対話実践の優れた理論書

斎藤環さんの本は色々読んできたが、新刊『イルカと否定神学 対話ごときでなぜ回復が起こるのか』(医学書院)は間違いなく彼の著作で最も面白くて、赤ペン引きまくり、の一冊だった。

この本のなにが良いって、副題の「対話ごときで」だと思う。斎藤さんは実際オープンダイアローグに出会ってしまい、臨床現場で「対話ごときで回復が起こる」現実を目の当たりにしてしまった。でも、「なぜ」「対話ごときで」「回復が起こるのか」が、ダイアローグの本を翻訳するだけでは見えてこない。そこで、イルカ(=ベイトソン)と否定神学(=ラカン)という二つの象徴的要素から、その「なぜ」に答える理論的視座を構築しようとする、意欲的な論考を積み上げているのである。

「たとえば統合失調症の回復を妨げるのは『病のコンテクストが固定化すること』『新たなコンテクスト学習(逆学習を含む)が起こらないこと』と考えられます。コンテクストは刺激を意味づけながら元のコンテクストを強化するという再帰的な作用を持っていますから、そうした固定化が生じてしまいやすいわけです。コンテクストには実態も構造もなく、自己否定的な作動をすることもできません。しかし治療においては、生じてしまったコンテクストを壊したり、新たなコンテクストを立ち上げたりする必要があります。
その作用をもたらす最大の要素が、言語であり対話なのです。言語のみではコンテクストに呑み込まれかねませんが、対話のプロセスがそれを予防してくれるでしょう。後述するように、対話にはポリフォニーという重要な機能があり、それが言語の作用に強力なブーストをかけてくれるからです。」(p210-211)

斎藤さんはこの少し前のところで、「心」も「人格」や「症状」実体がないけど「あるとしかいえないもの」としての「コンテクスト」だと述べている(p191)。すると、統合失調症について知らない人でも、『人格のコンテクストが固定化すること』『新たなコンテクスト学習(逆学習を含む)が起こらないこと』によって人格の歪みが激しくなる、と言われたら、イメージが湧くと思う。年を取ると頭が固くなるのも、「わしゃむりや!」「俺はそういう人間!」「今さら自分を変えるのなんて無理!」という「コンテクストの固定化」および「新たなコンテクスト学習をしない」ことによる、悪循環や固着である。そして、そのコンテクストの固着化を破るための最大の方法が、対話のプロセスであり、ポリフォニーだと斎藤さんは述べるのである。

そしてベイトソン的視点(イルカ)とラカン的視点(否定神学)がそれぞれどのように機能しているのか、については、以下の部分にぎゅっと詰まっている。

「対話には、ゴールという意味での目的がありません。目的がないのでプランもありません。目指すべきは対話の継続それ自体であり、蛇足的なことを追加するなら『よきプロセスと一体化すること』とも言えます。
ゴールを設定しないことの積極的な意味としては、学習Ⅱによって生成するコンテクストが、ゴールによる制約を免れることで多様化し、その切り替わりのプロセスが生じやすくなるということがあります。
ここでオープンダイアローグの原則である『不確実性に耐える』を思い出しておきましょう。これは『不確かさに耐える』だけでなく、『不確実であることこそが回復のプロセスを促進する』という逆説でもあります。」(p223)

ベイトソンは学習には4段階があり、人間は学習Ⅰ〜Ⅲまでの三つがある、という。以前僕のブログでその箇所を整理した部分を再掲する。

  • 学習Ⅰ・・・反応が一つに定まる定まり方の変化(慣れ、反復、報酬や報復を伴うプロセス)
  • 学習Ⅱ・・・学習Ⅰの進行プロセス上の変化。経験の連続体がくくられる、その区切り方の変化(慣れや反復などが「性格」に転化する)
  • 学習Ⅲ・・・学習Ⅱの進行プロセス上の変化。代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化(このレベルの変化を強いられる人間は、時として病的な症状をきたす)

学習Ⅱは「学習Ⅰの進行プロセス上の変化」と定義されているが、斎藤さんはそれを以下の例を用いて説明している。

「学習Ⅰが繰り返されると、学習効率が向上し、学習の速度がはやくなります。たとえば英単語の学習は、語彙力が増えるほど未知の単語も覚えやすくなりますよね。このとき学習する主体は、同時に『学習のコンテクスト』も学習しているわけです。それは選択肢群(=コンテクスト)そのものが修正される変化であり、経験の連続体が区切られる(つまり『分節化』)、その区切り方(=コンテキスト)の変化でもあります。」

これは、今の娘の算数との付き合い方をみていると、よくわかる。小学校二年生の娘は、二桁の繰り上がりや繰り下がりが本当に苦手で、何度もわからないと叫んでいた。で、二学期は九九の暗記がはじまるし、どうなることかとやきもきして(半ばちょっと暗澹当たる気分で)いた。でも、あまりにもスルスル暗記してしまったので、なんじゃらほい、と親の側が当惑している。娘はこども園時代、算数とは無縁の場所だったので、一年生の間は数の概念がつかめず。学習速度が遅くて、すごく困惑していたのだと思う。でも、2年かけて学習する公立が少しずつ向上する中で、「『学習のコンテクスト』も学習」していったのだと思う。それが、九九をあっさり暗記してしまった背景にあると思う。

そして、一度「読み書き算盤」という「学習のコンテクスト」がパターン化されると、一生使えるパターンとして定着する。これが「コンテクストの固定化」である。それは、読み書き算盤が出来る、英語がしゃべれる、という部分では有用な学習Ⅱである。

ただ、これが「性格」や「病状」となったとき、しかもそのコンテクストから逃れることが出来ず、「悪循環」の高速度回転を繰り返している時、このコンテキストのパターンを変えることは簡単ではない。そこで必要とされるのが、学習Ⅱのパターンに揺さぶりをかける、学習Ⅲなのである。

斎藤さんは学習Ⅲにおいて、患者における「小さな真理」(困りごとや思い込みも含む)がどう変わるか、を以下のように説明している。

「たとえば患者が、自分の話したこととまったく同じ内容を、治療スタッフや違うメンバーの声を通してもう一度聞くこと。そこにもポリフォニーの契機が生まれます。
ずっと自分自身の声として聞いてきた『小さな真理』が、他者の声によって語り直されること。そうすることで、ときに『小さな真理』が、別のコンテクストのもとに置かれることになります。そう、ここにも学習Ⅲの契機があるのです。」(p243)

オープンダイアローグでは、従来の精神科医療のスタッフが取り合わなかった、聞いてはいけないと言われていた、幻覚や幻聴もなかったことにせず、話してもらう。それは患者の前に存在する圧倒的なアクチュアリティ(患者における「小さな真理」(困りごとや思い込みも含む))だからである。ただ、それを聞くだけでなく、聞いた後、本人の了解を得た上で、本人の目の前で、治療チームのなかでそれについての話し合いが開かれる。

「幻聴の声はずいぶんご本人を追い詰めているようですね」「あんな声に支配されていたら、自分も叫んでしまうと思う」「でも幻聴が聞こえている時と、聞こえていないときがある、っていうけど、どういう違いがあるのだろう?」「お母さんと話をしてると、幻聴が聞こえないと言っておられたけど、お母さんは守り神になっているのかな?」・・・

それは、説得や治療の語りではない。そのミーティングに参加して当事者の語りを聞いた治療者達が、「いま・ここ」で感じることを、率直に差し出すのだ。そのことによって「自分自身の声として聞いてきた『小さな真理』が、他者の声によって語り直される」し、「そうすることで、ときに『小さな真理』が、別のコンテクストのもとに置かれる」プロセスが生み出される。変な話、自分では変えられないパターンだと思っていた「小さな真理」に、他者の声で語り直されるのを聞くことで、別の可能性が浮かび上がってくる。そういうプロセスなのだ。

そして、これも病状に限ったことではない。

例えば組織の中でのいざこざや心配ごとが最大化した時に、その心配ごとについて話し合う「未来語りのダイアローグ」という手法がある。これも、ダイアローグによって学習Ⅲを生み出す、という意味で、オープンダイアローグと共通のベースがある。僕はその集中研修を7年前に受け、先週その開発者のトムさんが京都で研修された時に、再度参加させてもらった。その時に、ある組織のリアルな心配ごとについて話し合われる場に参加したのだが、そこで為されていたことも、ここで書かれていることと同じだった。患者を「心配ごとを抱えた職員」として、先ほどの文章を入れ替えてみる。

「心配ごとを抱えた職員が、自分の話したこととまったく同じ内容を、同僚スタッフの声を通してもう一度聞くこと。そこにもポリフォニーの契機が生まれます。
ずっと自分自身の声として聞いてきた『小さな真理』が、他者の声によって語り直されること。そうすることで、ときに『小さな真理』が、別のコンテクストのもとに置かれることになります。そう、ここにも学習Ⅲの契機があるのです。」

組織の中でしんどいこととかモヤモヤを抱えている人は、少なくないはずだ。というか、問題のない組織なんて、ない。だからこそ、そのしんどさを、場に出してみる。また、未来語りのダイアローグの場合、「1年後のよい変化」を語って、「1年前の心配ごとはどんな風に変わったか」を語ってもらう。その中で、現実の心配ごとという「小さな真理」に関して、「他者の声によって語り直される」のを聞く。そのプロセスの中で、「ときに『小さな真理』が、別のコンテクストのもとに置かれることにな」る。

それが対話における『よきプロセスと一体化すること』であり、「学習Ⅱによって生成するコンテクストが、ゴールによる制約を免れることで多様化し、その切り替わりのプロセスが生じやすくなるということ」なのだと思う。

僕は治療者ではないし、オープンダイアローグのトレーニングコースは受けていない。でも、7年前に未来語りのダイアローグの集中研修を受けた後、妻や娘と、大学の授業やゼミで、あるいは社会人向けの研修や講演の現場で、対話的であろうとし続けてきた(そのことは、今週発売の共著『あなたとわたしのフィールドワーク』にも部分的に書いてみた)。そして、そういう対話実践を通じて、自分自身の「小さな真理」とも向き合い続けてきた。その中で、「話をまとめなければならない」「議論を導かなければならない」という余計な力み(学習Ⅱの悪循環の反復状況)から、「話をまとめなくてもよい」「聴き続けていれば、話は勝手にまとめる」という別のコンテクストを信用出来るようになりはじめた。

だからこそ、斎藤さんの言う「『不確実であることこそが回復のプロセスを促進する』という逆説」に身を以て同意する。「いま・ここ」に集中し、目の前の人と、不確実であるけれども、『よきプロセスと一体化すること』によって、「どうせ」「しゃあない」という学習Ⅱによる悪循環パターンの強化から出たり、別の可能性を探ることが、可能になるのである。

「結論が出なかったミーティングの後に残る『もやもや感』は、こうしたポリバインド的な緩い葛藤の効果ではないかと考えられます。そうした葛藤の緩やかな持続が、次のミーティングの期間になんらかの有益な変化を喚起しているのかもしれません。」(p244)

ここでいうポリバインドとは、「結論が出ずに複数の拘束が生じている状態」と斎藤さんは言う。そう、組織での矛盾や葛藤を対話すると、先週の現場でもそうだったのだけれど、「結論が出ずに複数の拘束が生じている状態」が「もやもや感」として残る。それがダメなのではなくて、それが「緩い葛藤の効果ではないか」という斎藤さんの提起に、ぼく自身の対話実戦の経験からも、心から同意する。一回の対話だけで解決するなら、話は早い。でもオープンダイアローグのモットーの一つに、「対話の目的とは、対話し続けることである」というのがある。効果や成果を期待するのではなくて、「葛藤の緩やかな持続が、次のミーティングの期間になんらかの有益な変化を喚起している」という意味で、「もやもや感」が残ることこそ、自分の内側との対話=垂直な対話の持続かも知れない。そして、その垂直な対話の持続の上で、組織の他のメンバーとの水平の対話を重ね合わせるからこそ、ポリフォニーが生じる。そこから、学習Ⅲが産まれて、組織における悪循環パターンの強化という学習Ⅱがほどける契機になるのかも、しれないのだ。

そういう意味では、刑務所や学校、精神病院や入所施設など、上下関係が固定しやすく、職員組織も硬直性に陥りやすい組織ほど、職員集団の中での学習Ⅱの固着化を引き剥がす、『よきプロセスと一体化する』対話が大切なのだと,改めて感じた。斎藤さんの本は、医療福祉関係者だけでなく、よりよい対話実践をしたいと望む全ての人にとって、ちょっと難しいけど、何度も読んで考える価値のある、優れた羅針盤になる一冊である。

合理性の四つのパターン

僕がブログを書くのは、最近ではある本を読んで感動したときとか、備忘録的に書き残しておきたいとき、あるいは自分の記憶に留めておきたいとき、である。読んだだけだと後で忘れるが、ブログなら検索がかけられる。また、ブログを書く際にその文章を筆写することで、筆者の論理構造を追体験することができる、などの効能がある。

今回のブログは、頭の整理のため、に入りそうだ。渡邊雅子さんの『論理的思考とは何か』(岩波新書)は、長年論文を書くときにモヤモヤしてきた「論理性とは何か?」について、実に多角的に論証してくれていて、非常に納得がいった。

いつもは字だけのブログだが、秀逸な図がこの本の141ページに載っていたので、今回は写真で貼り付けてみる。

端的に言えば、「なにを目的とした論理性か」で、論理的思考は異なるし、アメリカのロジックだけが論理的だ、とか日本人は非論理的だ、とかではない、ということである。

前任校では、アメリカで高等教育を受けた先生が、英語101という入門授業のテキストに基づき、学部の1年生向けテキストを作っておられ、僕も基礎演習で教えていた。そこには、この図に書いてある5パラグラフ・エッセイの基本が書かれていた。最初の段落で中心的問いと筆者の主張を書き、次からの3つの段落で根拠をそれぞれ述べる。各段落はトピックセンテンスとサポートセンテンスに基づく。そして最終段落では、理由1〜3に基づき私は○○と主張する、というあれである。そして、この型にはめておしえると、学生さんの小論文はすっきりわかりやすくなる。

だが、ぼく自身は正直そういう形で文章を書かない。論文であれ、このブログであれ、そういう形での記述はしない。なぜこの書き方が自分にはしっくりこないのか。以前からよくわかっていなかった。だがこの本ではアメリカのエッセイは効率性と確実な目的の達成を目指す「経済の論理」が働いていると指摘されて、氷解する。そう、この経済の論理が嫌だったのだ、と。

「経済領域は、効率的に最大限の収益を上げることを目的とする。その目的の確実な達成のために、計算に基づく比較考量により複数の選択肢の中から最も効果的かつ費用対効果の高い手段を選ぶ。経済領域のレトリックは『効率的かいなか』が主導的な観点となる。学校で教える作文では、目的達成までの時間、つまり結論に達するまでに必要とされるステップの短さに効率性が現れる。」(p64)

確かに学生に教える時には、この5パラグラフ・エッセイは、非常に効率的であり、小論文作成という目的到達に「確実」なやり方である。でも非常に直線的であり、あれかこれか、の二者択一的で、こちらが良いと決めたら、もうそれ一本でグイグイ進んでいく。だからこそ、文章に膨らみや陰影が出しにくい。というか、「効率的ないなか」という判断基準では、膨らみや陰影など「非効率」なのである。

それに対して、別の合理性としてフランスのやり方が示されている。

「『ディゼルタシオン』と呼ばれるフランス式小論文は、弁証法を基本構造とする。弁証法は、論ずべき主題に対する『一般的な見方』、『それに反する見方』、『それらを総合する見方』を<正—反—合>の構成に位置づけて、<正>と<反>の矛盾を<合>で解決する。これらの三つの見方を検討する中で、結論に導くためにあらゆる可能性が吟味される。弁証法では、この吟味の『過程』そのものが重視される。」(p78)

経済合理性でいえば、結果を効果的に論証することが最も重要である。でも、フランス式の合理性は、結果や目的ではなく「吟味の『過程』そのものが重視される」という。<正—反—合>の弁証法的な運動を、ロジカルで微細に描いていくこと。そこに論理の肝がある。というのだ。それは、フランス哲学をちらっとでも読んでみると、アメリカ式論理とは違う論理性を感じることだろうし、僕も以前から何かが違うと思っていた。この本の秀逸なところは、アメリカ式論理が経済的合理性だとすると、フランス式論理は政治的合理性に基づく、と喝破した点である。

「ディゼルタシオンの構造を見ると、政治領域には欠かせない『既存の法律を評価したり訂正したりする能力』を育成し、『自律的に考え判断すること』、『批判的にものを見ること』が論文構造に否応なく組み込まれていることが確認出来る。
まず自律的に考え判断する能力は、導入部分で主題のどの側面を論じるかを書き手自らが決定し問題提起すること、そしてこの問題提起に基づいて与えられた問いを三つに構成し直し、それらに答えていくことで養われていく。(略)
次に展開部分の<反>は、信じていたことを疑い、一度否定することで別のあり方へと目を向けさせる機能がある。常識と暗黙の前提を疑う哲学の思考法が論文構造の中に組み込まれているのがわかる。」(p94)

アメリカ式論理がディベートに代表されるように、お題は相手に与えられて、それにYes/Noでロジカルに説得していくものだとしたら、フランス式論理は、そもそもお題の中でどこに着目するか、を自律的に考え判断することが求められる。また、そのお題の一般的テーゼにたいしても、「それって本当だろうか?別の可能性はないだろうか?」と批判的に思考する。それは、政治のように「こうすれば正解」がない領域の問題の場合、比較考量を正統化するためにも必要不可欠な力であることがわかる。

一方、イランの作文技法には「法技術領域」の合理性と表題が書かれている。

「エンシャーの特徴は、主題がいかなるものであっても、決まった結論、すなわち道徳的・宗教的に正しい結論に向かって落とし込まれていく展開をたどることである。作文教科書で書き方の多様な技術や形式を紹介してお手本を示しても、この特徴は保持される。イランにおける作文は様々な主題を扱いながらも、それぞれの主題の多様な側面を、すでに決まっている結論に向けて準備する『目的論的』な思考が作文を書く論理を作っている。
結論を決めてから掻き出すことは、欧米では作文を書くときの鉄則だが、その結論がすでに外から与えられているもの、とりわけ真理であり規範として社会や宗教から定言的命令として下されていることを、神への感謝やことわざ、詩の一節に収斂させることが、イランの思考とその表現法を特徴づけるものである。」(p103)

イスラム教のクルアーンという絶対的真理や規範が決まったいる。この結論が「外からあたえられている」場合、フランスのようにその真偽を問うことは、もっともしてはならない禁忌である。そして、結論も自分で決めず、定言的命令として既に存在している。その場合なら、「○○の条件ではクルアーンに適合的である場合はどうすればよいか、を法技術的に検討するのが「合理的」なのである。

で、アメリカ、フランス、イランの作文と日本の作文の違いは何か。それを「感想文」の論理として、以下のような型で筆者は示している(p115)。

序論:書く対象の背景
本論:書き手の体験
結論:体験後の感想=体験から得られた書き手の成長と今後の心構え

読書感想文でも絵日記でも、大体このパターンを踏襲したら400字なり800字は埋まる。そして、僕も2冊ほどエッセイを出しているが、多分このパターンを踏襲してエッセイを書いていると思う。ここにはどのような合理性があるだろうか。

「社会領域のレトリックも論証の形をとらないが、ここで重視されるのは社会の構成員から『共感されるか否か』である。法技術領域に見られるような普遍的・絶対的な倫理ではなく、共同体を成り立たせる親切や慈悲、譲り合いといった『利他』の考えに基づく個々人の『善意」が社会領域の道徳を形成する。道徳形成の媒体となるのが『共感』である。」(p114)

日本社会の文脈依存性とは、イランのような一神教的な社会におけるそれとは大きく異なる。クルアーンなど絶対的真理・秩序はない。その代わりに参照枠は、「社会の構成員から『共感されるか否か』」なのである。これが「空気を読む」とか「同調圧力」につながる。共感できない奴は、いくらアメリカ式の論理で声高に主張しても、共感されない。逆に言えば、ロジックが変であっても、共感されると、一定程度のパワーを持ってしまうのだ。

で、ここまで整理してくると、やっぱり僕もこの「社会の論理」に思考方法がかなり依拠しているのだろうな、と思う。僕のエッセイって、自分の愚かさや至らなさ、阿呆さ加減ばかり書いているし、もうじき出る新刊『あなたとわたしのフィールドワーク』(現代書館)でも、見事にこの骨法で書いている。

ただ、アメリカ式論理のトレーニングの良書を読んだり、フーコーやブルデューの本を読み囓っていると、別の合理性も理解出来るようになってきた。しかも、アメリカとフランスを対置させることで、複雑なものを複雑なまま理解する、というやり方のおもしろさも見えるようになってきた。筆者はこの4つの違いを「文化に枠づけられた論理と思考法」(p180)とまとめているが、ロジックは一つではない、と知っておくだけでも、ずいぶん視野が広まる。異文化理解、だけでなく、自分が許せない・納得できないと思う主張がどのような論理構造を辿っているのか、を分析する時に、結構役立ちそうだ。

そして、僕は官僚的形式合理性が、たまに虫唾が走るほど嫌だったりするのだが、その嫌な部分って、実は結論が最初から決まっている「法技術領域」の文章だからかもしれない。それは共感を全く前提としていないからだ、とすると、その結論の合理性を、フランス式の合理性で疑ってみる、など、攻略の仕方まで考えることも出来るかも知れない。そう考えたとき、この4つの合理性をどのように使い分けるか、が結構重要になってくるかもしれないな、と思った。

頭の整理に非常になる、秀逸な一冊だった。