密画と略画の重ね描き

「正しさ」を疑うことは、簡単なことではない。
特に、自らが寄って立つ基準にしている「正しさ」、以前から空気のように当たり前に思っている「正しさ」。それらが、「もしかしたら違うかも知れない」と言われると、自らの土台が崩されるようで、「ほんまかいな!」「そんなはずはない!」と絶叫したくなる。
例えば、311や原発災害の後、言われているのは、「科学万能主義」への大いなる懐疑である。「専門家」と称する人が、原発災害について、それこそ全く違うことを言っている。それぞれが根拠とする数値や「科学性」を根拠に、「安全」「危険」など異なる価値表明をしている。その価値表明に、一喜一憂しながらも、本来「唯一の正解」を出せる「はず」と思っていた科学者達が、現実に対してこうも違う見解を述べる事に、大きな違和感を感じている。
その中で、哲学者の大森荘蔵の言う「科学は常識に密着したより詳しいお話」という考え方をヒントに、生命誌研究家の中村桂子さんは、「まずは一人一人が『自分は生き物である』という感覚をもつこと」の重要性と、そこから近代科学を問い直す論考を提示してくれいる。
中村さんは、大森荘蔵の「略画」と「密画」を、「常識」を問い直すキーワードとして提示している。
「日常、自分の眼で物を見、耳で音を聞き、手で触れ、舌で味わうという形で外界と接している時に私たちが描く世界像を、大森は『略画的』と呼びます。(略)それに対して、近代科学が生まれたことにより可能になった世界の描き方を、大森は『密画的』と呼んでいます。『密画』は、(略)ここでは可能な限り最小の単位まで還元し、分析的にものを見ていく見方を指しています。基本的に科学は密画を描くものであり、世界を密画化していく、というのが大森の考え方です。」(中村桂子『科学者が人間であること』岩波新書、p98)
これはすごくよくわかる二分法である。日常的には、僕たちは「略画」の世界で生きている。そこでは好き・嫌いや五感が大切にされる、はずである。だが、一方で、僕たちは近代科学の「密画」世界も徹底的に「学習」して、それを常識(=略画世界)の中に取り込んできた。賞味期限とか、平均体重とか、正常値の範囲内とか、そのような数値化・標準化可能な「分析的」な「密画」のデータを、日々の生活(=「略画」)の世界に取り込んできた。テレビでも毎日、そんな「密画」を紹介したり、それを取り込むバラエティ番組や情報番組で溢れている。その中で、ある価値転倒が生じている、と中村さんは指摘する。
「重要なことは、『科学的』だからといって、密画の方が略画よ『上』なわけでも、密画さえ描ければ自然の姿が描けるわけでもないということです。密画を描こうとする時に、略画的世界観を忘れないことが大切なのです。」(同上、p109)
これは、科学(=「密画」)を万能と捉え、何でも科学で説明出来るはずである、というある種の「科学信仰」と、その裏表の関係として、科学を否定し科学を敵と見なす「略画信仰」の双方に対する批判である。つまり、密画と略画は、どちらが優れている訳でも、どちらか「だけ」が大切な訳でもない。その両方が併存する中で、初めて人間理解が進み、より良い暮らしへのヒントも得られる、という視点である。これは、「密画」(=科学)万能主義を唱える機械論的世界観が、人間を「死物化」したことへの批判でもあり、その一方で、人間的復権を求める「略画」万能主義は、近代科学が成し遂げた「より詳しいお話」を全否定するという意味で、蒙昧にならないか、という指摘である。
では、どうすればいいのか? その時に大切なのが、「重ね描き」である、という。
「科学で『知る』ことによって自然を全て理解することはできないとしても、それは大きな問題ではありません。科学の役割は、密画を略画に重ね合わせることえで、自然(人間・生命を含む)のわかり方がより豊かになることを楽しめるようにすることなのですから。密画と略画を重ねて見えてくる全体像をもとに、自然・生命・人間について考える世界観を、機械論的世界観に対して、『生命論的世界観』と呼ぶことにします。これは人間が本来持っている略画的世界観に近いもの、というよりそれと同じと言ってもよいと思うのですが、ここに密画を重ねることを拒まないという新しい視点を入れます。」(同上、p138-139)]
ふだん生命論とか自然科学系の本をあまり読まない僕なのだが、この部分の記述を読んで、「ああ、そうだよなぁ」と深く納得した。そして、これは前回のブログの最後で書いた部分と重なる、と感じている。ちょっと、引用してみたい。
「僕が書いていることは、一見すると論理に飛躍があり、非科学的に見えるかもしれない。でも、そのパンを美味しいという人がいて、その支援で助かったという人がいるならば、その「目に見えない(=非線形的)」理由に基づいていても、「目に見える結果」を重視すべきではないか。科学を否定するのではない。科学のみが万能である、という科学万能主義のパラダイムこそ疑い、「美味しいパン」「満足できる支援」という成果を徹底的に追求すべきではないか。」
「腐る経済」に基づいて、天然酵母に基づく美味しいパン作りをしているタルマーリーさんの実践と、入院しかないと言われていた重度精神障害者を訪問支援チームで支え続けているACT-K。この双方の実践は、「密画」的世界の限界を、ある種、超えている。
「『腐らない』食べものが、『食』の値段を下げ、『職』をも安くする。さらに、『安い食』は『食』の安全の犠牲の上に、『使用価値』を偽装して、『食』のつくり手から技術や尊厳をも奪っていく。」
これが、「腐らない経済」=近代資本主義経済の基本だった。そしてそこには、計量経済学や様々な密画的な技法が駆使され、べらぼうな額の「腐らない」金銭取引が日夜続いている。それが利潤と貧困を大きくしてもいる。だが、タルマーリーさんの実践は、その「腐らない経済」を否定するのではない。「密画」世界の中で成立した「どんな山奥から東京までも1日でパンが運べる」ロジスティックや、山奥の店でもインターネットで全世界に発信できる通信網などのお陰で、タルマーリーさんのファンは増えてい
る。同じように、ACT-Kだって、薬物治療を否定する「反精神医学」ではない。そうではなくて、投薬による治療をチーム医療の方法論の一つと捉え、それ以外の「寄り添う支援(=「ひとぐすり」的なサポート)を展開する事で、幻覚や妄想に苦しんだり、医療中断で症状が悪化した人を、強制入院という非人道的な処遇に戻さず、地域の中で支え続ける方法論を見出したのである。
これは「密画」という科学に基づく世界観の否定ではない。そうではなくて、「密画」の限界を知り、「密画」だけで対処出来ない領域を、「略画」の世界でカバーする「重ね描き」をする中で、ほんまもんの「おいしさ」「満足できる支援」を作り出す、というシステムなのである。「密画」のみを「信仰」するならば、「菌を豊かに育てるためには新築よりも古民家の方がいい」「悪霊に苦しんでいる当事者には一緒にお札を貼ってみる」という行為や発言は、「密画」の外にある世界観故に、「非科学的だ」と一笑に付されることも少なくない。だが、それはあくまでも「密画」以外の世界を「ない」とする、一つの信仰である。「密画」世界に「のみ」拘泥せず、密画と略画を「重ね描き」する実践を通じて、現にそれで「おいしい」「満足できる支援」が展開されているのに、それを標準値から逸脱した「例外的事象」と割り切ってしまう考え方こそ、「非科学的」とは言えないだろうか。
「科学は常識に密着したより詳しいお話」というスタンスに立ち戻るなら、その「より詳しいお話」には様々なバリエーションがありうるということ、そして「詳しいお話」だって、軌道修正が必要なことがあること、密画と略画の重ね描きが双方の「お話」の世界観をより豊穣にしてくれる可能性があること・・・これらの「生命論的世界観」こそが重要視されているような気がする。そして、自然科学を社会科学と言い換えるなら、「密画」の絶対信仰からの脱却としての現象学的還元は、拙著『枠組み外しの旅』の重要なテーマでもあった、ということを、最後に付け加えておく。

「腐る経済」と本人中心支援の共通点

ここ一ヶ月、落ち着いてブログ更新が出来なかった。先週末、新刊の『権利擁護が支援を変える』も上梓され、やっと一息付ける。で、今日のテーマは昨日の朝、京都駅の本屋で買い求め、甲府に帰り着く間に一気に読み終えた一冊から。

「『腐らない』食べものが、『食』の値段を下げ、『職』をも安くする。さらに、『安い食』は『食』の安全の犠牲の上に、『使用価値』を偽装して、『食』のつくり手から技術や尊厳をも奪っていく。(略) そしてもういひとつ。時間による変化の摂理から外れたものがある。それが、おカネだ。おカネは、時間が経っても土へと還らない。いわば、永遠に『腐らない』。それどころか、投資によって得られる『利潤』や、おカネの貸し借り(金融)による利子によって、どこまでも増えていく性質さえある。これ、よく考えてみるとおかしくないだろうか? この『腐らない』おカネが、資本主義のおかしさをつくりだしているということが、僕がこの本で言いたいことの半分を占めている。」(渡邉格著『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』 講談社 p74)
渡邉さんは、岡山の勝山で「タルマーリー」というパン屋を営むご主人。経営理念に「利潤を出さないこと」を掲げ、辺境革命を冒頭では宣言している。その革命の原動力が、表題の「腐る経済」だと言う。食の偽装が次々と暴露される昨今、マルクスの資本論も引きながら彼が整理する、「腐らない」食べものの問題点についての指摘は、実にアクチュアルである。そしてそれは、彼がイースト菌や偽装された天然酵母と決別し、ほんまもんの発酵や菌と出会う過程の中で気づかれた、現場からの叡智である。そして、ほんまもんの天然菌に基づく酒種パンを作り上げるためには、菌を変えるだけでなく、菌に馴染みやすい地元の自然栽培の麦や美味しい水が不可欠であることや、そのような「菌の声」に基づく「菌本位制」のパン作りをするならば、安く大量に作るという「腐らない経済」とは決別し、「パンを正しく高く売る」必要がある、という。
この「菌本位制」の「腐る経済」の話はめちゃくちゃ面白いので、ご興味がある人は是非とも手にとって読んでほしいのだが、僕はこの本を読みながら、僕自身が考えてきた「支援」の世界にも共通する話だ、と興奮していた。
それは、「腐らない経済」が障害の「医学モデル」に代表される科学万能主義に、そして「腐る経済」が「関係性」と「生命現象」を重視する、障害の「社会モデル」やナラティブ世界と通底している、と感じ始めているからである。ちょっと整理してみよう。
近代科学やそれを内包した20世紀型の「医学モデル」は、線形的な因果関係を重視してきた。AならばB、という時、Aが原因でBが結果、というモデルである。そして、その流れは標準化可能であり、ゆえに画一化と効率化の対象にもなる。ベルトコンベアー式労働とは、手工業の複雑なプロセスをできる限り因数分解し、原因と結果という細かい線形のパッケージに組み立て直し、各部分のみを分担する分業制を徹底化させる中で、職人の熟練を、未熟練の単純作業に分割した。その上で、それは機械労働や低賃金国での単純労働にどんどん置き換わっていく。「安く」「大量に」というこの高度消費社会のメカニズムの中で、生産者の尊厳はどんどん劣化していく。渡邉さんの先の発言の「食」を「モノ」に置き換えると、こんな風にもいえる。
「『腐らない』モノが、『モノ』の値段を下げ、『職』をも安くする。さらに、『安いモノ』は『モノ』の安全の犠牲の上に、『使用価値』を偽装して、『モノ』のつくり手から技術や尊厳をも奪っていく。」
食品偽装の前には建築偽装など、日本人は勤勉で生真面目、と言われて、もの作りニッポン、なんて言われた時代も凋落しつつあるが、その背後には、大量生産や大量消費を煽り、「腐らない」おカネ(=利潤)を大量に生み出すことを目的にした、「腐らない経済」の弊害があるのではないか、と渡邉さんも指摘する。
そして、実はこの問題は支援パラダイムの根幹にもある。
例えば入所施設や精神科病院に長期に社会的に入院・入所させられている障害者が何十万人といる。そのような、入所施設や精神科病院という、全生活を一元的に支配・管理するような施設のことを、アメリカのゴフマンという社会学者は「全制的施設 (total institution)」と名付けた。そこでは、集団管理と一括処遇がパッケージとして行われ、少人数の支援者で大人数の入居者を「効率的」に「処理」することが求められている。全ては施設の「決まり」と「タイムスケジュール」の中で進み、寝起きの時間や食事の時間もそのスケジュールに従わねばならない。この「支配的支援」は、いくらよい支援者がそこで働いていても、抑圧的な施設構造そのものの問題であり、その抑圧的構造そのものを問題視しないと、問題は解決されない。(その辺りの詳しいことは、『権利擁護が支援を変える』でも議論した。)
で、この「全制的施設」での画一化・効率化・標準化されたケアとは、まさに「腐らない経済」の論理そのもの、なのである。そして、問題は、支援とは本来、生きている人(=つまりいつかは「腐る」存在になる人)を対象にしている。「腐らない」モデルは、時間による変化を想定しないモデルである。標準化も画一化も、時間による変化を考慮に入れないからこそ、考えられる視点だ。だが、人間は、発達や成長、老化や病気など、様々な要因で、日々刻々と変化する存在である。つまり「死に至る」(=少しずつ劣化していき、いつかは「腐る」)存在なのだ。ただ、その劣化の仕方は、人それぞれで違う、だけでなく、その人がどのような関わりをするか、でも大きく変わる。近代科学は再現性と線形性を大切にしてきたが、実はパンでも人でも、「腐りゆく存在」と考えれば、そこに見過ごされているのが、「関係性」と「生命現象」という視点である。
実はこの「関係性」と「生命現象」とは、臨床心理学者の河合隼雄氏が、脳科学者の茂木健一郎氏との対談の中で語った内容である。
「近代科学は、ご存じのように、関係性を絶って、客観的に研究する。しかし、われわれのほうは関係性がなかったら、絶対、話にならない。だから、その関係のあり方をすごく大事にしていく。それから生命現象というものは、
物理の力学のように、これだけ質量があって、位置がこうで、というふうに定義できないんですね。また物理は、目で見えていること以外のことを絶対扱わない。しかも、ほかにどんな可能性があるか、それに気づこうとしない。それに気がついて、そこに注目して、ユングなんかはやったわけですね。」(河合隼雄・茂木健一郎『こころと脳の対話』新潮文庫、p16)
医学的に説明がつかないけれども、治癒する、ということがある。これは、線型モデルの中では説明がまだ出来ないけれど、現象として変化が生じている、ということである。「目で見えていること以外」をも認めるかどうか、というパラダイムが問われている。タルマーリーでは、毎日菌と対話しながら、作り方の条件を変え、菌が喜ぶようにパン作りしている、という。これは、明らかに数式や標準化という「目で見える」以外の事を扱っている。でも、そこから美味しいパンが出来るなら、タルマーリーの皆さんは、菌とよい「関係性」を保ち、その関わりの中から聞こえてくる変化に合わせて作るプロセスを変化させる中で、一回性の生命現象として、「今日のパン」を作り続けている、とは言えないだろうか。そして、それこそが「腐る経済」であり、「腐る」という「生命現象」を持つパンだからこそ、「腐らない」、規格化と標準化されたパンとは違う本気の味わいがあるのかもしれない。
で、今日はもう少しだけ続けたいのだが、この「関係性」と「生命現象」を重視した「腐る経済」の論理は、支援においても必要不可欠だ、というのが、今日一番伝えたいことだ。それを実感したのは、精神科病院にずっと社会的入院を続けているような、「重度」と言われた精神障害のある人を、地域で支え続けているACT-K(集中的地域支援)のチーム支援の本に、まさにそれと合い通じる内容を見つけたからである。
「急性期状態が過ぎると、1日1回1時間程度の定期訪問に少しずつ戻していった。『玄関から悪霊が入ってくる』との訴えには、本人と相談し神社のお札を玄関に貼り、大きな杉の木の棒で玄関を固定し、中からでしか開けられないように工夫を凝らした。その工夫が功を奏したのか安心感が徐々に出てこられ、幼少期にいじめにあい不登校でほとんど勉強していないことや、勉強したいことなど自分自身のことや希望を話すようになった。」(高木俊介監修、福山敦子・岡田愛編『精神障がい者地域包括ケアのすすめ』批評社、p64)
『玄関から悪霊が入ってくる』というのは、普通の人にとっては明らかに「目で見えていること以外」のことであり、再現性や標準化不能なことである。近代科学はそれに「幻覚・妄想」というラベルを貼って標準化し、それに薬物治療という対処療法を当てはめて、対応しようとした。もちろん投薬でその状態が治まるならば、それでよい。でも、この例に出てきたカズマサさん(仮名)の場合、そのような投薬では全く治まらないどころか、幻覚や妄想で様々なトラブルを起こし続け、強制入院と退院を30年繰り返して来た人である、という。
このような悪循環の増幅作用を何とか阻止し、好循環に変える為に支援チームがとった戦略。それが、一見すると「非科学的」に見える、「お札を玄関に貼る」「玄関の戸締まりを強化する」という戦略だった。それは、標準化された科学の枠を明らかにはみ出している。だが、ACT-Kの支援チームは、本人の『玄関から悪霊が入ってくる』という訴えを、幻覚や妄想と切り捨てず、それにより「困っている」という生命現象に着目した。そして、その「悪霊」に苛まれて悪循環プロセスから抜け出せないなら、まずは「悪霊」を一緒に退治する関わりをカズマサさんとし始めた。その関係性の変化の中で、これまで周囲の人を全て敵だと思っていたカズマサさんが、初めて自らの困り事や本音を語り出す、という形で、カズマサさんを巡る生命現象が、固着状態から開き始め、動き始めたのである。それによって、精神科病院という「全制的施設」での標準化されたケアでは治癒不能だったカズマサさんに、安心感が生まれ、「地域で安心して生活できる」状態を少しずつ取り戻しつつある、という。これこそが、科学中心主義ではなく、本人中心型の支援の醍醐味だ。
さて、ここから何が言えるのだろうか。
渡邉さんがタルマーリーで挑戦し続けているのは、「菌」の声を聞き、菌が喜ぶような素材を選び、素材を活かしながら(素材との関係性を深めながら)、日々刻々と変わる条件を加味して、パンという生命現象を作り上げている姿であった。一方、ACT-Kのチーム支援とは、支援対象者の声に基づき、一見すると科学の範囲の外であっても本人の声に寄り添う中で当事者との関係性を深め、その中でご本人の「強み」や「想い・願い」を活かした支援を展開し、ご本人の生活状況を向上させる支援を展開しているのだった。どちらも、「腐る経済」という視点で考えると、一期一会の関係性を重視し、作り手と素材、支援者と対象者を切り分けず、関わり合い、相互変容を行う中で、酒種パンや地域生活支援という生命現象を作り上げてきた、とは言えないだろうか。
僕が書いていることは、一見すると論理に飛躍があり、非科学的に見えるかもしれない。でも、そのパンを美味しいという人がいて、その支援で助かったという人がいるならば、その「目に見えない(=非線形的)」理由に基づいていても、「目に見える結果」を重視すべきではないか。科学を否定するのではない。科学のみが万能である、という科学万能主義のパラダイムこそ疑い、「美味しいパン」「満足できる支援」という成果を徹底的に追求すべきではないか。それこそが、ベルトコンベア的な生産や支援が見失った「職人魂」、なのではないだろうか。つまり、「腐る経済」とは、21世紀型の「職人魂」の全人的復権、とは言えないだろうか。
そんな「妄想」が昨日から頭の中をグルグル巡っている。

『権利擁護が支援を変える』一部公開

いよいよ明日、11月8日が、僕の二冊目の単著、『権利擁護が支援を変える』(現代書館)の発売日である。今回は税込み2100円に抑えて頂いたが、それでも2000円超えとは、決して安くない金額。そこで、出版社とも話し合った上で、前著と同じように、本書の冒頭を「立ち読み」出来るようにしました。お読み頂いた上で、よかったら、ご購入頂くか、図書館にリクエストしてくださいませ。では、どうぞ。

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この本は、私がこれまで権利擁護について考え続けてきた内容をまとめた論考である。序章では、本書全体を貫く総括的な(マクロの)視点を描こうとしている。だが、とりかかりは私の経験という個人的な(ミクロの)視点から始めたい。
小学五、六年生の頃、私が通っていた地元の小学校では、クラス全体で「いじめ」がしていた。私は実家のマンション11階の手すりから身を乗り出して、「ここから飛び降りたら死ねるんだなぁ」とぼんやり考えていた。
当時、いじめっ子の番長が、クラス内の他の目立つ人間を次々に標的にしていじめを開始し、ついには担任の先生をクラスから追い出すほど、私のクラスは荒れていた。私自身は、幼なじみのAくんがいじめの標的になり、その子の友人という理由で無視されていた。あの二年間の記憶は、先述の飛び降り願望を除けば、今ではごっそり欠落している。だが、断片的に強烈に覚えている光景がある。それは、「いじめられる側」から「いじめる側」への「大転換」が起こったときのことである。
ことの発端は、一緒にいじめられていた親友Bくんの一言だった。「僕たちが本物の標的ではない」。転校生だったBくんは、いじめの構造を見抜き、本当の標的と、その標的の周辺領域ゆえにいじめられている層を、冷静に分析していた。そして、ある日の放課後、いじめる側の周辺領域(いじめる側のある種の”最下層”)にいた比較的気弱なCくんと、いじめられていた私とBくんの三人だけが教室にいたとき、BくんはCくんに話しかけた。
「あのさあ、あんたは、ほんまは僕らをいじめる気持ちはないやろ? ○○に言われて、仕方なしにいじめに加わって僕らを無視してるのやろ?」
私は、クラス内の暗黙の「裏ルール」を破る事態のに、「そんなことをすれば何をされるかわからない」と戦々恐々だった。恐らくそれは話しかけられたCくんも同じだったのだろう。でも、気にせず話しかけるBくんに対して、Cくんはおずおずと頷き、話し始める。その瞬間、「いじめられる側」の周辺領域にいたBくんと僕は、「いじめる側」の周辺領域へと、立ち位置が変わり始めた。以後、僕はAくんを避けるようになり、「いじめる側」の級友とよく話すようになった。結果的にAくんへのいじめに加担してしまったのだ。
その後、このいじめは、小学校卒業と同時に終わった。教育委員会がこのクラスを相当問題視していたようで、私も含めたほとんどの級友が進学した地元公立中学では、私のクラスの子どもたちだけが、周到に一四クラスに振り分けられた。以後、いじめられる経験は私にはなかったが、Aくんとはその後も疎遠になってしまったままだ。
なぜ、このような個人的な内容からスタートしたのか。それは、私が権利擁護の問題に関わるきっかけが、この問題に詰まっているからである。いじめという「差別」や「排除」は、いじめられる側からすると、圧倒的な抑圧・統制の下に置かれる事態である。今から考えれば「そんなことくらいで」と笑えるが、「その世界しか知らない」当時の私は、いつまで続くかわからない抑圧的事態に嫌気がさし、その当時は漠然と「死」も考えていた。「客観的」に見れば、私自身の被害は「無視されること」くらいだったので、ひどい被害とは言えない。小学校卒業までのたった二年間だから、まだ「まし」だった、と。しかし、当時の私自身の主観の中では、全く見えない将来に絶望していた。
しかも、その後の「いじめられる」側から「いじめる」側への構造転換を経験して、世間や集団の「境界」と言われるものの不透明さ、曖昧さを実体験する。いじめられる側だった時に圧倒的な抑圧性をもっていた「壁」が、実は自分自身を内的にしていた規範(いじめというゲームのルール)の内在化であること、そしてそれを外在化することで、「いじめられる」構造の外に出ることは不可能ではないことも実感した。裏を返せば、「いじめる側」もいつかは「いじめられる側」に追いやられる可能性がある、ということだ。だから、級友で傍観者は一人もおらず、みな必死になって「いじめ」行為に荷担していた。
私が体験したこの「いじめの構造」は、権利擁護の課題と密接に結びついている。まず、「社会的弱者」と言われる人は、多数派にとっても「他人事」ではない。ある日、気づいたら自分がごく当たり前の「したいこと」「嫌なこと」を口にできない状況に構造的に追い込まれる可能性がある、という意味で、極めて「自分事」であるということだ。その上で、「社会的弱者」が自らの持つ力に気づき/気づかされると、その呪縛的構造から飛び出すことも可能である、という点は、第一章で述べるセルフアドボカシーやエンパワメントの考え方とも共通する。ただ、私のように呪縛的構造を内在化した人間が一人でその構造に立ち向かうのは大変なので、同じ経験をした仲間や支援者から支援されないと抜け出せない、権利擁護の課題でもある。そして、「いじめの構造」はクラス替えという組織的関与で終らせることが可能だった。ということは、組織や社会構造的な権利擁護の課題もある、とも言える。つまり、ミクロの(微視的な)「いじめ」問題も、マクロの(巨視的な)課題とつながっており、それら全体を権利擁護の課題として焦点化することで、「死ぬことばかり考えている」状態に構造的に追い込まれた人を支え、救うことも不可能ではないのである。そんな「枠組み外し」の方法論を展開したい。
本書では、権利擁護の構造や方法論をひも解くなかで、絶望的な苦悩に追い込まれた人びとに寄り添い、その構造転換を支援
する具体的な方法論を示したい、と考えている。その具体例に入る前に、まず「構造転換」とは何か、に関する二つの方法論を考えたい。一つは、アサーティブネス(自己主張・自己表現)や権利の自覚と呼ばれる、内在的論理の変更の方法論であり、もう一つは、社会や環境側の転換であり、後述するノーマライゼーションの原理が目指したものでもある。前者が心理的な抑圧について、後者が社会構造的抑圧について、それぞれ主題化している。
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権利擁護が支援を変える*目次
序章 権利擁護が支援を変える
第一章  セルフアドボカシー論
  一 セルフアドボカシーから始まる権利擁護──方法論の自己目的化を防ぐために――
  二 相談支援と権利擁護──カリフォルニア州と日本のピア・セルフアドボカシー――
  三 当事者研究とセルフアドボカシー
第二章 セルフアドボカシーから権利擁護まで――アメリカにおける権利擁護機関・アドボカシー実践――
  一 個別事例から法改正にまで取り組む公的権利擁護機関
  二  強制入院時における「患者の権利擁護者」の役割--真の「代弁者」役割とは--
  三 障害児教育の現場における隔離・拘束
  四 権利擁護の四つの側面
第三章 日本における先駆的実践――精神医療の「扉よひらけ」――
  一 「入院患者の声」による捉え直し――精神科医療と権利擁護――
  二 NPOのアドボカシー機能の「小さな制度」化とその課題――精神医療分野のNPOの事例分析をもとに――
終 章