友人の勅使川原真衣さんが、またまたエッジの効いたタイトルの新書を出されて、ご恵贈頂いた。『「頭がいい」とは何か』(勅使川原真衣著、祥伝社)。これは「既得権益」に喧嘩を売る本に違いない。そう思いながら読んでいたら、やっぱり出てきた。
「一方で、能力主義を問い直すテーマについて講演などで話すと、必ず出てくる意見があります。
いわゆる勝者側に立つエリートたちからの、『いやいや、日本は競争がまだまだ足りていない』『競争しないと国力が落ちる。いまの日本があるのは高度経済成長期を経て競争を勝ち抜いてきたらでしょう』などの反対意見(というか自説の発表)の数々です。
・・・仰りたいことはよくわかります。
本音のところでは、日本の国力云々よりも、『勅使川原さんは僕らの頑張りを否定するんですか? どんな思いで努力してきたかわかっていますか?』と訴えたいのだということも。能力主義の弊害について語ることが、『自分たちの努力の否定』だと受け取られていることも。」(p137-138)
あ、テッシー、言っちゃったよ、ほんとうのことを!!!!!
実は僕だって、授業中に学生から「日本は競争がまだまだ足りていない」「競争しないと国力が落ちる」という批判に毎年のように晒されるので、めちゃくちゃよくわかる。それは、競争主義の、その象徴的で最大なものとしての受験勉強の、一定以上の勝者だと自己認識している人にとって、能力主義に問いを挟むこと自体が、「僕らの頑張りを否定するんですか? どんな思いで努力してきたかわかっていますか?」というアイデンティティを揺さぶる大問題であるからだ。ただ、テッシーは容赦しない。
「『もっと競争すべきだ』と主張する勝者のみなさんは、ぜひ想像してみてください。自分が歩いてきた道の後ろには、たくさんの屍の山があったかもしれない事実を。なんなら、あなたが見殺しにした人もいたかもしれないことを。少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげてきたことを。」(p139)
このジャブは実に痛烈であり、僕自身もヒリヒリする部分がある。僕だって、子育てをする以前は猛烈仕事中毒で、Pubilsh or Perish(出版するか、消え去るか)という業績至上主義に強迫観念的に支配されていた。その時期に、僕は身近な誰かを、象徴的な意味でも「見殺しにした人もいたかもしれない」し、「少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげてきた」可能性も十分にありうるのだ。それが、胸に迫ってくる。産休明けの元同僚が仕事を休むたびに「ズルい」と思ってしまった愚かな記憶については、僕が能力主義と闘った一冊『能力主義をケアでほぐす』(晶文社)に載せている。
そして、テッシーは「頭がいい」と喧伝される事態について、以下のように宣言する。
「職に就いていなかったり、有形無形の傷付きがあったりして、いま、社会生活を送ることができない人はどうなってしまうんですか?
『頭がいい』って、もしかして結果論なのではないですか?
たまたま諸条件が噛み合い、うまいことやれている人のことを指しているように思えてなりません。
『頭脳』以外の多面的な要素を兼ねそろえて、武装した強い個人でないと生きられないような社会があるとしたら、そちらのほうにこそよっぽど根深い問題があるのではないでしょうか。」(p66)
「たまたま諸条件が噛み合い、うまいことやれている人」の「結果論」を指して、「頭がいい」と言っている。つまり運のいい人だけじゃん!と喝破しているのである。テッシー、またも言っちゃったよ!
でも、それはマイケル・サンデル先生も同じ事を言っているのである。
「能力主義者は、あなたが困窮しているのは不十分な教育のせいだと労働者に向かって語ることで、成功や失敗を道徳的に解釈し、学歴偏重主義—大学を出ていない人々に対する陰湿な偏見—を無意識のうちに助長している。」(マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)p132)
たまたま大学を出る頭脳があり、ヤングケアラーでなく、貧困家庭でもなく、虐待も受けず、歯を食いしばって努力できるほど体力・免疫力・集中力があり、競争の枠組みに嫌悪感を覚えず従順に従うことができ、その結果として、「頭がいい」人は「武装した個人」になれたのかもしれない。でも、「職に就いていなかったり、有形無形の傷付きがあったりして、いま、社会生活を送ることができない人はどうなってしまうんですか?」「武装した強い個人でないと生きられないような社会があるとしたら、そちらのほうにこそよっぽど根深い問題があるのではないでしょうか」というテッシーの問いに対して、「頭がいい」人はまともに応えてくれない。社会構造の問題を「頭の良さ」を使って一緒に考えてくれるのではなく、「勅使川原さんは僕らの頑張りを否定するんですか? どんな思いで努力してきたかわかっていますか?」と、自己肯定を求めるクレームを行う。
これって、現状の枠組みは変えられないと諦めきった上で、その枠組みのゲームがどれだけ欺瞞的で抑圧的であっても自発的隷従した上で、その枠組み内での勝者になること=ゲームのルールや枠組みは決して変えられないと切り捨てること、を意味している。だからこそ、「職に就いていなかったり、有形無形の傷付きがあったりして、いま、社会生活を送ることができない人」のことを、「あなたが見殺し」にしようが、「少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげてきたこと」をも不問にしてはいないか、と。
これは非常に倫理的な重い問いなのである。
その上で、テッシーがこの間一貫して主張している以下のフレーズは、非常に染み入る。
「『能力』とはそもそも、個人の内側にある絶対的・固定的な存在ではありません。本来の『能力』とは、環境や運、タイミング、人間関係などの組み合わせによって、発揮されたり、されなかったりする『状態』にすぎないのです。つまり、文脈依存的であり、状況ごとに揺れ動くものでもあります。
このあたりの本質を見失ってしまうと、組織も個人も迷走を続けることになります。」(p133)
「頭がいい」とは「文脈依存的であり、状況ごとに揺れ動くもの」である。これの何が問題なのか。それは自分が血の滲むような努力した結果手に入れた結果である、と思い込んでいる既得権保持者=現に「頭がいい」と自傷している人々の存在がものすごく揺さぶられるからである。努力して積み上げた頭の良さだから、それは資産価値であって、目減りするはずがない! この信念というか社会通念が破壊されるのを何より怖れているのは、他ならぬ「頭がいい」とされている人々なのだ。
だが、「頭がいい」のが「文脈依存的であり、状況ごとに揺れ動くもの」である証拠は多様にある。例えば、先日行われた福井県知事選挙の勝者が、選挙期間中に、『日本は単一民族』と語ったことについて、彼と同じ外務省出身の作家、佐藤優は以下のようにコメントしている。
「佐藤さんはコメントで、石田氏が自身と同じ外務官僚出身であるとし、「外交官試験に合格した人で『日本は単一民族国家である』という事実誤認をしている人はいないと思います」と指摘した。仮に外務官僚がこうした発言を繰り返せば、「信用失墜行為で処分されると思います」とも記した。
その上で佐藤さんは、石田氏も、発言が事実誤認という認識は「持っていたと思います」として、それでも発言したのは「選挙に当選するために有利だったからというプラグマティズムに基づくものと私は見ています」との見方を示した。「発話主体の誠実性に欠ける人物であっても県知事に当選できるというのが、日本の民主主義の現状です」と、コメントを締めくくった。」
(事実誤認の認識、持っていたとしたら 佐藤優さんの「コメントプラス」)
「頭がいい」某氏は、『日本は単一民族国家である』ということが「事実誤認」であると認識していた。だが、それでも発言したのは「選挙に当選するために有利だったからというプラグマティズムに基づくものと私は見ています」と佐藤氏は説く。これは某氏に限った話ではない。東大やアメリカの大学院を出ている優秀な元官僚で、政治家に転身をした人が、おなじような「選挙に当選するために有利だったからというプラグマティズムに基づ」いた発言をしている様子は、ネットで調べたら、すぐにわかる。つまり自らの頭の良さを、「文脈依存的であり、状況ごとに揺れ動くもの」にあわせて、発言もコロコロ変えられるのが、頭の回転の良さなのである。
そして、僕はそんな頭の回転の良さは、嫌である。
それは、自己都合や自己利益の最大化のみを目指した「頭がいい」の使い方であり、そういう使い方をしていると、他人を「見殺しに」するかもしれないし、「少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげ」るかもしれないからだ。そんな社会は、嫌だ。
では、この「頭がいい」幻想から離れて、どんな社会を目指せばよいのか? テッシーは、以下のように語る。
「本来の私たちは誰もが未熟な人間です。未熟さを補い合って、一緒に生きていくしか道はないのです。
異なる意見や立場をすぐに切り捨てず、いったん立ち止まって考える。その地道な粘り強さを取り戻すことが、ポスト『頭がいい人論』の核心にあります。
人が人として生きるためには、面倒くさいことをちゃんとやる時間が必要だ、と言い換えてもいいかもしれません。
私たちは、みんな少しずつ頭がいいところもあれば、頭が悪いところもあって当たり前。その上で、他者と共に考え、複雑さに耐えながらも、問いを手放さずに生きていく。私はその状態をこそ、『知性』と呼びたいと思います。」(p202-203)
「異なる意見や立場をすぐに切り捨てず、いったん立ち止まって考える」。これは自分が当選するためには事実誤認をしてでも迎合するスタイルの逆である。それは、「他者と共に考え、複雑さに耐えながらも、問いを手放さずに生きていく」ことであり、そのプロセスこそが「知性」だとテッシーは言う。
週末、衆議院選挙がある。自分の選挙区のどの候補者が、「異なる意見や立場をすぐに切り捨て」る形の「頭のいい」発言をしているか。自らの未熟さを認め、「面倒くさいことをちゃんとやる時間が必要だ」と丁寧に議論している候補者は誰か? これはYoutubeの映像とかを見ていたら、ぼんやり浮かび上がってくる。それは、比例区の政党選びにおいても同じである。誰に投票してよいかわからない、と言う人ほど、この本を読んで、「職に就いていなかったり、有形無形の傷付きがあったりして、いま、社会生活を送ることができない人」のことを、「見殺し」にしたり、「少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげてきたこと」をも不問にする人を「選ばない」というのが、「知性」なのではないか、と思う。
なので、今すぐ買って読むべし(^_^)