「思春期」の内在的論理と向き合う

以前から注目していたスクールソーシャルワーカーの鴻巣麻里香さんの新刊『思春期のしんどさってなんだろう? あなたと考えたいあなたを苦しめる社会の問題』(平凡社)を読み終える。たくさんの10代の若者たちと丁寧に向き合い続けてこられた彼女だからこそ、書かれた内容に、頷くポイントがすごく多い。

「合理的な理由がない規則を守らなければならないのは理不尽です。理不尽とは道理が通らないことです。『たとえ合理的な理由がわからなくても、規則は守らなければならない』という世界で過ごすうちに、理不尽や疑問はのみこまなければならない、がまんして受け入れなければならないんだと、刷り込まれてしまいます。
それも一種の色眼鏡です。なぜかというと、社会に出たときに、『理不尽なことでも引き受けなければならない』『疑問はのみこまなければならない』という色眼鏡で世の中を見るようになるし、自分自身を見るようになるからです。」(p41)

実際、大学一年生と議論をしていると、すでにこの色眼鏡をしっかり身体化している学生がどれほど多いか。「おかしいと思ったら、その違和感を表明するか?」とお尋ねすると、多くの学生が『疑問はのみこまなければならない』と応えてくれる。その理由を探っていくと、たとえば高校でスマホの学校持ち込み禁止について、教員に異議申し立てしたけれど、「ルールなんだから従え」以上の理由を教えてくれず、強制された。だからこそ、「たとえ合理的な理由がわからなくても、規則は守らなければならない」という色眼鏡を内面化したという。そして、この色眼鏡は、日本社会の理不尽さを肯定し、理不尽なルールでも同調圧力で従え、という圧を強化していく。授業中に「そうはいっても先生、長いものには巻かれろ、でしょ」と言われて、呆気にとられたこともある。

では、この現状を変えるにはどうしたらよいのか。鴻巣さんは、わかりやすく具体的に説いていく。

「子どもたちにとって必要なのは、『みんなで仲良く』ではなく自分とだれかのあいだの心地よい境界線がどこにあるのか、少しずつ気づいていくプロセスだと思います。それは自分も大事にして相手も尊重することです。人と自分とではちがっていて、自分とだれかのあいだに境界線をしっかり守りたい子も居れば、ファジーでゆるくて、相手と混ざり合うことが心地よい子も居る。(略)
そこに、『仲良くすることはよいことだ』、言い換えれば『だれかを苦手と思うのはよくないことだ』というメッセージが降りてくれば、おたがいに境界線を図り合って距離を取る、つまり自分を大事にする、相手を尊重するということがよくわからなくなってしまいます。」(p63-64)

学校に関わる人で、「みんなで仲良く」という「大前提」に公然と異を唱える人はなかなかいない。でも、あたなも私も、教師も校長も、すべての人と適切な関係性を結ぶことが出来るわけではない。実際に、挨拶をするけどそれ以上深入りしない、あるいは距離を置いて遠ざかった経験は、誰しもある。でも、それは固定的なものではなく、小学校の時は大の仲良しだったけど、その後疎遠になったとか、逆に学生時代は名前を知っているだけだったのに大人になってから唯一無二の親友になるとか、そんなのざらである。

にも関わらず、「みんな仲良くまとまりあるクラス」というテーゼを教員や学校が掲げ、それに従うのが当然という同調圧力がかかると、それを「理不尽」に感じる子どもたちも増えてくる。本当は「おたがいに境界線を図り合って距離を取る、つまり自分を大事にする、相手を尊重するということ」が最も大切なはずなのに、その境界線を取る行為が、『だれかを苦手と思うのはよくないことだ』という形でネガティブに規範化されると、息が詰まってしまう。このあたり、特に小さい頃から人の顔色を見て育ってきた僕は、すごくよくわかる。一方、6歳の我が娘さんは、自分がしゃべりたい人としゃべった後、ふわふわとよそにいく力も持っているので、この圧は親の僕の方が感じているのかもしれない。

また、この本は、親や教師など若者と付き合う大人が、じっくり胸に手をあてて考えてほしいフレーズが沢山ある。たとえば、家にいて若者が苦しいと感じる理由について、以下のような説明がなされている。

「自分の部屋にノックせず勝手に入ってこられる、留守にしている間に机のなかをみられている、家族が無断で自分の物を使っている、事故にあったら心配される前に叱られた、脱衣所で着替え中や入浴中に親(とくに異性の親)にドアを開けられる、女の子だという理由で(弟や兄は免除されるのに)自分だけ家事を手伝わされる、テスト前には外出が許されない、予定を勝手に決められる、週末はきょうだいのスポーツの試合に強制的に同行させられる、成績が下がると外出や部活動が制限される、アルバイト代を親に渡すように要求される、進路について親の希望が優先される、忙しい親の代わりに家事のほとんどを担ったり小さな弟妹の面倒を長時間みなければならない、病気や高齢の家族の介護を担わなければならない(この問題は「ヤングケアラー」として認識されるようになりました)、そして両親の仲が悪かったり、親の精神状態が不安定だったりアルコールに依存していたりでつねに緊張している、親が不在にすることが多かったり親の交際相手が頻繁に家に来て居場所がない、などです。」(p155)

書き写していて胸が潰れそうになるくらい、リアルで現実的な苦しさである。一見些細にみえることでも、これは明らかに対等ではない、支配や抑圧的関係性である。そしてこのような支配や抑圧に対して、「嫌だ」「やめてほしい」「許せない」と言っても「思春期(反抗期)だから」の一言でまともに親や周囲に取り扱ってもらえないと、二次被害をうけて、ますます辛くなると思う。鴻巣さんが指摘している上記の例はどれも「合理的な理由がない規則」であり「道理が通らない」「理不尽」である。学校の校則など、家の外でも理不尽な環境が当たり前で、さらに安心していれるはずの家でも、また別の理不尽に出会い続けたら、生きる意欲が減退するのも当たり前だ。不登校や引きこもり、リストカットや自殺などの「社会的逸脱」と言われるものが、このような学校や家庭における「理不尽」の蓄積に基づいて社会的に構築されていくともいえる。

だからこそ、この本の副題は「あなたと考えたいあなたを苦しめる社会の問題」と書かれているのだ。あなたを苦しめるのは、あなたの内面の弱さではないし、自己責任でもない。社会の問題である事に気づいてほしい。そんな鴻巣さんの祈るようなメッセージが響いている。

あと、若者達は情け容赦ない評価に晒され続け、傷ついているからこそ、次のメッセージは大人としてしっかり受け止めたい。

「たとえば『この子はこういう場面でこんな行動をしました。その行動は素晴らしいと思います』というのであれば、『あなたはこういう子』という決めつけにはなりません。それは観察の描写と感想です。けれども、『この子はこういう行動をしていました。とてもやさしい子です』とか『とても活発です』などとその子の性格を表す言葉で断定的に評価すると、それは性格を決めつけることになります。
その評価を見て『あ、私は先生からこう見えてるんだ。じっさいはちがうんだけどな』と、納得しない場合も多いでしょう。でも『大人から期待される自分』がどんな自分かは察知できます。『自分は大人からやさしくあることが求められてるんだな』『活発であることが期待されているんだ』『リーダーシップが求められているんだ』などまわりからの期待がわかると、人は自然とそれに沿う自分になろうとしてしまうものです。でも、『まわりが期待するからこうあらねばならないんだ』と自分を追い込んだり、『こうあらねばならないのに、なかなかできない』と感じると、苦しくなってしまいます。」(p195-196)

こういう苦しさを抱えている大学生と、何人もあってきた。それは、大人の期待の内面化、および自分よりも大人の評価を気にするスキーマが機能しているのだと思う。でも、ここで問われるのは、そういう子どもの内面の評価、ではない。そうではなくて、子どもにそう思わせる親や教師の側に問題はありませんか、というのが、鴻巣さんの問いかけなのだ。その子の言動を見て、「観察の描写と感想」にとどめず、そういう言動をするから「とても○○な子だ」と評価や決めつけをしていませんか、と。

書きながらギクッとしている。僕も以前、「観察の描写や感想」よりも、「評価や断定」をしょっちゅうしていたな、と。それは、相手の内在的論理を理解しようとするのではなく、「わかったフリ」をして、思考の省略をしたり、あるいは相手にマウントを取るために、やっていたのだと、反省的に書き記す。そして、そういう「わかったふり」や思考の省略は、相手を追い込み、苦しめてきたのだ、と。僕と接点があったのに、フェードアウトしていった学生さんの中には、僕のこのような評価や断定の姿勢があったのだと思うと、本当に申し訳ない。

でも、実は48歳のおっさんの僕が改めて思うのは、ぼく自身も、「観察の描写や感想」をされるより「評価や断定」をされて育ってきた。だから自己正当化したいのではない。そうではなくて、自分がされたことで嫌だった、理不尽だったことを振り返り、それを繰り返さないための自己省察が僕だけでなく、今の大人には欠けているのではないか、という点である。令和の世の中なんだから、昭和的認識をアップデートしようよ、と。

おわりに、でも、鴻巣さんは大人達に具体的アドバイスをしてくれている。

「よいことをするのではなく、害になることをしない。この『しない』が、まずは必要です。たとえば容姿や体型についてコメントしない、女の子だから・男の子だからと精査で役割を決めつけない、不必要に無断で身体にふれない、趣味や予定を押しつけない、秘密を持つことを禁じない、苦労話やがまん話をしない、取り引きしない(○○したいなら△△しなさい、など)、約束を破らない、イライラを態度に出さない、話をきく前に決めつけて叱らない。でないと、子ども達にとって『敵ではない大人』にはなれませんし、そのプロセスをすっ飛ばして子どもの味方や理解者になれるはずはありません。」(p219)

これも、いてて、である。一言で言えば、ハラスメントをするな、につきる。のだが、「イライラを態度に出さない」とか「話をきく前に決めつけて叱らない」を娘の前でちゃんとできているか、といわれると、怪しい場合がある。学生さんに「よいことをする」押しつけがましさはないか、「害になることをしない」という原則をしっかり保持しているか、自己点検しなきゃならないと、改めて思う。

最後に、僕がもっとも心に突き刺さった、17歳の「さくや」さんの言葉を引用しておく。

「きいてくれない大人に『思春期だから』って言われても、納得出来るわけではないですよ。大人には、思春期という言葉を慎重に使って欲しいです。葛藤は抑圧するなにかがないと生じないから。必ず抑圧してくるものがあるんです。大人が対応しなきゃいけないのは思春期の子たちの心のなかにはない、私たちのまわりにあります。用紙をジャッジするな、性的に消費するな、理不尽なルールやめろ、いじめ暴力虐待なくせ、です。思春期はいろんな気づきがはじまる時期です。おかしなことやイヤなことに、おかしい、イヤだと思えるようになる時期。大人が向き合うべきは、おかしいって感じる私たちじゃない。おかしなことやイヤなことにたいしてです。」(p186)

子どものパフォーマンスの最大化を疎外し、その芽を摘んでいるのは、大人達である。それが失われた30年を形作ってきた理由でもあると、僕はさくやさんのメッセージを読んで、痛切に感じた。そして、大人が思春期の子ども達を搾取したり抑圧するのではなく、大人自身が、自分自身の抱える「おかしなことやイヤなことにたいして」向き合えるか。大人自身が、この社会の理不尽にたいして、おかしい、へんだ、イヤだと声を上げ続けられるか。それが、率先垂範としての大人に問われている。改めてそう感じた。

わからなさを感じる対話

リアルに知っている仲間二人の往復書簡を書籍として読む体験は初めてである。お一人は、奈良の東吉野村で私設図書館ルチャ・リブロを主催する青木真兵さん。青木さんの出された『手づくりのアジール』で対談させて頂いたこともあるし、彼のやっているポッドキャスト「オムラヂ」で、「生きるためのファンタジーの会」という連載シリーズでおしゃべりし続けている。もうお一人は、建築家の光嶋裕介さん。彼とは青木真兵さんと内田樹先生の対談イベントで出会い、その後本を贈り合うだけでなく、この春から娘と僕は光嶋さんのパートナーの永山さんが主催される合気道高砂道場に通うことになった。なので、合気道仲間であり、今回二人が出された往復書簡の見本が光嶋さんの手元に届いた日がちょうど稽古日で、私にも直接手渡しでお裾分け下さった。

この往復書簡『つくる人になるために』(灯光舎)は、二人の俊英の自在な対話で、実に刺激的である。たとえばこんな感じ。

「<光嶋>生と死や男と女、都市と農村を単純に二項対立させないで、矛盾を排除しない寛大な姿勢で受け入れることで、もっと豊かな視点を獲得し、対立が乗り越えられると思う。そうすることで、何か結果を気にして視野が狭くなることが避けられる。むしろ、何事も揺らぐこと(動き)で結果よりもプロセス(過程)にこそピントを合わせることが出来るように思います。」(p58)

「<青木>じつは僕が「ふたつの原理を行ったり来たりする」ことを提唱しているのは、「寛大さ、寛容さ」というよりも、人間の認識と分析、発信の限界を考えると、どうしても二項対立的にならざるを得ないのではないかと思っているからです。そしてそれをでき得る限り防ぐためには、その二項対立の図式を認めたうえでそれを行ったり来たりすることで中和するという、ちょっとニヒリスティックな考えからきています。」(p207)

二人は結果よりもプロセス(過程)にピントを当てる重要性については同意している。その一方、二項対立に関する認識は異なっている。光嶋さんは「矛盾を排除しない寛大な姿勢で受け入れる」という、受け入れ側の構えとしてこの問題を捉えようとする。一方、青木さんは「二項対立」を人間の認識と分析、発信の限界における必然と捉えた上で、その図式を中和するために、「ふたつの原理を行ったり来たりする」。違うアプローチなのだが、「揺らぐこと(動き)」が生じるというプロセスは共通しているのである。

そして、この揺らぎや行ったり来たりをなぜするのかという問いに、青木さんはこんな風に書いている。

「現代に生きのびる人々が『わからない』状態に耐えきれないことと関係しているのだと思います。現代社会は本当は『わからない』ことが溢れているにもかかわらず、『わかったフリ』をして生きていかなければなりません。そのしんどさに僕は耐えきれなかった。たとえば、なんだか体調が悪いとか、朝いつもと違う道を通って会社や学校に向かいたい気持ちとか、昨日は何事もないように話せたあの人に対して今日は同じように振る舞えないこととか。
本当は僕たち個人個人は『わからない』や『不安定』という感覚でいっぱいいっぱいなのに、社会では『わかる』『安定』を求められてしまう。この社会的要請を乗り越えるためには、『わかったフリ』をするという矛盾を抱えるしかない。これにがまんできなかったんです。」(p20)

二項対立という分類でありラベルは、じつに「わかりやすい」。二つにわけることによって、葛藤なくスムーズに情報処理が出来る。でもこれは情報量の縮減であり、現にあるはずの何かを「ノイズ」として切り落とすことによって成立する。男と女の二項対立に閉じた世界では、LGBTQが完全になかったことにされたり、「精神病」という別のカテゴリーに押し込めることによって、「わかったフリ」を出来たのだ。この二項対立的な図式は実に安定的であり、静的なものである。

でも、若き建築家と思想家の二人は、「わかったフリ」で情報量を縮減しようとしない。「わかったフリ」のしんどさに耐えられない、我慢できないと、なれ合いの世界の外に出ようとする。光嶋さんはこんな風に描く。

「自分で考える力を発揮するには、常時接続を一度切断し、孤独の中で集中する必要がある。孤独を抱えると足元が不安定になり、動きが発生します。そうした揺らぎをもつと自分の中の状態が俯瞰的によく観察できるのだと思うのです。自分の内部に集中していると、意識は逆に外部へと同化的に広がっていきます。こうした空間と身体との相互作用こそ、身体で空間を思考することの証であり、自分が世界の一部であると実感する瞑想的な時間になっていく。このような世界と自己の関係を頭で理解するのではなく、身体全体で空間が浸透してくるように感覚的に考えることで、次なるアクション(行動)へとつなげることができるようになる。勇気をもってジャンプする感じ。」(p166-167)

二項対立図式で「わかったフリ」が出来る世界とは、自分で考えなくてもよい、という意味で、思考の省略であり、長いものに巻かれろ、的な同調圧力に堕しやすい。一方、その社会的・後天的にラベルが貼られた対立軸なりフレームを外すと、自分の頭で考える必要が出てくる。正直、それは面倒くさいことである。なぜならば、ググるとかChat-GPTに要約してもらう世界の「外」に出る必要があるからだ。

そして、このときの「外」とは、自分の内部に意識を集中させることである、という指摘が興味深い。外をキョロキョロ見回すのではなく、内に目を向ける。他の人とは違う動きをすることによる不安や孤独から逃げず、孤独の中で集中してみる。すると、「孤独を抱えると足元が不安定になり、動きが発生」する。

ここでも動きだ。この二人は、確かに移動が多く、沢山本を読むし、多動的にうろちょろしている。でも、そのうろちょろとは、世間やSNSに惑わされるうろちょろではない。「わからなさ」をそのものとして抱え、不安定をそのものとして受け止めるからこそ、「そうした揺らぎをもつと自分の中の状態が俯瞰的によく観察できる」のである。

光嶋さんはこの「空間と身体との相互作用」を合気道の稽古で身につけていった、という。実は僕も合気道を10年以上稽古しているのだが、正直この部分が「わかっていない」。「自分の内部に集中していると、意識は逆に外部へと同化的に広がっていきます」というのは、内田樹先生の文章を僕も読み続けてきたので、なじみのあるフレーズではある。だが、僕は体感として、この部分がわからない。

わからないからこそ、実はこの4月から、ぼく自身も凱風館に入門した。正直、山梨の道場で有段者になったあと、自分がどのように成長していけばよいのか、わからなくなっていったのだ。学んだ型を繰り返す中だけでは、それ以上の上達はしない。でも、それ以外にどのような方法論を用いれば、自分自身のわざとして身につくのか、その方法論がさっぱりわからなかった。そして、こどもが生まれ、姫路に引っ越したこともあり、合気道の練習から遠ざかっていった。

この4月以後、凱風館で稽古をし、娘と共に高砂道場に通う中で、少しずつ感じ始めた事がある。凱風館では、多田宏師範の流れをくみ、呼吸法にかなりの時間をかける。そしてこの呼吸法こそ、「自分の内部に集中していると、意識は逆に外部へと同化的に広がって」いく稽古なのである。・・・ということまでは、頭ではわかった。だが呼吸法を始めて3ヶ月の僕は、意識が外部に同化的に広がっていく、ということは、実感としてはわかっていない。そして、この部分は「わかったフリ」をしたくないと思っている。

「空間と身体との相互作用こそ、身体で空間を思考することの証であり、自分が世界の一部であると実感する瞑想的な時間になっていく」という文言は頭では理解できるけど、合気道の稽古を通じて、身体を通じた実感としては、まだ理解できていない。これを「わかったフリ」をせず、毎回の呼吸法を丁寧に行うなかで、いつか実感として空間と身体の相互作用が感じられるようになりたい。そう欲望している自分がいる。きっとそれは、瞑想やマインドフルネスに至るための第一歩として、呼吸に意識を向け続け、あるがままの状態を感じることである、と「頭ではわかっている」。でも、いかんせん頭でっかちで、身体ではわかっていない。

この身体を通じた「わからなさ」を大切にしたい。頭でっかちになって「わかったフリ」で誤魔化したくない。わからなさを感じ続けたい。二人の往復書簡を読みながら、改めてそう感じた。

その意味で、僕はこの往復書簡自体に同期しているのかも、しれない。光嶋さんの後書きを読みながら、その思いは強くなる。

「自分で書いた言葉を自分で読むことで、自分自身を知っていく。もしくは、自分の中の他者を発見する。自分の中の複数性に気がつかされるといえるかもしれません。それは、自分のあり得たかもしれない『もう一人の自分』と出会うような感覚でした。僕の言葉でいうと『自分の地図』をつくるためには、他者からのパスを起点にして、自己との対話(内省)を通して自分の中の他者性と向き合うことが成熟への道であり、大人になることだと思っていました。綿密なパスまわしです。」(p186)

この二人の往復書簡は、価値観が一緒だねと確かめ合うハーモニー(調和)ではなく、他者性や複数性に開かれる、という意味でポリフォニーである。お互いの投げかけに応答するなかで、新たな異なる音が重なっていく。そして、その音の重なりは、予定調和ではなく、むしろ逆に、「自分で書いた言葉を自分で読むことで、自分自身を知っていく」プロセスなのだろうと思う。それがなぜ、綿密なパスまわしなのか。

ここで言われるパスの「綿密」さとは、計画制御的な、ルートを綿密に定めたパスではない。そうではなくて、相手に託されたパスを受け取って、その瞬間から動きながら自分の身体をくぐらせた上で、暫定的な仮説として相手に提示する。その提示された仮説に相手も呼応し、言葉が紡がれていく。その紡がれた言葉のパスを再び受け取る中で、「自分で書いた言葉を自分で読むことで、自分自身を知っていく」といった、自分の言葉への膨らみがうまれていく。これが、綿密なパス回しであり、この往復書簡の魅力なのだと、今回わかった。対話している相手は、目の前の他者だけではない。かつてその他者に向けて放たれた自分の言葉も、他者性を持って自分に響いていく。他者の他者性だけでなく、己の唯一無二性をも受け取るプロセスが、往復書簡の中に響き渡っている。だからこそ、この往復書簡の風通しがよいのだと思う。

ちなみに、僕の動き方はたぶん光嶋さん寄りなのではないか、となんとなく感じる。自己陶冶的なありようで、スケジュールを詰め込みすぎとか、身体を壊したりしてはじめて色々なことに気づく、という部分で(僕の場合はよく風邪を引く)。でも、青木さんの「いやなものはいやだ」「わからないものはわからない」という潔さも気持ちいいし、そういう部分を、少しずつだけれど増やしつつある。そういう意味で、二人の豊かなポリフォニーから沢山の何かをパスしてもらったような気がしている。

ちなみに、青木真兵さんのパートナーである青木海青子さんの挿絵がめちゃくちゃいい。熊くんや羊さん?の絶妙な挿絵によって、二人の鋭いやりとりに、別の余白が生まれていく。しかも、どの挿絵も、そのシーンにあまりにもぴったりの挿絵なので、思わず「本業ですか?」とお尋ねしたくなる位の魅力。そして、紙質が手触り感のよいざらつきで非常に良い。電子書籍にはぜったい出来ない、「紙の本、ここにあり!」という風合いである。初版本は特製シールまで付いていて、限定版の価値がある。ちなみに僕のは緑の蝋燭シールでした♪

自分の頭で考えてみたい人、わからなさの面白さを感じたい人に、是非手に取ってほしい一冊である。

「決められた道」の外にある想像・創造力

三好春樹さんといえば、介護業界で知らない人はモグリ、なほどのレジェンドで、著作も沢山出しておられる。「関係障害論」とか気になる何冊かは買い求めたけど、積ん読していて、読んではいない。ちょうど介護保険がはじまった頃、大学院の博論の指導教官だった大熊由紀子さんを想定した彼の北欧批判=全室個室批判に遭遇して、ちょっと過激でしんどいなぁ、と思っていたからだ。

だが、ふと思い立って、中高生向けに書かれたちくまプリマ—新書『介護のススメ! 希望と創造の老人ケア入門』を読んだら、これが面白い。すいません、読まずギライ、しておりました。ものすごくロジカルで、見通しが良い本である。

「介護の『介』は、この媒介の『介』なのです。つまり、『他のもの(=介護者)を通して、あるもの(=主体としての老人)を存在せしめること」、これが介護です。
老人が自分の身体と人生の主人公になるために、私たちが自分を媒介にする、つまりきっかけにすることです。
老人が主体、私たちは老人にとっての手すりや杖なのです。でも単なる杖ではありませんね。パスカルの名言をもじりました。『介護者は考える杖である』。」(p198)

介護者を通して、主体としての老人を存在せしめる。つまり、ご本人が自分の身体や人生の主人公であることを、認知症や虚弱などで失いつつある・奪われているときに、介護者が媒介として機能することによって、介護者を手すりや杖として用いることにより、老人が主体性を回復する。そのための介護だ、というのは、心からの納得である。

その上で、徘徊や暴力行為、叫びなどの「問題行動」についても、「考える杖」として、別の視点を差し出す。

「認知症の人は、体の中からの不快感ばかりがあって、その理由がわからない。不安だから眠れない、徘徊する。そして藤田ヨシさんのような寝たきりの人は、徘徊する代わりに大声で歌う、叫ぶんでしょう。
そうすると私たちが『問題行動』と呼び、『BPSD』なんて言い換えてきたものは、認知症老人が体の不調を私たちに訴えているものだということになります。つまり『便秘に気がついていない介護によって引き起こされた行動』ということになります。
『問題行動』、つまり藤田ヨシさんの『歌』、叫び、幻覚めいた訴えは、私たちへの非言語コミュニケーションだったんだ。だとしたら、こうした『問題行動』を薬で抑え、おとなしくさせようというのは、二重の意味で間違っていることになります。」(p148-149)

徘徊する、大声で歌う、叫ぶ。注意をしても、制止をしても、その行為が止まらない。このような状況を、業界用語では「問題行動」「困難事例」と言う。本人に問題があり、本人が抱える困難だ、というラベリングだ。

でも、三好さんは「問題介護によって生じた老人の行動」(p140)と読み替える。ご本人にとっては、「体の中からの不快感ばかりがあって、その理由がわからない。不安だから眠れない、徘徊する」という内在的論理がある。歩けない人なら、大声で歌う。これらを反社会的・逸脱行動で認知症の周辺症状(BPSD)だからと「わかったふり」をしても、ご本人の身体と人生を取り戻す介護や支援にはつながらない。ではどうすればよいか。「『歌』、叫び、幻覚めいた訴えは、私たちへの非言語コミュニケーションだった」と気づき、何を伝えたかったか、を克明に見ていく。すると、藤田さんの場合は、便秘の時に大声で歌うことが見えてきた。であれば、ポータブルトイレでの排泄支援をすると、声は出さなくなったそうだ。

ただ、今の老人ケアだけでなく、精神科病院でも行われているのは、このような非言語な訴えを理解しようという「考える杖」とは真逆の営みである。それは、「こうした『問題行動』を薬で抑え、おとなしくさせよう」という抑圧的支配の論理である。これが、医学的なもっともらしさ、で正当化される。確かに、大声や徘徊はそれで止まるかも知れない。でも、本人の身体と人生は「薬漬け」の被害を受け、取り戻すことは出来ない。周囲にとってはケアが楽になるかも知れない。でも本人の尊厳はズタズタになるのだ。

なぜ、こういう重要なことに、医者は気づけず、三好さんは気づけたのか。それは、彼が「道を外れた」経歴だったからかも、しれない。

早熟だった高校生の三好さんは、学生運動にコミットして高校を退学処分。中高一貫校でいい大学を出て良い会社に入って出世して定年、という理想的世界から10代にしてドロップアウトして、トラック運転手などを経て、介護の世界にたどり着く。そこで、「望ましいレール」なるものが、胡散臭いことに気づくのだ。

「老人たちの人生を知ればするほど、『決められた道』なんてないんだと思うようになるのです。人生はみんなバラバラ。ここで暮らしている一人一人もじつに個性的ですが、ここに至る過程も個性的。一人一人が波瀾万丈、すごいエピソードがあるんです。(略)
そう思うと私は気分がスッと楽になりました。道を外れてしまったことを悔やむ気持ちもなくなりましたし、逆に、元の道に戻ってやるものかといった気負いもなくなったのです。『道』に拘る必要なんかないんですから。」(p68-70)

今の学生を見ていても、「決められた道」を固く信じて、そこから外れることを極端に恐れ、腹が立っても、理不尽に思っても、黙って従っている学生が沢山いる。三好さんは、その理不尽さに異を唱え、黙っておらず行動して、高校を退学処分になり、中高一貫校の標準的ルートである良い大学・良い会社から決定的に外れた。でも、波瀾万丈の人生を経た個性的な老人と出会い、「決められた道」の幻想というか、うさんくささに気づいてしまう。それよりも、自分の「個性」を活かすことのほうが意味や価値があると気づく。それまで「道を外れてしまったことを悔やむ気持ち」を持っていたが、「『道』に拘る必要なんかない」と気づく。

このフレーズを読みながら、「決められた道」を「標準化・秩序化された支援」と言い換えてみたくなる。教科書を読んで、標準的な知識や正解を先に暗記してから、介護や医療、福祉に携わるようになると、この「決められた道」=正解を外れることはしにくい。でも、一人一人の人生に関わる介護現場において、標準的な介護なるものはない。波瀾万丈の人生を経た、個性的なご本人が、身体的な状態との相互作用の中で、どのようなしんどさがあるのか、便秘やうつ症状など様々なつらさをどんな風に表現しているのか。そういう個別の事情を、その人と向き合いながら、共に探すしかない。「決められた道」から外れた人を「縛る・閉じ込める・薬漬けにする」のではなく、なぜその人がいかなる理由で「決められた道」から外れるかをアセスメントする、それが標準化・秩序化された支援を超えた、個別支援なのだと、この部分を拝読して改めて感じた。

そして、これが可能になったのは、彼が理学療法士としての勉強をし始めたのは、老人介護をはじめた後、28才の時に大検をとった後だったという背景もあるようだ。彼は、元々勉強ギライだったが、この専門学校の勉強は面白かった、と語る。

「学校で教わることが、みんな、老人の顔と名前に結びつくんです。ある病気について教わると、その病名のついていた入所者が頭に浮かびます。そうすると、その人が訴えていたことの意味がわかってきたり、自分が病気についての知識がなかったため、見当外れの対応をしていたことを反省したりするのです。
もちろん、出会ったことのない病気や障害についても学びますが、生活場面を体験しているので、そんな人には入浴ケアで何を気をつけるべきか、食事ケアでは、と想像を働かせながら勉強できるのです。
ここでは勉強は試験のための暗記ではなく、いい介護をするための武器を手に入れることなんです。」(p72-73)

強いて勉める勉強ではなく、自発的に学ぶ喜びが、この文章の中に溢れている。自分がやっている仕事の中で生まれた疑問や「問い」を深め、理論を知り、解決可能性に気づき、また問いや解決策がズレていたことに発見する。それは、己の愚かさとの出会いでもあるが、新たな試行錯誤の可能性との出会いでもある。三好さんはそれを「いい介護をするための武器を手に入れること」と述べていた。このような暗記ではない、ほんまもんの学びを理学療法の学校でしたからこそ、彼はその後、その学びを現場で探求していく。理論だけでもなく、実践だけでもなく、理論と実践の往復をご自身の中で深めていったのだ。

実は三好さんがお好きではない!?北欧では、こういう社会人の学び直しが当たり前になっている。高校卒業後、一旦社会人経験をしたり、あるいは介護現場で働いた後、問いを持って大学に入ってくる学生は少なくない。だからこそ、現場でぼんやり感じた疑問や問いを深めることが出来るし、それは良い武器になるのだ。日本でも、現場経験を踏まえて社会人大学院生になる人が最近増えてきて、僕のところでも今年から一人、現場のソーシャルワーカーが社会人院生をされているが、そういう「現場での問い」を持って学ぶことは、めちゃくちゃ深くてオモロイ学びにつながると思う。

その上で、三好さんは介護には「想像力」と「創造力」の二つの「ソーゾーリョク」が必要だという。(p41)

この人はなぜお風呂に入りたがらないのか、徘徊をするのか、大声で歌うのか。それに対して、ああでもないこうでもないと本人の内在的論理を「想像」する「想像力」。そして一旦「こういう背景があるのではないか」と仮説を立てたら、その仮説をもとに、ではどうやったら現状を変化させることが出来るのか、を現場で考えて、実際に変化を起こしていく「想像力」。これが介護には満載で、こんな風に「工夫」できることが、介護という仕事の魅力なのだ、と彼は語る。

なるほど、三好さんが主催される雑誌のタイトルがレヴィ・ストロースの名言「ブリコラージュ」(ありもの仕事)なのも、そんな「工夫」と「創造力」が介護の原点だからなのだな、と改めて納得した。この本は、福祉や介護に興味のある若者、だけでなく、福祉現場で働く人も、自分の仕事を見つめ直す上で、オススメの一冊です。