子どもの自主性を促す「庭師」へ

子どもとネット依存に関する本を読んでいて、自分のことが書かれているような記載を見つけ、ドキリとした。

「教科書の難しい内容を読み返しながらも、『20分前の投稿写真に、だれかからいいね!がついていなかな?』という考えが浮かび、意識の中に魅力的な寄り道が出現する(手順1)。誘惑に負けないで勉強を続けようとするが、報酬をもらえるかもしれないと考えるだけで少量のドーパミンが放出され、今すぐインスタグラムを開きたくなる。強い欲求を感じて手順2に進んでみるものの、誰からも『いいね!』もコメントもついていなくてがっかりする。だが、ドーパミンが大量に放出されている脳はなおも報酬を欲するため、自分の過去の投稿やダイレクトメッセージ、またはだれかからのリアクション、あるいはちょっとした気晴らしになるものを探し始める(手順3)。フィードをさまよいながら、友人の投稿にコメントを残す。すると案の定、その中の一人が自分の最新投稿に『いいね!』をしてくれる。1時間ほど経過し、ようやく光合成の勉強に戻るが、心のエネルギーを使い果たし、なかなか集中できない。
いったんユーザーが自身の思い一つで変動型報酬につながる行動を起こすようになったなら、そのユーザーは「とりこ(hooked)」になっているといえよう。」
(『不安の世代―スマホ・SNSが子どもと若者の心を蝕む理由』ジョナサン・ハイト著 西川由紀子訳、草思社、p181-182)

夜に酔っ払ったあと、パソコン画面を開かないと決めているのに、うっかり「急ぎのメールだから」などと返信をしているうちに、SNSを見始めてしまうと、僕自身もこのような「自己永続的なループをつくり出す四段階の手順に基づくフック・モデル」(p179)にはまり込んでいる。やめなきゃ、と思うのに、エゴサーチをしてみたり、他の人の投稿にコメントしたり、通知を気にしたり、と「自己永続的なループ」の「とりこ(hooked)」になっているのだ。これは、夕食後の時間の使い方としてもっとも決別したい時間の使い方だが、その「とりこ」から抜け出すのは、僕にとっても容易ではない。

実はこれはSNSを開発した企業がしかけた「ネット依存」の罠である、と本書は指摘している。ちょうど、今朝の新聞記事で、そのことが報じられていた。

「米カリフォルニア州に住む20歳の女性がメタやグーグルなどを訴えた裁判。幼いころ、写真投稿アプリ「インスタグラム」や動画投稿サイト「ユーチューブ」の影響でうつ病や睡眠障害になったとして、損害賠償などを求めている。
原告側が問うのは、利用者が中毒になるように仕向けたSNS企業の「設計上の責任」だ。画面を指でこするだけで次々と動画が表示される「無限スクロール」に加え、頻繁な通知や推奨、自動再生などを問題視する。」
未成年SNS依存、設計に責任は メタなど企業への訴訟、米で数千件

本書の著者が問うているのも、「利用者が中毒になるように仕向けたSNS企業の「設計上の責任」」である。「画面を指でこするだけで次々と動画が表示される「無限スクロール」に加え、頻繁な通知や推奨、自動再生などを問題視する」点も同じであり、それで10代から20代の思春期や青年期の若者達が、睡眠不足だけでなく、自傷やうつ状態など、深刻なメンタルヘルスの状態に陥っていると告発する。

だからこそ、以下の4つの基本方針を推奨している(p32)。

1,高校生になるまでスマートフォンを持たせない。
2,16才まではソーシャルメディア禁止。
3,学校内ではスマートフォンを使用禁止とする。
4,大人の監視なしの遊びを増やし、子どもの自主性を促す。

このうち1〜3については、オーストラリアでスマホ制限の法律が制定されたことにもつながっている。そう思ってググってみたら、やはりこの本が少なからぬ影響を与えているようだ。

「オーストラリアのこの法律には、ニューヨーク大学の心理学者ジョナサン・ハイト氏が2024年に発表した著書『The Anxious Generation(不安の世代)』(未邦訳)が、少なからず影響を与えていると言われています。この本では、スマートフォンとSNSが過去10年間の若者のうつ病や不安の増加の原因であると主張しているのです。」(世界のSNS規制と動向

そして1〜3については、既にネット記事などでも沢山論議がされているので、特に僕が言及しない。それよりも9才の娘を持つ父として最も気になったのは、「4,大人の監視なしの遊びを増やし、子どもの自主性を促す」という部分である。本書の後半では、以下のような年齢ごとの「ステップ」を提言している(p147-148、一部抜粋)。

6才 家庭内で責任を持たせる:簡単な家事リストを与え、その達成度合いによって、毎週少額の小遣いを与える
8才  近所を一人で行動させる:他の子どもたちと集まり、大人の監視なしに自由に遊び、お互いを気遣えるようになる。
10才 行動範囲を拡げさせる:親が8〜9才でしていたくらいまで行動範囲を拡げさせる。
12才 両親以外の大人の師やロールモデルを探し始めるべきである。近所の人や親戚の雑用(落ち葉の掃除、赤ちゃんの世話など)を手伝い、お金を稼ぐ機会を作る
16才 オンライン上の成人の始まり

これを提言しているのは、これとは違う現実が現在進行形だからである。

こどもは16才ではなく、小さい段階からスマホやタブレットを見続けさせられている。我が家では、1日30分×2回、と親と子どもがルールを決めたので娘もそのルールを守っているが、そのルールを決める前は、依存症状態になりかけていた。最近になって、近所の公園に一人で遊びに出かけるようになったが、それまでは危ないから、と親がずっと付き添っていた。「大人の監視なしの遊びを増やし、子どもの自主性を促す」という部分が、明らかに欠けていたと思う。

その背景を、著者はこんな風に整理する。

「1990年代に心配性の子育てが台頭したことで、2000年になると、英語圏諸国の公共の場からは、大人の付き添いのない子どもの姿が消えた。犯罪、性犯罪者、飲酒運転者に遭遇するリスクは過去数十年の方がはるかに高く、どう見ても公共の場における子どもの安全性は高まっているのにだ。そして、大人の付き添いがない子どもの存在が珍しくなると、たまにそういう子どもを目撃した際に、近所の人が911番に電話し、警察や児童保護サービスが駆けつけ、自身が30年前に与えられていた自主性を我が子に味わわせようとした人が懲役を科される事態が時折発生している。」(p121-122)

子どもが生まれて痛感するのは、確かに「大人の付き添いのない子どもの姿」が少なくなった。これは少子化のせいだけではないと思う。少子化だからこそ、一人の子どもにより心配性な親が関わるようになった、というべきか。うちの子も、2年生くらいまでは、遊びに行くなら親がどっちかついていった。親が付き添うのは当たり前という風潮がある。それは親にとっては結構大きな負担である。疲れていたり、公園につれていくのが面倒・しんどいと思うと、ついついスマホを見せてしまっていたこともある。

ただ、筆者も書くように、運転免許やお酒、タバコは、一定程度の判断能力があると仮定される大人になってからであり、運転免許は試験を受ける必要があるのに、それよりも、遙かにメンタルに大きな影響を与えるスマホやSNSは免許も年齢制限もない。これは、依存症のリスクを増やすという意味では、子どもを一人で外遊びさせるより遙かに危険であるという著者の主張も、すごくよくわかる。本人が一人で自主的に遊びに出かけられる範囲を増やし、自尊心や自主性をもって、自分で出来る事を増やすのが、成長につながるのだ。

そういえば、本書について同僚でスマホ教育の専門家の竹内和雄先生とおしゃべりした際、「4,大人の監視なしの遊びを増やし、子どもの自主性を促す」を見て、「そやねん。これはオフラインキャンプと同じ発想やねん!」と即答しておられた。スマホからの依存を断つ、だけでなく、スマホ以外での人との関わりあいの機会を増やす、という意味では、確かに同じ方向性を向いていると改めて感じた。

最後にもう一つだけ、印象的なことを引用しておく。

「子育てを喩える上でよい比喩は、木工職人でななく庭師だと述べている。親がすべきは、『植物がすくすく育つよう、育成に適した保護された空間をつくり出すこと』。それには多少の作業が必要となるが、完璧を目指す必要はない。庭の雑草を抜き、水やりをし、一歩下がって見守っていれば、植物は勝手に育ち、ときには予想外の喜ばしい驚きをもたらす。子育ての乱雑さや予測不可能性を受け入れようとゴブニックは呼びかける。」(p364)

一軒家に引っ越して、小さい庭を手入れし始めたので、この比喩はめっちゃわかる。肥料を入れすぎても、手入れしすぎても、庭はダメになる。一方で、何も手を入れなかったら、野菜も花も育たない。「植物がすくすく育つよう、育成に適した保護された空間をつくり出すこと」とは、庭を観察し、その庭で草木に起きていることを捉えながら、では次に何をしたら良いのかを考え、見守り、適切な環境整備をすること。それと同じように、子どもを観察し、子どもが成長する上での課題を捉えた上で、親がしゃしゃり出ず、スマホやSNSに支配されないように、子どもが自主性や主体性を持てるように、環境調整すること。

そのような子育ての上での大切なことを、本書を読んで学ぶとは思っていなかった。が、めっちゃ役立つ一冊だった。

ヴァナキュラーに生きる思想家

年若い友人である青木真兵さんが、『資本主義を半分捨てる』(ちくまプリマー新書)という刺激的なタイトルの本を出された。ちくまプリマー新書は、僕も『ケアしケアされ、生きていく』『福祉は誰のため?』の二冊を刊行しているので、馴染みのレーベルである。中学生向けに8万字程度で、読みやすい入門書的な本として書かれているのだが、割と幅広い層に読まれているレーベルである。今回、僕の本の担当編集でもある鶴見さんから早速お送り頂き、一気読みする。

「僕たちは、商品化を自己実現のために欠かせないプロセスとして受け止め、当然のものだと考えてきました。自己実現によって得られる『自己』は、商品価値の高いものである必要がありました。そもそも商品とは市場という他者のニーズによって成り立ちます。誰かが欲しいと思ってくれるからこそ、商品は存在できる。欲しがられない商品は棚から撤去され、人気のない店は閉店に追い込まれます。消費者の立場から見れば、競争によって優れたものだけが残り、質の高い商品を手にできるという利点があるかもしれません。しかし、商品の側に立ってみれば、常に『欲しがってもらえる』よう努力し続けなければならない。
商品に囲まれて育った僕たちは、この『商品の論理』を内面化してきました。つまり、誰かに必要とされなければ価値がないと思い込むようになってしまったのです。そのため、何かを始めたり発言する際、最初に考えるのは『他の誰かがどう思うか』ということになってしまいました。確かに、生きるとは労働力を商品に変えお金を稼ぐことにほかならないのですが、他者ニーズに基づく生という原理を内面化し過ぎてしまうと、妻のように働けなくなったときに、『自分には商品価値がない』と感じ、社会から退場するしかないという思いに至ってしまうのです。市場原理だけで動く社会とは、常に他人の視線を気にし、嫌われれば終わりという、不安定な綱渡りのようなものなのです。」(p40-41)

『他の誰かがどう思うか』

最近の学生たちが感じている不安を見事に射貫くようなフレーズである。なぜ「迷惑をかけるな憲法」を日本国憲法以上に若者達は必死に護っているのか。それは、そうしないと、「他者から選ばれないから」という補助線を引くと、めっちゃクリアに事態が見えてくる。

私たちは自分自身が働くことによって、つまり労働力を商品化することによって、対価を得る。そういう資本主義社会のなかで生きている。そして、資本主義の仕組み自体が、「誰かが欲しいと思ってくれるからこそ、商品は存在できる。欲しがられない商品は棚から撤去され、人気のない店は閉店に追い込まれます」という論理を内包している。そして、この商品は、チョコレートやゲームなどのモノやデータだけでなく、労働力を商品として売っている私たち人間にも当てはまる。私たち一人ひとりも、労働力商品として欲しがられない場合、「棚から撤去され、人気のない店は閉店に追い込まれ」る恐怖と隣り合わせにいるのだ。

「誰かに必要とされなければ価値がない」というのが、「『商品の論理』の内面化」であると青木さんは喝破する。これは、自分自身の価値の有無を、自分以外の評価軸に差し出すことでもある。僕は中学時代から受験勉強を始め、「偏差値」という外部の評価軸に身を捧げるようになってしまった。偏差値の高い学校に行き、社会的評価の高い職業に就くことで、労働力商品としての魅力を上げようと、必死になって頑張ってきた。だが、それは「他者ニーズに基づく生という原理」が僕自身の中でしっかりと刻み込まれたプロセスでもある。すると、他者評価を常に気にし、他者から評価されなくなるような事態に陥ると、「『自分には商品価値がない』と感じ、社会から退場するしかないという思いに至ってしまう」のである。

僕も、子どもが生まれた42才の時に、それとまざまざと向き合うことになる。何度か書いているが、妻に「出張や飲み会に以前と同じように出かけるなら離婚する」と突きつけられ、それまでずっと出ずっぱりだったのに、外の仕事を全部断って家事育児をしていた。その時に感じた「戦線離脱」の感覚は、青木さんのことばを用いるならば、労働力商品からの「戦線離脱」であり、労働力商品としての無価値性への恐怖だったのだ、と今となっては気づく。

ただ、労働力商品の「外」にだって、実は世界はあるのである。

「僕たちは山村に移り住むことで、市場原理では測れない価値に気がつきました。市場原理が他者ニーズによって駆動されているのだとすれば、その正反対の世界がそこに広がっていたのです。他人がどう思うと関係なく、ただ自己ニーズによって存在しているものに山村は満ちていました。」(p41)

青木夫妻が「市場原理では測れない価値」に気がついたのは、奈良県東吉野村という「山村に移り住むこと」であった。ただ、移住しなくても、気づけるルートは色々ある。ぼくの場合は、他ならぬ娘の存在だった。赤ちゃんの娘は、数時間放置したら死んでしまいかねない脆弱性の塊であった。娘は、眠いときに眠り、腹が減ったらおっぱいを所望し、不機嫌になったら泣いて親に不快の解消を求め、という形で「他人がどう思うと関係なく、ただ自己ニーズによって存在している」のだった。そんな娘をケアしながら、僕自身は労働力商品化からの「戦線離脱」と感じながらも、これまで自分自身が支配されてきた「市場原理」とは全く別次元で生きている娘に翻弄されながら、それ以外の世界を少しずつ、学習し始めたのである。

さらに言うと、「市場という他者のニーズ」と、「他ならぬ娘さんという具体的な他者のニーズ」では全く違う。抽象度の高い他者のニーズに応えるためには、世間で評価されているスキルや技能、簡単に言えば労働力商品として換金性の高い何かが求められているはずだ、と絡め取られやすい。でも、目の前にいる娘や妻の具体的なニーズに応えるためには、食事を作ったり、洗濯をしたり、一緒に歌ったり、ボール蹴りをしたり、と関係性を深めることが求められるのだ。それによって、娘や妻の他者性とつながることで、僕自身の唯一無二性も、金や労働力商品化を介在しなくても、担保される。それが、他者比較ではない、自分自身の自信につながる。そんな気づきを、『家族は他人、じゃあどうする?』というエッセイなどに、書きながら考え続けてきた。

そして、それはイバン・イリイチのヴァナキュラー概念と繋がる。

「イリイチによれば、ヴァナキュラーという語は『根づいていること』や『居住』を意味する言語に由来します。ラテン語では家で育て、家で紡ぎ、家でつくり出した、つまり自家産、自家製のものすべてに対して使われていたといいます。ヴァナキュラーな営みとは、生活のあらゆる局面に埋め込まれた『持ちつ持たれつ』に基づく人間の暮らしであり、貨幣による交換や上からの配分に依存した生活とは根本的に異なります。イリイチはまた、ヴァナキュラーな言葉のあり方についても述べています。それは日々の生活のなかで人々が互いに語りかけ、伝えたいことを伝えることを通して自然に広がっていくものだといいます。教えられる言語とは異なり、ヴァナキュラーな言葉は生きた関係性のなかで育まれます。
一方で、学校によって制度化された『教えられる言語』は、しばしば自分の考えではなく、他人の考えを正確に復唱することを模範とします。イリイチは、このような言語観こそ近代の離床した教育や社会構造を象徴していると指摘しました。つまり、ヴァナキュラーとは単に自家製の物を指すのではなく、人々の自己ニーズに基づいて生まれる働き方や言葉のあり方、そして関係のつくり方そのものを示しているのです。」(p101-102)

世の中には、自分の頭の回転の良さを、難しい用語を畳みかけるように用いてひけらかす人がいる。でも、そういう人が用いている言語って、大概「学校によって制度化された『教えられる言語』」である。大量のテキストを読み、英語でもフランス語でも理論書でも読み漁ると、そういうフレーズが増えて行く。だが、それって生成AIなら一瞬でやってくれる時代には、屁の突っ張りにもならない「かしこさ」である。「自分の考えではなく、他人の考えを正確に復唱すること」こそが、プログラムの最も得意とする点だから、である。

「生きた関係性のなかで育まれ」るヴァナキュラーな言葉とは、「伝えたいことを伝えること」である。それは、他者評価を気にして、他者に評価されるように(=他者ニーズに基づいて)話すこととは真逆の営みである。娘さんは、歌いたい時は歌い、踊りたいときは踊る。最近はおっさんもよう知らんXGとかaespa、そしてオッサンも知っているレディー・ガガなどをかけて踊りまくっておられるが、これも「他人の考えを正確に復唱すること」を目指しているのではなく、「自己ニーズに基づいて生まれる」踊りであり、心から湧き上がる何かを表現しておられる。

それはダンス・コンクルールで入賞したいとかそういう他者比較の欲望とは無縁の、純粋なる楽しみとしてのヴァナキュラーなダンスなのである。

では、この本のタイトルである「資本主義を半分捨てる」とはどういうことで、それは本当に実現可能なのか。

「僕たちがなかなか自己ニーズを認め合う関係を築けないのは、個人の努力や性格の問題ではありません。それは現代社会そのものが他者ニーズによって構築され、僕たち一人ひとりの自己ニーズという尊厳がその構造のなかで抑圧されているからです。まさにイリイチが生涯をかけて批判し続けたのは、この『人間が自らつくった制度や装置によって支配される社会』でした。」(p163)

資本主義社会そのものが「他者ニーズによって構築され、僕たち一人ひとりの自己ニーズという尊厳がその構造のなかで抑圧されている」。この認識に立つと、自己ニーズという尊厳をどう取り戻せるか、が課題になる。『人間が自らつくった制度や装置によって支配される社会』とは、広告やマーケティング、AIなど、人間がつくり出した欲望喚起装置に支配され、強迫観念的に追い立てられ、他者の視線に怯えて苦しむ社会のことである。そんな社会は嫌だ! だからこそ、他人の言葉ではなく自分の言葉を取り戻し、自己ニーズという尊厳を保持し続けることが重要なのだ。

その際の入り口が、他者の目を気にせず、気になったとしても「半分捨て」て、「嫌なものは嫌だ!」と言い続けることだと、僕自身は思っている。「常に他人の視線を気にし、嫌われれば終わりという、不安定な綱渡り」は嫌だと思い、労働力商品化とも最低限度のお付き合いはするけれど、必要以上に他者の顔色をうかがうことなく、自分の違和感やヴァナキュラーな言葉を丁寧に用いて暮らす。生活のあらゆる局面に埋め込まれた『持ちつ持たれつ』に基づく人間の暮らしであるヴァナキュラーな営みの部分を、資本主義社会のなかでも、少しずつ増やしていく。

都会暮らしでも、馴染みのお店、店員さんを増やしていきながら、労働力商品という取り替え可能な標準化された店員ではなく、「他ならぬ○○さんと私」のヴァナキュラーな関係性を作っていく。それが、商品購入を介在させた形でも、人間的な・属人的な出会いやつながりになるし、そういう関係性の豊かさが、「資本主義を半分捨てる」営みの先にある。そう思うと、他者と繋がり直すことを通じて、労働力商品の店員であっても、新たな関係性を結び直すのは、「一人ひとりの自己ニーズという尊厳」を取り戻すうえで、大きな一歩になりうるのだ。

『他の誰かがどう思うか』ではなく、じぶんが食べたいから食べ、会いたいから会い、話したいから話す。言いたいから言う。そういうヴァナキュラーな言葉を用い、ヴァナキュラーな他者との関係性を切り結ぶなかで、自律や自尊を取り戻すことができるのだろう。そんなことを思った。

そして、難しいイリイチの概念をわかりやすく解説できる青木真兵さんは、ヴァナキュラーな生き方を知識として解説するのではなく、生きて実践して体得できているからこそ、平易な言葉で大切な何かを伝える事ができているし、その営みこそが思想家青木真兵の真骨頂なのだと感じた。

この本と出会って、多くの人が、自らに巣食う「商品の論理」と葛藤してほしいし、可能ならちょびっとは捨ててみてほしいと、改めて感じた。

*この本の装画とイラストを、パートナーの青木海青子さんが実に素敵に書いている。絵を見ているとほっこりするのも本書の大切な魅力の一つです♪

「頭がいい」の欺瞞に切り込む

友人の勅使川原真衣さんが、またまたエッジの効いたタイトルの新書を出されて、ご恵贈頂いた。『「頭がいい」とは何か』(勅使川原真衣著、祥伝社)。これは「既得権益」に喧嘩を売る本に違いない。そう思いながら読んでいたら、やっぱり出てきた。

「一方で、能力主義を問い直すテーマについて講演などで話すと、必ず出てくる意見があります。
いわゆる勝者側に立つエリートたちからの、『いやいや、日本は競争がまだまだ足りていない』『競争しないと国力が落ちる。いまの日本があるのは高度経済成長期を経て競争を勝ち抜いてきたらでしょう』などの反対意見(というか自説の発表)の数々です。
・・・仰りたいことはよくわかります。
本音のところでは、日本の国力云々よりも、『勅使川原さんは僕らの頑張りを否定するんですか? どんな思いで努力してきたかわかっていますか?』と訴えたいのだということも。能力主義の弊害について語ることが、『自分たちの努力の否定』だと受け取られていることも。」(p137-138)

あ、テッシー、言っちゃったよ、ほんとうのことを!!!!!

実は僕だって、授業中に学生から「日本は競争がまだまだ足りていない」「競争しないと国力が落ちる」という批判に毎年のように晒されるので、めちゃくちゃよくわかる。それは、競争主義の、その象徴的で最大なものとしての受験勉強の、一定以上の勝者だと自己認識している人にとって、能力主義に問いを挟むこと自体が、「僕らの頑張りを否定するんですか? どんな思いで努力してきたかわかっていますか?」というアイデンティティを揺さぶる大問題であるからだ。ただ、テッシーは容赦しない。

「『もっと競争すべきだ』と主張する勝者のみなさんは、ぜひ想像してみてください。自分が歩いてきた道の後ろには、たくさんの屍の山があったかもしれない事実を。なんなら、あなたが見殺しにした人もいたかもしれないことを。少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげてきたことを。」(p139)

このジャブは実に痛烈であり、僕自身もヒリヒリする部分がある。僕だって、子育てをする以前は猛烈仕事中毒で、Pubilsh or Perish(出版するか、消え去るか)という業績至上主義に強迫観念的に支配されていた。その時期に、僕は身近な誰かを、象徴的な意味でも「見殺しにした人もいたかもしれない」し、「少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげてきた」可能性も十分にありうるのだ。それが、胸に迫ってくる。産休明けの元同僚が仕事を休むたびに「ズルい」と思ってしまった愚かな記憶については、僕が能力主義と闘った一冊『能力主義をケアでほぐす』(晶文社)に載せている。

そして、テッシーは「頭がいい」と喧伝される事態について、以下のように宣言する。

「職に就いていなかったり、有形無形の傷付きがあったりして、いま、社会生活を送ることができない人はどうなってしまうんですか? 
『頭がいい』って、もしかして結果論なのではないですか?
たまたま諸条件が噛み合い、うまいことやれている人のことを指しているように思えてなりません。
『頭脳』以外の多面的な要素を兼ねそろえて、武装した強い個人でないと生きられないような社会があるとしたら、そちらのほうにこそよっぽど根深い問題があるのではないでしょうか。」(p66)

「たまたま諸条件が噛み合い、うまいことやれている人」の「結果論」を指して、「頭がいい」と言っている。つまり運のいい人だけじゃん!と喝破しているのである。テッシー、またも言っちゃったよ!

でも、それはマイケル・サンデル先生も同じ事を言っているのである。

「能力主義者は、あなたが困窮しているのは不十分な教育のせいだと労働者に向かって語ることで、成功や失敗を道徳的に解釈し、学歴偏重主義—大学を出ていない人々に対する陰湿な偏見—を無意識のうちに助長している。」(マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(早川書房)p132)

たまたま大学を出る頭脳があり、ヤングケアラーでなく、貧困家庭でもなく、虐待も受けず、歯を食いしばって努力できるほど体力・免疫力・集中力があり、競争の枠組みに嫌悪感を覚えず従順に従うことができ、その結果として、「頭がいい」人は「武装した個人」になれたのかもしれない。でも、「職に就いていなかったり、有形無形の傷付きがあったりして、いま、社会生活を送ることができない人はどうなってしまうんですか?」「武装した強い個人でないと生きられないような社会があるとしたら、そちらのほうにこそよっぽど根深い問題があるのではないでしょうか」というテッシーの問いに対して、「頭がいい」人はまともに応えてくれない。社会構造の問題を「頭の良さ」を使って一緒に考えてくれるのではなく、「勅使川原さんは僕らの頑張りを否定するんですか? どんな思いで努力してきたかわかっていますか?」と、自己肯定を求めるクレームを行う。

これって、現状の枠組みは変えられないと諦めきった上で、その枠組みのゲームがどれだけ欺瞞的で抑圧的であっても自発的隷従した上で、その枠組み内での勝者になること=ゲームのルールや枠組みは決して変えられないと切り捨てること、を意味している。だからこそ、「職に就いていなかったり、有形無形の傷付きがあったりして、いま、社会生活を送ることができない人」のことを、「あなたが見殺し」にしようが、「少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげてきたこと」をも不問にしてはいないか、と。

これは非常に倫理的な重い問いなのである。

その上で、テッシーがこの間一貫して主張している以下のフレーズは、非常に染み入る。

「『能力』とはそもそも、個人の内側にある絶対的・固定的な存在ではありません。本来の『能力』とは、環境や運、タイミング、人間関係などの組み合わせによって、発揮されたり、されなかったりする『状態』にすぎないのです。つまり、文脈依存的であり、状況ごとに揺れ動くものでもあります。
このあたりの本質を見失ってしまうと、組織も個人も迷走を続けることになります。」(p133)

「頭がいい」とは「文脈依存的であり、状況ごとに揺れ動くもの」である。これの何が問題なのか。それは自分が血の滲むような努力した結果手に入れた結果である、と思い込んでいる既得権保持者=現に「頭がいい」と自傷している人々の存在がものすごく揺さぶられるからである。努力して積み上げた頭の良さだから、それは資産価値であって、目減りするはずがない! この信念というか社会通念が破壊されるのを何より怖れているのは、他ならぬ「頭がいい」とされている人々なのだ。

だが、「頭がいい」のが「文脈依存的であり、状況ごとに揺れ動くもの」である証拠は多様にある。例えば、先日行われた福井県知事選挙の勝者が、選挙期間中に、『日本は単一民族』と語ったことについて、彼と同じ外務省出身の作家、佐藤優は以下のようにコメントしている。

「佐藤さんはコメントで、石田氏が自身と同じ外務官僚出身であるとし、「外交官試験に合格した人で『日本は単一民族国家である』という事実誤認をしている人はいないと思います」と指摘した。仮に外務官僚がこうした発言を繰り返せば、「信用失墜行為で処分されると思います」とも記した。
その上で佐藤さんは、石田氏も、発言が事実誤認という認識は「持っていたと思います」として、それでも発言したのは「選挙に当選するために有利だったからというプラグマティズムに基づくものと私は見ています」との見方を示した。「発話主体の誠実性に欠ける人物であっても県知事に当選できるというのが、日本の民主主義の現状です」と、コメントを締めくくった。」
事実誤認の認識、持っていたとしたら 佐藤優さんの「コメントプラス」

「頭がいい」某氏は、『日本は単一民族国家である』ということが「事実誤認」であると認識していた。だが、それでも発言したのは「選挙に当選するために有利だったからというプラグマティズムに基づくものと私は見ています」と佐藤氏は説く。これは某氏に限った話ではない。東大やアメリカの大学院を出ている優秀な元官僚で、政治家に転身をした人が、おなじような「選挙に当選するために有利だったからというプラグマティズムに基づ」いた発言をしている様子は、ネットで調べたら、すぐにわかる。つまり自らの頭の良さを、「文脈依存的であり、状況ごとに揺れ動くもの」にあわせて、発言もコロコロ変えられるのが、頭の回転の良さなのである。

そして、僕はそんな頭の回転の良さは、嫌である。

それは、自己都合や自己利益の最大化のみを目指した「頭がいい」の使い方であり、そういう使い方をしていると、他人を「見殺しに」するかもしれないし、「少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげ」るかもしれないからだ。そんな社会は、嫌だ。

では、この「頭がいい」幻想から離れて、どんな社会を目指せばよいのか? テッシーは、以下のように語る。

「本来の私たちは誰もが未熟な人間です。未熟さを補い合って、一緒に生きていくしか道はないのです。
異なる意見や立場をすぐに切り捨てず、いったん立ち止まって考える。その地道な粘り強さを取り戻すことが、ポスト『頭がいい人論』の核心にあります。
人が人として生きるためには、面倒くさいことをちゃんとやる時間が必要だ、と言い換えてもいいかもしれません。
私たちは、みんな少しずつ頭がいいところもあれば、頭が悪いところもあって当たり前。その上で、他者と共に考え、複雑さに耐えながらも、問いを手放さずに生きていく。私はその状態をこそ、『知性』と呼びたいと思います。」(p202-203)

「異なる意見や立場をすぐに切り捨てず、いったん立ち止まって考える」。これは自分が当選するためには事実誤認をしてでも迎合するスタイルの逆である。それは、「他者と共に考え、複雑さに耐えながらも、問いを手放さずに生きていく」ことであり、そのプロセスこそが「知性」だとテッシーは言う。

週末、衆議院選挙がある。自分の選挙区のどの候補者が、「異なる意見や立場をすぐに切り捨て」る形の「頭のいい」発言をしているか。自らの未熟さを認め、「面倒くさいことをちゃんとやる時間が必要だ」と丁寧に議論している候補者は誰か? これはYoutubeの映像とかを見ていたら、ぼんやり浮かび上がってくる。それは、比例区の政党選びにおいても同じである。誰に投票してよいかわからない、と言う人ほど、この本を読んで、「職に就いていなかったり、有形無形の傷付きがあったりして、いま、社会生活を送ることができない人」のことを、「見殺し」にしたり、「少しどんくさい人を踏み台にして、自分の手柄をあげてきたこと」をも不問にする人を「選ばない」というのが、「知性」なのではないか、と思う。

なので、今すぐ買って読むべし(^_^)

二つの「合理性」の衝突

あなたが医療者だとしよう。

病院にてんかん発作で運ばれてきた子どもがいる。その子の親は、外国からの移民で、この国の言葉を理解出来ない。手術や投薬に関する医療同意を取ろうとするも、言葉が伝わらない。医療通訳もいない。それでも何とか合意が出来たと思い、緊急処置後に自宅での服薬指導を再三するのだが、家では全く薬を飲ませていない。発作の度に何度も病院に運ばれてきた際の、血液検査のデータからみても、明らかである。保健師が家に訪問すると、薬がすべて瓶の中に保管されて、飲ませた経緯が見てとれない。その家庭で唯一この国の言葉が話せる移民の子どもに通訳してもらうと、「薬は子どもに有害なので飲ませない」と親は言っているようだ。そこで、医師と保健師は、親は不適切なケアをしており、養育義務を果たしていないから、と虐待通報機関に通告し、子どもを一時保護する・・・。

このような家庭の親が、非倫理的(non ethical)ではなく、「異倫理的(diffeently ethical)であり(p309)、「デカルト主義ではない」(p313)という視点から、この移民の文化的背景を探っていくのが、今日ご紹介する『精霊に捕まって倒れる:医療者とモン族の患者、二つの文化の衝突』(アン・ファディマン著、みすず書房)である。この本の原題は”The Spirit Cathes You and You Fall Down: A Hmong Child, Her American Doctors, and the Collision of Two cultures”である。原題はそのままで良いのだが、副題は本来、「モン族の子どもと、彼女を治療するアメリカ人医師達、および二つの文化の衝突」である。

著者のアンさんが取材したのは、カリフォルニアに移民してきたモン族で、アメリカで出生した、てんかん発作をするリアという少女を巡る物語である。彼女が発作で運ばれてくる度に、地元病院のアメリカ人医師達が誠実に治療しようとする。しかし、このアメリカ人達は西洋合理性に支配されたデカルト主義者であり、生物医学を前提としている。一方、モン族の親やコミュニティの人たちは、てんかん発作を「精霊に捕まって倒れる」と解釈している。何ならシャーマンの気質があるとも見なしている。だから、お祈りや厄除け儀式の方が、薬より大切だというのである。これは、「デカルト主義ではない」文化をもつ人々の、非倫理的(non ethical)ではなく、「異倫理的(diffeently ethical)な対応なのだ。それが、まさにアメリカ文化との「衝突」なのである。

この本が非常に秀逸なのは、作家でエッセイストのアンさんは、カリフォルニアに移り住んで、リアの両親のフォアやナオカオだけでなく、その親戚やモン族コミュニティの様々な人々にインタビューを行い、アメリカ人にとって「他者の合理性」であるモン族人の論理を徹底的にあぶり出している点である。その一方で、バレー子ども病院やMCMCでリリアやその家族に向き合ったアメリカ人医師達にもインタビューを行い、家族の同意に基づいて本人のカルテや裁判所の法廷記録、保健所や児童保護サービスの記録なども読み込んでいる。その骨太なインタビューに基づくと、医療人類学者アーサー・クライマンのいう8つの問いに対して、モン族にとっての答えを以下のように整理する(p332-333)。

1 この問題をなんと呼んでいますか?
→<カウダベ>。精霊に捕まって倒れる、という意味。

2 この問題の原因はなんだと思いますか?
→魂の喪失(ソウル・ロス)。

3 そうなったのはなぜだと思いますか?
→リアの妹のヤーがドアをバタンと閉めてしまい、リアの魂がびっくりして身体の外へ抜け出してしまったから。

4 この病気はなにをすると思いますか? どんなふうになりますか?
→リアがけいれんを起こして倒れる。<ダ>という精霊がリアを捕まえているからそうなる。

5 この病気はどのくらい重いですか? すぐ治るものですか、それとも長引きますか?
→どうしてそんなことを尋ねるのか? 医者ならわかるはず。

6 患者はどんな治療を受けるべきだと思いますか? その治療を受けることでどうなれば一番いいと思いますか。
→リアに薬を与えるのは一週間まで。調子がよくなれば薬をやめるべき。血を採ったり、脊柱から髄液をとったりしないでほしい。モン族の伝統医療、豚や鶏の生け贄、家での治療も必要。リアには健康になってほしいけど、二度とけいれんが起きないようにしてやりたいかどうかは、よくわからない。わたしらの文化では、これはリアを気高くさせるものだし、リアが大きくなったら<チネン>(シャーマン)になるかもしれないから。

7 この病気のせいでおもにどんな問題がありますか?
→傷ついたリアを見るのがつらくて、ついヤーに腹を立ててしまう。

8 この病気で一番恐れていることはなんですか?
→リアの魂が二度と戻らなくなること。

モン族が「異倫理的(diffeently ethical)であり、「デカルト主義ではない」と著者が主張するのは、モン族の人々が、リアのてんかんに対して、別の倫理観に基づき、別の伝統医学的解決策を行使してきたからである。それが西洋合理性と全く対立していても、モン族の合理性には体系化された一貫性があるのである。ゆえに、著者に尋ねられたクライマンは以下のように答えている。

「まず、その『コンプライアンス』という言い方をやめることです。まったく嫌な言葉ですよ。倫理的支配をほのめかすものです。必要なのは上からの命令でなく、対話です。二つ目に、強制モデルではなく、調停モデルを考えること。モン族コミュニティの誰か、あるいは医療人類学の専門家を探して、話し合いに協力してもらうのです。調停の場では、離婚調停と同じように双方の歩み寄りが必要なことは言うまでもありません。これだけは、ということさえ決まれば、ほかの一切で妥協をいとわないことです。三つ目に、モン族の患者と家族がこのケースに及ぼしている影響が大きいのと同じように、生物医学という文化の影響もまた、大きいことを理解する必要があります。自分たちの側にも独自の関心、感情、先入観がひととおりあることを理解できなくて、いったいどうやってほかの文化にうまく対応できるでしょうか」(p334)

本書を読みとおすと、クライマンの指摘はあまりに真っ当であることがわかる。

まず、①コンプライアンス(倫理的支配)ではなく対話を、という点について。そもそもある法律なり医療枠組みを遵守することを強制するのは、特定の文化的価値を共有しているからである。ラオスの内戦において、アメリカ軍やCIAの手先として戦闘したがゆえでに、ラオスを追われ、タイの難民キャンプを経てアメリカに逃げてきたモン族の人たちは、あくまでもモン族的な暮らしをしたいのだ。アメリカに同化したいのではなく、モン族として暮らすために(異化状態のまま)アメリカに滞在しているのである。であれば、「郷に入っては郷に従う」というコンプライアンスを強制する前に、まずは対話をする必要がある。

それは、②強制ではなく調停、ということである。離婚調停の例が非常に象徴的であるように、決定的にわかり合えない、完全同意や一致をすることのない、深い溝が二つの文化の間にある。そのときに、「これだけは、ということさえ決まれば、ほかの一切で妥協をいとわないこと」が両者に求められる。これは、アメリカ人医師達の通常のコンプライアンスを揺さぶるが、異文化の治療をする際には、必要不可欠なのである。

そして、③アメリカ人を支配している「生物医学」も一つの文化である、という認識を持つ重要性をクライマンは指摘している。これはイタリアで精神病院廃絶の道を開いた医師、フランコ・バザーリアが、「病気」ではなく「生きる苦悩」を重視せよ、と語ったことと軌を一にする。生物医学では精神病やてんかんを生物学的な器質的疾患だと捉え、それを治療するために神経作用に伝わる投薬や外科的処置をしようとする。しかし、精神疾患に至る背景には最大化した「生きる苦悩」がある。また、てんかんをモン族的に解釈するなら、それは「精霊に捕まって倒れる」という合理性がある。その相手の合理性を理解することなく、デカルト主義に基づいた医師の「生物医学」的価値観が「倫理的支配」をしていると、患者やその家族との対話可能性や調停の可能性が極端になくなってしまう。そうクライマンが指摘しているのだ。

すると、これまで僕が考えてきた、福祉現場における「他者の合理性の連鎖と蓄積」の話とも一致する。リアの親は、育児放棄やネグレクトをしているのではない。「異倫理的」な立場から、薬草や生け贄、<チネン>による祈祷など、最大限の対処をしているのである。だが、そのことを、アメリカ人医師達が全く理解しようとせず、先ほどのクライマンの8つの質問の一つさえ尋ねようとせず、医療者の聴きたいことだけを聞き、医療者の話したいことだけを話し、それをモン族の人々が理解出来ない場合は「無能力者」とラベルを突きつけたのである。その最たるものが、リアの主治医が保健所と児童保護サービスに送った、以下の所見である。

「投薬に関する親の遵守(コンプライアンス)が乏しいため、本件は明らかに児童虐待、具体的には育児放棄(ネグレクト)の領域に入るだろう。・・・なんらかのかたちで服薬計画の遵守と子どもの発作性障害のコントロールがなされないかぎり、この子は、てんかん重責状態に陥る危険にさらされており、不可逆的な脳損傷と、場合によっては死に至りかねない。私見ではあるが、投薬遵守が確保されるよう、この子は里親に委託すべきだ。」(p73)

恐ろしいのは、この所見は、なぜ投薬遵守をしないのかについての保護者の主張を全く聞かず、デカルト主義の医者の生物医学的合理性のみで構成されている。しかも、その合理性があれば、アメリカにおいては、親からリアは強制的に奪い去られ、里親に託され、親は半狂乱の日々を過ごすことになったのだ。一体それのなにがどのように、コンプライアンスと言えるのか? 文化間対立をした際の、コンプライアンスとは独善の可能性がないか? そうではなくて、対話に基づく調停とは何か? この本は、様々な問いを差し出す。

そして、この本を読みながら、モン族、というのを、精神疾患や自傷他害、薬物依存、ゴミ屋敷、など僕が見聞きしている「困難事例」「問題行動」にも重ねてみたくなる。デカルト主義以外の、「異倫理的」な現実において、本書は非常に示唆に富んでいる、と改めて感じるのだ。

読み応えのある1冊です