を獲得出来るようになりたい、そんな欲求からスタートしたのだと思う。だから、型から入る武道や歌舞伎など、やってはいないけれど、何となく共感を覚えたりもする。

そして、今、書き手の端くれになり始めたが、折に触れ師匠の「全作品を何度も繰り返し読む」。代表作など、何度読み返したかわからないが、発見がある。ワンフレーズをふと読んでも、そういう切り口なんだ、と学び直せる。「自分の中から抜け出し、誰かの皮膚の内側に入っていく」ことで、自身の狭い世界観を乗り越えるチャンスを頂けるのだ。そういう経験を10代から20代にかけて、何人かの師の下で学ばせて頂いたこと、これほど文字通り「有り難い」経験だ。

その経験を糧として、「物真似屋」ではなく、何か書き始めてみたい。ナタリーさんの本を読んでいると、そんな内奥の「魂」の部分が揺さぶられるような気がする。