地域包括ケアに求められる動的ダイナミズム

街おこしや地域の再生、を考える際、無から有を生み出す、という意味での「創発」との関連性が高い。そして、この「創発」に関しては、最近やりとりをさせて頂いている東京大学の安冨歩先生の本から学ぶことは多い。先生の著作に刺激を受けて、ノーマライゼーションの原理と創発をつなげた論文「ボランタリーアクションの未来」を書き上げたくらいだ。
最近、このブログでは地域包括ケアについて色々考え続けているが、その中で気になって、安冨先生の『経済学の船出』『複雑さを生きる』を相次いで読み直していた。その中で、残念ながら今、品切れになってしまっている『複雑さを生きる』の中に、地域包括ケアを考える際の重要な視点がある事に、改めて気づいた。その事を長々と今から書くのだが、一言で言えば、
創発は、PDCAサイクルの外にあり、計画制御が出来ない
ということだ。これが、高齢者や障害者、末期がんやターミナルの患者さんも、住み慣れた地域で暮らし続ける為の、安心と見守りの地域支援システム作りにどうつながっているのか。
「ブリコラージュによる思考の特徴は、目的を固定しないことである。すでに与えられたものから出発し、その組み合わせによってうまくできることを目的とする。目的を固定しないので、状況の変化には対応しやすい。なぜなら出来なくなった目標は視界から消え去り、常に手元にある資源を利用して新しい組み合わせの可能性を探り、目標を動かし続けることになるから。そして達成された目標が手段に組み込まれ、新しい目標が見出される。目的と手段は一つの円環を描き、動き続けていく。これに対して、計画制御というアプローチは、まず目的を固定するところから始まる。」(安冨歩『複雑さを生きる』岩波書店、p177)
行政内部で完結するプロジェクトではなく、地域住民の力を活かしながら、自助や共助の力を高める営みを地域包括ケアとするならば、計画制御アプローチには限界がある。なぜなら、住民の暮らしや営みを「固定」することは不可能だからである。そして、特に中山間地など、社会資源が少なく、自治体の財政力が弱い地域においては、その地域にすでにある人・モノ・支援・ネットワークをどう上手く活用しながら、支援システムを再構築するか、が求められている。その際に必要になるのが、レヴィ・ストロースが提唱した「手元にある資源を組み合わせながら何とか活用する」という意味でのブリコラージュである。(このブリコラージュについては、以前ブログで福祉分野との接合点を考えた事がある)
さて、地域包括ケアにおいても、対象とする地域の住民の「状況の変化に対応」する中で、「常に手元にある資源を利用して新しい組み合わせの可能性を探り、目標を動かし続けること」が求められる。そのプロセスを続ける中から、渦という動的プロセスが生まれる。
「渦の運動がその中心の移動を欲するなら、運動を提起した人物がその中心を離れる必要も生じうる。渦が起きやすいところから、渦を起こし、あちこちで生じた渦を相互に接続し、大きな渦を創り出すことを目指すのが、『共生的価値創出』の重要な点である。」(同上、p130)
この際、大きく問われるのは、生成しつつある渦を大切にするのか、あるいは計画や概念図の実行・履行を大切にするのか。どちらの優先順位を高くするのか、である。地域福祉計画、地域自立支援協議会、地域包括ケア・・・など様々な現場で、計画や概念図が作られるが、それは渦を創り出す為の参照枠組みなのか、あるいはその計画にあくまでも縛られる計画制御の絶対基準なのか、どちらなのだろうか。
「まず始めに問い直すべきは、外部の力によって特定の対象社会に働きかけ、なんらかの方向を目標として資金や人的リソースを投入するという『操作』の姿勢そのものである。これに対して本書は『共生的価値創出』という概念を提唱する。それは働きかける側と対象となる側に切り分けるのではなく、両者を、相互に依存し、影響しあう一つのシステムとして認識しようとする姿勢である。この共生的関係を明確に認識しあいながら、そこに結ばれる新しい関係によってなんらかの新しい価値を創出することがめざすべき方向となる。」(同上、p128)
地域包括ケアシステムは、何らかの「操作」の結果、生まれるものではない。支援する側と支援される側を「切り分ける」という介護保険の準市場的アプローチでは、限界がある、という認識から、この仕組みの導入が求められたのである。そこでは、ケアする側もされる側も、あるいは働きかける側も対象となる側も、「相互に依存し、影響しあう一つのシステムとして認識」するという視点の捉えなおしが必要不可欠になってくる。「この共生的関係を明確に認識しあいながら、そこに結ばれる新しい関係によってなんらかの新しい価値を創出すること」こそ、まさに新たな「渦」を作り出すことであり、共生的価値創出そのものであるのだ。
では、計画制御が不可能であれば、計画そのものもいらないのであろうか? この点について、安冨先生は、次のように指摘している。
「計画はそれ自身としては事態を解決したり推進したりする機能を持たず、逆にそれを阻害する機能を持っている。しかし計画は、その事業に関係する人々のメディアとして機能することができる。たくさんの人間が事業にかかわる場合は、そこに紛争が生じることは不可避といってよい。その場合に、あらかじめ参照基準となる計画が策定されており、人々の合意が一応なりとも成立しているなら、その紛争を事前に回避し、あるいは生じた紛争を迅速に解決する上で、計画が交渉メディアとして役立つことがある。計画もまた法と同じく、メディアとして立ち表れた場合に、有効に機能しうるのである。」(同上、p142)
計画に関連する人々のコミュニケーションを円滑にする「メディア」としての計画。これは、現場の実感にも合致する。ただ、ここで「目標」とも「絶対基準」とも書かず、「参照基準となる計画」と書いていることに、注意をする必要がある。先述したように、地域包括ケアでは、PDCAサイクルや線形制御ではなく、ブリコラージュの動きの中で渦を作り、「共生的価値創出」(=新たな何かを「創発」すること)が必要とされている。そのとき、一応の前提としての「見取り図」としての計画があることで、関わる人々のコンセンサスは得られるが、渦が動き始め、自己組織化が始まると、その渦に合わせて、計画もアプローチも変容することが求められる。
「渦が起きやすいところから、渦を起こし、あちこちで生じた渦を相互に接続し、大きな渦を創り出すことを目指すのが、『共生的価値創出』の重要な点である」ならば、それを実現するためには、「出来なくなった目標は視界から消え去り、常に手元にある資源を利用して新しい組み合わせの可能性を探り、目標を動かし続ける」というブリコラージュの方法論が必要不可欠になる。この動的プロセスを、地域包括ケアに組み込むことが可能か、が問われている。
だが、そもそも地域包括ケアシステムの構築とは、ソーシャル・アクションの営みそのものである。そして、ソーシャル・アクションとは、計画制御の枠組みからこぼれた弱者を救うための、枠組みの捉えなおしとしてのアドボカシー活動に端を発したのではなかったか。当事者の抑圧されていた思いや願い(=本音)を聞く中で、計画制御で執行されている法や制度の問題点に気づき、それを何とか変えるために、現場レベルから、渦を作り始めたうねりであった、といえるのではないか。
そして、実は僕は過去のブログで、創発の渦が出来ていく、ブリコラージュの過程を、繰り返し考え続けてきた。(たとえば「ボトムアップ型の創発と自己組織化」「創発の渦の螺旋階段的拡大」など)
福祉現場の渦の生成と発展を垣間見る中で実感しつつある事、それは、このような渦を広げていく営みの中で、後付け的に使命が見つかり、ビジョンが拡がっていく、ということである。つまり、最初から計画制御が出来ると思わず、とにかく目の前の課題に取り組むために、対象者と自分を切り分けることなく、渦を作り始める。その中で、渦の自己組織化したがって、必要とされるビジョンが切り開かれていく。計画は、あくまでもその際の「参照枠組み」に過ぎない。
法律や制度の枠内で考える、社会システム適応的視点であれば、計画制御は一定機能する、というか、信憑性があるように思える。だが、特に対人直接サービスの領域では、法や制度は常に現実の問題の「後追い」である。であれば、「社会システム適応的視点」は、常に事後対応に終わり、問題の本質にたどり着くことはない。むしろ、法や制度の問題点を徹底的に分析した上で、それを乗り越える策を考えていく、という「社会システム構築的視点」がソーシャルアクションには求められる。そして、この社会システム構築的視点、こそ、地域包括ケアで必要不可欠とされる視点なのだ。
ただ、何もそういうことを力まなくても、現場の、お役所仕事をしていない人々、たとえば街づくりのNPOの人などは、既にこの力を持っている。ようは、行政の側が、そのオルタナティブな力、を信じることが出来るか、それにかかっているのだ。
「市場だけが人間を疎外するのではない。共同体も家族も人間を疎外する。問題は『紐帯』があるかないかではない。人々が相互に学習過程を開いた形でコミュニケーションを形成できるかどうかである。(略)人々を苦しめ、社会を崩壊させるのは、学習過程の停止である。」(同上、p210)
学習過程を開いて、対象とする人、される人という二項対立を超えて、相互に学びあう、コミュニケーション回路を開き続けること。そこから、渦が生まれ、創発につながり、「共生的価値創出」が始まる。この「学びの回路」を開き続けるためには、法や制度、計画、共同体・・・が「所与の前提」や足かせとして、リミッターになってはいけない。この思考のリミッターを外し、ブリコラージュ的に、現場で使えるものを使い倒しながら、まだ無い未来を想起する。この中に、現場の困難事例や閉塞感を超える、新たな可能性があるのである。
そのとき、高齢者や障害者福祉、介護保険、地域福祉、という狭い範囲内でとどまっていては、学習は限定的である。ブリコラージュとは、その現場に落ちている何か、を徹底的に活用することを指す。であれば、観光や商工、街づくりなど周辺領域で、あるいは農村振興や限界集落対応など、使えるツールを使い倒す精神が求められているのである。
「真の意味での責任は、つまるところコミュニケーションにおける学習過程を作動させるということと等価である。この学習過程を停止させている限り、自己の変革はありえず、責任を引き受けることもない。人々が自分の価値を信じ、感受性を開き、学習過程を活発に作動させているとき、そこに背近ある、規範にのっとった、まっとうな社会が出現するのである。」(同上、p145)
カリスマソーシャルワーカーへの依存を超えた地域福祉を展開していくためには、一人一人のワーカーに求められているのは、この意味での「責任」を取る覚悟、学習過程を開き続ける覚悟、なのかもしれない。
追伸:こんなことを地域福祉学会で発表しよう、なんてちらっと考えているのだが、ちょっとぶっ飛び過ぎだろうか・・・

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。