「メタの概念」と「構造」

 

春の収穫祭の饗宴が続いている。
南の島から新ジャガをお送り頂き、パートナーのお友達からはブロッコリーにウド、菜の花を頂く。昨日は帰宅してみると、新ジャガはそぼろ肉と煮込み、ブロッコリーはガーリック炒めに、ウドは味噌和えに、菜の花は塩ゆでで美味のマヨネーズに絡ませて、頂く準備が出来ていた。いやはや、様々な皆様方に感謝感謝、である。赤ワインに非常に合う和食となった。

で、酔っぱらいながら読み始めた一冊を、今朝も何となく読み進めてバッチリ目が覚める。

「構造における不変性(『他の一切が変化するときに、なお変化せずにあるもの』)とは、体系のなかに最初からみいだされ、色々変換しても変換されずに残る固有のものという意味ではない。構造という見方においては、変換されえないものなどなく、体系を構成する要素も要素間関係も、一切のものが変換しうる。つまり、要素も要素のあいだの関係もすべて変化しているにもかかわらず、そこに現れる『不変の関係』という不思議なものが<構造>ということになる。
けれども、それが不思議なものに思えるのは、一つの体系のみを考えるからである。レヴィ=ストロースの言葉にあるように、構造における不変の関係とは、一つの集合(体系)から別の集合(体系)へ移行する関係のことである。構造の探求(すなわち構造分析)とは、一つの体系と、それとは別の体系の間に変換の関係をみいだすことにほかならない。つまり、この変換の関係が不変の関係と呼ばれているものなのであり、変換のないところに不変なものもみいだせない-したがって構造もまたない-のである。」(小田亮「レヴィ=ストロース入門」ちくま新書 48-49

ここしばらく、分析とは何か、とか、研究とは何か、という基本的な事がよくわからなくなり、困惑していた。今もまだよくわからないことは確かなのだが、でも以前書いた「説明」「説得」に関することにも現れているように、単なる記述ではなく、「一歩踏み込んで事象の説明による説得の努力をしている」か否かが問われていることくらいは、ようやく体得出来てきた。その一方で、次の一節も、僕の頭の中で引っかかっていた。

「内容が高度になればなるほど、専門的になればなるほど、『共通項』は失われることになる。そのような思惑の下で、『富士山の裾野』を追い求める動きが顕著になり、世界最高峰への登頂を目指して空気の薄い空間で力の限りを尽くす気力は失われていってしまった。(略)共通項を求める運動のベクトルには、裾野にいくのとは違う方向性がありうる。元来、思考とは、より『メタの概念』を求めての精神の無限運動である。普遍的な適用力を持つ概念は、決して『わかりやすさ』の病理に堕することなく、世界全体を引き受けることを可能にしてくれるのである。裾野をうろうろするばかりでなく、世界最高峰への登頂を志してはじめて見えてくることもあるのだ。」((茂木健一郎「思考の補助線」ちくま新書、109

ここに書かれた「メタの概念」とは何だろうか? そして、僕自身は専門分化という名のタコツボ化に陥ったり、あるいは「裾野をうろうろするばかり」になっていないか? こういった疑問が頭の片隅でずっと点滅していたのだ。そう、「共通項を求める運動のベクトル」が自らの内部にあるのだろうか、という疑問があったのだ。もちろん、僕には「世界最高峰への登頂」が現時点で可能だなんて思ってはいない。ただ、裾野にずっといるだけなら、研究者などやめて、実践者になった方がよっぽど為になる。大学に籍を置いて、現場と関わる、ということは、せめて中範囲であれ、客観的に物事を眺めるポジションで、現場のリフレクションのお手伝いをする、そういうことではないか、と思い始めたのだ。そう思って、以前にも引いた方法論の教科書を開いてみると、こんな風にも書かれている。

「社会システム一般の包括的な理論というのではなく、より限定された、到達のレベルを少し低くした理論の<ピラミッド>を設定し、理論的な成果の系統的な整理にみられる厳密な理論への志向と個別的なテーマで行われる経験的な調査研究の累積的な成果との、双方への緊密な関連づけをすることができれば、領域としては部分的で、理論的な射程は中範囲であるが、具体的なデータに支えられて確定度の高い理論を作りあげることになる。これが当面の目標として望ましい、とマートンは考えたのである。」(新睦人『社会学の方法』有斐閣、171)

今までの僕は、「個別的なテーマで行われる経験的な調査研究の累積的な成果」を、そのものとして提示することしか出来ていなかった。そこに「理論的な成果の系統的な整理にみられる厳密な理論への志向」が足りないから、とある査読で修正の上、通過した際の備考欄に「今後のさらなる社会学的考察が望まれる」という査読者からのメッセージが添えられていたのである。その際、「社会学的考察」って何だろう、というそのものが、改めてよくわからなくなってしまっていた。そして、茂木氏の先の「より『メタの概念』を求めての精神の無限運動」を読むにつれ、そういう「無限運動」をせずに、裾野から出てこれない自身のタコツボ的現状がわかって来た段階で、先の「構造」の話に行き着くのだ。

「要素も要素のあいだの関係もすべて変化しているにもかかわらず、そこに現れる『不変の関係』という不思議なものが<構造>」である。今まで多少なりとも関わってきた、「個別的なテーマで行われる経験的な調査研究の累積的な成果」を眺めてみて、一歩引いて、「そこに現れる『不変の関係』」を見出そうとしているか? そういう中範囲の「構造」を掴もうとする努力をすることなく、何か他の理論をこねくってそれっぽく見せていたことはないか? だからこそ、仲間の研究者に「文献研究ではない、論理的枠組みの持ち込みは禁止!!」と指摘されたのではないか?

他の論理的枠組みは、もちろん何かを考える上での「ヒント」につかってもよい。でも、それを無理矢理当てはめた気になっているだけでは、「具体的なデータに支えられて確定度の高い理論」とは真逆の事態になってしまう。茂木氏が問うているのは、借り物の理論に安逸に安住するのではなく、目の前の「要素も要素のあいだの関係もすべて変化している」現実の中から、「そこに現れる『不変の関係』という不思議なもの」がないかどうか、を、「空気の薄い空間で力の限りを尽くす気力」で考え続けられるか否か、であることが、少しわかりはじめた。

さて、どう腰を据えて、現実と理論の「双方への緊密な関連づけをすることができ」るか? 恐ろしい宿題だ。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。