学びの回路を開く

昨年の7月、ブログに書き続けた「枠組み外し」に関する一連の考察が、かなり手を加えた上で論文となった。ご縁あって、東大の東洋文化研究所の紀要『東洋文化』の92号「特集 脱植民地化(3)-「呪縛」からの脱却・「箱」の外に出る勇気-」という論文集の中に、「枠組み外しの旅-宿命論的呪縛から信の<明晰>に向かって」というタイトルで、掲載頂いた。

一昨日の木曜日、その特集号の合評会が東洋文化研究所で開かれ、その論文集の著者や、あるいは「魂の脱植民地化」研究に関連の深い方々と議論をするチャンスに恵まれた。その時、様々な刺激や気づきを受けたのだけれど、その議論を通じて一番大切に感じているのが、今回の表題にもある「学びの回路を開く」というフレーズだ。
これは、前回のブログで、「魂の脱植民地化」研究の先鞭を切っておられる安冨先生の著作を引用する中で、心惹かれたフレーズである。そして、この「学びの回路を開く」ということが、コンテキストを変え、渦を作り出し、何かを創発していくために、本当に必要不可欠なのだ、と感じている。
「学びの回路を開く」とは何か。これは、この研究会の議論の際に思いついたフレーズを使うとすると、「服従」と「学習」の違いから説き起こすことが出来ると思う。
「服従」の論理とは、一方通行の論理。教える側と教えられる側、支援する側とされる側、という権力の非対称性の関係をそのまま内包した論理。一方が何かを授ける・与える。他方はそれをそのまま受け取る。その際、一方の側の枠組みを、他方は例え内心疑ってたとしても、口に出してはいけない。ありがたく受け取るのみ。そして、その枠組みの中で、従順に受け止める事が「よい子」「扱いやすい利用者」として評価される。逆に与える側の差し出す何かを素直に受け取れない人は「不良」「問題行動」「逸脱」というラベルが貼られ、治療や処分の対象とされる。この際、権力が非対称の関係なのだから、権力保持側(=つまり与える側)の論理が疑われることはない。オカシイのは、そのせっかく「与えてやった」何かをありがたく受け取らない逸脱者の側にあるのだ。そして、誰のどのような行為を評価・罰するのか、を見ている教えられる側・支援される側は、権力の非対称性という自らにとっては不利な環境を生き抜くために、「服従」する事を学び取り、「お伺いを立てる」という構図を身体化させる。それが、自らの生存戦略上有利になる、と肌身に感じているからだ。ただし、「服従」を学ぶ事からは、「学びの回路」が「開かれる」ことはない。盲目的に従うことのみを学ぶのだから、むしろ「閉ざされた学び」とも言えようか。
一方、「学びの回路を開く」という意味での「学習」とは何か。安冨先生のフレーズを借用するならば、好循環のフィードバック機構を創り出す営み、とでも言えようか。前回のブログで引用した安冨先生の文章を再掲すると、こういうことになる。
「働きかける側と対象となる側に切り分けるのではなく、両者を、相互に依存し、影響しあう一つのシステムとして認識しようとする姿勢である。この共生的関係を明確に認識しあいながら、そこに結ばれる新しい関係によってなんらかの新しい価値を創出することがめざすべき方向となる。」(安冨歩『複雑さを生きる』岩波書店、p128)
そう、教える側・教えられる側や、支援する側・される側といった「切り分け」をやめ、「両者を、相互に依存し、影響しあう一つのシステムとして認識」する。すると、知識や介護をA→Bへと一方的に渡す、という「服従」的論理は崩壊する。なぜなら、AからBに何かを伝える時、切り分けの思考から脱することが出来れば、BからAへも何かが伝わっていることに気づけるからだ。それが「わかった」「ありがとう」という言葉だったり、あるいは「聞きたくねえよ」「そんなことされたら嫌だ」という表情かもしれない。知識や支援内容が物流のようにA→Bへと一方的に伝わるのではなく、その知識なり介護なりが与えられる際、当然そのリアクションが相手から帰ってくる。そのフィードバックを、B→Aのコミュニケーションと受け止めて、その言語・非言語のコミュニケーションを自分に向けたメッセージだと受け取り、そこから新たな何かを差し出す、という関係性に漕ぎ出すことが出来るか、がAの側に問われている。AとBの間に一つのシステムとしての双方向な関係性がある事に気づくか、の分岐点でもある。
その際、「これは決められたルールだから」「教科書にこう書いてあるから」「これは僕の仕事ではないから」・・・と、B→Aで伝えられるメッセージやコミュニケーションを受け取ることを事実上拒否したのなら、それは双方向コミュニケーションの断絶であり、そこからA→Bの一方的なメッセージの増幅と「服従」の論理が強化される。だが一方、「B→A」のメッセージにきちんと応答し、自分なりにそのメッセージを受けとめた上で、相手に何らかのフィードバックをしよう、と働きかけるならば、それは「対話の回路」が開かれることになり、そこから「学びの回路を開く」という循環が始まる。
そう、ここまで書いてきて気づいたのだが、僕が「学びの回路を開く」という際に大切にしているのは、教えられる側・支援される側の回路を開くことももちろんだが、それよりむしろ遙かに開きにくい、教える側・支援する側の「学びの回路を開く」、ということなのかもしれない。
そして、これは先述の昨年7月の連作シリーズの中でも、今回の「東洋文化」の原稿でも引用した、パウロ・フレイレの有名なテーゼと繋がってくる。
「『銀行型』教育の概念では教育する者は教育される者を偽の知識で『一杯いっぱいにする』だけだが、問題解決型教育では、教育される側は自らの前に現れる世界を、自らとのかかわりにおいてとらえ、理解する能力を開発させていく。そこでは現実は静的なものではなく、現実は変革の過程にあるもの、ととらえられるのである。」(パウロ・フレイレ著、三砂ちづる訳、『新訳 被抑圧者の教育学』亜紀書房、p107-108)
以前は僕自身、この銀行型教育と課題解決側教育の違いを、一方通行か双方向か、の違いでは捉えていたが、それでも主に教わる側・支援される側が、「服従」するのではなく、「学び合う関係」「問いかけ合う関係」に変化できるか、という視点で捉えていた。だが、今ようやく気づいたのだが、実は、教える側・支援する側が、「服従」の論理で相手を「一杯いっぱいにする」のか、教わる側・支援される側と一緒に「変革の過程にあるもの」を眺め、その動的プロセスの中にダイブする事が出来るか、が問われているのである。そして、前者の方が前例踏襲的で「常識」的であり、後者に踏み出すことは、時として大きな負荷がかかる。
社会のドミナント・ストーリーは、前例踏襲的な「常識」である場合が多い。「子どもは黙って従うもの」「支援されるだけで有り難い」といった押しつけは、それが「社会化」されるなかで、有無を言わさぬ恫喝的ドミナント・ストーリーとして、「服従」の論理に転化しやすいし、そういう本人もその枠組みを所与の現実として内面化しやすい。だが、社会のドミナント・ストーリーや「常識」は、実は固定的なものではない。
ちょうど昨日、半年前に放映された「STOP虐待! ニルスの国のたたかない子育て」という番組の録画を見ていた。その中で、スウェーデンでは30年前に親子法という法律の中で次のように規定された。
「子どもは世話と、安全と、質のよいしつけを享受する権利を有する。子どもはその人格と個性を尊重しながら扱われなければならず、体罰にも、その他のいかなる屈辱的な取扱いにも、遭わされてはならない」
これに関してセーブ・ザ・チルドレンの実に良いパンフレットを見つけたのだが、このパンフレットにも、その後30年間で、体罰を実際に行う人が劇的に減り、体罰に関する肯定的評価も同様に劇的に減ったことが図で示されている。体罰は仕方ない、という「服従」の論理は、1960年代までのスウェーデンでも支配的であったのだが、1970年代に社会問題になり、1979年に体罰を禁止する法制度を整えて以後、「どうしたら体罰をなくせるか」という「学びの回路」が国の政策レベルでも開かれた。その中で、様々な両親へのサポート体制なども整えられる中で、30年後には、見事に「体罰をしない子育て」を学び取り、社会が変わっていったのである。つまり、「たたく側」である両親(=教える側・支援する側)が、「たたく」という行為を「しつけ」から「体罰」と認識転換し、それをしてはいけない、という社会的な風土を作り替える動的プロセスの中に身を置くことが出来たため、スウェーデン社会は変わっていった、とまとめる事はできる。そして、切り分けない一つのシステムとして考えれば、以前「たたかれていた」子どもは、「たかれない」(=暴力の服従の論理に従わなくて良い)という環境下で生育することにより、本人の成長や個性の尊重に、よい影響を受けていることは、十分に想像出来ることだ。
僕は以前スウェーデンに住んでいた事もあるので、どうしてもスウェーデン贔屓になってしまうのかもしれない。もちろん日本の方が良い部分も一杯あるが(消費生活をするなら間違いなく日本の方が楽しい)、でも、問題があったら社会的にそれを蓋をせずに可視化し、前例踏襲の呪縛から抜け出して、何とか変えようとする、という「学びの回路を開く」福祉システムはすごく好きだし、日本にも学べる部分はあると思う。具体的なこういう制度を取り入れたらいい、というのも勿論あるが(以前はその事に目が行きがちだった)、それより思考法、というか、誤りから学んで変わるフィードバックシステムと学びの回路を開く、という姿勢こそ、スウェーデンの福祉社会から学べる点である、と感じる。法や制度は文化や土地の歴史・文脈に強く依拠しているものであるが、「学びの回路を開く」というフィードバックシステムは、文化や地理的距離を超えた、ユニバーサルな何かだ、と感じている。
まあ、そういうことを書いても、学びの回路を閉ざしている人は、「所詮スウェーデンは人口規模も違う」「25%の消費税、43%の所得税国家とは違う」「キリスト教が支配的な国とは違う」・・・という反論が必ず出てくる。以前はそういう時にムキになって反論した事もあった。だが、今回のブログを書きながら非常にすっきりしてきたのは、確かに文化も制度も考え方も違う国であっても、「失敗から学ぶ」「学びの回路を開く」「開いた上で新たな試みに賭ける」という部分は、通文化的な何かがあるのではないか、と感じている。そして、「スウェーデンとは違う」という際に、単に文化や制度の違いだけで無く、通文化的な「学びの回路を開く」ということまで否定してしまうと、それは「閉ざされた学び」となり、「服従」の論理への埋没では無いか、と危惧するのである。
そして、この論考を閉じる前に、もう一つ、触れておきたい論点がある。
「主体は関係のなかに存在していることを、そしてすべてを記号に置き換えてシステム化させる構造が関係的主体をみえなくさせていることを、私たちは直視しなければならないのです。『正常』と『異常』という記号を基にシステムをつくり上げるのが現代社会です。それが関係のなかにある主体をみえないものに変え、個のシステムのなかに自ら取り込まれていってしまう。こう考えていけば、『正常』、『異常』というかたちで記号化するのではなく、ともに生きていく関係をどう取り戻すのかが見えてきます。」(内山節『内山節のローカリズム原論』農文協、p155)
内山節氏の論理も、安冨先生の論理と通底する部分が多い。影響を与える側・与えられる側を「切り分ける」のではなく、「両者を、相互に依存し、影響しあう一つのシステムとして認識」する。このことは、「主体は関係の中に存在」する、という事と等価であり、「関係的主体」として生きる、ということでもある。しかし、この「関係的主体」という視点が後景化しているのは、「記号」化システムである。高度消費社会とは、マーケット化、記号化することによって、記号そのものへの欲望を加速させ、ある商品を購入しても、またその商品とは違う記号(=差異)のある別の何かを欲望することで、商品購入を加速させるプログラムを構築した。そして、商品購入のゲームが前景化する社会とは、その商品を購入している自分自身が「関係の中に存在している」ということを、見えなくさせていた。
たとえば、胃薬は、それを必要とする人しか飲まなければ、必要以上に売れない。だからこそ、「食べる前に胃薬を飲む」という論理転換(倒錯?)を広告で流し、胃痛の予防的に飲み続けることで、いつしか胃薬無しでは暮らせない人を創り出す。だが、それが製薬会社の儲けの最大化との関係の中で購入している、という自らの「関係的主体」に気づかれては、売り手の側は困るわけである。だからこそ、さらなる「記号」をテレビで流し続け、その「関係的主体」を後景化し、「記号的主体」として、ある特定の「正しさ」を信じ込むように人びとを誘因してきた。そのコマーシャル内容に自主的に「服従」する人びとを生み出してきた。
ながーい迂回路になったが、「学びの回路を開く」とは、「正常・異常」「よい子・悪い子」「標準的行動・問題行動」といった二項対立的で、時として背後に権力や情報の非対称性の大きい局面で、「服従」の論理に従わせるのではなく、フィードバックの回路の中からお互いが学び続けること、である。それは、「真理の探究」と言ってもいいのかもしれない。「たたくのはしつけ」とは、前時代の「真理」だったかもしれない。でも、それがオカシイと感じるなら、「それ以外にしつけの方法はないか」と「探求」するのが、「真理の探究」である。私たちは、その「真理の探究」よりも、昨日と同じ明日、という意味での「日常性の保持」や前例踏襲的な「服従の論理」に傾きやすい。しかし、その宿痾が、現在の日本社会に蔓延する閉塞感であったり、あるいは矛盾の表出であるとするならば、それは「学びの回路を閉ざした結果」とも受け止められるのではないだろうか。
どうやって「学びの回路を開く」ことが出来るか?  何かをする側・される側の双方が、切り分けられるのでは無く、関係論的にフィードバックを交わし続ける中で、どのような変革の動的プロセスや渦、ムーブメントが創発していくのか。「そこに結ばれる新しい関係によってなんらかの新しい価値を創出すること」はどうしたら可能か? 「ともに生きていく関係をどう取り戻すのか」?
このあたりを、もう少し考え続け、再び書き進めようと思う。(もしかしたら、連作化する、かもしれない)。

地域包括ケアに求められる動的ダイナミズム

街おこしや地域の再生、を考える際、無から有を生み出す、という意味での「創発」との関連性が高い。そして、この「創発」に関しては、最近やりとりをさせて頂いている東京大学の安冨歩先生の本から学ぶことは多い。先生の著作に刺激を受けて、ノーマライゼーションの原理と創発をつなげた論文「ボランタリーアクションの未来」を書き上げたくらいだ。
最近、このブログでは地域包括ケアについて色々考え続けているが、その中で気になって、安冨先生の『経済学の船出』『複雑さを生きる』を相次いで読み直していた。その中で、残念ながら今、品切れになってしまっている『複雑さを生きる』の中に、地域包括ケアを考える際の重要な視点がある事に、改めて気づいた。その事を長々と今から書くのだが、一言で言えば、
創発は、PDCAサイクルの外にあり、計画制御が出来ない
ということだ。これが、高齢者や障害者、末期がんやターミナルの患者さんも、住み慣れた地域で暮らし続ける為の、安心と見守りの地域支援システム作りにどうつながっているのか。
「ブリコラージュによる思考の特徴は、目的を固定しないことである。すでに与えられたものから出発し、その組み合わせによってうまくできることを目的とする。目的を固定しないので、状況の変化には対応しやすい。なぜなら出来なくなった目標は視界から消え去り、常に手元にある資源を利用して新しい組み合わせの可能性を探り、目標を動かし続けることになるから。そして達成された目標が手段に組み込まれ、新しい目標が見出される。目的と手段は一つの円環を描き、動き続けていく。これに対して、計画制御というアプローチは、まず目的を固定するところから始まる。」(安冨歩『複雑さを生きる』岩波書店、p177)
行政内部で完結するプロジェクトではなく、地域住民の力を活かしながら、自助や共助の力を高める営みを地域包括ケアとするならば、計画制御アプローチには限界がある。なぜなら、住民の暮らしや営みを「固定」することは不可能だからである。そして、特に中山間地など、社会資源が少なく、自治体の財政力が弱い地域においては、その地域にすでにある人・モノ・支援・ネットワークをどう上手く活用しながら、支援システムを再構築するか、が求められている。その際に必要になるのが、レヴィ・ストロースが提唱した「手元にある資源を組み合わせながら何とか活用する」という意味でのブリコラージュである。(このブリコラージュについては、以前ブログで福祉分野との接合点を考えた事がある)
さて、地域包括ケアにおいても、対象とする地域の住民の「状況の変化に対応」する中で、「常に手元にある資源を利用して新しい組み合わせの可能性を探り、目標を動かし続けること」が求められる。そのプロセスを続ける中から、渦という動的プロセスが生まれる。
「渦の運動がその中心の移動を欲するなら、運動を提起した人物がその中心を離れる必要も生じうる。渦が起きやすいところから、渦を起こし、あちこちで生じた渦を相互に接続し、大きな渦を創り出すことを目指すのが、『共生的価値創出』の重要な点である。」(同上、p130)
この際、大きく問われるのは、生成しつつある渦を大切にするのか、あるいは計画や概念図の実行・履行を大切にするのか。どちらの優先順位を高くするのか、である。地域福祉計画、地域自立支援協議会、地域包括ケア・・・など様々な現場で、計画や概念図が作られるが、それは渦を創り出す為の参照枠組みなのか、あるいはその計画にあくまでも縛られる計画制御の絶対基準なのか、どちらなのだろうか。
「まず始めに問い直すべきは、外部の力によって特定の対象社会に働きかけ、なんらかの方向を目標として資金や人的リソースを投入するという『操作』の姿勢そのものである。これに対して本書は『共生的価値創出』という概念を提唱する。それは働きかける側と対象となる側に切り分けるのではなく、両者を、相互に依存し、影響しあう一つのシステムとして認識しようとする姿勢である。この共生的関係を明確に認識しあいながら、そこに結ばれる新しい関係によってなんらかの新しい価値を創出することがめざすべき方向となる。」(同上、p128)
地域包括ケアシステムは、何らかの「操作」の結果、生まれるものではない。支援する側と支援される側を「切り分ける」という介護保険の準市場的アプローチでは、限界がある、という認識から、この仕組みの導入が求められたのである。そこでは、ケアする側もされる側も、あるいは働きかける側も対象となる側も、「相互に依存し、影響しあう一つのシステムとして認識」するという視点の捉えなおしが必要不可欠になってくる。「この共生的関係を明確に認識しあいながら、そこに結ばれる新しい関係によってなんらかの新しい価値を創出すること」こそ、まさに新たな「渦」を作り出すことであり、共生的価値創出そのものであるのだ。
では、計画制御が不可能であれば、計画そのものもいらないのであろうか? この点について、安冨先生は、次のように指摘している。
「計画はそれ自身としては事態を解決したり推進したりする機能を持たず、逆にそれを阻害する機能を持っている。しかし計画は、その事業に関係する人々のメディアとして機能することができる。たくさんの人間が事業にかかわる場合は、そこに紛争が生じることは不可避といってよい。その場合に、あらかじめ参照基準となる計画が策定されており、人々の合意が一応なりとも成立しているなら、その紛争を事前に回避し、あるいは生じた紛争を迅速に解決する上で、計画が交渉メディアとして役立つことがある。計画もまた法と同じく、メディアとして立ち表れた場合に、有効に機能しうるのである。」(同上、p142)
計画に関連する人々のコミュニケーションを円滑にする「メディア」としての計画。これは、現場の実感にも合致する。ただ、ここで「目標」とも「絶対基準」とも書かず、「参照基準となる計画」と書いていることに、注意をする必要がある。先述したように、地域包括ケアでは、PDCAサイクルや線形制御ではなく、ブリコラージュの動きの中で渦を作り、「共生的価値創出」(=新たな何かを「創発」すること)が必要とされている。そのとき、一応の前提としての「見取り図」としての計画があることで、関わる人々のコンセンサスは得られるが、渦が動き始め、自己組織化が始まると、その渦に合わせて、計画もアプローチも変容することが求められる。
「渦が起きやすいところから、渦を起こし、あちこちで生じた渦を相互に接続し、大きな渦を創り出すことを目指すのが、『共生的価値創出』の重要な点である」ならば、それを実現するためには、「出来なくなった目標は視界から消え去り、常に手元にある資源を利用して新しい組み合わせの可能性を探り、目標を動かし続ける」というブリコラージュの方法論が必要不可欠になる。この動的プロセスを、地域包括ケアに組み込むことが可能か、が問われている。
だが、そもそも地域包括ケアシステムの構築とは、ソーシャル・アクションの営みそのものである。そして、ソーシャル・アクションとは、計画制御の枠組みからこぼれた弱者を救うための、枠組みの捉えなおしとしてのアドボカシー活動に端を発したのではなかったか。当事者の抑圧されていた思いや願い(=本音)を聞く中で、計画制御で執行されている法や制度の問題点に気づき、それを何とか変えるために、現場レベルから、渦を作り始めたうねりであった、といえるのではないか。
そして、実は僕は過去のブログで、創発の渦が出来ていく、ブリコラージュの過程を、繰り返し考え続けてきた。(たとえば「ボトムアップ型の創発と自己組織化」「創発の渦の螺旋階段的拡大」など)
福祉現場の渦の生成と発展を垣間見る中で実感しつつある事、それは、このような渦を広げていく営みの中で、後付け的に使命が見つかり、ビジョンが拡がっていく、ということである。つまり、最初から計画制御が出来ると思わず、とにかく目の前の課題に取り組むために、対象者と自分を切り分けることなく、渦を作り始める。その中で、渦の自己組織化したがって、必要とされるビジョンが切り開かれていく。計画は、あくまでもその際の「参照枠組み」に過ぎない。
法律や制度の枠内で考える、社会システム適応的視点であれば、計画制御は一定機能する、というか、信憑性があるように思える。だが、特に対人直接サービスの領域では、法や制度は常に現実の問題の「後追い」である。であれば、「社会システム適応的視点」は、常に事後対応に終わり、問題の本質にたどり着くことはない。むしろ、法や制度の問題点を徹底的に分析した上で、それを乗り越える策を考えていく、という「社会システム構築的視点」がソーシャルアクションには求められる。そして、この社会システム構築的視点、こそ、地域包括ケアで必要不可欠とされる視点なのだ。
ただ、何もそういうことを力まなくても、現場の、お役所仕事をしていない人々、たとえば街づくりのNPOの人などは、既にこの力を持っている。ようは、行政の側が、そのオルタナティブな力、を信じることが出来るか、それにかかっているのだ。
「市場だけが人間を疎外するのではない。共同体も家族も人間を疎外する。問題は『紐帯』があるかないかではない。人々が相互に学習過程を開いた形でコミュニケーションを形成できるかどうかである。(略)人々を苦しめ、社会を崩壊させるのは、学習過程の停止である。」(同上、p210)
学習過程を開いて、対象とする人、される人という二項対立を超えて、相互に学びあう、コミュニケーション回路を開き続けること。そこから、渦が生まれ、創発につながり、「共生的価値創出」が始まる。この「学びの回路」を開き続けるためには、法や制度、計画、共同体・・・が「所与の前提」や足かせとして、リミッターになってはいけない。この思考のリミッターを外し、ブリコラージュ的に、現場で使えるものを使い倒しながら、まだ無い未来を想起する。この中に、現場の困難事例や閉塞感を超える、新たな可能性があるのである。
そのとき、高齢者や障害者福祉、介護保険、地域福祉、という狭い範囲内でとどまっていては、学習は限定的である。ブリコラージュとは、その現場に落ちている何か、を徹底的に活用することを指す。であれば、観光や商工、街づくりなど周辺領域で、あるいは農村振興や限界集落対応など、使えるツールを使い倒す精神が求められているのである。
「真の意味での責任は、つまるところコミュニケーションにおける学習過程を作動させるということと等価である。この学習過程を停止させている限り、自己の変革はありえず、責任を引き受けることもない。人々が自分の価値を信じ、感受性を開き、学習過程を活発に作動させているとき、そこに背近ある、規範にのっとった、まっとうな社会が出現するのである。」(同上、p145)
カリスマソーシャルワーカーへの依存を超えた地域福祉を展開していくためには、一人一人のワーカーに求められているのは、この意味での「責任」を取る覚悟、学習過程を開き続ける覚悟、なのかもしれない。
追伸:こんなことを地域福祉学会で発表しよう、なんてちらっと考えているのだが、ちょっとぶっ飛び過ぎだろうか・・・

同じ事を逆から眺める

ここのところ、中山間地における地域包括ケアシステムと、コミュニティのあり方や街づくりとの接合点について考えていた。そんな矢先の先週末、広島で開かれた日本NPO学会のシンポジウムにおいて、
そのことを逆の方向から考えている方々と出会った。

「中山間地域におけるNPOの役割」というセッションで、NPO法人ひろしまねの理事長の安藤周治さんと、過疎と戦うインターネット古書店エコカレッジ代表でNPOてごねっと石見副理事長尾野寛明さんのお二人である。お二人とも、広島と島根の間という中山間地で過疎化が進む地域において、コミュニティ・ビジネスや街おこしなどを通じて、中山間地を活性化しようと取り組んでおられる。この営みが、実は僕自身が最近ブログで書き続けている、地域包括ケアやコミュニティの再生において、必要不可欠な部分である、と、お話を聞きながら痛感し始めた。
前回のブログでも触れたが、厚労省が提唱するサービス当てはめ型ではない、本物の地域包括ケアを実現していくためには、行政だけでは、あるいは行政のトップダウン的な発想では、うまくいかない。そして、日本はスウェーデンのような政府信頼型国家でもなければ、貯金をする代わりに税金を沢山納めようという高福祉高負担型国家には、今までも、そして多分これからもなれないので、政府(=公助)が出来ることには限りがある。
そんな中で、個々人が、高齢になっても、障害を持っても、末期がんなど病気が重くても、住み慣れた地域で役割を持って自分らしく暮らしたい、という自助力を持ち続けるためには、公助だけでは限界があり、地域の助け合いシステムという共助が必要になってくる。従来はそれを地縁・血縁組織である町内会や自治会、あるいは社会福祉協議会などが担ってきたが、都会だけでなく、山梨であっても町内会や自治会の組織率は年々低下し、また介護保険以後、少なからぬ市町村の社会福祉協議会は、独立採算と事業に追われ、
地域福祉のミッションを展開できていない。
そこで、地域における「お顔の見える関係作り」から、支えあいの体制、あるいはその町で暮らし続けるための支援システム作りは、役所や介護保険の地域包括支援センター、また障害者地域自立支援協議会などに託されているのだが、これらの機関やそこで働く人々とお付き合いし、また研修をする中で、高齢者や障害者の支援のプロは一般に、ミクロレベルの1;1の支援には非常に優秀であっても、そのミクロの課題の集積としての、その地域におけるメゾレベルの課題を見つけ出すこと、またそれをメゾからマクロレベルの課題として解決する力はまだまだ弱い人が多い、ということを痛感し始めている。個別援助技術には長けていても、ソーシャルアクションを非常に苦手とする人が大半ではないか、とすら思える。
これも前回のブログに書いたが、多問題家族などの「困難事例」と呼ばれるケースは、「その地域における解決が困難な事例」である。個人の問題だけではなく、支える仕組みが不十分である、という点で、地域課題そのものである。そういう地域課題と、地域包括支援センターや社会福祉協議会の職員、あるいは民生委員の方々は日々向き合っているのだが、その個別ケースというミクロ課題をメゾ・マクロ視点という「より大きな地図の中の位置づけ」でマッピングしなおすという、「地域診断」の力が欠けている。ゆえに、問題がおきてしまった後の、個別ケースへの事後対応に終始し、そういう類似の問題が次に起こらないための、予防的なアクションへとつながらない。これが、介護保険の地域包括支援センターや障害者の相談支援事業所がまじめにケースに取り組めば取り組むほど疲弊する、という悪循環にもつながる。この悪循環から抜け出すためには、狭い意味での高齢者福祉、障害者福祉の領域だけに埋没していてはいけないのである。
と、ここまでは山梨や三重での障害者福祉のアドバイザーや、山梨の地域包括ケアのお手伝いをする中で感じていた。だが、その先に、具体的なビジョンというか、どういう方向で、メゾ・マクロ的な課題を解決するか、についての具体例や手がかりが、僕の中で、まだつかめていなかった。
ながーい前置きになったが、それであるが故に、安藤さんや尾野さんのお話には、僕が感じていたメゾ・マクロ的な地域福祉的課題の解決の一例が示されていたのである。
お二人が拠点を置かれる中国山地の山間は、早くから高齢化率が高まり、過疎化や限界集落の問題を抱えていた。消滅寸前の部落、というのも一つや二つではない。そんな地域において、安藤さんは「過疎を逆手に取る会」の活動を展開する中から、街づくりのNPOが生まれてきた。これまでの町内会や自治会中心の「総ぐるみ型の集落運営には限界がある」と、「もうひとつの役場」としての集落支援センター構想を立ち上げ、地域プランナーを配置した、集落の維持・継続支援に力を注いでこられた。 この地域マネージャーが集落の全戸訪問=悉皆調査をする中で、集落の課題をつぶさに聞き取り、課題を析出して、事後救済ではなく、事前予防的に問題に対応しようとしている。
一方、尾野さんは西日本で二番目の蔵書数を持つ古本屋を島根県川本町に作り、そこでは積極的に障害者雇用もしている、という。また、NPOではU・Iターン創業の仕掛け作りのため、行政とタイアップして、江津市でのビジネスプランコンテストや「しまねでコトおこし・弾丸ツアー」など、島根県内に若者を呼び込むプロジェクトをいくつか手がけている。ご自身は東京と島根を1週間ごとに往復しておられ、都会と田舎の、都市部のNPOと地方自治体の、若者と年配者の「通訳者」の位置づけにいる、とおっしゃっておられた。
このお二人の活動は、表面的に見れば中山間地域を活性化させる街づくりや、コミュニティ・ビジネスの支援、という感じと捉えられるかもしれない。だが、田舎に人を呼び込む、顕在化しなかった集落の課題を「開く」、という営みは、実は、自助力や共助力に限界がある地域の課題を、福祉だけでなく産業や商工、観光などあらゆる手段を使いながら開いていくことでもある。その中から、地域の活性化が生まれ、それはひいては自助力や共助力の強化と、公助力の効果的な集中投入の道を開く鍵となるのではないか、と感じているのだ。
こんな気づきや出会いがあったNPO学会、記念シンポジウムに『災害ユートピア』の著者、レベッカ・ソルニットさんの基調講演があった。彼女の本の中に、実はこのブログで書いた内容と非常に親和性のある記述がなされている。
「近年の歴史は民営化の歴史だとも読めるが、それは経済のみならず、社会の民営化でもあった。市場戦略とマスコミが人々の想像力を私生活や私的な満足に振り向け、市民は消費者と定義し直され、社会的なものへの参加が低下した結果、共同体や個々人のもつ政治力は弱まり、民衆の感情や満足を表す言葉さえ消えつつある。”フリーアソシエーション”(自由に誰とでも係わり合いになれる権利や能力)とはよく言ったもので、それでは深い人間関係はできない。代わりにわたしたちはマスコミや宣伝により、互いを怖がり、社会生活を危険で面倒なものだとみなし、安全が確保された場所に住んで、電子機器でコミュニケーションをとり、情報を人からではなくマスコミから得るようにうながされる。」(『災害ユートピア』レベッカ・ソルニット著、亜紀書房、p21)
「社会の民営化」とは「つながりの市場化」のことでもある。高度消費社会において、つながりや人間関係も消費財として市場化されていった。確かにそれまでの地縁・血縁は、人々をその紐帯の枠内に押しとどめる、抑圧的な作用ももたらした。よって、つながりの開放としてのフリーアソシエーションやグローバライゼーションによって、閉塞感を超えて、つながりを勝ち得た「つながり勝者」もいる。その一方で、「つながりの市場化」の結果、特に中山間地域ほど、もともとあった紐帯がずたずたになりつつある。そこに、過疎化と高齢化が重なり、日本の中山間地域は三重苦を抱えている。
レベッカさんの本の中では、実は「災害時」こそ、その紐帯を取り戻し、「つながりの市場化」以前の世界に戻る世界が世界各地で垣間見られる、と書いている。だが、何も「災害」でなくとも、限界集
落や中山間地の少なからぬ地域が、過疎化や高齢化問題が、放置できないほどの問題として極まってきている。この問題の顕在化局面において、地域包括ケアの問題と、街づくりの問題を分けて考えていては、大きすぎる問題は解決不可能ではないか。むしろ、福祉の人間こそ、福祉に埋没するのをやめ、町おこしや産業振興、観光振興などの異なる領域で、その地域の持続可能な発展や住みやすい・暮らしやすい街づくりといったテーマについて「同じ事を逆から眺める」人々と手を携える時期に来ているのではないか。地域福祉計画や介護保険事業計画、障害福祉計画が、そういう他領域とつながらないで、タコツボであっては、問題の解決からは遠のくのではないか。
広島からの帰り道、そんなことを考えていた。

“本物の”地域包括ケアの可能性について

ここのところ、忙しくって、ずっとブログの更新が疎かになっていた。まあ、三月の頭に家族のご先祖のお墓参りもかねて6日ほど、沖永良部島と沖縄に旅に出ていたのも、その理由の一つ、ではある。だが、2月3月はとにかく研修がてんこ盛り、なのだ。今日は障害者の相談支援従事者の現任者研修だったし、昨日は調布市で障害者制度改革の講演、先週土曜日は甲府で医療ソーシャルワーカー向けの研修や、金曜は長野で介護保険の苦情受付担当者研修・・・と、なんだか内容も変わり、目も回りそうな研修・講演付けの日々なのだ。
そんな中で、是非とも備忘録的に書いておきたいことがある。それは、地域包括ケアについてである。
僕自身、厚生労働省が介護保険改正のこれからの方向性として指し示している地域包括ケアについて、よく知らないくせに、否定的な先入観を持っていた。介護保険という公的サービス(公助)への財源投入に限界があるから、リハビリして自助努力で何とかすごしてください、それが無理なら地域のボランティア(共助)で済ませてください、という公的サービス切り下げの言い訳として使っているように見えていたからだ。
ちょうど先週の水曜日から木曜日にかけて、全国の地域包括ケアのモデルになっている岡山モデルや、現在では高知モデルも構築されている、高知県立大学の小坂田稔先生をお招きして、山梨の地域包括ケアについて考える研究会+研修が行われた。僕も、この山梨の地域包括ケアの推進のお手伝いをするチームに加えて頂き、予習をしていたので、小坂田先生の講演は実に楽しみだった。そして、その講演の中で、僕の想像は半分当たっていて、半分は外れていたことがわかってきた。
元津山市社会福祉協議会のコミュニティーソーシャルワーカーとして17年間、地域福祉の現場に入り込んでいた、バリバリのソーシャルワーカーの小坂田先生。今でも授業をこなしながら、高知と岡山の各地の小地域ケア会議にもちゃんと足を運ぶ、時には課題となっている地域訪問にも同行するという根っからの臨床家。なので、地域包括ケアも、社協マンとして感じていた問題意識から立ち上げていったという。
「介護保険が始まった際は、在宅介護支援センターが重視されていた。だが、これは文字通り、在宅で介護を支援する、という仕組み。そこには本人と家族の二層構造にしか目が向いていない。一方、地域包括ケアとは、本人と家族に加えて、地域という視点が重要である。本人が家とデイサービスを単に往復しているだけでは、地域に開かれている、とは言わない。『二箇所に閉じこもっている』のが実態だ。地域包括ケアとは、地域とのつながりが弱体化したり、切れてしまった、支援を必要とする人が、再び地域とのつながりを取り戻す支援をすることである。一方、国が今言っている地域包括ケアとは、中学校区に何らかのサービスパッケージを当てはめて、対応が不可能な部分は自助・共助でやりなさい、というサービス当てはめ型である。あんなものは本当の地域包括ケアとはいえない。」
この説明を聞いて、厚労省のモデルに対する胡散臭さは実にその通りだったが、厚労省モデルとはオルタナティブな実践としての岡山モデルや高知モデルに、随分心を惹かれはじめている。そうそう、これこそ、僕が山梨で研修をしていて、現場の人のお話を伺いながら、問題や課題と感じていた部分に手が届くモデルである、と。それはどういうことか。
福祉の業界用語の一つとして、「困難事例」という言葉がある。たとえばお爺さんが認知症で、娘さんがアルコール依存症のシングルマザー、子どもさんが発達障害というように、一つの家族の中で何らかの困難性を抱えた人が複数いる家庭のことを「多問題家族」なんていったりする。あるいは、いわゆる「ゴミ屋敷」問題、虐待事例、認知症の高齢者を同年代の虚弱の家族が支える老老介護、時には認知症の夫婦という認認介護、あるいは独居老人や孤独死に至る事例など、様々な「困難事例」が、研修やケース検討の場で寄せられる。だが、これらの「困難事例」を、その個人・家族のみの問題、と矮小化していいのか、ということが問われている。実はそれは、無縁社会、ではないが、地域社会やコミュニティの中で支えられない、声がかけられない、見守られなくなった人の、つまりは「その地域における解決困難な事例」と捉えなおすことが出来ないか。個人の「困難」も、そういう事例を蓄積する中で、その地域のなかで生きる困難性、と捉えなおすことが出来ないか。するとそれは個人の問題と片付けることが出来ず、地域や社会構造の変容課題と捉えられないか。いつも研修ではそういうことを話し続けてきた。
その視点で小坂田先生の地域包括ケアの定義を眺めると、僕の問題意識とつながってくる。実は小坂田先生が提唱する実践型地域包括ケアとは、「その地域の中での解決困難事例」とされたケースを実態的に改善していくための具体的方策であるのだ。
たとえば、地域(時には家族)とのつながりが切れ、問題を抱えながら孤立している個人のお宅にコミュニティソーシャルワーカーが何度も足を運ぶ。そういう孤立している人ほど、他人への信頼感が低くなっていて、ソーシャルワーカーの訪問を拒むかもしれない。でも、何度も何度も訪問を続ける中で、少しずつ本人との信頼関係を構築し、そのうちに、孤立した個人の困りごとの本音にアクセスできるかもしれない。あるいは、独居老人が末期がんと診断され、子ども達は遠く離れて暮らしており、地域での看取りケアの仕組みを急に構築しなければならない。こういった、介護保険サービスだけでは全てを解決することが出来ないケースに関して、その地域で力になってくれそうな民生委員さんやご近所の方々、あるいはケアマネージャーや社会福祉協議会職員、ホームヘルパーなど関係者を一同に集めて、ケア会議を開き、解決方法を模索する。そして、そういう事例に対応する中で見えてきた地域課題を、小地域ケア会議のような場で議論し、これからあり得るほかの事例について、対処や解決(場合によっては予防)していく方策を見つけていく。その中で、現場レベルで対応可能なことと、行政の施策として対応すべきこと、などを整理して、改善が必要なものは事業化していく。
このような、困難事例といわれるミクロのケースを、チーム連携で解決する中で、その地域の課題というメゾレベルの問題を発見する。そして、そのメゾレベルの課題を集積しながら、その地域で克服すべき課題として整理し、それを分析検討する中で、行政の施策といったマクロレベルでの解決も含めた具体的な改善策を、官民共同で提案していく。こういうボトムアップの創発的動的プロセスが、小坂田先生のおっしゃる実践型地域包括ケアの中に含まれている、というのだ。それは、障害者分野でも行われてきた、障害者地域自立支援協議会でやろうとしている事とも一致している。実は小坂田先生は、自らが手がけた高知県の地域福祉支援計画において、ひきこもりや自殺対策にも、このような小地域ケア会議や地域に開く仕掛けを作り、実体化しようとしている。社会との接点が切れて、家族や個人の枠の中に撤退せざるを得なくなった人が、再び社会とのつながりを取り戻すための仕組みと仕掛けを、作ろうとしているのだ。
「ただ」と小坂田先生は留保もしていた。「僕のモデルは中山間地モデルです。大都市でこのモデルがどれだけ機能するかはわかりません」と。
そう、その部分は同じ危惧を僕も共有する。上記のようなネットワークは、民生委員や町内会・自治体がある程度実態的に機能していたり、お顔の見える関係が比較的に出来ている中山間部では、かなり有効な手立てとなるだろう。だが、大都会で、人口も事業所も多いけれど、人々のつながりが薄くなってしまっている地域でこの小坂田先生のモデルがどれほど機能するか・・・。これは、正直、未知数である。
だが、こないだブログでご紹介した内山節さんの議論にも通底するのだが、実は都会においても、ほんとはコミュニティのつながり、というか、共同体精神が再び強く求められているのではないだろうか。もちろん、その共同体精神のあり方は、田舎であれば地縁や血縁といった文脈の共有度も高い一方、都会ではその共有度が極端に低いかもしれない。だが、その地域で安心して暮らし続けていく、という「つながり意識」のアソシエーション的共有をすることで、契約的に、というか、自覚的に地域の中で「つながりなおす」ことが、特に超高齢社会が加速するなかで必要ではないか。
その地域の中で自分らしく暮らし続けたい。この気持ちからもう一歩踏み込めば、だからこそその地域が暮らしやすいように変わってほしい、そのために何とかしたい、というボランタリーアクションの萌芽へとつながる。社会福祉協議会や地域包括支援センター、行政の地域福祉課、と言われる公助のセクターは、このような住民達の「地域のために何とかしたい」という自助の力が、やがてネットワークとしての共助につながり、それが公助で補い切れない・あるいは公助が手を出さなくても予防的に対応可能な部分に関与できるよう、支援をしていく。そのことによって、本当に公助の力を必要としている人に、効果的な支援の手を差し伸べられる。こういった役割分担をすることによって、その地域で死ぬまで満足して暮らせる、そんなコミュニティーへと変革していくための切り札として、機能する可能性がある。
そういう「より大きな地図の中での位置づけ」として地域包括ケアを捉えるなら、当然、街づくりや観光、商工といった行政の縦割りの外とも有機的に連携することが求められる。たとえば、徳島県の上勝町や、高知県の馬路村など、町や村の特産品作りに成功している自治体が、その商業的成功で得られたノウハウを地域福祉にスライドさせて活用している。であるならば、逆に「その地域における解決困難な事例」に向き合うことは、その自治体の街づくりや観光、商工の課題とも直結しているはずである。そこまでを射程にいれられるか、も問われている。
ここまで書いて感じるのは、4人に1人が高齢者になる社会において、その最適な解決策は、霞ヶ関ではなく、現場に転がっている、ということだ。しかも、都会ではなく、田舎に。中央ではなく、周縁に。周縁革命、ではないが、今まで都会を憧れ、都会をまねし、都会にキャッチアップすることで必死だった中山間地。だが、気がつけば、都会をモデルにしても、正解が得られるわけではない(むしろ失敗する)ということは、50年かけて痛いほどわかってきた。であるならば、ローカルな文脈を最大限に活用することによって、その地域における解決方策を、その地域の資源を最大限に活用しながら構築していくことの方が、持続可能なプロセスといえないか。しかも、国やコンサルタント会社に与えられるのではなく、自前でそういうモデルを作り上げることが出来たなら、その地域にとっての誇りともなり、自分達でメンテナンス可能ともなる。
実はこういう、住民の持っている潜在能力を引き出しながら、それを組織化することを通じて、自助・共助・公助のバランスを捉えなおし、最適化していくこと。これは、地域包括ケアとして重要なだけではなく、被災地におけるコミュニティの再生の鍵にもなるのではないか。そんなことも夢想している。小坂田先生に伺ったお話を、自分の中で一週間ほど寝かせていたら、こんな帰結になってしまった。
*追伸:今日読みはじめた『災害ユートピア』には、「つながりの民営化」概念が出ていた。確かに都会におけるコミュニティは、つながりのモナド化、民営化と関連性がありそうだ。だが、このことは、今週末、広島で著者の講演を聞くので、その話を聞いた後、考えてみたい。