昨年の7月、ブログに書き続けた「枠組み外し」に関する一連の考察が、かなり手を加えた上で論文となった。ご縁あって、東大の東洋文化研究所の紀要『東洋文化』の92号「特集 脱植民地化(3)-「呪縛」からの脱却・「箱」の外に出る勇気-」という論文集の中に、「枠組み外しの旅-宿命論的呪縛から信の<明晰>に向かって」というタイトルで、掲載頂いた。
一昨日の木曜日、その特集号の合評会が東洋文化研究所で開かれ、その論文集の著者や、あるいは「魂の脱植民地化」研究に関連の深い方々と議論をするチャンスに恵まれた。その時、様々な刺激や気づきを受けたのだけれど、その議論を通じて一番大切に感じているのが、今回の表題にもある「学びの回路を開く」というフレーズだ。
これは、前回のブログで、「魂の脱植民地化」研究の先鞭を切っておられる安冨先生の著作を引用する中で、心惹かれたフレーズである。そして、この「学びの回路を開く」ということが、コンテキストを変え、渦を作り出し、何かを創発していくために、本当に必要不可欠なのだ、と感じている。
「学びの回路を開く」とは何か。これは、この研究会の議論の際に思いついたフレーズを使うとすると、「服従」と「学習」の違いから説き起こすことが出来ると思う。
「服従」の論理とは、一方通行の論理。教える側と教えられる側、支援する側とされる側、という権力の非対称性の関係をそのまま内包した論理。一方が何かを授ける・与える。他方はそれをそのまま受け取る。その際、一方の側の枠組みを、他方は例え内心疑ってたとしても、口に出してはいけない。ありがたく受け取るのみ。そして、その枠組みの中で、従順に受け止める事が「よい子」「扱いやすい利用者」として評価される。逆に与える側の差し出す何かを素直に受け取れない人は「不良」「問題行動」「逸脱」というラベルが貼られ、治療や処分の対象とされる。この際、権力が非対称の関係なのだから、権力保持側(=つまり与える側)の論理が疑われることはない。オカシイのは、そのせっかく「与えてやった」何かをありがたく受け取らない逸脱者の側にあるのだ。そして、誰のどのような行為を評価・罰するのか、を見ている教えられる側・支援される側は、権力の非対称性という自らにとっては不利な環境を生き抜くために、「服従」する事を学び取り、「お伺いを立てる」という構図を身体化させる。それが、自らの生存戦略上有利になる、と肌身に感じているからだ。ただし、「服従」を学ぶ事からは、「学びの回路」が「開かれる」ことはない。盲目的に従うことのみを学ぶのだから、むしろ「閉ざされた学び」とも言えようか。
一方、「学びの回路を開く」という意味での「学習」とは何か。安冨先生のフレーズを借用するならば、好循環のフィードバック機構を創り出す営み、とでも言えようか。前回のブログで引用した安冨先生の文章を再掲すると、こういうことになる。
「働きかける側と対象となる側に切り分けるのではなく、両者を、相互に依存し、影響しあう一つのシステムとして認識しようとする姿勢である。この共生的関係を明確に認識しあいながら、そこに結ばれる新しい関係によってなんらかの新しい価値を創出することがめざすべき方向となる。」(安冨歩『複雑さを生きる』岩波書店、p128)
そう、教える側・教えられる側や、支援する側・される側といった「切り分け」をやめ、「両者を、相互に依存し、影響しあう一つのシステムとして認識」する。すると、知識や介護をA→Bへと一方的に渡す、という「服従」的論理は崩壊する。なぜなら、AからBに何かを伝える時、切り分けの思考から脱することが出来れば、BからAへも何かが伝わっていることに気づけるからだ。それが「わかった」「ありがとう」という言葉だったり、あるいは「聞きたくねえよ」「そんなことされたら嫌だ」という表情かもしれない。知識や支援内容が物流のようにA→Bへと一方的に伝わるのではなく、その知識なり介護なりが与えられる際、当然そのリアクションが相手から帰ってくる。そのフィードバックを、B→Aのコミュニケーションと受け止めて、その言語・非言語のコミュニケーションを自分に向けたメッセージだと受け取り、そこから新たな何かを差し出す、という関係性に漕ぎ出すことが出来るか、がAの側に問われている。AとBの間に一つのシステムとしての双方向な関係性がある事に気づくか、の分岐点でもある。
その際、「これは決められたルールだから」「教科書にこう書いてあるから」「これは僕の仕事ではないから」・・・と、B→Aで伝えられるメッセージやコミュニケーションを受け取ることを事実上拒否したのなら、それは双方向コミュニケーションの断絶であり、そこからA→Bの一方的なメッセージの増幅と「服従」の論理が強化される。だが一方、「B→A」のメッセージにきちんと応答し、自分なりにそのメッセージを受けとめた上で、相手に何らかのフィードバックをしよう、と働きかけるならば、それは「対話の回路」が開かれることになり、そこから「学びの回路を開く」という循環が始まる。
そう、ここまで書いてきて気づいたのだが、僕が「学びの回路を開く」という際に大切にしているのは、教えられる側・支援される側の回路を開くことももちろんだが、それよりむしろ遙かに開きにくい、教える側・支援する側の「学びの回路を開く」、ということなのかもしれない。
そして、これは先述の昨年7月の連作シリーズの中でも、今回の「東洋文化」の原稿でも引用した、パウロ・フレイレの有名なテーゼと繋がってくる。
「『銀行型』教育の概念では教育する者は教育される者を偽の知識で『一杯いっぱいにする』だけだが、問題解決型教育では、教育される側は自らの前に現れる世界を、自らとのかかわりにおいてとらえ、理解する能力を開発させていく。そこでは現実は静的なものではなく、現実は変革の過程にあるもの、ととらえられるのである。」(パウロ・フレイレ著、三砂ちづる訳、『新訳 被抑圧者の教育学』亜紀書房、p107-108)
以前は僕自身、この銀行型教育と課題解決側教育の違いを、一方通行か双方向か、の違いでは捉えていたが、それでも主に教わる側・支援される側が、「服従」するのではなく、「学び合う関係」「問いかけ合う関係」に変化できるか、という視点で捉えていた。だが、今ようやく気づいたのだが、実は、教える側・支援する側が、「服従」の論理で相手を「一杯いっぱいにする」のか、教わる側・支援される側と一緒に「変革の過程にあるもの」を眺め、その動的プロセスの中にダイブする事が出来るか、が問われているのである。そして、前者の方が前例踏襲的で「常識」的であり、後者に踏み出すことは、時として大きな負荷がかかる。
社会のドミナント・ストーリーは、前例踏襲的な「常識」である場合が多い。「子どもは黙って従うもの」「支援されるだけで有り難い」といった押しつけは、それが「社会化」されるなかで、有無を言わさぬ恫喝的ドミナント・ストーリーとして、「服従」の論理に転化しやすいし、そういう本人もその枠組みを所与の現実として内面化しやすい。だが、社会のドミナント・ストーリーや「常識」は、実は固定的なものではない。
ちょうど昨日、半年前に放映された「STOP虐待! ニルスの国のたたかない子育て」という番組の録画を見ていた。その中で、スウェーデンでは30年前に親子法という法律の中で次のように規定された。
「子どもは世話と、安全と、質のよいしつけを享受する権利を有する。子どもはその人格と個性を尊重しながら扱われなければならず、体罰にも、その他のいかなる屈辱的な取扱いにも、遭わされてはならない」
これに関してセーブ・ザ・チルドレンの実に良いパンフレットを見つけたのだが、このパンフレットにも、その後30年間で、体罰を実際に行う人が劇的に減り、体罰に関する肯定的評価も同様に劇的に減ったことが図で示されている。体罰は仕方ない、という「服従」の論理は、1960年代までのスウェーデンでも支配的であったのだが、1970年代に社会問題になり、1979年に体罰を禁止する法制度を整えて以後、「どうしたら体罰をなくせるか」という「学びの回路」が国の政策レベルでも開かれた。その中で、様々な両親へのサポート体制なども整えられる中で、30年後には、見事に「体罰をしない子育て」を学び取り、社会が変わっていったのである。つまり、「たたく側」である両親(=教える側・支援する側)が、「たたく」という行為を「しつけ」から「体罰」と認識転換し、それをしてはいけない、という社会的な風土を作り替える動的プロセスの中に身を置くことが出来たため、スウェーデン社会は変わっていった、とまとめる事はできる。そして、切り分けない一つのシステムとして考えれば、以前「たたかれていた」子どもは、「たかれない」(=暴力の服従の論理に従わなくて良い)という環境下で生育することにより、本人の成長や個性の尊重に、よい影響を受けていることは、十分に想像出来ることだ。
僕は以前スウェーデンに住んでいた事もあるので、どうしてもスウェーデン贔屓になってしまうのかもしれない。もちろん日本の方が良い部分も一杯あるが(消費生活をするなら間違いなく日本の方が楽しい)、でも、問題があったら社会的にそれを蓋をせずに可視化し、前例踏襲の呪縛から抜け出して、何とか変えようとする、という「学びの回路を開く」福祉システムはすごく好きだし、日本にも学べる部分はあると思う。具体的なこういう制度を取り入れたらいい、というのも勿論あるが(以前はその事に目が行きがちだった)、それより思考法、というか、誤りから学んで変わるフィードバックシステムと学びの回路を開く、という姿勢こそ、スウェーデンの福祉社会から学べる点である、と感じる。法や制度は文化や土地の歴史・文脈に強く依拠しているものであるが、「学びの回路を開く」というフィードバックシステムは、文化や地理的距離を超えた、ユニバーサルな何かだ、と感じている。
まあ、そういうことを書いても、学びの回路を閉ざしている人は、「所詮スウェーデンは人口規模も違う」「25%の消費税、43%の所得税国家とは違う」「キリスト教が支配的な国とは違う」・・・という反論が必ず出てくる。以前はそういう時にムキになって反論した事もあった。だが、今回のブログを書きながら非常にすっきりしてきたのは、確かに文化も制度も考え方も違う国であっても、「失敗から学ぶ」「学びの回路を開く」「開いた上で新たな試みに賭ける」という部分は、通文化的な何かがあるのではないか、と感じている。そして、「スウェーデンとは違う」という際に、単に文化や制度の違いだけで無く、通文化的な「学びの回路を開く」ということまで否定してしまうと、それは「閉ざされた学び」となり、「服従」の論理への埋没では無いか、と危惧するのである。
そして、この論考を閉じる前に、もう一つ、触れておきたい論点がある。
「主体は関係のなかに存在していることを、そしてすべてを記号に置き換えてシステム化させる構造が関係的主体をみえなくさせていることを、私たちは直視しなければならないのです。『正常』と『異常』という記号を基にシステムをつくり上げるのが現代社会です。それが関係のなかにある主体をみえないものに変え、個のシステムのなかに自ら取り込まれていってしまう。こう考えていけば、『正常』、『異常』というかたちで記号化するのではなく、ともに生きていく関係をどう取り戻すのかが見えてきます。」(内山節『内山節のローカリズム原論』農文協、p155)
内山節氏の論理も、安冨先生の論理と通底する部分が多い。影響を与える側・与えられる側を「切り分ける」のではなく、「両者を、相互に依存し、影響しあう一つのシステムとして認識」する。このことは、「主体は関係の中に存在」する、という事と等価であり、「関係的主体」として生きる、ということでもある。しかし、この「関係的主体」という視点が後景化しているのは、「記号」化システムである。高度消費社会とは、マーケット化、記号化することによって、記号そのものへの欲望を加速させ、ある商品を購入しても、またその商品とは違う記号(=差異)のある別の何かを欲望することで、商品購入を加速させるプログラムを構築した。そして、商品購入のゲームが前景化する社会とは、その商品を購入している自分自身が「関係の中に存在している」ということを、見えなくさせていた。
たとえば、胃薬は、それを必要とする人しか飲まなければ、必要以上に売れない。だからこそ、「食べる前に胃薬を飲む」という論理転換(倒錯?)を広告で流し、胃痛の予防的に飲み続けることで、いつしか胃薬無しでは暮らせない人を創り出す。だが、それが製薬会社の儲けの最大化との関係の中で購入している、という自らの「関係的主体」に気づかれては、売り手の側は困るわけである。だからこそ、さらなる「記号」をテレビで流し続け、その「関係的主体」を後景化し、「記号的主体」として、ある特定の「正しさ」を信じ込むように人びとを誘因してきた。そのコマーシャル内容に自主的に「服従」する人びとを生み出してきた。
ながーい迂回路になったが、「学びの回路を開く」とは、「正常・異常」「よい子・悪い子」「標準的行動・問題行動」といった二項対立的で、時として背後に権力や情報の非対称性の大きい局面で、「服従」の論理に従わせるのではなく、フィードバックの回路の中からお互いが学び続けること、である。それは、「真理の探究」と言ってもいいのかもしれない。「たたくのはしつけ」とは、前時代の「真理」だったかもしれない。でも、それがオカシイと感じるなら、「それ以外にしつけの方法はないか」と「探求」するのが、「真理の探究」である。私たちは、その「真理の探究」よりも、昨日と同じ明日、という意味での「日常性の保持」や前例踏襲的な「服従の論理」に傾きやすい。しかし、その宿痾が、現在の日本社会に蔓延する閉塞感であったり、あるいは矛盾の表出であるとするならば、それは「学びの回路を閉ざした結果」とも受け止められるのではないだろうか。
どうやって「学びの回路を開く」ことが出来るか? 何かをする側・される側の双方が、切り分けられるのでは無く、関係論的にフィードバックを交わし続ける中で、どのような変革の動的プロセスや渦、ムーブメントが創発していくのか。「そこに結ばれる新しい関係によってなんらかの新しい価値を創出すること」はどうしたら可能か? 「ともに生きていく関係をどう取り戻すのか」?
このあたりを、もう少し考え続け、再び書き進めようと思う。(もしかしたら、連作化する、かもしれない)。