動的プロセスとしての支援

最近、現場の人びとと勉強会を始めた。テーマは、コミュニティーソーシャルワーク(CSW)について。木曜日の夕方、ネタ本として用意したあるテキストの次のフレーズで議論が大きく盛り上がった。

「人びとが自分自身で行動するのを援助する(help them do things themselves)」のか、それとも「彼らに何かしてあげるために我々がいる(do things for people)」のか?
そして、現場のある支援者がぼそっとつぶやいた。
「うちの町では、住民活動って、お膳立てして、用意してあげるもんだ、というのが常識になっている」
なるほど、住民たちの自発的行為を促し・支えるのか、住民活動の「お膳立て」をするのか。この部分が、地域福祉を展開していく際の鍵となる部分なのかな、という感触が見えてきた。
「地域福祉」が政策的に重要視されて久しい。地域包括ケアシステムとか、障害者地域自立支援協議会とか、地域を巻き込んだ、住民参加型の地域作りの必要性を、国は政策誘導的に展開している。介護保険もこのままいくと財政破綻になるから、と要支援・要介護1の人への支援を縮小する案を提案している、という報道もある。地域の中での住民助け合い活動によって、軽度の要介護者のサポートをしてほしい、そのためには、地域活動を支えるコミュニティーソーシャルワーカーも増やして、地域作りも展開してほしい。そんな思惑がじわじわと感じられる。
で、僕自身は一昨年から、山梨県の長寿社会課の地域包括ケアシステムに関する研究会に関わらせて頂き、この問題について学びながら考えてきた。現場の地域包括支援センターの職員さんたちと議論しながら、山梨での課題を探っていた。また、3年前からは南アルプス市で、そして昨年度からは昭和町で、アドバイザーとして自治体や包括、社協の担当者たちと議論を重ねながら、その街の地域包括ケアシステムのあり方について、模索を重ねてきた。
もともと僕は、大学院時代には高齢者政策も学んだけれど、その後一応障害者福祉政策が専門になったので、しばらく高齢者政策から遠ざかっていた。なので、これを気に、国の報告書など読み囓ったけれど、どうもあまりしっくりこない。現場の人も混乱しているようだ。ならば、研究会のメンバーと一緒に作ってしまえ、ということで、山梨県版のマニュアルを「チーム山梨」で作ってみた。
おかげさまでこの「手引き」は、かなり好評なようだ。自治体や包括が何を考えたらいいのか、を「考えるヒント」になる、という。同時期に国の基金事業で出された地域ケア会議運営マニュアルの作成メンバーだった方からも、山梨の報告書はわかりやすい、とお褒めの言葉を頂いた。
で、長い前振りになったが、山梨の「手引き」を作るときに大切にしたのも、先ほどのポイント。
この手引き作成を通じて大切にした問いは、「人びとが自分自身で行動するのを援助する」のか、それとも「彼らに何かしてあげるためにこの手引きがある」のか、である。言い換えれば、支援を必要としている人・自治体が自分たちの力で考え行動していくのを支援するのか、ずっと支援者に依存する状態を作り出すのか? 以前から書いているフレーズを使えば、現場で「成功する解決策」としての「成解」を導き出すための支援をするのか、一律の「正解」を現場に当てはめるのか?
実は、ミクロの個別支援であれ、マクロの自治体レベルのシステム作りであれ、その支援対象者・自治体の「自発性」を引き出すエンパワメント支援なのか、あるいは「出来ない人・自治体の代わりに”やってあげる”」型の支援なのか、が大きく問われているのだ。
その際、どうも日本の地域福祉の教科書を読みあさっていても、なかなか「人びとの力を引き出す」という部分が強く出てこない。そこで、どうせなら、とイギリスのコミュニティワークの定評ある教科書を読み始めた。初版は1982年で、第三版は翻訳も出ているので、現場の人びとにはそれを読んで頂き、僕は第四版を読んでみた。で、読み進めるほどに、日本の教科書との本質的な違いが見えてきた。それは、イギリスのコミュニティワークは、あくまでも住民活動を自発的に組織化する支援をする、というのが大前提になっているのである。だからこそ、ある時点での撤退(Withdrawal)というテーマも出てくる。この部分を読んだ現場の支援者の中には、「撤退なんて発想はないよね」というつぶやきも聞かれた。
なぜ、撤退はないのか? それは、結局、住民活動も「事業化」された、ルーティーンワークの一つになってしまっているから、である。愛育会や民生委員活動も、出来た当初は地域課題に取り組むダイナミズムをもった活動だった。が、現在、そのダイナミズムを保持し続ける愛育会や民生委員活動は、どれほどあるだろう? 自治会の機能低下も叫ばれるが、以前からあるそれらの「住民活動」が、ミッションを問い直し、定義し直し、活動を再編することが出来ているだろうか? そのようなミッションマネジメントの支援に、行政が取り組めているだろうか? 何となくの年中行事をこなすだけの、事業継続支援に終始していないだろうか? それって、まさに「お役所仕事」ではないだろうか?
地域福祉とは、システム化してしまえばルーティーンでまわせる、静的なもの、ではない。その地域の人口動態の変化、社会資源の推移、キーパーソンのやる気、あるいは首長や自治体の姿勢の変化にあわせて、どんどん動いていく動的プロセスである。なので、山梨の「手引き」にも、次のように定義づけしてみた。
「地域ケア会議とは、自分の住んでいる地域でよりよい支え合いの体制づくりを作ためのツールであり、単に会議を開催すれば良いのではなく、各地域の実情に基いて、地域づくりの展開のプロセスの中で、開催形式や方法論を柔軟に変えていことが求められる、動的プロセスである。」
「事
業」という形で官僚制システムの中に飲み込まれると、毎年継続するという意味では安定するが、ルーティーンワーク化されると、何のために、どういう目的で、なぜ行うのか、という根本的な問いが消えてしまう。しかし、地域の実情はどんどん動いていく。にもかかわらず、以前の実態に適応した方法論にこだわり続けると、支援アプローチと実態が大きく乖離してしまう。その際、形式や方法論を、実態に合わせて柔軟に変えていくことができるか。これは、「彼らに何かしてあげるために我々がいる」、つまり支援者側の都合で支援をするのか、「人びとが自分自身で行動するのを援助する」=人びとの自発性や潜在能力の最大化を支援する為に支援者が存在するのか、の分かれ道なのである。
そういう意味で、支援が固着化し、支援漬けになり、人びとの自主性をそがないためにも、人びとの自発性・誇り・役割意識を引き出す「動的プロセスとしての支援」は、個別援助でも、市民活動のサポートでも、どんな局面でも必要不可欠だ。そんなことを、現場の人びとの議論を聞きながら、ぼんやり考えていた。

投稿者: 竹端 寛

竹端寛(たけばたひろし) 兵庫県立大学環境人間学部准教授。現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、産婆術的触媒と社会学者の兼業。 大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科教授を経て、2018年4月から現職。専門は福祉社会学、社会福祉学。日々のつぶやきは、ツイッターtakebataにて。 コメントもリプライもありませんので、何かあればbataあっとまーくshse.u-hyogo.ac.jpへ。