「ゼロ時間契約」の現実

アマゾンやウーバーで働く労働者の過酷な現実が書かれているという触れ込みの本を買ってみたら、意外な職業の話が載っていた。

「縮小していく社会福祉予算の一部を奪い合う介護事業者間の争いは、“底辺への競争”につながった。多くの場合、介護スタッフは不安定なゼロ時間契約のもと、雀の涙ほどの賃金で働くことを余儀なくされている。かくして訪問介護の業界では、電光石火の超短時間訪問がいまや標準的になった。地方自治体の予算配分の削減によって、そもそも低水準だった介護の質はさらに悪くなっていった。介護スタッフの雇用条件に大きな影響があったのは言わずもがな、彼女たちが世話を担当する社会的弱者に影響が起こった」(ジェームズ・ブラッドワース『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』光文社、p134)

筆者は、新自由主義的な価値観を労働者に強いるグローバル企業で働くこととはどういうことか、をフィールドワークの中から探るべく、アマゾンの倉庫やウーバータクシーの運転手、コールセンターなどで実際に働き、その賃金だけでその間生活する体験をし、その中で出会った労働者達の生の声と自らの経験を踏まえながらルポしていく一冊である。面白いのだが、現代絶望工場のような内容に読んでいてゲッソリするような、そんな一冊である。そして、その最低賃金労働の現場の一つとして、訪問介護も取り上げられていた。

「ゆりかごから墓場まで」という言葉を覚えている人もいると思う。イギリスは第二次世界大戦中の戦争国家(war state)の時代に、戦後は福祉国家(welfare state)を目指すとして国民の士気高揚を図った、とされている。国民保険のNHSは医療費がただであり、医療も福祉も公務員が提供するのが主軸だった。だが、労働組合との死闘の戦いに勝利したマーガレット・サッチャーは「社会など存在しない」と言い放ち、民営化・市場化を推し進めていく。この本の中では、元炭鉱労働者達がこの30年でいかに没落していくか、そして産業が空洞化になった街にアマゾンやコールセンターの移転がどのように歓迎されたか、そして現実には雇用だけでなく搾取をどれだけ生み出していったか、が書かれている。

「マーガレット・サッチャーが炭鉱夫の労働組合を攻撃したとき、多くの人は屁とも思わなかった。けれど結局、この国で働くすべての人に影響が及んだ。そして、その影響は今日までずっと続いている」(p328)

介護業界もご多分にもれず。1990年台以後の、予算カットと民営化・市場化が急速に進んでいった。それによって介護労働者とケア対象者双方にどのようなしわ寄せがきているのか。

「成人向けの社会福祉の分野では、仕事のおよそ4分の1がゼロ時間契約によるものだった。ケアウォッチの契約書の数ページ目には、ゼロ時間契約が何を意味するのかがきわめて明確に書いてあった。『仕事を提供できない時間が発生した場合においても、ケアウォッチは貴方に賃金および賃金を与える義務を負わない』
会社はいつでも好きなときに、私たちスタッフを仕事に派遣することができた。しかし同じように、素っ気ない一本の電話によって、その週には何も仕事がないと知らされることもあった。それがこの仕事の核となる部分だった。」(p110)

「仕事を提供できない時間が発生した場合においても、ケアウォッチは貴方に賃金および賃金を与える義務を負わない」というのがゼロ時間契約の本質である。企業にとっては「労働の柔軟性」に適した契約であり、労働者にとっては、不安定極まりない労働契約である。会社側の都合で、いつでも人員整理が出来るし、ゼロ時間の契約なのだから、社会保険についても個人負担が原則になる。会社側は「柔軟な働き方」だと強調するが、契約書にはこんなことも書かれていたという。

「弊社のための業務遂行に悪影響があると判断した場合、ケアウォッチは業務の提供を中止することができる」「この雇用に適用される団体協約はない。ケアウォッチはサービス提供を円滑に行うため、労働組合の活動をいっさい認めない」(p111)

あくまでも企業の論理に文句を言わず従順に従うことが求められている。そして、労働者たちが連帯して組織を作り、組合活動を行うことは、企業側が考える「サービス提供を円滑に行う」ことと相反するので、ゼロ時間契約をする時点で、認めないと宣言する。これは、現代の奴隷労働である。アマゾンであれ、コールセンターであれ、ウーバーであれ、このような類似の実態がある、という。つまり、職種の違いではなく、労働者を徹底的に管理支配することにより、企業側の都合に柔軟に従わせる、そういう労働契約を結んだ労働者が、新自由主義的な政策と相まって、この20年でイギリスでは激増したことを物語っている。

当然、このような労働の質であれば、ケア対象者へのしわ寄せは出てくる。

「多くの介護士は最低賃金で働いている。在宅介護の訪問は通常、20分という枠のなかで行われる。ある家への訪問が終わるなり、彼女(高齢者向け社会福祉介護士の80パーセントが女性)は大慌てで家を出て外に止めた車に急ぎ、次の家の次の約束へと車を走らせる。彼女が働く会社はおそらく、地方自治体に代わってこの一連の作業を最低価格で引き受けているはずだ。費用対効果をなんとか高めたいと願う会社は、短い時間でより多くの尿道カテーテルを空にし、より多くの尿取りパッドを交換しようとする」(p133−134)

日本では介護保険法や障害者総合支援法の中で、報酬単価が決まっている。地方自治体には予算決定権はなく、中央統制された標準価格が設定されているので、イギリスほどひどいことにはなっていない。だが、介護報酬が切り下げられたり、準市場化によって誕生したコムスンなどの営利企業が売り上げ至上主義に走った後に国によって潰されたり、と、イギリスのリアリティがとても対岸の火事に思えない現実がある。政府は「人手不足」を理由に、「ゼロ時間契約」のような「より柔軟な労働」を、人材派遣会社の会長でもある御用学者を通じて経済財政諮問会議に載せて通す可能性も、ゼロではない。

この本の著者はまとめとして「拡大する消費者階級が別の階級に命令する自由」ではなくて、「誰もが人並みの生活を送ることができる自由」こそが重要だと説く(p330)。それは、アマゾンやウーバーを使いこなし、より安いものをお得に消費するけれども、そこで消費されている低賃金労働者という「別の階級」との分断には目をつぶる、そういう階級社会が良いものだろうか、という大きな問いがある。どんな労働をしても、ケアする側もケアされる側も、「誰もが人並みの生活を送ることができる自由」を取り戻す。そのための、階級を最小化するための社会的連帯や闘争が必要なのかもしれない。それは、介護労働の現場を見ていても、強く感じる。

*ちなみに惜しむらくは、著者は6週間という取材期間の間に、警察の無犯罪証明を取得できなかったので、介護現場での実際の労働はインターンでしか働けておらず、その取材内容が、アマゾンやウーバー、コールセンターに比べて、極めて限定的だった点であることも、付記しておく。