名古屋から津に向かう近鉄特急の中でレッツノート君を開く。久しぶりにあった知人との議論の余韻が残っている。
Mさんとは、大学時代に深くコミットしたボランティア現場で「同じ釜の飯を食」った年長のお仲間、という間柄。ちょうど干支が一回り前の時代に、ある共通の目標に向かって戦った仲間である。その時の熱狂と騒乱を一緒に体験した仲間として、同じ“戦場“にいたのがわずか10ヶ月間だった、と伺い、改めてビックリしてしまう。なぜなら、僕はそのMさんと、少なくとも2,3年は一緒にいたと思いこんでいたからである。それほど、その時期、その現場を共有した空気は濃密で、自分にとっては忘れがたい経験だった。それは、インド料理屋でビール片手に昔話に花を咲かせるMさんも同じだと思う。
その内容を、12年たった今でも、まだ具体的に書くことにはためらいがある。それほど、自分の中では過去形になっていない、生々しい体験なのだ。だからこそ、客観的に「あの頃は」と振り返ることに躊躇を感じてしまう。
若い頃は、20代までは、10年というとトンでもないロングスパンのように感じた。もちろん、今だってロングスパンである事には原則変わりない。だが、自分の中で蓄積された経験としての10年の中には、すっかりその時の事を跡形もなく忘れてしまったエピソードが大半であるが、上記のように、未だにそれを対象化して客観的記述をすることがためらわれるほど、アクチュアルでリアルな記憶として残っているものもある。もちろん、記憶、というくらいだから、Mさんとしゃべっていても、言われてみて初めて思い出すことも多い。だが、そこで思い出される記憶はまだ鮮やかで、さっと出てくるし、一旦出てきたら、ちょっと前の記憶のように蘇るのだ。
記憶、と言えば、明後日は大阪で大学院時代の同窓会が開かれる。これも記憶の一つ。こちらは、もう対象化して書き出しても良い記憶。どうやら自分の引き出しの中には、寝かせる必要のないゴミのような記憶だけでなく、数ヶ月、数年熟成させると芳醇な味わいを見せる記憶や、あるいは12年如きでは「寝かせる」度合いが少ない、深みが足りない、そんな記憶もあるようだ。
そういえば、村上春樹があるエッセイ(確か「遠い太鼓」だったと思うが…)の中で、滞在記や旅行記など自分の体験を軸とした文章を書く場合、その体験の直後にはメモを取り(場合によってはそれもせず)、体験の後一定の時間、その記憶を寝かせてから書き上げる、と書いていたような気がする。ただ、この村上春樹のエッセイの発言の記憶自体、既に僕自身のフィルターが入った「うろ覚え」なので、正しいという自信はないし、事実の成否はどうでもいい。大切なのは、この村上春樹のエッセイを思い出して書いているように、ある対象を、今の自分のコンテキストに引きつけて書くためには、一定時間を沈殿させることが大切だ、ということである。そうしないと、体験なり経験そのものの力に引っ張られてしまい、それをくぐった自分の核のようなものが消えてしまうからだと、今の自分は考える。
大学院時代のあれこれも、もちろん自分のその後の人生を形成する上で、とても大切な体験であり、一時代の経験である。それは間違いない。だが、今年同窓会をしよう、と実は言い出しっぺが僕自身なのだが、そう言いたくなり、仲間と動き始めたきっかけは、大学院生が終わってはや5年半、という期間の中で、そろそろ昔の仲間ともう一度集いたいよな、という閾値、というか、臨界点に達したからだと思う。そういう体感する閾値感覚は、結構大切だと思う。そして、この閾値は、体験した内容の深さや時間、だけでなく、インパクトの強さや、その後の自分の人生に与えた影響の大きさによって、大きく異なるような気がする。
冒頭のMさんと一時期共有した、大学生時代の思いでは、まさに竜巻の渦に飲み込まれたような日々であり、まだ、言語にして書いてみよう、という閾値に達していない。それほど、ディープに自分の中に根付いている、と、これを書きながら改めて理解した。
断っておくが、別にトラウマ体験とか、そういったネガティブな経験ではない。自分が今、出張で三重に来ることになったのも、就職活動をほとんどせずに大学院に行くことになったのも、その大学院で将来の生活を方向付けることになったのも、そして縁あって山梨の住民になったのも、もとはといえばこの竜巻の渦に巻き込まれた経験が遠因にある。そんな追憶をかみしめながら、駅前のホテルから、伊勢湾の対岸に光るセントレアの夜景をぼんやり眺めていた。