「居住福祉」と地域移行

早川和夫先生の最新作、『居住福祉社会へ』(岩波書店)を読んだ。早川先生は、建築学の観点から、日本の住環境の貧困さ、劣悪さを論じるだけでなく、「住まい」の環境の向上と住居の公的保障こそ、社会保障の基盤である、と唱え、「居住福祉」という概念を提唱した第一人者である。今回の一冊は、その早川居住福祉学のエッセンスを詰め込んだ、集大成であり、かつ入門書の役割も果たす、お得な一冊。

この本を読んでいると、地域包括ケアシステムや街づくりの基本にも、「住まい」があり、居住福祉が基盤になければならない、と痛感する。
今回、この本を通じて初めて知った事実として、1961年のILO(国際労働機関)による「労働者住宅に関する勧告」がある。これは、早川先生によれば「労働者の拘束的役割を果たす『使用者による住宅の供給』の禁止と社会的責任による住宅供給を満場一致で採択した」(p115)ものであった。これは簡単に言えば、社宅の禁止を求める勧告である。なぜ、社宅が問題なのか。それを、早川先生は、イギリスのホームレス支援団体「シェルター」の報告書を解説として引用している。
「社宅の利用がつづくのは住宅不足のあらわれです。雇主が従業員をあつめるさいに、社宅を(ゴキブリをあつめるのと同じ)誘引剤として使用できるという事実は、従業員が社宅を受け入れる以外に道はないと考えるからです。良質で安価な住宅の供給さえあれば、社宅の利用は減少するはずです。社宅は一種の落とし穴です。いったん社宅に移り住むと、多くはそこから出られない。社宅の居住権については法律上の保障がありません。だから職を失うことは、すなわち家をうしなうことを意味します。つまり多くの人々は借家人でなく、奉公人が住まわしてもらっている状態なのであり、主人の気まぐれで追い出されるのです。」(p118-119)
この記述を引用しながら、様々な日本のリアリティが目に浮かぶ。リーマンショック時の派遣切りの際に問題になったのは、派遣労働者が社宅に住んでいて、解雇と共に家からも追い出され、あっという間にネットカフェ難民やホームレスに陥っていた。派遣労働者だけでなく、そもそも日雇い労働者も、「ゴキブリを集めるのと同じ誘引剤」としての「社宅」に吸い寄せられる。これは、「良質で安価な住宅の供給」がないが故、である。阪神・淡路大震災でも、東日本大震災でも、仮設住宅の狭さ・質の低さが大きな問題になっているが、そもそも国自身に「良質で安価な住宅の供給」という発想がない。
一般人に対してもそうなのだから、障害者や高齢者の住宅政策は、さらに貧困だ。上記の報告書の「社宅」を「精神科病院」「入所施設」と置き換えてみたら、「利用者が施設・病院を受け入れる以外に道はないと考える」「いったん移り住むと、多くはそこから出られない」「借家人ではなく、奉公人が住まわしてもらっている状態」というリアリティは、そのまま通じてしまう。そういう意味で、「社宅」や「入院・入所施設」は「一種の落とし穴」であり、「良質で安価な住宅の供給さえあれば、入所施設・精神科病院の利用は減少するはずです」とも言えるのである。
僕は2ヶ月ほど前に、精神科病棟の一部を居住施設に転換する病棟転換型施設構想に反対する文章を書いた。その文章を書いた同じ時期に、旧知の新聞記者から、「では、どういう条件なら認められますか?」と尋ねられた。僕がその際答えたのは、早川先生の居住福祉を念頭に置いて、次のように話した。
「今の病棟転換型施設は、病院の利益を前提とするなら、まともな居住空間を作ろうとは考えていないはず。たぶん、ワンルームマンションと同程度か、それより狭い6畳一間にトイレだけついている、という程度を想定しているはず。それでは、単に個室に変わっただけで、退院とは言えない。本当に退院、というならば、たとえば元精神科病棟だったところを徹底的にリノベーションして、せめて1LDK、出来れば2LDK以上のマンションして、普通の人も住みたいと思い・実際に居住するマンションにして、そこに障害当事者も住んでいる、のであれば良いけれど、そういうものを作る気は、経営者にはないでしょうね。」
この意見は突飛すぎたのか、新聞記事には取り上げられなかったが、でもこの考えは、以前早川先生の本を読んでブログを書いた時から変わっていない。そもそも日本の居住環境の質が低すぎ、部屋が狭すぎるのだ。でも、これは日本に限った話ではない。早川先生によれば、「ヨーロッパでも20世紀初頭までは『ブタ小屋』に近かった。それが住宅大国になるについては、国民と政府の様々なとりくみがあった」(p170)という。我が国では、未だに隣の声が聞こえるワンルームマンションに普通の人が住んでいるからこそ、生活保護世帯はボロボロのアパートでも仕方ない、とされてしまう。そもそも、これを「居住の貧困」の問題として、社会問題化出来ていない、という課題でもあるのだ。そして、そのしわ寄せは残念ながら、生活保護世帯や障害者・高齢者などの社会的弱者にはよりシビアに響く。6畳一間でふすまを開けたら隣の人が暮らしている、というグループホームを見たことがあるが、見知らぬ人とそういう「共同生活」をさせることこそ、まさに「居住の貧困」そのもの、とは言えないだろうか。
では、どうすれば良いのか? 早川先生は、「居住民主主義」というアイデアを提示する。(p174-176)
①公共財としての性格を持つ住宅→勤労者の賃金に見合った良質の借家供給は、市場メカニズムではなく、公的資金による社会住宅(公的住宅)として提供する
②都市生活・福祉施設の一環としての住居→住居を市民社会構成の基礎単位と捉え、地域コミュニティをつなぎ、都市的生活諸施設と一体化してはじめて居住性を確保しうる存在と位置づける。
③住宅政策における民主主義=市民的自治の確立→「居住の権利」意識の涵養と、自分たちが住む住宅政策や地域社会に関しての意思決定への住民参画
これは、障害者の施設・病院からの地域移行政策にも、実に必要不可欠な視点である。
①’→収入の低い障害者に良質の借家を供給するには、市場メカニズムにお任せ、ではなく、「公的資金による社会住宅」は必要不可欠である。これは、例えば民間のアパートを政府が買い取り、その質を向上させて提供する、という方式もありうる(これを早川先生は「住宅産業の社会化」と述べている。p189)
②’→病棟転換型施設の問題は、それが病院の敷地内にあり、地域から断絶されている、という点である。厚労省の検討会で、担当課の課長は「病院も地域です」と言い放ったが、病院の敷地内にある施設に暮らして、地域のコミュニティや生活諸施設と断絶されていては、「居住性」を担保されない。気軽に飲みに出かけたり、近所の図書館でDVDを借りたり、スーパーで買い物したり、電車に乗って気ままに出かけたり、という「当たり前の暮らし」が「一体化」されない住居は、「市民社会構成の基礎単位」とは言わない。
③’→長期にわたっての入院中の精神障害者・入所中の知的・身体障害者にも「居住の権利」がある。だが、「どこで誰とどのように暮らすか」という当たり前の「居住の権利」そのものが奪われている。これは、今年日本政府が批准した障害者権利条約19条の言う、「居住地を選択し、及びどこで誰と生活するかを選択する機会を有すること並びに特定の生活施設で生活する義務を負わないこと」に違反している。
こう書いてみると、早川先生はごく当たり前のことしか書いていない。だが、なぜこれが多くの日本人にとって、馴染みが薄いのか。その背景に、ある種の洗脳がある、と指摘する。
「『住宅は自己責任』という政治的プロパガンダのもとで、国民は『持ち家取得を目標に人生を費やす』か、甲斐性のなさをかこちながら貧しく危険の多い住居で我慢するか、という住意識が受け付けられてきた。人間として生きていくのにふさわしい住居に住むことは基本的人権であり、生存権の基礎であり、日本国憲法第25条が掲げる社会保障も安心できる住宅保障がなければ成り立たない、といった前述の認識と要求は全く育たなかった。住宅は経済政策の一環として景気浮揚の手段、大手不動産・土建産業による経済活動の一環として閉じ込められた。住居の確保は私的努力で行われるので、住宅は私有財産という考え方が浸透した。」(p172-173)
「住宅は自己責任」というのは、一種の政治的プロパガンダである。これは、「民間活力の活用」と「残余主義」を前提とした日本型福祉論には、この「自己責任」論は実に好都合であった。また、昨今の新自由主義的な流れにも、うまくフィットする。だが一方で、ヨーロッパでは20世紀初頭まで、このプロパガンダが流通していたが、第二次世界大戦後の福祉国家の形成の中で、「公的資金による社会住宅」という「良質で安価な住宅の供給」を公的政策として進めた。我が国だって、そのような方向に政策的に転換することは、不可能ではないのだ。
今こそ、居住福祉の視点で、福祉政策を見つめ直す必要がある。改めて、そう感じる一冊であった。

パブコメを書いてみた

実家のある京都市が、「京都市不良な生活環境を解消するための支援及び是正措置に関する条例(仮称)(ごみ屋敷等対策条例)の制定について、という文章を出した。いわゆる「ゴミ屋敷」への対応案のようだが、色々問題があると感じた。京都市民以外でも受け付けるようなので、パブコメを書いてみた。以下、貼り付けておきます。
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京都市保健福祉局保健福祉部保健福祉総務課
ごみ屋敷等対策検討プロジェクトチーム事務局御中
山梨学院大学で教員をしている竹端と申します。
京都市出身で、現在も両親が京都市で暮らしております。
今回、貴市の条例案に憂慮の念を抱き、意見を書かせて頂きます。
私は大学で福祉政策を研究しており、精神障害のある方の支援にも研究テーマとして携わってきました。その中で、「ゴミ屋敷」とされるご家庭の問題についても、見聞きしてきました。確かに、ご近所にとっての大きな迷惑になっており、その苦情が今回の条例案の発端になっている、ということも、容易に推察されます。また、沢山の市民からの苦情と、当事者への対応で、板挟みになっている市役所の方々のご苦労も、理解できます。
ただ、今回の条例案を拝見して、最も危惧することがあります。それは、
「ゴミを溜めたり、ペットの糞尿などの被害を、強制的に止めることだけが、本当の解決に繋がるのか?」
という問いです。
既にお調べになっておられると思いますが、同じ「ゴミ屋敷対策」でも、豊中市さんと豊中市社協さんが取り組んでおられるアプローチは、京都市さんの条例案とはかなりアプローチが異なります。それは、まず、その「問題」とされる方に寄り添って、本人の「ゴミを溜めざるを得なくなったプロセス」を伺い、本人との信頼関係を構築した上で、ご本人が納得してゴミを捨てることに同意するプロセスを、時間をかけて構築していく、という点です。この時のキーワードは、「信頼関係」と「納得」です。この2つを作り出すために、社会福祉協議会に配属された「コミュニティーソーシャルワーカー」が、時間をかけて、ご本人のもとを通い続けています。そのアプローチの前提として、「話せばわかる」「相手と対話できるまで、こちらがアプローチし続ける」という姿勢があります。
一方、京都市さんの条例案の概要をみていて、そのような丁寧な関わりをされた上で、それでも応じない場合の措置なのだろうか、という点について、大きな疑問を感じます。行政が指導しても従わない場合は、強制的な命令も仕方ない、というプロセス自体への問いではありません。まず、行政が「指導」するときに、一方的・高圧的にゴミを捨てよ、という「指導」であれば、本人が「納得」してそれに従うのだろうか、という問いです。
一般に、ご近所とのトラブルを抱えたり、ゴミ屋敷となってしまうような方には、「性格が悪い」「人格障害」「発達障害」などのラベルが貼られやすいです。ただ、それは病状のせい、というより、ご本人と社会関係のうまくいかなさが極まって、周囲からの孤立、信頼できる他者の不在、諦めや焦燥感・・・などが重なり、「生きる苦悩が最大化」した結果、、ゴミを溜めるに至った、と私は理解しています。その時、「ゴミを捨てる」ことのみを目的とした「指導」をすることは、ご本人にとっての不信感の増すばかりです。ましてや、強制的な執行をした場合、さらに行政への不信感の悪循環は強まり、ご近所との関係もさらに悪化する可能性もあります。
では、どうすればいいか。
そこで、大切なのが、豊中市さんのされているようなアプローチです。「ゴミを捨てる」ことだけではなく、ご本人が「ゴミを溜めざるを得ない」悪循環構造に入り込み、その悪循環構造からの脱却を、ご本人との信頼関係を構築しながら、作り出そうとされています。「要支援者が自ら不良な生活環境を解消できるよう働きかけ」を本当にしたいと思うのなら、一方的な指導ではなく、まずは本人との信頼関係を構築し、その中で、「生活環境を改善したい」という「生きる希望や自信を取り戻す支援」こそ、必要不可欠だ、と私は考えます。その為にこそ、行政職員さんの叡智を結集し、自治組織との連携の中で、より良い支援体制や支援実践を創り上げていって頂きたい、と願っております。
これらの実践を充分に行った上で、なおも条例が必要な事態が全く変わりない、というのであれば、話は別です。でも、条例案を拝見する限り、そのようなアプローチを充分に尽くされたようには、お見受けしません。
条例は、一旦動き出すと、市民に大きな影響を与えます。まずは、本人との信頼関係醸成を目的にした、ご本人が悪循環から抜け出す「対策プロジェクト」をこそ、して頂きたいと願っております。
それがなされていないなら、この条例案には反対です。

地域づくりの玉手箱

なんて魅力的なレシピにあふれているのだろう、と思った。
とは言っても、料理本のことではない。「地域づくりのレシピ」と銘打たれた本の中で、ぐっと捕まれるような、核心的な表現の数々に出会う。例えば、こんなフレーズ。
「人が力を発揮して働くということは、その人が個人的に備えている能力の問題ではないと思っています。その人のもっている力が引き出され、発揮できるかどうかは職場のあり方にずいぶんさ左右されるのです。どれだけ主体的にやりがいや目的意識をもって仕事に取り組むことができるか、ともに高め合える工夫ができるのか、働く人たちも利用する人たちもそして関係者もあらゆる形で関わる人たちが協働することによって、よりよい場が実現できることが重要だと思います。だから、どんな人も自分のもっている力や個性を存分に発揮できる職場づくりはとても大切なテーマなのです。」(『日置真世のおいしい地域づくりのためのレシピ50』日置真世著、CLC、p187)
日置さんは、お子さんが障害を持って生まれた事がきっかけで、親の会活動から地域の社会資源作りなどを通じて「ネットワークサロン」のプロジェクトを釧路地域でどんどん増殖させ、障害のある人の生活介護やグループホーム、児童デイサービスなどだけでなく、不登校や生活保護受給世帯など、地域で支援を必要としている人々への事業展開を、次々と実現しているプロジェクトリーダーでもある。
その彼女の仕事の仕方を端的に表すのが上記の発言。彼女の中では、支援する人・される人、とか、障害や高齢、児童、生活保護などの対象別という切り分け方がない。民間か行政かNPOか、という立場や属性にも、こだわりがない。真の部分で、「どんな人にも役割があり、魅力がある」という軸があり、その人の役割や魅力を発揮でき、誇りを持って生きるための仕掛けや仕組み作りが必要だ、というミッションである。飯を食うために行う、というより、この仕事を通じて「活かされいる」と実感できる人を一人でも多く作りたい、という野望に満ちている。ご自身の肩書きを、自称「緩やかな市民革命家」と書いておられるが、「すべきだ・しなければならない」、という道徳的規範を押しつける説得型ではなく、「こんな風になったら良いよね」という夢を共有化・言語化し、応援団を形成する中で実現に持ち込むという、人々の納得のネットワーク形成の達人である。
日置さんはサロンを「人と情報のたまり場」と定義する。付け加えるなら、彼女たちが増殖させているこのネットワークサロンは、事業ベースのサロンではなく、人々の「思いや願い」をベースにしたサロンのようだ。事業規模が年間3億を超え、120人の有給スタッフがいる釧路の一大組織に育っても、彼女の地域作りの視点は、非常にシンプルで、かつ説得力がある。
「地域づくりとは地域のニーズを把握することであり、人を発掘し、育て、つなげることです。また、実際に地域の課題を解決することであり、新しい地域のあり方を提案することでもあります。そうした地域づくりのためのあらゆる機能を兼ね備えた新しい地域の課題を解決するツールが『コミュニティハウス』なのです。具体的な姿形が大切なのではなく、地域でつくりあげ、地域が考えながら協働して進めていくプロセスこそがモデルになるのです。」(同上、p273)
地域福祉の推進、とは、昨今の地域包括ケアシステム構築において、主流となる考えである。だが、そこに携わる行政や地域包括支援センター、社会福祉協議会というアクターが関わると、気づいたら予算や事業、お互いの立場といったものに絡め取られ、住民主体のかけ声とは裏腹に、支援者ベースになりやすい。しかし、日置さんは、地域づくりを、「住民活動の組織化」、などという表現では言わない。
 
「人を発掘し、育て、つなげること」。
 
なんて、魅力的な表現だろう。地域でまだ出会えていない様々な人々の魅力に気づき、その魅力を役割に変え、それをネットワークの中に投入して、様々なシナジー効果を生み出し、ご本人も、周りの人も、みんながハッピーになれるような好循環を作り出していく。実に魅力的な方法論である。かつ、彼女にとって、何らかの事業や箱物という成果物が目標ではない。「具体的な姿形が大切なのではなく、地域でつくりあげ、地域が考えながら協働してすすめていくプロセス」の重要性を説いている。これは、僕たちがチーム山梨で地域ケア会議を定義した時の「動的プロセス」論とも相通じる。
そう、地域の中でのネットワークサロンの展開とは、僕がブログで書いてきた表現を用いるならば、「拡大する螺旋階段」とか「渦づくり」の「動的プロセス」なのである。その中から産まれてくる「姿形」とは、あくまでも結果論であり、その「姿形」を創り上げる中で、「地域が考えながら協働」する、そのプロセスの中にこそ、「人を発掘し、育て、つなげる」動的ダイナミズムが体現されている。それこそ、今の事業型社協や上意下達型の地域包括ケアシステム推進に最も欠けて視点である。
その意味で、この「レシピ集」の中には、コミュニティーワークの無限の可能性が詰まっているし、このレシピを参考に、自分たちの地域でのオリジナルメニューの戦略がいろいろ浮かんでしまいそうな、実に愉快で、かつ学びの深い本であった。