わからなさを感じる対話

リアルに知っている仲間二人の往復書簡を書籍として読む体験は初めてである。お一人は、奈良の東吉野村で私設図書館ルチャ・リブロを主催する青木真兵さん。青木さんの出された『手づくりのアジール』で対談させて頂いたこともあるし、彼のやっているポッドキャスト「オムラヂ」で、「生きるためのファンタジーの会」という連載シリーズでおしゃべりし続けている。もうお一人は、建築家の光嶋裕介さん。彼とは青木真兵さんと内田樹先生の対談イベントで出会い、その後本を贈り合うだけでなく、この春から娘と僕は光嶋さんのパートナーの永山さんが主催される合気道高砂道場に通うことになった。なので、合気道仲間であり、今回二人が出された往復書簡の見本が光嶋さんの手元に届いた日がちょうど稽古日で、私にも直接手渡しでお裾分け下さった。

この往復書簡『つくる人になるために』(灯光舎)は、二人の俊英の自在な対話で、実に刺激的である。たとえばこんな感じ。

「<光嶋>生と死や男と女、都市と農村を単純に二項対立させないで、矛盾を排除しない寛大な姿勢で受け入れることで、もっと豊かな視点を獲得し、対立が乗り越えられると思う。そうすることで、何か結果を気にして視野が狭くなることが避けられる。むしろ、何事も揺らぐこと(動き)で結果よりもプロセス(過程)にこそピントを合わせることが出来るように思います。」(p58)

「<青木>じつは僕が「ふたつの原理を行ったり来たりする」ことを提唱しているのは、「寛大さ、寛容さ」というよりも、人間の認識と分析、発信の限界を考えると、どうしても二項対立的にならざるを得ないのではないかと思っているからです。そしてそれをでき得る限り防ぐためには、その二項対立の図式を認めたうえでそれを行ったり来たりすることで中和するという、ちょっとニヒリスティックな考えからきています。」(p207)

二人は結果よりもプロセス(過程)にピントを当てる重要性については同意している。その一方、二項対立に関する認識は異なっている。光嶋さんは「矛盾を排除しない寛大な姿勢で受け入れる」という、受け入れ側の構えとしてこの問題を捉えようとする。一方、青木さんは「二項対立」を人間の認識と分析、発信の限界における必然と捉えた上で、その図式を中和するために、「ふたつの原理を行ったり来たりする」。違うアプローチなのだが、「揺らぐこと(動き)」が生じるというプロセスは共通しているのである。

そして、この揺らぎや行ったり来たりをなぜするのかという問いに、青木さんはこんな風に書いている。

「現代に生きのびる人々が『わからない』状態に耐えきれないことと関係しているのだと思います。現代社会は本当は『わからない』ことが溢れているにもかかわらず、『わかったフリ』をして生きていかなければなりません。そのしんどさに僕は耐えきれなかった。たとえば、なんだか体調が悪いとか、朝いつもと違う道を通って会社や学校に向かいたい気持ちとか、昨日は何事もないように話せたあの人に対して今日は同じように振る舞えないこととか。
本当は僕たち個人個人は『わからない』や『不安定』という感覚でいっぱいいっぱいなのに、社会では『わかる』『安定』を求められてしまう。この社会的要請を乗り越えるためには、『わかったフリ』をするという矛盾を抱えるしかない。これにがまんできなかったんです。」(p20)

二項対立という分類でありラベルは、じつに「わかりやすい」。二つにわけることによって、葛藤なくスムーズに情報処理が出来る。でもこれは情報量の縮減であり、現にあるはずの何かを「ノイズ」として切り落とすことによって成立する。男と女の二項対立に閉じた世界では、LGBTQが完全になかったことにされたり、「精神病」という別のカテゴリーに押し込めることによって、「わかったフリ」を出来たのだ。この二項対立的な図式は実に安定的であり、静的なものである。

でも、若き建築家と思想家の二人は、「わかったフリ」で情報量を縮減しようとしない。「わかったフリ」のしんどさに耐えられない、我慢できないと、なれ合いの世界の外に出ようとする。光嶋さんはこんな風に描く。

「自分で考える力を発揮するには、常時接続を一度切断し、孤独の中で集中する必要がある。孤独を抱えると足元が不安定になり、動きが発生します。そうした揺らぎをもつと自分の中の状態が俯瞰的によく観察できるのだと思うのです。自分の内部に集中していると、意識は逆に外部へと同化的に広がっていきます。こうした空間と身体との相互作用こそ、身体で空間を思考することの証であり、自分が世界の一部であると実感する瞑想的な時間になっていく。このような世界と自己の関係を頭で理解するのではなく、身体全体で空間が浸透してくるように感覚的に考えることで、次なるアクション(行動)へとつなげることができるようになる。勇気をもってジャンプする感じ。」(p166-167)

二項対立図式で「わかったフリ」が出来る世界とは、自分で考えなくてもよい、という意味で、思考の省略であり、長いものに巻かれろ、的な同調圧力に堕しやすい。一方、その社会的・後天的にラベルが貼られた対立軸なりフレームを外すと、自分の頭で考える必要が出てくる。正直、それは面倒くさいことである。なぜならば、ググるとかChat-GPTに要約してもらう世界の「外」に出る必要があるからだ。

そして、このときの「外」とは、自分の内部に意識を集中させることである、という指摘が興味深い。外をキョロキョロ見回すのではなく、内に目を向ける。他の人とは違う動きをすることによる不安や孤独から逃げず、孤独の中で集中してみる。すると、「孤独を抱えると足元が不安定になり、動きが発生」する。

ここでも動きだ。この二人は、確かに移動が多く、沢山本を読むし、多動的にうろちょろしている。でも、そのうろちょろとは、世間やSNSに惑わされるうろちょろではない。「わからなさ」をそのものとして抱え、不安定をそのものとして受け止めるからこそ、「そうした揺らぎをもつと自分の中の状態が俯瞰的によく観察できる」のである。

光嶋さんはこの「空間と身体との相互作用」を合気道の稽古で身につけていった、という。実は僕も合気道を10年以上稽古しているのだが、正直この部分が「わかっていない」。「自分の内部に集中していると、意識は逆に外部へと同化的に広がっていきます」というのは、内田樹先生の文章を僕も読み続けてきたので、なじみのあるフレーズではある。だが、僕は体感として、この部分がわからない。

わからないからこそ、実はこの4月から、ぼく自身も凱風館に入門した。正直、山梨の道場で有段者になったあと、自分がどのように成長していけばよいのか、わからなくなっていったのだ。学んだ型を繰り返す中だけでは、それ以上の上達はしない。でも、それ以外にどのような方法論を用いれば、自分自身のわざとして身につくのか、その方法論がさっぱりわからなかった。そして、こどもが生まれ、姫路に引っ越したこともあり、合気道の練習から遠ざかっていった。

この4月以後、凱風館で稽古をし、娘と共に高砂道場に通う中で、少しずつ感じ始めた事がある。凱風館では、多田宏師範の流れをくみ、呼吸法にかなりの時間をかける。そしてこの呼吸法こそ、「自分の内部に集中していると、意識は逆に外部へと同化的に広がって」いく稽古なのである。・・・ということまでは、頭ではわかった。だが呼吸法を始めて3ヶ月の僕は、意識が外部に同化的に広がっていく、ということは、実感としてはわかっていない。そして、この部分は「わかったフリ」をしたくないと思っている。

「空間と身体との相互作用こそ、身体で空間を思考することの証であり、自分が世界の一部であると実感する瞑想的な時間になっていく」という文言は頭では理解できるけど、合気道の稽古を通じて、身体を通じた実感としては、まだ理解できていない。これを「わかったフリ」をせず、毎回の呼吸法を丁寧に行うなかで、いつか実感として空間と身体の相互作用が感じられるようになりたい。そう欲望している自分がいる。きっとそれは、瞑想やマインドフルネスに至るための第一歩として、呼吸に意識を向け続け、あるがままの状態を感じることである、と「頭ではわかっている」。でも、いかんせん頭でっかちで、身体ではわかっていない。

この身体を通じた「わからなさ」を大切にしたい。頭でっかちになって「わかったフリ」で誤魔化したくない。わからなさを感じ続けたい。二人の往復書簡を読みながら、改めてそう感じた。

その意味で、僕はこの往復書簡自体に同期しているのかも、しれない。光嶋さんの後書きを読みながら、その思いは強くなる。

「自分で書いた言葉を自分で読むことで、自分自身を知っていく。もしくは、自分の中の他者を発見する。自分の中の複数性に気がつかされるといえるかもしれません。それは、自分のあり得たかもしれない『もう一人の自分』と出会うような感覚でした。僕の言葉でいうと『自分の地図』をつくるためには、他者からのパスを起点にして、自己との対話(内省)を通して自分の中の他者性と向き合うことが成熟への道であり、大人になることだと思っていました。綿密なパスまわしです。」(p186)

この二人の往復書簡は、価値観が一緒だねと確かめ合うハーモニー(調和)ではなく、他者性や複数性に開かれる、という意味でポリフォニーである。お互いの投げかけに応答するなかで、新たな異なる音が重なっていく。そして、その音の重なりは、予定調和ではなく、むしろ逆に、「自分で書いた言葉を自分で読むことで、自分自身を知っていく」プロセスなのだろうと思う。それがなぜ、綿密なパスまわしなのか。

ここで言われるパスの「綿密」さとは、計画制御的な、ルートを綿密に定めたパスではない。そうではなくて、相手に託されたパスを受け取って、その瞬間から動きながら自分の身体をくぐらせた上で、暫定的な仮説として相手に提示する。その提示された仮説に相手も呼応し、言葉が紡がれていく。その紡がれた言葉のパスを再び受け取る中で、「自分で書いた言葉を自分で読むことで、自分自身を知っていく」といった、自分の言葉への膨らみがうまれていく。これが、綿密なパス回しであり、この往復書簡の魅力なのだと、今回わかった。対話している相手は、目の前の他者だけではない。かつてその他者に向けて放たれた自分の言葉も、他者性を持って自分に響いていく。他者の他者性だけでなく、己の唯一無二性をも受け取るプロセスが、往復書簡の中に響き渡っている。だからこそ、この往復書簡の風通しがよいのだと思う。

ちなみに、僕の動き方はたぶん光嶋さん寄りなのではないか、となんとなく感じる。自己陶冶的なありようで、スケジュールを詰め込みすぎとか、身体を壊したりしてはじめて色々なことに気づく、という部分で(僕の場合はよく風邪を引く)。でも、青木さんの「いやなものはいやだ」「わからないものはわからない」という潔さも気持ちいいし、そういう部分を、少しずつだけれど増やしつつある。そういう意味で、二人の豊かなポリフォニーから沢山の何かをパスしてもらったような気がしている。

ちなみに、青木真兵さんのパートナーである青木海青子さんの挿絵がめちゃくちゃいい。熊くんや羊さん?の絶妙な挿絵によって、二人の鋭いやりとりに、別の余白が生まれていく。しかも、どの挿絵も、そのシーンにあまりにもぴったりの挿絵なので、思わず「本業ですか?」とお尋ねしたくなる位の魅力。そして、紙質が手触り感のよいざらつきで非常に良い。電子書籍にはぜったい出来ない、「紙の本、ここにあり!」という風合いである。初版本は特製シールまで付いていて、限定版の価値がある。ちなみに僕のは緑の蝋燭シールでした♪

自分の頭で考えてみたい人、わからなさの面白さを感じたい人に、是非手に取ってほしい一冊である。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。