鶴見俊輔からのバトン

500頁を超えるけど、一気呵成に読み終えたのが『鶴見俊輔伝』(黒川創著、新潮社)。以前から鶴見俊輔のことは気になりながら、何冊か対談を読んだ事もあるのだが、この濃厚な評伝を読んで、もっと彼の著作を読んでみたくなった。その理由は色々あるが、この部分が大きい。

「『戦争中、自分に捕虜殺害の命令が下っていたら、それを拒み通すことなどできただろうか?』
この自問は、戦後70年間、彼の中に生きつづける。それを拒めたかは、疑わしい。だからこそ、『敵を殺せ』と人に命じる国家という制度への憎しみと懐疑が、彼のなかで消えずに残る。
状況のなかで考える-と、よく彼は言う。『状況』とは、歴史のただなかに身を置く、現在という場所のことだろう。」(p540)

自分も悪をなし得る存在である。悪をなしていないのは、たまたまの運の巡り合わせに過ぎない。

彼は第二次世界大戦が始まる直前までハーバード大学で学んでいたが、収容所で卒業論文を書き上げ、日米の交換戦で帰国後、徴兵されてジャカルタで軍属として短波無線の傍受の仕事に就く。その時期に、インド人の捕虜が伝染病にかかり、治療する薬が不足しているから、という理由で捕虜殺害命令が、自分の隣室の軍属に下される。その軍属は、毒薬とピストルを持たされ、実際にピストルで射殺したと鶴見に語る。

鶴見はジャワ島の古本屋で買い求めたタゴールを貪るように読む。そこにはこんなフレーズがあった。

「不道徳的であることは道徳的に不完全であることだ。これと同じ意味で、間違っているという場合、わずかな程度真実であることを意味している。そうでなければ、間違いということさえできない。見えないということは物を見る眼がないことだ。けれども、見あやまることは不完全な見方をしていることである。人間の利己主義は人生において何らかの縁故や目的を見いだすきっかけとなる。そしてそれが命じるものに従って行動するためには、自衛と行為の規制が必要である。」(『タゴール全集第八巻』第三文明社、p50)

彼は、不完全や不道徳を、自分の中に持ち続けた。後藤新平を祖父に、鶴見祐輔を父に持つ政治家の家系に育ち、小さい頃はそんな「肩書き」や「世間の目」だけでなく学校制度にも馴染めず、「不良少年」だった。そして、ハーバードで猛勉強するも、日米開戦と同時に帰国を余儀なくされる。当時彼は「アナーキストで戦争は基本的に支持しないが、どちらかといえばアメリカに理がある」とFBIにこたえており、それで国外追放になるし、戦後も彼の入国が赤狩り時代のアメリカから拒絶されたりする。

だが、彼が「『敵を殺せ』と人に命じる国家という制度への憎しみと懐疑」を抱いたとき、単に「自分が正しい」と道徳や正義を体現して、そう考えたのではない。『戦争中、自分に捕虜殺害の命令が下っていたら、それを拒み通すことなどできただろうか?』 という問いを、ずっと抱え続けていた。つまり、自分が不道徳な捕虜殺害を「なし得る」立ち位置にいて、隣室の軍属は実際にそれに手を染めざるを得なかった。彼は「他人を殺す」という意味では「間違っている」行為をしたが、そのような状況下でも、「わずかな程度真実である」ことがあった。それは、「捕虜殺害の命令が下っ」たら「それを拒み通すこと」はできない、という真実である。それは、完全な道徳や正義を上から目線で語ることなど出来ない、という平場の思想である。更に言えば、自分は悪をなし得る存在であり、不完全な見方をしている存在である、という己への健全な懐疑を持ち続けたことであった。

この原点があるから、戦後の彼は「思想の科学」を50年も刊行し続け、学生運動に同調して大学教員を辞職し、ベ平連の活動にもコミットしていく。自らの正義や道徳性を相手に押しつけるのではなく、自らの内に潜む「悪をなし得る存在(だがたまたま今は悪をなしていない)」という原罪に常に自覚的であったからこそ、筋を通した発言をし続ける。自らが不道徳で不完全な部分があったからこそ、他者の不道徳や不完全を理解し、その中にある「わずかな程度の真実」や「何を見誤ったのか」を掴む力があった。そして、それは彼がハーバードで学んだプラグラマティズムの、彼なりの応用だったのかも、しれない。

鶴見俊輔と親子二代にわたって深い付き合いがあった著者だからこそ、の視点が前提にあり、その上で膨大な彼や彼の周囲の人々の書いた物を読み解き、それを一次資料として考察する強靱な思考の著者故に、骨太で読ませる評伝だった。そういう意味では、筆者の黒川氏は、鶴見から託されたバトンを、見事に描ききったのだと思う。最後に、鶴見俊輔の子である鶴見太郎が、彼の死後の記者会見で述べた印象を引用しておきたい。

「父は、私が子どものころから、いろんなことを話すごとに、『おもしろいな!』『すごいね!』『いや、驚いた!』と、目を見張って、心底からびっくりしたような反応を示す人でした。ですから、大人というのは、そういう人たちなのだろうと思っていました。
ところが、いざ外の世界に出てみると、世間の大人達は、何に対してもほとんど無反応でいる、ということがわかって、ショックを受けました。」(p496)

鶴見が単に子どものような心を持っている、だけではない。悪をなし得る、不完全で不道徳な部分が自分にあるとわかっているからこそ、子どもであっても、他者に対して敬意と好奇心を持って接し、新たな発見を共に喜ぶことのできる「大人」だったのだと思う。僕もこんな大人になりたい!と思わずにいられなかった。そういうバトンを、僕は受け取った。