ここ一ヶ月、落ち着いてブログ更新が出来なかった。先週末、新刊の『権利擁護が支援を変える』も上梓され、やっと一息付ける。で、今日のテーマは昨日の朝、京都駅の本屋で買い求め、甲府に帰り着く間に一気に読み終えた一冊から。
「『腐らない』食べものが、『食』の値段を下げ、『職』をも安くする。さらに、『安い食』は『食』の安全の犠牲の上に、『使用価値』を偽装して、『食』のつくり手から技術や尊厳をも奪っていく。(略) そしてもういひとつ。時間による変化の摂理から外れたものがある。それが、おカネだ。おカネは、時間が経っても土へと還らない。いわば、永遠に『腐らない』。それどころか、投資によって得られる『利潤』や、おカネの貸し借り(金融)による利子によって、どこまでも増えていく性質さえある。これ、よく考えてみるとおかしくないだろうか? この『腐らない』おカネが、資本主義のおかしさをつくりだしているということが、僕がこの本で言いたいことの半分を占めている。」(渡邉格著『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』 講談社 p74)
渡邉さんは、岡山の勝山で「タルマーリー」というパン屋を営むご主人。経営理念に「利潤を出さないこと」を掲げ、辺境革命を冒頭では宣言している。その革命の原動力が、表題の「腐る経済」だと言う。食の偽装が次々と暴露される昨今、マルクスの資本論も引きながら彼が整理する、「腐らない」食べものの問題点についての指摘は、実にアクチュアルである。そしてそれは、彼がイースト菌や偽装された天然酵母と決別し、ほんまもんの発酵や菌と出会う過程の中で気づかれた、現場からの叡智である。そして、ほんまもんの天然菌に基づく酒種パンを作り上げるためには、菌を変えるだけでなく、菌に馴染みやすい地元の自然栽培の麦や美味しい水が不可欠であることや、そのような「菌の声」に基づく「菌本位制」のパン作りをするならば、安く大量に作るという「腐らない経済」とは決別し、「パンを正しく高く売る」必要がある、という。
この「菌本位制」の「腐る経済」の話はめちゃくちゃ面白いので、ご興味がある人は是非とも手にとって読んでほしいのだが、僕はこの本を読みながら、僕自身が考えてきた「支援」の世界にも共通する話だ、と興奮していた。
それは、「腐らない経済」が障害の「医学モデル」に代表される科学万能主義に、そして「腐る経済」が「関係性」と「生命現象」を重視する、障害の「社会モデル」やナラティブ世界と通底している、と感じ始めているからである。ちょっと整理してみよう。
近代科学やそれを内包した20世紀型の「医学モデル」は、線形的な因果関係を重視してきた。AならばB、という時、Aが原因でBが結果、というモデルである。そして、その流れは標準化可能であり、ゆえに画一化と効率化の対象にもなる。ベルトコンベアー式労働とは、手工業の複雑なプロセスをできる限り因数分解し、原因と結果という細かい線形のパッケージに組み立て直し、各部分のみを分担する分業制を徹底化させる中で、職人の熟練を、未熟練の単純作業に分割した。その上で、それは機械労働や低賃金国での単純労働にどんどん置き換わっていく。「安く」「大量に」というこの高度消費社会のメカニズムの中で、生産者の尊厳はどんどん劣化していく。渡邉さんの先の発言の「食」を「モノ」に置き換えると、こんな風にもいえる。
「『腐らない』モノが、『モノ』の値段を下げ、『職』をも安くする。さらに、『安いモノ』は『モノ』の安全の犠牲の上に、『使用価値』を偽装して、『モノ』のつくり手から技術や尊厳をも奪っていく。」
食品偽装の前には建築偽装など、日本人は勤勉で生真面目、と言われて、もの作りニッポン、なんて言われた時代も凋落しつつあるが、その背後には、大量生産や大量消費を煽り、「腐らない」おカネ(=利潤)を大量に生み出すことを目的にした、「腐らない経済」の弊害があるのではないか、と渡邉さんも指摘する。
そして、実はこの問題は支援パラダイムの根幹にもある。
例えば入所施設や精神科病院に長期に社会的に入院・入所させられている障害者が何十万人といる。そのような、入所施設や精神科病院という、全生活を一元的に支配・管理するような施設のことを、アメリカのゴフマンという社会学者は「全制的施設 (total institution)」と名付けた。そこでは、集団管理と一括処遇がパッケージとして行われ、少人数の支援者で大人数の入居者を「効率的」に「処理」することが求められている。全ては施設の「決まり」と「タイムスケジュール」の中で進み、寝起きの時間や食事の時間もそのスケジュールに従わねばならない。この「支配的支援」は、いくらよい支援者がそこで働いていても、抑圧的な施設構造そのものの問題であり、その抑圧的構造そのものを問題視しないと、問題は解決されない。(その辺りの詳しいことは、『権利擁護が支援を変える』でも議論した。)
で、この「全制的施設」での画一化・効率化・標準化されたケアとは、まさに「腐らない経済」の論理そのもの、なのである。そして、問題は、支援とは本来、生きている人(=つまりいつかは「腐る」存在になる人)を対象にしている。「腐らない」モデルは、時間による変化を想定しないモデルである。標準化も画一化も、時間による変化を考慮に入れないからこそ、考えられる視点だ。だが、人間は、発達や成長、老化や病気など、様々な要因で、日々刻々と変化する存在である。つまり「死に至る」(=少しずつ劣化していき、いつかは「腐る」)存在なのだ。ただ、その劣化の仕方は、人それぞれで違う、だけでなく、その人がどのような関わりをするか、でも大きく変わる。近代科学は再現性と線形性を大切にしてきたが、実はパンでも人でも、「腐りゆく存在」と考えれば、そこに見過ごされているのが、「関係性」と「生命現象」という視点である。
実はこの「関係性」と「生命現象」とは、臨床心理学者の河合隼雄氏が、脳科学者の茂木健一郎氏との対談の中で語った内容である。
「近代科学は、ご存じのように、関係性を絶って、客観的に研究する。しかし、われわれのほうは関係性がなかったら、絶対、話にならない。だから、その関係のあり方をすごく大事にしていく。それから生命現象というものは、
物理の力学のように、これだけ質量があって、位置がこうで、というふうに定義できないんですね。また物理は、目で見えていること以外のことを絶対扱わない。しかも、ほかにどんな可能性があるか、それに気づこうとしない。それに気がついて、そこに注目して、ユングなんかはやったわけですね。」(河合隼雄・茂木健一郎『こころと脳の対話』新潮文庫、p16)
物理の力学のように、これだけ質量があって、位置がこうで、というふうに定義できないんですね。また物理は、目で見えていること以外のことを絶対扱わない。しかも、ほかにどんな可能性があるか、それに気づこうとしない。それに気がついて、そこに注目して、ユングなんかはやったわけですね。」(河合隼雄・茂木健一郎『こころと脳の対話』新潮文庫、p16)
医学的に説明がつかないけれども、治癒する、ということがある。これは、線型モデルの中では説明がまだ出来ないけれど、現象として変化が生じている、ということである。「目で見えていること以外」をも認めるかどうか、というパラダイムが問われている。タルマーリーでは、毎日菌と対話しながら、作り方の条件を変え、菌が喜ぶようにパン作りしている、という。これは、明らかに数式や標準化という「目で見える」以外の事を扱っている。でも、そこから美味しいパンが出来るなら、タルマーリーの皆さんは、菌とよい「関係性」を保ち、その関わりの中から聞こえてくる変化に合わせて作るプロセスを変化させる中で、一回性の生命現象として、「今日のパン」を作り続けている、とは言えないだろうか。そして、それこそが「腐る経済」であり、「腐る」という「生命現象」を持つパンだからこそ、「腐らない」、規格化と標準化されたパンとは違う本気の味わいがあるのかもしれない。
で、今日はもう少しだけ続けたいのだが、この「関係性」と「生命現象」を重視した「腐る経済」の論理は、支援においても必要不可欠だ、というのが、今日一番伝えたいことだ。それを実感したのは、精神科病院にずっと社会的入院を続けているような、「重度」と言われた精神障害のある人を、地域で支え続けているACT-K(集中的地域支援)のチーム支援の本に、まさにそれと合い通じる内容を見つけたからである。
「急性期状態が過ぎると、1日1回1時間程度の定期訪問に少しずつ戻していった。『玄関から悪霊が入ってくる』との訴えには、本人と相談し神社のお札を玄関に貼り、大きな杉の木の棒で玄関を固定し、中からでしか開けられないように工夫を凝らした。その工夫が功を奏したのか安心感が徐々に出てこられ、幼少期にいじめにあい不登校でほとんど勉強していないことや、勉強したいことなど自分自身のことや希望を話すようになった。」(高木俊介監修、福山敦子・岡田愛編『精神障がい者地域包括ケアのすすめ』批評社、p64)
『玄関から悪霊が入ってくる』というのは、普通の人にとっては明らかに「目で見えていること以外」のことであり、再現性や標準化不能なことである。近代科学はそれに「幻覚・妄想」というラベルを貼って標準化し、それに薬物治療という対処療法を当てはめて、対応しようとした。もちろん投薬でその状態が治まるならば、それでよい。でも、この例に出てきたカズマサさん(仮名)の場合、そのような投薬では全く治まらないどころか、幻覚や妄想で様々なトラブルを起こし続け、強制入院と退院を30年繰り返して来た人である、という。
このような悪循環の増幅作用を何とか阻止し、好循環に変える為に支援チームがとった戦略。それが、一見すると「非科学的」に見える、「お札を玄関に貼る」「玄関の戸締まりを強化する」という戦略だった。それは、標準化された科学の枠を明らかにはみ出している。だが、ACT-Kの支援チームは、本人の『玄関から悪霊が入ってくる』という訴えを、幻覚や妄想と切り捨てず、それにより「困っている」という生命現象に着目した。そして、その「悪霊」に苛まれて悪循環プロセスから抜け出せないなら、まずは「悪霊」を一緒に退治する関わりをカズマサさんとし始めた。その関係性の変化の中で、これまで周囲の人を全て敵だと思っていたカズマサさんが、初めて自らの困り事や本音を語り出す、という形で、カズマサさんを巡る生命現象が、固着状態から開き始め、動き始めたのである。それによって、精神科病院という「全制的施設」での標準化されたケアでは治癒不能だったカズマサさんに、安心感が生まれ、「地域で安心して生活できる」状態を少しずつ取り戻しつつある、という。これこそが、科学中心主義ではなく、本人中心型の支援の醍醐味だ。
さて、ここから何が言えるのだろうか。
渡邉さんがタルマーリーで挑戦し続けているのは、「菌」の声を聞き、菌が喜ぶような素材を選び、素材を活かしながら(素材との関係性を深めながら)、日々刻々と変わる条件を加味して、パンという生命現象を作り上げている姿であった。一方、ACT-Kのチーム支援とは、支援対象者の声に基づき、一見すると科学の範囲の外であっても本人の声に寄り添う中で当事者との関係性を深め、その中でご本人の「強み」や「想い・願い」を活かした支援を展開し、ご本人の生活状況を向上させる支援を展開しているのだった。どちらも、「腐る経済」という視点で考えると、一期一会の関係性を重視し、作り手と素材、支援者と対象者を切り分けず、関わり合い、相互変容を行う中で、酒種パンや地域生活支援という生命現象を作り上げてきた、とは言えないだろうか。
僕が書いていることは、一見すると論理に飛躍があり、非科学的に見えるかもしれない。でも、そのパンを美味しいという人がいて、その支援で助かったという人がいるならば、その「目に見えない(=非線形的)」理由に基づいていても、「目に見える結果」を重視すべきではないか。科学を否定するのではない。科学のみが万能である、という科学万能主義のパラダイムこそ疑い、「美味しいパン」「満足できる支援」という成果を徹底的に追求すべきではないか。それこそが、ベルトコンベア的な生産や支援が見失った「職人魂」、なのではないだろうか。つまり、「腐る経済」とは、21世紀型の「職人魂」の全人的復権、とは言えないだろうか。
そんな「妄想」が昨日から頭の中をグルグル巡っている。