以前から注目していたスクールソーシャルワーカーの鴻巣麻里香さんの新刊『思春期のしんどさってなんだろう? あなたと考えたいあなたを苦しめる社会の問題』(平凡社)を読み終える。たくさんの10代の若者たちと丁寧に向き合い続けてこられた彼女だからこそ、書かれた内容に、頷くポイントがすごく多い。
「合理的な理由がない規則を守らなければならないのは理不尽です。理不尽とは道理が通らないことです。『たとえ合理的な理由がわからなくても、規則は守らなければならない』という世界で過ごすうちに、理不尽や疑問はのみこまなければならない、がまんして受け入れなければならないんだと、刷り込まれてしまいます。
それも一種の色眼鏡です。なぜかというと、社会に出たときに、『理不尽なことでも引き受けなければならない』『疑問はのみこまなければならない』という色眼鏡で世の中を見るようになるし、自分自身を見るようになるからです。」(p41)
実際、大学一年生と議論をしていると、すでにこの色眼鏡をしっかり身体化している学生がどれほど多いか。「おかしいと思ったら、その違和感を表明するか?」とお尋ねすると、多くの学生が『疑問はのみこまなければならない』と応えてくれる。その理由を探っていくと、たとえば高校でスマホの学校持ち込み禁止について、教員に異議申し立てしたけれど、「ルールなんだから従え」以上の理由を教えてくれず、強制された。だからこそ、「たとえ合理的な理由がわからなくても、規則は守らなければならない」という色眼鏡を内面化したという。そして、この色眼鏡は、日本社会の理不尽さを肯定し、理不尽なルールでも同調圧力で従え、という圧を強化していく。授業中に「そうはいっても先生、長いものには巻かれろ、でしょ」と言われて、呆気にとられたこともある。
では、この現状を変えるにはどうしたらよいのか。鴻巣さんは、わかりやすく具体的に説いていく。
「子どもたちにとって必要なのは、『みんなで仲良く』ではなく自分とだれかのあいだの心地よい境界線がどこにあるのか、少しずつ気づいていくプロセスだと思います。それは自分も大事にして相手も尊重することです。人と自分とではちがっていて、自分とだれかのあいだに境界線をしっかり守りたい子も居れば、ファジーでゆるくて、相手と混ざり合うことが心地よい子も居る。(略)
そこに、『仲良くすることはよいことだ』、言い換えれば『だれかを苦手と思うのはよくないことだ』というメッセージが降りてくれば、おたがいに境界線を図り合って距離を取る、つまり自分を大事にする、相手を尊重するということがよくわからなくなってしまいます。」(p63-64)
学校に関わる人で、「みんなで仲良く」という「大前提」に公然と異を唱える人はなかなかいない。でも、あたなも私も、教師も校長も、すべての人と適切な関係性を結ぶことが出来るわけではない。実際に、挨拶をするけどそれ以上深入りしない、あるいは距離を置いて遠ざかった経験は、誰しもある。でも、それは固定的なものではなく、小学校の時は大の仲良しだったけど、その後疎遠になったとか、逆に学生時代は名前を知っているだけだったのに大人になってから唯一無二の親友になるとか、そんなのざらである。
にも関わらず、「みんな仲良くまとまりあるクラス」というテーゼを教員や学校が掲げ、それに従うのが当然という同調圧力がかかると、それを「理不尽」に感じる子どもたちも増えてくる。本当は「おたがいに境界線を図り合って距離を取る、つまり自分を大事にする、相手を尊重するということ」が最も大切なはずなのに、その境界線を取る行為が、『だれかを苦手と思うのはよくないことだ』という形でネガティブに規範化されると、息が詰まってしまう。このあたり、特に小さい頃から人の顔色を見て育ってきた僕は、すごくよくわかる。一方、6歳の我が娘さんは、自分がしゃべりたい人としゃべった後、ふわふわとよそにいく力も持っているので、この圧は親の僕の方が感じているのかもしれない。
また、この本は、親や教師など若者と付き合う大人が、じっくり胸に手をあてて考えてほしいフレーズが沢山ある。たとえば、家にいて若者が苦しいと感じる理由について、以下のような説明がなされている。
「自分の部屋にノックせず勝手に入ってこられる、留守にしている間に机のなかをみられている、家族が無断で自分の物を使っている、事故にあったら心配される前に叱られた、脱衣所で着替え中や入浴中に親(とくに異性の親)にドアを開けられる、女の子だという理由で(弟や兄は免除されるのに)自分だけ家事を手伝わされる、テスト前には外出が許されない、予定を勝手に決められる、週末はきょうだいのスポーツの試合に強制的に同行させられる、成績が下がると外出や部活動が制限される、アルバイト代を親に渡すように要求される、進路について親の希望が優先される、忙しい親の代わりに家事のほとんどを担ったり小さな弟妹の面倒を長時間みなければならない、病気や高齢の家族の介護を担わなければならない(この問題は「ヤングケアラー」として認識されるようになりました)、そして両親の仲が悪かったり、親の精神状態が不安定だったりアルコールに依存していたりでつねに緊張している、親が不在にすることが多かったり親の交際相手が頻繁に家に来て居場所がない、などです。」(p155)
書き写していて胸が潰れそうになるくらい、リアルで現実的な苦しさである。一見些細にみえることでも、これは明らかに対等ではない、支配や抑圧的関係性である。そしてこのような支配や抑圧に対して、「嫌だ」「やめてほしい」「許せない」と言っても「思春期(反抗期)だから」の一言でまともに親や周囲に取り扱ってもらえないと、二次被害をうけて、ますます辛くなると思う。鴻巣さんが指摘している上記の例はどれも「合理的な理由がない規則」であり「道理が通らない」「理不尽」である。学校の校則など、家の外でも理不尽な環境が当たり前で、さらに安心していれるはずの家でも、また別の理不尽に出会い続けたら、生きる意欲が減退するのも当たり前だ。不登校や引きこもり、リストカットや自殺などの「社会的逸脱」と言われるものが、このような学校や家庭における「理不尽」の蓄積に基づいて社会的に構築されていくともいえる。
だからこそ、この本の副題は「あなたと考えたいあなたを苦しめる社会の問題」と書かれているのだ。あなたを苦しめるのは、あなたの内面の弱さではないし、自己責任でもない。社会の問題である事に気づいてほしい。そんな鴻巣さんの祈るようなメッセージが響いている。
あと、若者達は情け容赦ない評価に晒され続け、傷ついているからこそ、次のメッセージは大人としてしっかり受け止めたい。
「たとえば『この子はこういう場面でこんな行動をしました。その行動は素晴らしいと思います』というのであれば、『あなたはこういう子』という決めつけにはなりません。それは観察の描写と感想です。けれども、『この子はこういう行動をしていました。とてもやさしい子です』とか『とても活発です』などとその子の性格を表す言葉で断定的に評価すると、それは性格を決めつけることになります。
その評価を見て『あ、私は先生からこう見えてるんだ。じっさいはちがうんだけどな』と、納得しない場合も多いでしょう。でも『大人から期待される自分』がどんな自分かは察知できます。『自分は大人からやさしくあることが求められてるんだな』『活発であることが期待されているんだ』『リーダーシップが求められているんだ』などまわりからの期待がわかると、人は自然とそれに沿う自分になろうとしてしまうものです。でも、『まわりが期待するからこうあらねばならないんだ』と自分を追い込んだり、『こうあらねばならないのに、なかなかできない』と感じると、苦しくなってしまいます。」(p195-196)
こういう苦しさを抱えている大学生と、何人もあってきた。それは、大人の期待の内面化、および自分よりも大人の評価を気にするスキーマが機能しているのだと思う。でも、ここで問われるのは、そういう子どもの内面の評価、ではない。そうではなくて、子どもにそう思わせる親や教師の側に問題はありませんか、というのが、鴻巣さんの問いかけなのだ。その子の言動を見て、「観察の描写と感想」にとどめず、そういう言動をするから「とても○○な子だ」と評価や決めつけをしていませんか、と。
書きながらギクッとしている。僕も以前、「観察の描写や感想」よりも、「評価や断定」をしょっちゅうしていたな、と。それは、相手の内在的論理を理解しようとするのではなく、「わかったフリ」をして、思考の省略をしたり、あるいは相手にマウントを取るために、やっていたのだと、反省的に書き記す。そして、そういう「わかったふり」や思考の省略は、相手を追い込み、苦しめてきたのだ、と。僕と接点があったのに、フェードアウトしていった学生さんの中には、僕のこのような評価や断定の姿勢があったのだと思うと、本当に申し訳ない。
でも、実は48歳のおっさんの僕が改めて思うのは、ぼく自身も、「観察の描写や感想」をされるより「評価や断定」をされて育ってきた。だから自己正当化したいのではない。そうではなくて、自分がされたことで嫌だった、理不尽だったことを振り返り、それを繰り返さないための自己省察が僕だけでなく、今の大人には欠けているのではないか、という点である。令和の世の中なんだから、昭和的認識をアップデートしようよ、と。
おわりに、でも、鴻巣さんは大人達に具体的アドバイスをしてくれている。
「よいことをするのではなく、害になることをしない。この『しない』が、まずは必要です。たとえば容姿や体型についてコメントしない、女の子だから・男の子だからと精査で役割を決めつけない、不必要に無断で身体にふれない、趣味や予定を押しつけない、秘密を持つことを禁じない、苦労話やがまん話をしない、取り引きしない(○○したいなら△△しなさい、など)、約束を破らない、イライラを態度に出さない、話をきく前に決めつけて叱らない。でないと、子ども達にとって『敵ではない大人』にはなれませんし、そのプロセスをすっ飛ばして子どもの味方や理解者になれるはずはありません。」(p219)
これも、いてて、である。一言で言えば、ハラスメントをするな、につきる。のだが、「イライラを態度に出さない」とか「話をきく前に決めつけて叱らない」を娘の前でちゃんとできているか、といわれると、怪しい場合がある。学生さんに「よいことをする」押しつけがましさはないか、「害になることをしない」という原則をしっかり保持しているか、自己点検しなきゃならないと、改めて思う。
最後に、僕がもっとも心に突き刺さった、17歳の「さくや」さんの言葉を引用しておく。
「きいてくれない大人に『思春期だから』って言われても、納得出来るわけではないですよ。大人には、思春期という言葉を慎重に使って欲しいです。葛藤は抑圧するなにかがないと生じないから。必ず抑圧してくるものがあるんです。大人が対応しなきゃいけないのは思春期の子たちの心のなかにはない、私たちのまわりにあります。用紙をジャッジするな、性的に消費するな、理不尽なルールやめろ、いじめ暴力虐待なくせ、です。思春期はいろんな気づきがはじまる時期です。おかしなことやイヤなことに、おかしい、イヤだと思えるようになる時期。大人が向き合うべきは、おかしいって感じる私たちじゃない。おかしなことやイヤなことにたいしてです。」(p186)
子どものパフォーマンスの最大化を疎外し、その芽を摘んでいるのは、大人達である。それが失われた30年を形作ってきた理由でもあると、僕はさくやさんのメッセージを読んで、痛切に感じた。そして、大人が思春期の子ども達を搾取したり抑圧するのではなく、大人自身が、自分自身の抱える「おかしなことやイヤなことにたいして」向き合えるか。大人自身が、この社会の理不尽にたいして、おかしい、へんだ、イヤだと声を上げ続けられるか。それが、率先垂範としての大人に問われている。改めてそう感じた。