4月の頭からひとりサマータイム、である。
我が家の寝室は東向きなのだが、日に日に朝の明るさが増してくる。すると、5時とか6時に目覚めてしまう。以前は二度寝しようともがいていたのだが、どうせ頭が冴えているのなら、サマータイムと考えて起きて活動を始めた方がよい。去年からそれに気づいて、身体の成り行きに任せて、ひとりサマータイム、である。加えて今年は、来週から毎週月曜日は非常勤で東京に行くので、5時起きしないといけないのだし。
家の窓から見える愛宕山の桜だけでなく、JAの直売所でも春を感じる。ウドに菜の花に、バジル。ウドは天ぷらに、菜の花はおひたしにして白ワインと共に食し、バジルの苗は植木鉢に植えてみる。ついでに最近さぼっていた靴も磨き、よい休日を過ごす。この前から部屋の大掃除をして、紙ゴミだけでなく服も靴も、使わないモノをごっそりモノを捨てたので、少しずつ、色んな見通しがよくなってきた。で、外部環境の見通しをよくした後のターゲットは、心の見通しである。
「自分の陰のイメージを、実在しているひとのなかに探すのは、それほどむずかしいことではない。自分の周囲にあって、何となくきらいなひとや、平素はうまくゆくのに、ある点だけむやみと腹が立つようなとき、それらは自分が無意識内にもっている欠点ではないかと考えてみると、思い当たることが多いに違いない。われわれは自分の意識の体系を持っているが、それを簡単に作り替えるのは容易なことではないので、ともかく、それをおびやかすものは、悪として斥けがちになる。自分の知らないこと、できないこと、嫌いなこと、損なことは、ともすると悪と簡単な等式で結ばれやすい。」(河合隼雄著「ユング心理学入門」培風館、p105)
河合隼雄氏の本を読んだのは、随分久しぶりである。一回り以上も前、大学生だったころ、結構河合ファンで図書館であれこれ借りては読んでいた記憶がある。僕の所属した学部には臨床心理学科もあり、密かに心理系に進みたい、と願っていた時期もある。だが、高校時代に精神科医になりたいと漠然と考えていた時、数学と理科の壁に阻まれて諦めたように、統計の授業が面倒くさくて、結局そのコースを選択しなかった。にもかかわらず、精神医療の問題に、大学院以後は社会学的アプローチで関わるようになるのだから、世の中は面白い。かつ、博論が終わるころまでは、何となく無意識の規制が働いてか、精神科医や臨床心理家の書くものすら読まない、という時期もあった。今から思うと、専門家中心主義の問題を社会学的にみようするのに、その専門家の書き物に魅了されていたら、眼鏡が曇ってしまう、と感じていたのだろうか。だが、30代になり、ようやく「それはそれ、これはこれ」と分けて考える器が育ち始めたような気がする。よって、久しぶりにユング心理学の世界に触れる。
自我の形成が今より遙かに未熟だった当時、先に引用した部分をどれだけ、アクチュアルな問題意識として捉えることが出来ただろうか? おっさんになった今、「「自分の陰のイメージを、実在しているひとのなかに探すのは、それほどむずかしいことではない」というフレーズがグサッとくる。そう、鼻につく人、って、自分の嫌な部分の分身(やその極大化)だから、嫌なんだよね。
自分の薄くなった頭皮を初めて手鏡越しに見た時、妻にデジカメで自身の「背脂さん」を撮影された時…、そんな見たくもないけど明白な事実を見た時、すごく嫌な気になって、でも何とも出来ない運命論と諦めて、「しゃあないやないか、おっさんやから」と逆ギレする。「自分の意識の体系を持っているが、それを簡単に作り替えるのは容易なことではないので、ともかく、それをおびやかすものは、悪として斥けがちになる」んだよね。でも、余裕がなく、運命論や悪として斥けた20代とは違い、少しだけ余裕が出てきた30代は、その意識体系を作り替える作業に取りかかろうとしている。昨年からブログで時折触れているダイエットもその1つ。今、76キロ前後で止まっているが、これだって最大84キロから比べたら、大部の進化。でも、何とかもう少し痩せられるのでは、という気になり始めている。これも、意識体系の漸進的な「変容」なのではないか、と感じている。
そういう体型の「変容」を実感出来ると、性格や性質といった意識体系の方も、もしかしたら漸進的な「変容」が可能なのではないか、と感じ始めている。「嫌なんだよね」と他責的文法で愚痴を言う暇があったら、その中に自分で引き受けられる部分を探して、ちいとは改善出来ないか? そんなことを思い始めているのだ。陰を糾弾するのは、文字通りジメジメしていて、陰気くさい。ならば、大変だけれど、それを統合すべく、ぼちぼちと1つずつ石を積み上げていった方が、オモロイのではないか。should,must論ではなく、would like toとして、そんな風に感じ始めている。
単なる春の「血迷い」かもしれない。でも、そういう“風“を大事にしたいような気もする。