類縁性と帰納的アプローチ

 

昨日書いたブリコラージュについてネットで検索してみたら、ほほぉ、という記述に出会った。

「学問とは同一性や反復性を確認したがるものである。それが対象領域と拘束条件の設定が大好きな科学や社会科学の立脚点というものだ。けれども、類縁性はそうした個別の立脚点をやすやすと越えていく。跨いでいく。それは「答えのない問い」によるオイデュプスの神話そのものなのである。「なんだか似ている」ということ、「なんとなくつながっている」ということ、そのことを考えるのがレヴィ=ストロースの学問であり、つまりは『悲しき熱帯』だったのだ。」(松岡正剛の千夜千冊 第三百十七夜 『悲しき熱帯』レヴィ=ストロース

なるほど、確かにレヴィ=ストロースがブリコラージュを説明する「野生の思考」の第一章を「具体の科学」と名付けたのは、「同一性や反復性を確認したがる」「科学や社会科学の立脚点」を超えた所にある「類縁性」をブリコラージュは大切にしているからであった、と言えそうだ。この「類縁性」については、昨日引いた内田先生は「『これ』って、『あれ』じゃないか」的な発想法」と書いておられる。この「『これ』って、『あれ』じゃないか」という発想は、確かに「科学的」ではないかもしれない。でも、いくつかのフィールド現場で出会うソーシャルワーカーや看護師、作業療法士に「同一性」や「反復性」よりも、といったfront lineで裁量を活かして働く人びとという「類縁性」を感じていたタケバタにとって、まさに自分自身の発想法がブリコラージュそのものだったとようやく気づく。それと共に、僕が感じていた「類縁性」の中身にも、別の「ブリコラージュ」があることに気がつく。

博論以来ずっと現場で働く人びとの「裁量」に着目している、と書いてきた。例えば現場のワーカーは、限られた社会資源の中で、出来る限り当事者が望む支援内容を、自身の裁量を最大限に使って、何とか組み立てていく。これって、ブリコラージュそのものなのだ。

「彼の使う資材の世界は閉じている。そして『もちあわせ』、すなわちそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。」(レヴィ=ストロース「野生の思考」みすず書房、p23)

「科学者は構造を用いて出来事を作る(世界を変える)」。科学者でなくとも、自立支援法の制定や報酬単価の改定(減額)といった、とんでもない構造変化が「世界を変え」んばかりの勢いで迫っている。その際に、こういう日本全体を覆う巨大な構造変化に対して、一現場が新たな「構造」を持ち出したところで、そう簡単に変わるわけではない(そうは言っても、現場から「世界を変える」ことが不可能と僕は思っているわけではない)。だが、「世界を変える」ことにコミット出来なくとも、「そのとき限られた道具と材料の集合で何とかする」ことは可能である。そして、その時に「何とかする」担い手が、現場のソーシャルワーカーなのである。

「いままでに集めてもっている道具と材料の全体をふりかえってみて、何があるかをすべて調べ上げ、もしくは調べなおさなければならない。そのつぎには、とりわけ大切なことなのだが、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答を全て並べ出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選ぶのである。」 (前掲、p24)

あるミッションを遂行したいワーカーは、まず「いままでに集めてもっている道具と材料の全体をふりかえってみて、何があるかをすべて調べ上げ」てみる。その中で、「道具材料と一種の対話を交わし」、一番相応しい「解答」を「採用」する。この過程がまさに現場ワーカーの裁量部分であり、腕の見せ所であり、達人ワーカーと新人ワーカーの差として現れてくるのだ。ここからは、ある達人ワーカーがしばしば次のように言い続けているのを思い出す。

「制度や法律は使い倒した上で、ないものはどう新しく作れるか。それが僕たちの課題だ」

そう、この「使い倒した上で、ないものを新しく作る」という発想が、まさにブリコラージュそのものであり、現場ワーカーの裁量の最大の特色でもあるのである。

ついでに類縁性つながりでいくならば、看護の世界でもこんなことがいわれ始めている。

「科学は、個別の違いを捨象して普遍性を考えていくものである。医師が行う診断は、診断基準に照らしてその違いを取り除き、合致する点を選択していく過程である(演繹的アプローチ)。各種検査の結果、臨床症状を診るのは、あくまでも正常か異常かの基準に照らして判断するための作業である。一方、看護実践は、さまざまな生活歴をもった個別な患者のひとりひとりに対応すべく、看護の原則論を頭におきつつも、最終的には限られた資源のなかでより健康的な方向へ向かう、個別のニーズに対応する実践の過程である(帰納的アプローチ)。」(陣田泰子「看護現場学への招待エキスパートナースは現場で育つ」医学書院 p86)

「限られた資源のなかでより健康的な方向へ向かう、個別のニーズに対応する実践の過程」そのものが、「そのとき限られた道具と材料の集合で何とかする」というブリコラージュそのものなのだ。そういう意味では、看護だけでなく、福祉の現場でも、その多くが「帰納的アプローチ」としての類縁性を持つ。ケアマネジメントの「科学化」が何となく気持ち悪いのは、従来の個別支援という「帰納的アプローチ」を「標準化」という「演繹的アプローチ」に変えよう、という点での気持ち悪さ、といえばいいだろうか。陣田さんも、この点について次のように指摘している。

「いま、医療現場で進行している『標準化』は、医療を取り巻く環境の中で来たるべくして来た流れではあるが、医師の行う診断、治療はともかく、看護においては、どこかで『標準化』の流れとは相容れず、ジレンマに出会う。いま『標準化』の流れだからこそ、ナースは、ベッドサイドで個別のニーズに可能な限り対応する意味がある。」(前掲、p86-87)

医療を福祉に、医師の行う診断を一次審査・二次審査に、標準化を要介護認定や障害程度区分に置き換えれば、まさに福祉の現場そのものの話である。でもそこでナースをワーカーに置き換えた時、利用者のそばで「個別のニーズに可能な限り対応する意味」をどれほど個別のワーカーが噛みしめられる余裕があるだろうか。そんなことをふと、考えてしまった。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。