マッピングと批判的読書

 

年度初めは、色んな事がスタートするので、忙しい。それでも前回更新した第二週目あたりまでは、まだたまにじっくりお勉強する余裕もあった。だが・・・。今期、週に一日、二コマの非常勤をしている。そして、本務校の講義も、半分くらいその内容を変えた。ということは、2.5コマ分の講義を毎週新規構築することになる。これが、結構大変。

もちろん、講義のために内容を整理する中で、自分なりの発見もあり、それはそれで面白い。昔、お世話になったある先生に、「講義を通じて、この本を攻略してやろう、という気概を持つべし」という箴言を頂き、それ以来、教科書以外にも「今週のテーマに関する一冊」を設けてみた。それは第一回講義時にも配っている。そして、今年はその本(あるいはそれに類する本)の、次週に扱う部分を「予習ペーパー」として配ってみている。これは学生に好評で、「予習ペーパーと併せて理解できた」という反響も多い。それは嬉しいのだが、ということは、こちらも準備すべき内容が格段に増えていく。

特に今回「ノーマライゼーション論」という講義の代役(お世話になっている先生がサバティカルなので)を引き受けたので、改めて集中的に「ノーマライゼーション」の議論を読み進めている。1960年代に北米・北欧で沸き起こった理念創出時の議論が、どういう背景から生じているのか、を重ねてみるために、ラッセル・バートンの「施設精神病」やアーヴィング・ゴフマンの「アサイラム」という古典的名作も読み直している。改めて、全制的施設の「構造」を上記二冊で再確認出来ると共に、その全制的施設が「全盛」だったころに、その「構造」を読み解いた上で、アンチテーゼというか、その「構造」を超える理念を打ち立ててきた、創始者たちの理論はそれぞれに深みがある。

非常勤の大学では、学部1コマと大学院の演習を受け持っているので、学部ではその大枠を紹介し、大学院では枠となる文献を毎週何本かまとめて読んで議論している。そのために、改めてノーマライゼーションに関する文献を集めたり取り寄せたりして、時系列的に、そして、北欧と北米で別の議論に進化していくので、その二つに大別して、講義予定に組み込みながら並べていくと、ある理論がどのように受容され、かつ批判されていくのかのマッピングが出来てよい。

先週の大学院演習では、90年代初頭に執筆されたこの理論への批判的論文を「批判的に読む」ということを行った。博論を書いていた時にその論文を初めて読んだ際、何だか変だよなぁ、と感情的反発と不全感を抱いていたのだが、その理由を説明することが出来なかった。だが今回改めて落ち着いて読んでみて、全体的な流れ(マップ)上で眺めて直してみると、なるほどどういう文脈からの批判か、が時代背景と共にわかって面白い。私たちはある言説を、そのものだけで当否・善悪を判断するという間違いをしばしば犯すが、その言説の「文脈」を織り込まないと、「空を切る」かのような「空振り」となってしまう。

5,6年ほど前にその論文を最初読んだ際、そういうマップなく「これは変だ」と憤慨していたおり、その怒りは「何が変だ」という論理的根拠のない「空振り」だったので、説明力に乏しかった。だが、今この講義のためにノーマライゼーションに関する言説の流れを自分なりに再構築する中で読み返すと、その論文が鋭く指摘している問題の、正鵠を得ている部分と、解釈上の問題点と、がくっきり見えてくる。

つまり、以前は「変だ」というメガネで先に見てしまっていたので、そこから叡智を引き出せていなかったが、今回落ち着いて読んでみると、そう解釈するための論理的整理は実に鋭いことが見えてくる。すると、その議論の組み立て方、というか、話法の中からは、私たちが学べることは少なくないのだ。どこまでが説得力があって、どの部分に整合性が危うい部分があるか、を見極める、ということは、「空振り」をしないために、つまりは「的を射る」ためには欠かすことの出来ないことである。何であれ、全否定して「聞く耳持たず」ではなく、きちんと相手の論旨をじっくり聞き取り、その中から尊重できる部分は受け止めた上で、聞き取れない部分・聞き捨ておけない部分については、お尋ねしたり、場合によっては反論を用意する。そういう相手の言説をちゃんと「聴く力」が、改めて問われている、と再発見しつつある。

現場のリアティを知っている院生の方の中には、「何だかすっごく読みづらい」と仰る方もいたが、その生理的嫌悪レベルで止まるのではなく、そこからどのようなパスを受けられるか、それをマッピングしながら考えるのが大切だよ、と申し上げる。まるで数年前の自分に説得しているかのように。そう、これはダメ、あれは変、と切り捨てるのは、逆に言えば、良いと思われる、自分の納得できる議論の盲信と表裏一体の関係にある。評価できる論文にも、何らかの落ち度はつきものだし、評価できない論文でも、それが一定程度のクオリティのあるものであれば、そこから受け継げる学恩は、ある場合が多い。それを無視して、二項対立的な整理をしていたら、地図は描けず、自分自身のメガネの偏差が極端になるだけだ。批判的読書、とは、単にダメだを繰り返すのではなく、丁寧に読みながら、その議論に内包される順機能と逆機能部分を整理して解釈し、それを吸収すること。それを通じて、自分のメガネの偏差そのもの(何を盲信して、何を毛嫌いするのか、に関してのメタ知識)の内実を認識することにもつながる。

という内容の半分くらいは、前回のゼミ時でも気づいていたのだが、今書いていて、初めて色々わかってきた。いやはや、たまにブログは更新するものである。

「メタの概念」と「構造」

 

春の収穫祭の饗宴が続いている。
南の島から新ジャガをお送り頂き、パートナーのお友達からはブロッコリーにウド、菜の花を頂く。昨日は帰宅してみると、新ジャガはそぼろ肉と煮込み、ブロッコリーはガーリック炒めに、ウドは味噌和えに、菜の花は塩ゆでで美味のマヨネーズに絡ませて、頂く準備が出来ていた。いやはや、様々な皆様方に感謝感謝、である。赤ワインに非常に合う和食となった。

で、酔っぱらいながら読み始めた一冊を、今朝も何となく読み進めてバッチリ目が覚める。

「構造における不変性(『他の一切が変化するときに、なお変化せずにあるもの』)とは、体系のなかに最初からみいだされ、色々変換しても変換されずに残る固有のものという意味ではない。構造という見方においては、変換されえないものなどなく、体系を構成する要素も要素間関係も、一切のものが変換しうる。つまり、要素も要素のあいだの関係もすべて変化しているにもかかわらず、そこに現れる『不変の関係』という不思議なものが<構造>ということになる。
けれども、それが不思議なものに思えるのは、一つの体系のみを考えるからである。レヴィ=ストロースの言葉にあるように、構造における不変の関係とは、一つの集合(体系)から別の集合(体系)へ移行する関係のことである。構造の探求(すなわち構造分析)とは、一つの体系と、それとは別の体系の間に変換の関係をみいだすことにほかならない。つまり、この変換の関係が不変の関係と呼ばれているものなのであり、変換のないところに不変なものもみいだせない-したがって構造もまたない-のである。」(小田亮「レヴィ=ストロース入門」ちくま新書 48-49

ここしばらく、分析とは何か、とか、研究とは何か、という基本的な事がよくわからなくなり、困惑していた。今もまだよくわからないことは確かなのだが、でも以前書いた「説明」「説得」に関することにも現れているように、単なる記述ではなく、「一歩踏み込んで事象の説明による説得の努力をしている」か否かが問われていることくらいは、ようやく体得出来てきた。その一方で、次の一節も、僕の頭の中で引っかかっていた。

「内容が高度になればなるほど、専門的になればなるほど、『共通項』は失われることになる。そのような思惑の下で、『富士山の裾野』を追い求める動きが顕著になり、世界最高峰への登頂を目指して空気の薄い空間で力の限りを尽くす気力は失われていってしまった。(略)共通項を求める運動のベクトルには、裾野にいくのとは違う方向性がありうる。元来、思考とは、より『メタの概念』を求めての精神の無限運動である。普遍的な適用力を持つ概念は、決して『わかりやすさ』の病理に堕することなく、世界全体を引き受けることを可能にしてくれるのである。裾野をうろうろするばかりでなく、世界最高峰への登頂を志してはじめて見えてくることもあるのだ。」((茂木健一郎「思考の補助線」ちくま新書、109

ここに書かれた「メタの概念」とは何だろうか? そして、僕自身は専門分化という名のタコツボ化に陥ったり、あるいは「裾野をうろうろするばかり」になっていないか? こういった疑問が頭の片隅でずっと点滅していたのだ。そう、「共通項を求める運動のベクトル」が自らの内部にあるのだろうか、という疑問があったのだ。もちろん、僕には「世界最高峰への登頂」が現時点で可能だなんて思ってはいない。ただ、裾野にずっといるだけなら、研究者などやめて、実践者になった方がよっぽど為になる。大学に籍を置いて、現場と関わる、ということは、せめて中範囲であれ、客観的に物事を眺めるポジションで、現場のリフレクションのお手伝いをする、そういうことではないか、と思い始めたのだ。そう思って、以前にも引いた方法論の教科書を開いてみると、こんな風にも書かれている。

「社会システム一般の包括的な理論というのではなく、より限定された、到達のレベルを少し低くした理論の<ピラミッド>を設定し、理論的な成果の系統的な整理にみられる厳密な理論への志向と個別的なテーマで行われる経験的な調査研究の累積的な成果との、双方への緊密な関連づけをすることができれば、領域としては部分的で、理論的な射程は中範囲であるが、具体的なデータに支えられて確定度の高い理論を作りあげることになる。これが当面の目標として望ましい、とマートンは考えたのである。」(新睦人『社会学の方法』有斐閣、171)

今までの僕は、「個別的なテーマで行われる経験的な調査研究の累積的な成果」を、そのものとして提示することしか出来ていなかった。そこに「理論的な成果の系統的な整理にみられる厳密な理論への志向」が足りないから、とある査読で修正の上、通過した際の備考欄に「今後のさらなる社会学的考察が望まれる」という査読者からのメッセージが添えられていたのである。その際、「社会学的考察」って何だろう、というそのものが、改めてよくわからなくなってしまっていた。そして、茂木氏の先の「より『メタの概念』を求めての精神の無限運動」を読むにつれ、そういう「無限運動」をせずに、裾野から出てこれない自身のタコツボ的現状がわかって来た段階で、先の「構造」の話に行き着くのだ。

「要素も要素のあいだの関係もすべて変化しているにもかかわらず、そこに現れる『不変の関係』という不思議なものが<構造>」である。今まで多少なりとも関わってきた、「個別的なテーマで行われる経験的な調査研究の累積的な成果」を眺めてみて、一歩引いて、「そこに現れる『不変の関係』」を見出そうとしているか? そういう中範囲の「構造」を掴もうとする努力をすることなく、何か他の理論をこねくってそれっぽく見せていたことはないか? だからこそ、仲間の研究者に「文献研究ではない、論理的枠組みの持ち込みは禁止!!」と指摘されたのではないか?

他の論理的枠組みは、もちろん何かを考える上での「ヒント」につかってもよい。でも、それを無理矢理当てはめた気になっているだけでは、「具体的なデータに支えられて確定度の高い理論」とは真逆の事態になってしまう。茂木氏が問うているのは、借り物の理論に安逸に安住するのではなく、目の前の「要素も要素のあいだの関係もすべて変化している」現実の中から、「そこに現れる『不変の関係』という不思議なもの」がないかどうか、を、「空気の薄い空間で力の限りを尽くす気力」で考え続けられるか否か、であることが、少しわかりはじめた。

さて、どう腰を据えて、現実と理論の「双方への緊密な関連づけをすることができ」るか? 恐ろしい宿題だ。

体型から体系へ

 

4月の頭からひとりサマータイム、である。
我が家の寝室は東向きなのだが、日に日に朝の明るさが増してくる。すると、5時とか6時に目覚めてしまう。以前は二度寝しようともがいていたのだが、どうせ頭が冴えているのなら、サマータイムと考えて起きて活動を始めた方がよい。去年からそれに気づいて、身体の成り行きに任せて、ひとりサマータイム、である。加えて今年は、来週から毎週月曜日は非常勤で東京に行くので、5時起きしないといけないのだし。

家の窓から見える愛宕山の桜だけでなく、JAの直売所でも春を感じる。ウドに菜の花に、バジル。ウドは天ぷらに、菜の花はおひたしにして白ワインと共に食し、バジルの苗は植木鉢に植えてみる。ついでに最近さぼっていた靴も磨き、よい休日を過ごす。この前から部屋の大掃除をして、紙ゴミだけでなく服も靴も、使わないモノをごっそりモノを捨てたので、少しずつ、色んな見通しがよくなってきた。で、外部環境の見通しをよくした後のターゲットは、心の見通しである。

「自分の陰のイメージを、実在しているひとのなかに探すのは、それほどむずかしいことではない。自分の周囲にあって、何となくきらいなひとや、平素はうまくゆくのに、ある点だけむやみと腹が立つようなとき、それらは自分が無意識内にもっている欠点ではないかと考えてみると、思い当たることが多いに違いない。われわれは自分の意識の体系を持っているが、それを簡単に作り替えるのは容易なことではないので、ともかく、それをおびやかすものは、悪として斥けがちになる。自分の知らないこと、できないこと、嫌いなこと、損なことは、ともすると悪と簡単な等式で結ばれやすい。」(河合隼雄著「ユング心理学入門」培風館、p105)

河合隼雄氏の本を読んだのは、随分久しぶりである。一回り以上も前、大学生だったころ、結構河合ファンで図書館であれこれ借りては読んでいた記憶がある。僕の所属した学部には臨床心理学科もあり、密かに心理系に進みたい、と願っていた時期もある。だが、高校時代に精神科医になりたいと漠然と考えていた時、数学と理科の壁に阻まれて諦めたように、統計の授業が面倒くさくて、結局そのコースを選択しなかった。にもかかわらず、精神医療の問題に、大学院以後は社会学的アプローチで関わるようになるのだから、世の中は面白い。かつ、博論が終わるころまでは、何となく無意識の規制が働いてか、精神科医や臨床心理家の書くものすら読まない、という時期もあった。今から思うと、専門家中心主義の問題を社会学的にみようするのに、その専門家の書き物に魅了されていたら、眼鏡が曇ってしまう、と感じていたのだろうか。だが、30代になり、ようやく「それはそれ、これはこれ」と分けて考える器が育ち始めたような気がする。よって、久しぶりにユング心理学の世界に触れる。

自我の形成が今より遙かに未熟だった当時、先に引用した部分をどれだけ、アクチュアルな問題意識として捉えることが出来ただろうか? おっさんになった今、「「自分の陰のイメージを、実在しているひとのなかに探すのは、それほどむずかしいことではない」というフレーズがグサッとくる。そう、鼻につく人、って、自分の嫌な部分の分身(やその極大化)だから、嫌なんだよね。

自分の薄くなった頭皮を初めて手鏡越しに見た時、妻にデジカメで自身の「背脂さん」を撮影された時、そんな見たくもないけど明白な事実を見た時、すごく嫌な気になって、でも何とも出来ない運命論と諦めて、「しゃあないやないか、おっさんやから」と逆ギレする。「自分の意識の体系を持っているが、それを簡単に作り替えるのは容易なことではないので、ともかく、それをおびやかすものは、悪として斥けがちになる」んだよね。でも、余裕がなく、運命論や悪として斥けた20代とは違い、少しだけ余裕が出てきた30代は、その意識体系を作り替える作業に取りかかろうとしている。昨年からブログで時折触れているダイエットもその1つ。今、76キロ前後で止まっているが、これだって最大84キロから比べたら、大部の進化。でも、何とかもう少し痩せられるのでは、という気になり始めている。これも、意識体系の漸進的な「変容」なのではないか、と感じている。

そういう体型の「変容」を実感出来ると、性格や性質といった意識体系の方も、もしかしたら漸進的な「変容」が可能なのではないか、と感じ始めている。「嫌なんだよね」と他責的文法で愚痴を言う暇があったら、その中に自分で引き受けられる部分を探して、ちいとは改善出来ないか? そんなことを思い始めているのだ。陰を糾弾するのは、文字通りジメジメしていて、陰気くさい。ならば、大変だけれど、それを統合すべく、ぼちぼちと1つずつ石を積み上げていった方が、オモロイのではないか。should,must論ではなく、would like toとして、そんな風に感じ始めている。

単なる春の「血迷い」かもしれない。でも、そういうを大事にしたいような気もする。

生き様としての「補助線」

 

世の中には、たった1時間程度で読めて、かつ沢山の内容が吸収できる本もあれば、逆に一生懸命時間をかけてたどっても、からきしその養分をくみ取れない(あるいは元々養分のない)本もある。今日、ジムの近所で買って、運動30分自宅に帰って風呂読書30分で読み終えたのは、間違いなく前者。

「僕はいま怒濤のような忙しさのなかにいます。一年中、常に働いていて、スケジュールがずっと先まで埋まっている。この状態を自分自身で振り返るうちに、面白いことに気がつきました。少し前までは、『ものすごく忙しく仕事をしている』感覚だったのですが、それが『ものすごく忙しく勉強している』という感覚に変わってきたのです。大勢の前で講演する時も、親しい人と話をする時にも、そこでの対話を通して自分の中に新しい自分を発見している。これは、常に新しい発見が出来るような、高いレベルのコミュニケーション能力が身に付いたと言い換えることが出来ます。」(茂木健一郎「脳を活かす勉強法」PHP53-54

仕事柄こういう「勉強法」の本は読み漁っている。医師などが脳の機能に基づいた勉強法を書いたものも読んでいた。でも、何だか薄っぺらく、うさんくさい雰囲気が漂う。科学的装いを施した精神論、という臭いがプンプンな本もあるからだ。だが、この本は違う。自分の予備校講師時代の経験、あるいは予備校の恩師から教わった考え方と同じ方向性であるからだ。例えば「速さ」「分量」「没入感」という三拍子が揃って「人の目を気にせず、なりふりかまわずやる」という「『鶴の恩返し』勉強法」。これは、僕自身、大学受験の時に実践していた。

二次試験の前、英作文対策として恩師に指示されたのは、「中学校の1~3年生の教科書をとりあえず丸暗記すること」。予備校生としてなりふり構っていられなかった少年タケバタは、家にいるとついだらけて「没入感」に浸れないので、通学定期を持っていた阪急電車を選んだ。京都河原町-大阪梅田間を走る、昼下がりのがら空きの急行電車。かつて車掌室だったデットスペースに陣取り、なりふり構わずブツブツ音読しながら、京都と大阪を何往復もしていた。そうして20日間で、3年間分を丸暗記する、という「速さ」と「分量」をこなすうちに、稚拙でも文意を損なわない英語のフレーズが出てきた。これは、受験から15年以上たった今でも、海外に出かけた折りに、すごく役立っている。

事ほど左様に、自分自身のたどってきた方法論は、彼自身の方法論とも似ていて、かつ脳科学的にもその通りだ、と言われると、何だか嬉しいし、先に引用した「『ものすごく忙しく勉強している』という感覚」などは、そう考えることも出来るよね、という実感と、それから自分自身もそう考えたいよね、という願望が混ぜ合わさった気持ちを持っている。

「誰しも、仕事があまりに忙しい時は『○○をやらなければならない』といった負荷や重圧のため、ついネガティブな発想をしがちです。しかし、そういう時は脳の特性をあまり活かせていない時でもあります。たとえば『確かに忙しいけど、いろんなことを学べるチャンスだ』と見方を変えるのも手です。」(同上、p55

この冬の反省は、『○○をやらなければならない』と「負荷」モードだったことだ。それよりは、『確かに忙しいけど、いろんなことを学べるチャンスだ』と考えられる方が、確かに楽しいし、楽しいことは脳を活性化させる、というのも、よくわかる話。と、こんな風に紹介すると、やっぱり茂木さんってエンターテナーなの、と思われる方もいるかも知れないので、実は茂木本を読むきっかけになった次の一節も引用しておく。

「一見関係がないと思われるものたちの間に『補助線』を引き、その生き様において自分自身が『補助線』と化して、断片化してしまった知のさまざまの間を結ぶ。そのような、世界の統一性を取り戻す精神運動には、途方に暮れるようなエネルギーが必要とされる。怒りこそが、そのようなエネルギーを私たちに与えてくれるのだろう。破壊する怒りではなく、『魂の錬金術』を通して、さまざまを創造する『白魔術』としての怒り。(略)そんな生成の過程は、奇跡的なことのように見えて、実は生きとし生けるものに普遍的な原理そのものに根ざしている。」(茂木健一郎「思考の補助線」ちくま新書、193-194

この部分だけ引用したら、何のこっちゃ、と思われるかもしれないが、そういう方は同書を直接読んでみて頂きたい。何だか彼のパッションをグッと詰め込んだ同書で初めて、テレビ以外の茂木氏を知り、一気に興味がわいてしまった。そう、僕だって何で福祉分野をフィールドにしているか、といえば、単純に「怒り」なんだと思う。「何でこんなままほったらかせてるねん」とか、「こんな状態でほんまにいいんかいな」といった怒り。その怒りを、「破壊」に向けるのではなく、「魂の錬金術」として、そこから、この現実を変えうる可能性のある何かを生み出すことが出来るか?そのために、「その生き様において自分自身が『補助線』と化し」て、色んなモノをつなぎ合わせながら、役立つ何かを差し出すことが出来るか?

自分自身が媒介役となるために、もっと深い勉強が必要。それが、月並みだけれど、この冬の内省期に気づいた一番のことだった。だからこそ、四月の頭に、「『ものすごく忙しく勉強している』という感覚」という枠組みを知れたのは、ラッキーだった。さて、どういう「補助線」を作り出せるか。知ったのだから、ちゃんと実践あるのみ、ですね。

四年目の春

 

先週大阪に出張の折、久々にこのHPの管理人N氏とお茶をする。このHPの体裁を少しリニューアル出来ないか、という議論。

山梨に仕事が決まった時に、高校の後輩で今ではウェブ関連の仕事をしている彼に、HPのコンセプトを一緒に考えてもらい、一からデザインして頂いた。有り難い友人である。だが、ご案内のように、ブログ以外はほとんど更新が出来ていない。もちろん忙しいから、というのもあるのだが、それ以外に、HPのコンセプトに関する認識が、大学で講義をし始めて、だいぶ変わってきたから、というのもある。それは、自分自身のものの考え方の変化、というものと密接につながっている。

ちょうど4年前の今日、辞令交付式で初めて正規職員としての採用証書をもらった頃は、まだ大学の研究者、というより、頭の中身はそれまでのドメインであった「大学院生」「予備校講師」といったものが支配していた。そういうノリでHPの構築もしたし、授業の組み立てもしていた。勿論、その当時を振り返ってみて、その当時の考え方自体が間違っていた、とは思わない。だが、3年ほど研究や教育にフルタイムのプロ(対価を貰うという意味での)として携わる中で、その職業に関する認識やスタンスは徐々に、時には急激に変化していった。

ここしばらく、このブログ上で自身のスタンスの不甲斐なさ、中途半端さを新しい(再)発見に織り交ぜながら書いていたが、それをご覧になられたM先生が、「タケバタさんは今、反省モードなのですね」と仰っておられた。確かにそのモード、である。誰にもあんまり相手にされない、ぺーぺーの学生、のつもりでいたが、気づいたらその発言が多少影響力を持ってしまう立場に変わっていた。福祉関連の書籍や論文を読んでいて「つまんないよ」とブーたれていた一方的読者の立場から、時には「書き手」として「月並みな文章だね」と批判を受けはじめた。外野席から大声でヤジを飛ばしていた時から、内野席でコーチ兼プレーヤーとして、ヤジも含めて受け止めながら、試合展開に気を配ることになった。そして何より、一緒に学ぼうとしてくれる学生達と出合い始めた

こういったポジショニングの転換の中でも、もちろん元々持つ志向性や思考の癖、のようなものは変わっていない。だが一方、その方法論、というか、メッセージの伝え方、ものの受け止め方、といった広義のコミュニケーション戦略については、変えた方がうまく伝わりそうで、かつそれに合理的な理由があると感じられた時には、変え始めている。そのチャンネルの切り替えが十全に出来ているか、と言われると、それはまた別問題だが、とにもかくにも、職責を全うする、と言う意味でのプロフェッショナルとしては、ちゃんとそれをすべきなんだよなぁ、と感じ、行動しようとしている。その中で、研究者としてのポジショニングがどこにあるのだろう、とこの春休みにずっと考えていたから、ここ最近の(再)発見モードになっていたのだ。

先週末の大阪では、山梨に引っ越す前にずいぶんお世話になっていた、あるNPOに立ち寄り、大阪の「お母様」と「妹」と慕う二人の麗しい女性と議論。その場でもすごく感じたのが、「自分はもう、現場の人間ではない」という当たり前の事実だ。確かにそこにはコミットし、年に数回はその現場の活動に参加するし、電話でのやり取りも結構行っている。だが、3年という月日の流れの中で、当然の事ながら、その現場のリアリティは、第一線としては感じられなくなっている。だが、それを単に否定するのではなく、その上での「自分がその現場に返せる役割って何だろう」と考えていた。研究者として、生煮えの中途半端に小難しい言説を吐くことが、決して私に求められている訳ではない。そうではなくて、その現場の実践を、別の立場・角度から分析、整理、説明した上で、その現場の活動・営みが再び元気に・よりよくなってもらうような仕事がしたい、と願っている。明らかにアクションリサーチ的な、対象から離れて客観的に掴む、というより、その対象と寄り添いながら、しかも、その現場が上手く変遷していくお手伝いをしたい、という志向性が昔から強い。だからこそ、では「どう寄り添うのか」、「どう整理するのか」、「どう再定義し直すのか」といったことが問われているのだと思う。

これは自身が関わらせて頂いている県の仕事でも同様だ。昨年度1年間動き回ってみて、必死になって関わる中で、一定程度の認知と多少の信頼は、市町村行政や現場支援者、当事者の方々に持って頂けたのではないか、と思っている。そして、あと1年の任期の間に、では何が出来るか、が問われている。当然そこで求められるのは色んな要素があると思うが、寄り添い方、整理の仕方として現在自分が考えているのが、「特別アドバイザーの任期が終わった後も持続するシステム・考え方・方向性を、どのように作るか」ということだ。これまで行政に一貫性がない、とか、担当者が変わればコロコロ方針が変わる、と批判されてきた。当事者の思いや願いに基づいた政策、ではなく、あるいは政策主体的、とも言い切れず、その場その場で変わる部分は、どの行政をみても、ゼロとは決して言えないと思う。そして、そう批判される行政の中には、一担当者の思いではどうにもならない、構造的問題が色々あることも、少しは学んだ。

そういう所与の条件を加味した上で、自立支援協議会という枠組みを舞台に、どう当事者主体のしかけを作れるのか、そしてそれをどう引き継げるのか、が大きな課題だ。この仕事の後半戦に入って、変えてはいけないスタンスと、そろそろ変えた方が良い部分と、感じている。

そう、教育も、研究も、実践も、新年度で心機一転が求められている。そういう意味で、あのときの決意表明は「エイプリールフール」だったんです、なんて格好悪いことを言わなくてもいいようにしないと、ねぇ。