「正しさ」を疑うことは、簡単なことではない。
特に、自らが寄って立つ基準にしている「正しさ」、以前から空気のように当たり前に思っている「正しさ」。それらが、「もしかしたら違うかも知れない」と言われると、自らの土台が崩されるようで、「ほんまかいな!」「そんなはずはない!」と絶叫したくなる。
例えば、311や原発災害の後、言われているのは、「科学万能主義」への大いなる懐疑である。「専門家」と称する人が、原発災害について、それこそ全く違うことを言っている。それぞれが根拠とする数値や「科学性」を根拠に、「安全」「危険」など異なる価値表明をしている。その価値表明に、一喜一憂しながらも、本来「唯一の正解」を出せる「はず」と思っていた科学者達が、現実に対してこうも違う見解を述べる事に、大きな違和感を感じている。
その中で、哲学者の大森荘蔵の言う「科学は常識に密着したより詳しいお話」という考え方をヒントに、生命誌研究家の中村桂子さんは、「まずは一人一人が『自分は生き物である』という感覚をもつこと」の重要性と、そこから近代科学を問い直す論考を提示してくれいる。
中村さんは、大森荘蔵の「略画」と「密画」を、「常識」を問い直すキーワードとして提示している。
「日常、自分の眼で物を見、耳で音を聞き、手で触れ、舌で味わうという形で外界と接している時に私たちが描く世界像を、大森は『略画的』と呼びます。(略)それに対して、近代科学が生まれたことにより可能になった世界の描き方を、大森は『密画的』と呼んでいます。『密画』は、(略)ここでは可能な限り最小の単位まで還元し、分析的にものを見ていく見方を指しています。基本的に科学は密画を描くものであり、世界を密画化していく、というのが大森の考え方です。」(中村桂子『科学者が人間であること』岩波新書、p98)
これはすごくよくわかる二分法である。日常的には、僕たちは「略画」の世界で生きている。そこでは好き・嫌いや五感が大切にされる、はずである。だが、一方で、僕たちは近代科学の「密画」世界も徹底的に「学習」して、それを常識(=略画世界)の中に取り込んできた。賞味期限とか、平均体重とか、正常値の範囲内とか、そのような数値化・標準化可能な「分析的」な「密画」のデータを、日々の生活(=「略画」)の世界に取り込んできた。テレビでも毎日、そんな「密画」を紹介したり、それを取り込むバラエティ番組や情報番組で溢れている。その中で、ある価値転倒が生じている、と中村さんは指摘する。
「重要なことは、『科学的』だからといって、密画の方が略画よ『上』なわけでも、密画さえ描ければ自然の姿が描けるわけでもないということです。密画を描こうとする時に、略画的世界観を忘れないことが大切なのです。」(同上、p109)
これは、科学(=「密画」)を万能と捉え、何でも科学で説明出来るはずである、というある種の「科学信仰」と、その裏表の関係として、科学を否定し科学を敵と見なす「略画信仰」の双方に対する批判である。つまり、密画と略画は、どちらが優れている訳でも、どちらか「だけ」が大切な訳でもない。その両方が併存する中で、初めて人間理解が進み、より良い暮らしへのヒントも得られる、という視点である。これは、「密画」(=科学)万能主義を唱える機械論的世界観が、人間を「死物化」したことへの批判でもあり、その一方で、人間的復権を求める「略画」万能主義は、近代科学が成し遂げた「より詳しいお話」を全否定するという意味で、蒙昧にならないか、という指摘である。
では、どうすればいいのか? その時に大切なのが、「重ね描き」である、という。
「科学で『知る』ことによって自然を全て理解することはできないとしても、それは大きな問題ではありません。科学の役割は、密画を略画に重ね合わせることえで、自然(人間・生命を含む)のわかり方がより豊かになることを楽しめるようにすることなのですから。密画と略画を重ねて見えてくる全体像をもとに、自然・生命・人間について考える世界観を、機械論的世界観に対して、『生命論的世界観』と呼ぶことにします。これは人間が本来持っている略画的世界観に近いもの、というよりそれと同じと言ってもよいと思うのですが、ここに密画を重ねることを拒まないという新しい視点を入れます。」(同上、p138-139)]
ふだん生命論とか自然科学系の本をあまり読まない僕なのだが、この部分の記述を読んで、「ああ、そうだよなぁ」と深く納得した。そして、これは前回のブログの最後で書いた部分と重なる、と感じている。ちょっと、引用してみたい。
「僕が書いていることは、一見すると論理に飛躍があり、非科学的に見えるかもしれない。でも、そのパンを美味しいという人がいて、その支援で助かったという人がいるならば、その「目に見えない(=非線形的)」理由に基づいていても、「目に見える結果」を重視すべきではないか。科学を否定するのではない。科学のみが万能である、という科学万能主義のパラダイムこそ疑い、「美味しいパン」「満足できる支援」という成果を徹底的に追求すべきではないか。」
「腐る経済」に基づいて、天然酵母に基づく美味しいパン作りをしているタルマーリーさんの実践と、入院しかないと言われていた重度精神障害者を訪問支援チームで支え続けているACT-K。この双方の実践は、「密画」的世界の限界を、ある種、超えている。
「『腐らない』食べものが、『食』の値段を下げ、『職』をも安くする。さらに、『安い食』は『食』の安全の犠牲の上に、『使用価値』を偽装して、『食』のつくり手から技術や尊厳をも奪っていく。」
これが、「腐らない経済」=近代資本主義経済の基本だった。そしてそこには、計量経済学や様々な密画的な技法が駆使され、べらぼうな額の「腐らない」金銭取引が日夜続いている。それが利潤と貧困を大きくしてもいる。だが、タルマーリーさんの実践は、その「腐らない経済」を否定するのではない。「密画」世界の中で成立した「どんな山奥から東京までも1日でパンが運べる」ロジスティックや、山奥の店でもインターネットで全世界に発信できる通信網などのお陰で、タルマーリーさんのファンは増えてい
る。同じように、ACT-Kだって、薬物治療を否定する「反精神医学」ではない。そうではなくて、投薬による治療をチーム医療の方法論の一つと捉え、それ以外の「寄り添う支援(=「ひとぐすり」的なサポート)を展開する事で、幻覚や妄想に苦しんだり、医療中断で症状が悪化した人を、強制入院という非人道的な処遇に戻さず、地域の中で支え続ける方法論を見出したのである。
る。同じように、ACT-Kだって、薬物治療を否定する「反精神医学」ではない。そうではなくて、投薬による治療をチーム医療の方法論の一つと捉え、それ以外の「寄り添う支援(=「ひとぐすり」的なサポート)を展開する事で、幻覚や妄想に苦しんだり、医療中断で症状が悪化した人を、強制入院という非人道的な処遇に戻さず、地域の中で支え続ける方法論を見出したのである。
これは「密画」という科学に基づく世界観の否定ではない。そうではなくて、「密画」の限界を知り、「密画」だけで対処出来ない領域を、「略画」の世界でカバーする「重ね描き」をする中で、ほんまもんの「おいしさ」「満足できる支援」を作り出す、というシステムなのである。「密画」のみを「信仰」するならば、「菌を豊かに育てるためには新築よりも古民家の方がいい」「悪霊に苦しんでいる当事者には一緒にお札を貼ってみる」という行為や発言は、「密画」の外にある世界観故に、「非科学的だ」と一笑に付されることも少なくない。だが、それはあくまでも「密画」以外の世界を「ない」とする、一つの信仰である。「密画」世界に「のみ」拘泥せず、密画と略画を「重ね描き」する実践を通じて、現にそれで「おいしい」「満足できる支援」が展開されているのに、それを標準値から逸脱した「例外的事象」と割り切ってしまう考え方こそ、「非科学的」とは言えないだろうか。
「科学は常識に密着したより詳しいお話」というスタンスに立ち戻るなら、その「より詳しいお話」には様々なバリエーションがありうるということ、そして「詳しいお話」だって、軌道修正が必要なことがあること、密画と略画の重ね描きが双方の「お話」の世界観をより豊穣にしてくれる可能性があること・・・これらの「生命論的世界観」こそが重要視されているような気がする。そして、自然科学を社会科学と言い換えるなら、「密画」の絶対信仰からの脱却としての現象学的還元は、拙著『枠組み外しの旅』の重要なテーマでもあった、ということを、最後に付け加えておく。